12 光の深奥

「……ル、ファイサル」


 リリィの呼びかけに、伏せていた睫毛を僅かに跳ねさせた。


「ラシュからの伝言はそれだけ? ふたりで魔獣族の謁見に同席すればいいのね?」


 リリィは城の中庭に居た。

 芝生の緑の中、昇り始めた朝日の熱を頬に受けている。

 自分の鍛錬の後、リリィは中庭の手入れされた芝生にいて、方々から上がる報告書を読む。

 人目がない時には木陰に寝転びながら。

 その姿は日常のもので、ファイサルは吸い寄せられるようにリリィの顔を覗き込んでいた。


 ラシュの意向をリリィに伝えるのは、別に自分でなくてもよかった。

 誰か人を遣ればそれで済む話だ。

 リリィの顔を見下ろして、大きな碧目に見つめ返されて、ラシュの伝言を口にしながらファイサルは、どうしてリリィに会いに来たのか考えてしまい、意識が逸れた。


 無防備に芝生に転がっていたリリィは、素早い動きで体を起こし、くい、とファイサルの襟を引いた。


「ほかには?」

「……いや」


 間近に寄せられたリリィのエメラルドグリーンの光線が、ファイサルの金色の目を焼くようだった。

 どこかしら気合の入らないファイサルを真っ直ぐに射る光線から逃げるように離れて、短く息を吐いた。


「そう」


 一歩離れて立ったファイサルをちら、と見上げてから、リリィは立ち上がった。

 並び立つ妻にファイサルは表情を硬くして、空を見上げた。

 今日の空は青く、高い。


(……空とは斯様にも遙か彼方のものだったか)


 加速的な落下感と共に、自分が地面に広がり、空が一転に凝縮され、彗星のように尾を引いてファイサルに向かって落ちてくる。

 ラシュの姿をぐしゃぐしゃに巻き込んで。

 避けられない。

 直撃する。

 地面の裏まで突き抜けるような衝撃がファイサルを襲う。

 恐怖に目を閉じる。

 閉じていた瞼を持ち上げて、見上げれば、

 雲一つない丸い青空。


「久しぶりだし、アウディルとロキも同席させようかな」


 リリィの声がした。

 吸気口から引っ張り出されるように、元の世界に引き戻された。

 濁った視界で声がした方を探す。

 リリィを見つけた。

 リリィはファイサルを見ていた。

 ぼやけたリリィの顔が、少しずつ鮮明になる。


 ―――アウディルとロキも


「あ、ああ」


 ファイサルは今気が付いたような返事をした。

 二人とも自分の子。

 少し眉根が寄ったリリィの顔。

 何度も見たファイサルを心配する幼馴染で相棒で妻、の顔。


「ああ、それもいいだろう」


 ファイサルは言い直した。

 自分の言葉を確かめるように。


 リリィはファイサルの返事に喜んで破願して、じゃあ連絡を取るわと言ってまた笑った。


 リリィは、アウディルとロキを一緒くたにして同席させると言ったが、実の子と人族の女の子供を並べても何も思わない、ということだ。

 ファイサルの子として当然と思っているらしい。

 実際、アウディルとロキは誠の兄弟であるかのようだった。

 ロキはアウディルの服の裾を握って立つのが定位置だった。

 母親を亡くしたロキを、リリィは何かにつけて世話を焼いた。

 リリィには義務的なものは一切なかった。

 時間がかかる人族の成長にも根気良く付き合った。

 ロキが熱を出す度に抱えて眠った。

 用事がなくても城にいるときはロキの顔を見に部屋を訪れた。

 自由のない城の中で、人族の世界の本をロキに与えているのも知っていた。


 アウディルを育てていた様子は覚えている。

 アウディルは魔獣族の跡継ぎらしく貫録のある子どもだったこともあって、リリィが母親らしくしていたのは、数か月、乳を与えていた時くらいだっただろうか。

 あの二人は師匠と弟子のようだと思う。


 しかし、ロキに構うリリィから母性を感じる。

 生来世話好きなのだと知っている。

 誰に対しても大らかで、真っ直ぐで、姉のように、母のように。

 リリィの母性は何者にも平等に、厳しく、優しかった。

 自分にも、ラシュにも。


 ケイトにも。


 その名を思い出した途端、ファイサルはぷつり、と糸が切れたように俯いた。

 自分の側にいた寡黙で、清廉な人族の女。

 ファイサルの顔を見て、いつも不思議そうな表情を浮かべた。

 澄み透った深い藍色の瞳を隠すように瞼を伏せて、白い頬に掛かった栗色の柔らかい髪を掃わずに、窓から眼下に拡がる森ばかり眺めていた。

 陽に焼けることを知らない白い首筋に、胸元にただひとつぶら下げた十字のネックレスは、彼女の一部だった。

 いつも触れるのを躊躇った。

 遠慮がちに抱きしめ返す弱々しい腕も、折れてしまいそうなか細い身体も、不安になる。

 壊してしまうのが、怖い。

 彼女がいて初めて自分の臆病さを知った。

 その手の温もりを、覚えている。


 ファイサルの銀髪が、風に揺れた。

 中庭の芝生の緑が、ざざ、と音を鳴らす。


「ファイサル?」


 呼ぶリリィの声が遠い。

 何か分厚い壁に遮断されているようで、自分の周りは真っ白になっていて、何も見えない。

 何も、聞こえない。

 自分の内側から、ラシュの声が響く。

 直接脳に反響する。

 すまない、と、何度も、何度も。





【光の深奥】

 https://kakuyomu.jp/works/16817330659539833333/episodes/16817330659540121140

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