13 向背
王の間に、香が舞う。
人気のない空間に急に花が咲いたかのように、ラベンダーとローズの香りが膨らんだ。
癖の強い甘さが、ねっとりと毛の長い絨毯を踏んだ。
「ファイサル様」
玉座の片方に、ファイサルが頬杖を付いて腰掛けていた。
背もたれに全部の体重を預けている。
いつもの高貴な気怠さではない重力がファイサルの肩を沈ませているようだった。
アヴェリーは、ファイサルの名を呼んだ。
返事はない。
黙ったままのファイサルの前まで近づいた。
挨拶に来た魔獣族との会談はつつがなく終わり、晩餐は先方が簡潔にと望んだため、短時間で済んだ。
ラシュは魔獣族の上申書と資料を持って執務室に向かった。
アウディルが魔獣族の参謀、叔父にあたる人物を見送りに行った。
ロキはすぐ自室に戻ったらしい。
ロキと、言葉を交わすことはなかった。
ファイサルは、ひとり謁見の間に戻った。
いや、リリィが付き添ってきたはずだ。
それで、確かリリィに人払いを頼んだのだ。
人払い、と聞いてリリィは眉根を寄せて、それでも了解し、黙って扉を閉めて出ていった。
ファイサルはぼんやりリリィの後ろ姿を見送った。
女だてらに剣を振るうといっても小さいその肩を。
何千年も生きた森に暮らす魔獣族の長の、森の色を宿す瞳が翳っていたことに気付きながら、呼び止めなかった。
リリィのあんな顔は見たことがない。
なぜあんな顔をしたのか、今のファイサルには考えることができなかった。
虚ろだった。
夜が訪れ、低い月が大きく現れ城を食おうとしている。
いつもならば月の光を鋭く跳ね返すファイサルの銀の髪は、今日はやけに白く儚げで、誰もいない広い謁見の間の高い天井の下、微動だにしないファイサルは、美しい蠟人形のようだった。
アヴェリーは、ひとりのファイサルの様子を、向こうの塔から何時間もただ見つめていた。
深夜になっても、ファイサルは動かないでいた。
アヴェリーは心を決めて、ファイサルの前に現れた。
「……ファイサル様」
謁見の間は扉が閉められると結界が発動し、誰も入れない。
人払いしたはずの空間にアヴェリーがいることに引っかかりを覚えたが、ファイサルはそれを問うこともしなかった。
アヴェリーは優れた魔術師だ。
何でもできるだろうが、謁見の間の結界に干渉することは御法度だった。
だから、何を言うにしても面倒だった。
「先程、ラシュ様が塔から飛び立たれるのを、見てしまいました」
ラシュ、という単語に反応する。
美しい声で紡がれる毒が、ファイサルに流れていく。
「いつも、あの場所から飛び立ち、あの場所に帰ってくる」
アヴェリーはファイサルの前に両膝を付き、足にしな垂れ、長く白い指をファイサルの腿に置いた。
「いつまであのようなことをなさるのでしょう。王が毎晩城を離れるなど、あってはならないこと。毎晩この玉座を誰が守っているとお思いでしょうね……」
ファイサルは、アヴェリーの方を見向きもしない。
だけど、この毒は、確実にファイサルを蝕む。
「ラシュ様は、毎夜、この玉座には……あなたの側にはいない。
……ファイサル様」
香が舞う。
強い香が。
「あなたが王におなりになればよろしいのに」
アヴェリーが放つ香りは異様に鼻腔を付いて、脳を膿むようにファイサルの身体を巡る。
焦点が合わない。
アヴェリーは無表情のファイサルを満足そうに見上げる。
薄く笑みを引いてアヴェリーは立ち上がり、衣をふわりと翻した。
まるで踊るように。
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