5
風呂場は民宿としては広々としているが、浴槽は小さく、一度に2、3人入ればいっぱいになる程度のものだ。
浩二は入浴中の札を掛けて扉を閉め、1人でのんびりと入浴を楽しんだ。
湯は柔らかく、なめらかな感触で、温度もちょうど良かった。
そして湯に浸かりながら、昨夜の妻の言葉を思い出した。
『あなたと結婚して本当に失敗した。こんなに苦労する人生なんて、わたし、納得いかないわ』
妻は都会育ちの、ちょっとしたお嬢さんだった。浩二が大学生で地元を離れている時に知り合い、卒業後も交際を続け、やがて結婚し、この半島にやって来たのだった。
額から徐々に汗が滲み出て来て、しかしそれは温泉のせいなのか、苦渋のせいなのか、よく分からなかった。
妻にどれだけ辛い思いをさせてきたか、特に生活の大変さを考えると、やはり悪いのは自分だと浩二は思う。
『時代が悪いんだ。君が苦労するのは、何も俺ばかりが悪いわけじゃないだろ』
そう言い返したが、悲しみに満ちた表情で自分を見つめる妻を思い出すと、浩二はやはり心が痛む。彼女が可哀想になってくる。
しかし小さなバス会社に、それも単なる事務員として勤める浩二には、どうするすべもなかった。
妻は小さな土産物店でパートをしているが、いくらにもならないので浩二の給料と合わせても生活は苦しい。
いっそ今からでも都会へ出たらどうだろうと思う時がある。といっても、40半ばになって何の当てがあるわけでもないから、そこでも行き当たりばったりの苦労をするのは目に見えている。
やはり梢さんも博行と、自分たちのように喧嘩したのだろうか、と浩二はふと思う。
もしそうなら、それも博行の自殺の間接的な原因だったかもしれないと、そんなことも考えた。
梢は、浩二と博行の祖父の話について、博行の遺書で初めて知ったらしかった。以前メールで梢はそう言っていた。そしてどうしてもっと早く自分に話してくれなかったのか、と、悲しみに満ちたメールが届いたのを浩二は思い出した。
博行のことだから、希死念慮に苛まれながら、尚梢と喧嘩した時など、鬱々と痛みに耐えていたのではないかと浩二は想像する。
暫くして湯船から上がり、頭を洗いながら、それでも自殺は罪だと浩二ははっきり思う。残された梢とさやかを見ていると、すきま風に吹かれているような侘しさを覚える。表には見せないが、その心の内を思うと本当に不憫だ。
自分はどんなことがあっても自殺だけはするまいと浩二は思う。
そしてどんなに妻になじられても、妻を大切に思っている自分を不思議に思う。
子供が生まれた時の感動や、乃絵美が幼い頃のかわいい思い出も妻に対する愛情を支えているのは確かだ。
しかし浩二は、20年以上も夫婦でいると、それ以上によく分からない相手を思う気持ちが自分の内に脈々と流れているのを感じる。
かけがえがない。
妻のことを、浩二はそう思った。
風呂を出てさっぱりすると、自分の内に、家族というものに対する厚い情が蘇っているのを覚える。
浩二は部屋への階段を上りながら、妻にラインを打とうか打つまいか逡巡していた。
自分は妻に何もしてあげられない。この土地にいる限りは、生活の豊かさや、将来の安心もあげられない。だから、あげられるのは優しさや思いやりくらいではないのか。
浩二はそう思った。
部屋に戻ると梢が食事を運んできてくれた。刺身や海老フライなどの海の幸や、山の幸の煮物、和え物が並んでいた。
ビールを頼み、梢に一緒に飲まないかと勧めると、梢は酒はやめたのだと言った。
「気が緩むと、また思い出しちゃうかもしれないし……」
そう言った。
そうして何を話すでもなく、暫く座っていたが、間もなく階下に下りてしまった。
「やっぱり自殺はいけないよ、自殺は」
浩二は傍にいる博行に向かってそう言った。
「ヒロくんは自殺なんかすべきじゃなかった。ヒロくんが抱えていたものの重さは分からないわけじゃない。でも、苦しくても尚人は生きなければ……生きることが唯一の道だ。俺だって自殺したくなることがあるんだ。でも、そこで負けちゃいけなかったんだ」
博行は黙っている。
浩二は岩場に打ち上げられた博行のなきがらを想像した。
本当は昨夜、自分も死にたかった。
そして、家族を愛するがゆえに、何もしてやれない自分、無能な自分がもどかしかった。
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