6
まだ3歳くらいの乃絵美と妻をおいて、ゆっくりと海の中に入って行く。もうダメなんだ、生きるのに疲れた、そんな思いを抱きながら1人で沖へ歩いて行く。
そんな夢を見て、浩二は目を覚ました。
せせらぎに混ざって、小鳥のさえずる窓辺へ行くと、夜明けの東の空は血が滲んだような紅色をしている。雲も薄い紅に染まり、辺りの旅館や木々も、せせらぎも、気味の悪い黄色をしていた。
気持ちの悪い朝だった。
階下に下りると梢とさやかが客の朝食の支度にとりかかっていた。
カタカタと包丁を使う音が聞こえる。焼き魚の匂いも漂ってくる。
民宿の経営は大変なんだと改めて浩二は思う。
ふたりに声はかけずに部屋に戻った。
明日は月曜日だから仕事に行かなければならない。
浩二の苦しみは相変わらず続いていくだろう。
今の生活からは逃れられないと思う。
可哀想だが、都会育ちの妻は、また不満を口にするかもしれない。
しかし、それでも結局は3人肩を寄せ合って生きていくしかない。
その時、ラインの着信音が鳴った。
妻だった。
『今どこですか? おとといの夜、怒りすぎてごめんね。本当に心配しています。いつ帰れますか? とりあえず、食事作って待ってますから。返信くれますか?』
浩二は返事を打つ。
『昨夜は久しぶりに明治やに泊まりました。2人とも、大分元気そう。朝食をいただいてから帰ります』
朝食は干物に玉子焼き、かまぼことのりに味噌汁。それを浩二が食べていると、梢が部屋にやって来て、
「これ、なつみさんに持って帰ってください」
と、菓子折りを差し出した。
「いや、梢さん、そんな気を使わないで」
と浩二は言ったが、
「いえ、せっかく来てくださったんだから、お土産のひとつもないと。でしょ?」
そう梢が言う。
「いやあ、申し訳ないです。じゃあ頂戴します。いいお土産ができたなあ」
浩二はそう言ってから、
「あっ、昨日の夕食も、この朝食も2人で作ったの?」
「ええ、もうさやかも一人前にやってくれます」
「大したものだ。ほんとうに、もう安心だね」
梢は微笑んだ。
「もう、大丈夫だね」
浩二は念を押す。
こっくりと梢は頷いた。
外はすっかり明るくなって、気味の悪い紅色も、旅館を染めていた黄色い光も消えていた。
帰りは梢がバス停まで送ってきてくれた。
「ふたりとも元気そうで安心したよ。民宿頑張ってね」
浩二がそう言うと、
「どうもありがとう。浩二さんもお仕事大変でしょうけど、体に気をつけて頑張ってください」
と梢が応じた。
空はすっかり晴れていて、いくつか遠くに並ぶ旅館や、その背後の山々がくっきり見渡せた。
やがて遠くからバスがやって来るのが見えた。
「じゃあ、2人ともお元気で。お邪魔しました」
「いいえ、また来てくださいね」
「ありがとう」
バスに乗り込み、窓から手を振ると、梢も振り返した。
バスが走り出す。山並みの間の道を、小川に沿ってゴトゴトと行く。
浩二は、もう家を飛び出すなんて2度とするまい。そう思った。俺の、そういう刹那的なところは本当にいけない。妻とも、もっと仲良くできるはずだ。
遠くに見える空は、もう、青い、静かな色をしている。
山々に囲まれた細い道路は、空気が澄んで実に気持ちがいい。
そういえば、博行がいつの間にかどこかへ消えてしまっているのに浩二は改めて気づく。
「ヒロくん、さようなら」
座席から後ろを振り向いて、そうつぶやいた。
(了)
ヒロくん、さようなら レネ @asamurakamei
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