デバッグ
早川映理
デバッグ
うっかり虫を殺してしまった。家に入り込む害虫を取り除く
よく「虫一つも殺さない」という言い回しを使って、一人の
むしろ一種醜い、利己的に近い感情を連想させる。
虫一つも殺さないのは、自分で虫を殺し必要がないから。それだけだ。
かつて実家に住んでいる時、虫殺しどころが、何もかも自分をやる必要がない。はじめて一人暮らしをし、はじめて虫を自分で殺したその時、はじめて殺生の重さを感じた。
ああ、なるほど。
これまで、両親が自分のためにこんな罪まで背負ったんだ、と。
何となく落ち込んでいた。ティッシュで虫を覆い被せ、自己肯定と一緒に、ゴミ箱の中に投げた。
今日も参敗した。
ここに引っ越してきた三ヶ月未満。ようやくスリッパなしでも床で歩けるようになった。裸足のままあっちこっち歩くことは、部屋に対して一種の信頼感ともいえるだろう。
これは自分の部屋だとやっと認められる感じ。
しかし、まったく不満がないわけでは決してない。
——この部屋には、虫が多すぎる。
実質的な虫と抽象的な虫、両方とも。
本当の虫ならば、殺せばいいものの、虫でありながら虫ではないからこそ、厄介だ。
それはトラブルという虫だ。
引っ越して以来、トラブルが次から次へと、永遠終わらない。解決しきれない。大なり小なり、それとは関係なく、重要なのはトラブルの内容ではないのだ。虫の名前がどうでもいいみたいに、虫は気持ち悪い理由は、虫は虫という存在そのものだから。
「インターネットはもう契約した?」母が電話の向こう側にそう聞いていた。
「まだ」
「どうして?」母の声は心配というより、責めるように聞こえた。
「マンションの配電盤とかなんとかの問題で、よくわかんない」
「じゃどうしよう?早く解決しないと授業もできないでしょう?」
「一応スマホからデザリングをしてる」
「何?デザリングって?」
「スマホ自体のネットを他の端末にシェアすること」
「あら、それじゃその光なんとかのなくでもいけるじゃん」
「ギガが早くも足りなくなるので、やはり光回線があったほうがいい」
「ギガって何?」
「……」美代子は心底からこの会話を今すぐ終わらせたい。
インターネットは生活にかかわる問題だから、一日でも早く解決しないと、困らないわけがない。とはいえ、ただでさえイライラしているのに、「ギガって何」という質問を答えなければならないという
かつて何もかもできる両親は、いつの間にか何もかも知らない両親となっている。
日曜日、せっかくのいい天気だから、久しぶりに出かけた。
虫だらけの部屋から逃げ出して、目黒川沿いのカフェで本を読みながら、カフェラテを飲むのんびりの光景を想像し、念入りのメイクをして目的地に向かった。
緊急事態宣言にもかかわらず、川沿いの街は人いっぱいだった。おまけに激しい日差しで、出発して十分ほど、メイクはもうドロドロになった。
グーグルマップで保存した三つの店とも満席状態で、美代子は待つことを断念して家に戻るのを決めた。
行くつもりのカフェで、知らない女性一名がマスクなし、真っ白のワンピースを着て、芸能人とでも思われる大きいサングラスを頭にかけ、ガラス越しでまさに本を読みながら、カフェラテとか何とかの飲み物を飲んでいた。
そんなに小さな願いでも叶えられない自分は何だか情けない。
しかし、時々簡単そうに見えることこそ、一番難しいことである。美代子はわかっている。
その次の日曜日、インターホンが鳴った。知らない男だった。
「どちら様ですか?」と聞いた美代子に対して、モニター越しの男はただ無言のままそこに立っていた。
「あの……」美代子は再び声をかけた後、男は建物を離れた。
これは三回目だった。
三ヶ月近い間に、すでに三回だということは、平均的に毎月一回知らない男がくる。
しかしそれは同一人物であるかどうかは特定できなかった。三人ともマスクをして、帽子をかぶっているから。
一一〇番に通報することも考えたが、大袈裟すぎるではないかと思われたくなかった。
契約する管理会社のパンフレットを探し出してチラッと読み、そこに「ストーカー被害時転居費用サポート」という項目があった。
不意に小さい黒い虫が飛んできたのを見て、パッと、手のひらで虫を殺した。本当なら、なるべく殺生の罪を背負いたくないが、虫を排除したいのなら、殺すことしか方法はなかった。虫を生きている状態で外に行かせるのはあまりにも理想し過ぎる。
「見舞金十万か……全然足りないなぁ」と、美代子は呟いた。
インターネットの工事センターから連絡が入ってきた。
その配電盤云々の問題はどうやら解決したらしい。工事日を予約することができた。それで一件落着。
電話を切った後、今日と今までの日のどこが違ったのかと美代子は考えていた。
ずっとうまくいかない生活が急に順調となる原因を探し出したいからだ。
昨日は早く寝たから?
朝の授業で真面目にノートを取ったから?
さっきコンビニに行った時、現金ではなく、スマホ決済を使ったから?
いずれにせよ、それは決して明るい未来が
「デバッグ」のポイントは「修正」に当たる。
だから、生活の中にある何らかの誤作動を見つけて、それを訂正すればいいだろう。
映画の世界では、ただ一つのチェンジで、翌日起きたら、世界が完全に変わることはよくある。
それじゃ、これから毎日早寝て、早起きしたらどうだ。でも、よく考えてみればそれはやはり無理。何せ、予習とレポートに追われる日々で、毎日深夜になるまで課題は終わらないからだ。
ではせめて、電子レンジが出来上がった後のブザー音が二回鳴る前に、ちゃんと食べ物を取り出したらどうだ。
デバッグ 早川映理 @hayakawa0610
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます