a little happiness

霙座

a little happiness


―――カン


夕暮れ時のざわついた町並みをすり抜けて、自宅マンションに帰ってきた。

部屋の中から鍵っ子の俺を呼ぶのは、現実世界の物質を意に介さない魔界の使者、ノーディス。

黒髪黒目、色白、長い指と色の悪い爪。

エネルギーの回収指令があろうがなかろうが、必ず自宅玄関に座り込んでいる奴。

鍵を開けて、中に入って鍵を閉めて、それから話し始める。


―――おかえり、カン

「……ただいま」


しゃくだが、中学に上がってからこいつ以外に帰宅時にお帰りと言われたことがない。


―――機嫌悪いね。

また、何か見たの?


玄関先に突っ立つ俺を下からわざと覗き込むように顔を近付ける。


「仕事はあんのかよ」


ノーディスの質問をスルーして、聞き返した。


―――森四季もりしき高校の花壇だよ

「遠……」


面倒くさいのニュアンスがよく伝わる返事をしたと思う。

ノーディスは、一瞬で着くじゃない、と笑いながら立ち上がった。

相変わらずでかい。

というか、ひょろ長い。


―――行ってきてよ。

今回は大物らしいから、期待してよ


特にすることもない。

雇われの身としては、給料がいいのであれば、行っておけばいいのだろう。


ノーディスはにっこりと口角を上げて、右手を差し出した。

渋々手を出してノーディスと握手をすると、一瞬の寒さの後ずっしりと重い仮面とマントを装備している。

そしてその一瞬後、急に重量を感じなくなる。

何回やっても不思議だ。


―――いってらっしゃい


にこにこと頭を撫でるノーディスから視線を外す。

一体いつまで子ども扱いするんだか。


「……いってきます」





風四季かぜしき校下でも隣の市との境に位置する隅っこの自宅から、ほぼ対角線上の端の森四季高校までは、普通にチャリで行けば三十分はかかる。

その感覚で遠いと口にしたが、このデーモナの装束を纏っていれば、瞬間移動だ。

楽なもんだ。


グラウンドでは、新入生獲得に向けて部活がまだ盛んに行われている時間帯だが、校舎裏の花壇はひっそりとしていた。

小さい春の花が咲いている。

名前は知らないが、白い花だ。


仮面の目が勝手にポイントを見つける。

ポケットから小瓶を取り出して、栓を開け、口をエネルギーに向けると、勝手に吸引される。

吸い終わったところで栓を閉めた。

なるほど、ノーディスが言ったとおり、結構な熱量を持っていた。


このまま飛んで帰ればいいのだが、何となく装備を解いた。

小瓶を親指で跳ねて、キャッチする。

学生服のポケットに押し込んで、花壇から出た。

グラウンドの外周を歩いていると、後ろから、陸上部らしき二、三人のランナーが追い越していった。


同じマンションに住んでいる小学校からの同級生で、楓という奴がいる。

二年の終わりから陸上部の部長になった。


元は、かわいい子がいたから、とかいう不純な動機で入部していたが、気がつくと、その子と付き合い始めたとかにやけ顔で言ってきて、部活の方も県大会上位入賞とか、まじめにやっているらしい。


陸上部の顧問にも、楓にも、何回も誘われたが、とうとう陸上部に入部することはなかった。

真剣に取り組める自信も、その気もなかった。


時折立ち寄る科学部の活動場所である理科室から、気まぐれにグラウンドを覗くと、楓が見えたり、女子部の部長の楓の彼女が見えたりする。


ぼんやりと眺め続けていると、そんな俺に当てつけるかのように全力で外周を走っているあいつも見えてくる。

三年目も同じクラスになったが、結局まだまともに喋ったことがない。


「……陸上部ね……」


なんとなく、学校に戻ってみようと思った。





風四季中学に辿り着いた頃には、もう日は落ちて暗くなっていて、グラウンドはすでに片付けられて無人だった。

生徒玄関に向かう途中で何人かとすれ違った。

帰ったんじゃなかったか、とか、もう施錠時間だよ、とか、軽く掛かる声に適当に答える。

遠のいていく声はまだ何か話していたが、耳には入らなかった。

足は、特に目的もないが、わざわざ教室に向かっていた。


夕暮れの学校は、気味が悪い。

廊下に伸びていたはずの自分の影がもう夜の闇と同化していた。


教室の扉の取っ手に手を掛けたところで、体がぎくりと強張った。

電気をつけていない薄暗い教室の中に、人がいた。


「ハルカ……」


つい、小さく名を呼んだ。

いつもどおり二つに結った髪が、肩にすとんと落ちていた。

ハルカは自分の机に手を突いて、立ち尽くしている。


何が、あったのか。

声を掛けるべきか。


迷う自分の意識が遡る。

その姿に、入学間もない頃のこいつの姿を思い出す。





ハルカは、机に手を突いて、じっとしていた。


泣こうか、

笑い飛ばしてしまおうか、

怒り狂って見せようか、

どうしようか、と迷っているように見えた。


机にクレヨンのようなもので落書きがされていた。

よく読めなかったが、馬鹿とかブスとかありきたりの罵倒語だったと思う。

要するにハルカは、いじめに遭っていたらしい。


しばらくすると鬼のような形相で扉に向かってきた。

隠れようとして壁に張り付いた。

全然隠れられてはいなかったが、ハルカは俺の存在に気付かずに表情とは打って変わった静かな足音で歩いていった。


その横顔は、泣いていなかった。

怒っているというか、とにかく真剣な表情をしていた。

通り過ぎていった背中を見送って首を動かした。

安い内履きのゴムがきゅ、きゅと鳴いて階段を下りる音が、静かな廊下にこだましていた。


どうするんだろう、と思った。

先生に言いつけに行くというキャラでもないような気がした。

壁から体を剥がして、一度肩で息を付いた。

迫力負けした自分に気付いて、もう一度ため息をついた。


見なかったことにして帰ろうかとも思ったが、誰もいない教室を見渡して、何となく、消しておいてやった方がいいんだろうと思って、ロッカーから卓上用の雑巾を取り出した。

消えにくかったが、大方綺麗になったところで、人の気配がした。

俺は慌てて教室を出た。

手に握り締めた雑巾。

……とりあえず、洗面所で雑巾を洗う。


水が流れる音に混ざってキコキコと蛇口が軋んでいた。

手元の雑巾から視線を外し、前の鏡を見ると、当たり前だが自分の顔が映る。

だけど、なんだか、ノーディスの顔みたいだと、思った。


図々しくて、自らの性格はカワイサを売りにしていて。

打算と思惑と、すごく狡猾で、不遜で。

それでいて時々不思議なくらい優しい目をする。

そんな上司。


今、俺は何を考えている?


洗い終わった雑巾を絞って、視線を落とした。

教室に返しに戻ろうとしたが、戻って誰かいるのであればやましいわけではないが言い訳もしにくいし、とその場に雑巾を引っ掛けた。


中秋なかあき

「……善幸ぜんこう


呼ばれて驚いて振り返ると、ハルカの親友がジャージ姿で立っていた。

俺を含めたお試し入部とかしている連中を余所目に、入学してすぐに陸上部に入って、もうすでに部員として活動していた。


「さっきハルカと玄関ですれ違って。

 走って帰って行ったからさ。

 ……教室で、何かあったんだと思って。」


クラスが別でも最近のハルカの様子でピンとくるところがあったらしい。

四校から上がってくる女子の中には中学デビューとか言って、やたらと張り切っているのもいる。

そういうのに、目を付けられたらしい。


「中秋、消してくれたんだ。

 ……ありがと。」

「お前に礼言われることなんてねえよ。」


アンタ見掛けよりもずっといいやつなんだね、と善幸は微笑んだ。

こんな美人に惚れるなんて、楓も厄介な奴だな、と思いながら、一度は掛けた雑巾を手に取った。

教室に返す振りをして、この場を立ち去ろうと思った。


走って帰った、か。


ハルカは、悩んで、悩んで、悩んだ結果、

走ってマイナスの思考を全部振り切ってしまおうとしたんだと。


「強いでしょ、あの子。」


善幸が言った言葉が、胸に突き刺さった。

正にそう思ったからだった。


摘まんだ雑巾を、善幸に投げた。

かたしといて、と付け加えた。





結った髪で半分隠れた横顔を、どのくらい眺めただろうか。

こいつは、あの時から全然変わんねえな。

いつも全力で走ってる。

そう思って、一度息を吐いて、教室に入った。


「ウス」

「……中秋君……」


驚いた表情でハルカは振り返った。

声を掛けたものの、別に話題はない。


どうすっかな。


「帰ったと思ってたよ。いつも、割と……

 ……ええと」


いないから、とでも言おうとしたのか。

間違っていないのだが、俺が傷つくとでも思ったのか、

言葉を選ぼうとして、困ったらしい。


人のことばっか気にして。


―――そういうとこが。


思い掛けて、自分で驚いて、思わず笑った。

珍しいものを見たという顔で、俺のことを見たハルカは、なんで笑うのよ、と笑った。


何があったのかは聞かなくていいんだろう。

まあ、聞いたところでロクにしゃべったこともない俺に何か話すとも思えないが。

きっと、笑えたから、それでいいんだろ。


ハルカは強い。


思考の自己完結の感じが、ノーディスに似てきたか、と思う。

最近人に全部伝えることがなくなってきたな。


「帰るわ」

「え、ホントに何しに来たの」


引き留めようとしたらしい、ハルカが俺に向かって上げかけた指先が

振り返ろうとしたときに目に入った。





その手を取れたら。




支えることができたなら。





ハルカの周りにはいつも人がいる。

たくさん話して、たくさん笑っている。

その中に、ハルカの全部を知っている人間はどれくらいいるんだろう。


弱い自分を全部乗り越えて笑うあいつを知っている奴は

どれくらいだ。


伝える自信は今はない。

ただ、ハルカが好きだな、と思った。


弱いことがあってもいいと、俺はそれを知っている。

両親が死んだときに、姉や義兄が守ってくれたように。

楓が手を差し伸べてくれたように。


ノーディスが暗闇の底から救ってくれたように。







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