第6話 デジャブの魔力
昭和から平成、そして令和へと続く今の時代、令和二年から、世の中は狂ってきてしまった。
全国的な禍、いや、全世界的に恐怖の伝染病が蔓延り、いまだに収束すら立っていない。
時代がどのように動いているのか分からないが、元々、日本という国が戦後の復興を成し遂げたということで行った、今から五十数年前に行った東京オリンピックは一応成功(大成功とは言わない)を収め、その後の日本の礎となったのは確かだろう。
しかし、時代は流れ、令和二年に行われるはずだった東京オリンピックが、伝染病の影響で一年延期となった。
そして、まだ蔓延が続いている状態で、しかも、都市によっては医療崩壊が起こっている状態で、政府は、
「禍に打ち勝った証のオリンピック」
などという欺瞞に満ちた大会を開こうとしている。
国民のほとんどが反対している状態で、強引なオリンピック開催、果たしてどこまで許されるというのか、
昨日の報道で、
「看護師は確保できる。今休んでいる人間がいるから、その人たちを使えば……」
などという、血迷った首相の会見が行われていたが、果たして、これを狂気の沙汰といわずに何という。
そもそも、看護師が今従事していないのには、事情があるからだ。
誹謗中傷を受けた人もいれば、不眠不休で身体を壊した人もいる。
それを、あと二か月ちょっとしかないのに、これから集めて投入しようというのか?
それはまるで、
「兵器の使い方を知らない人間に、最前線に行って戦え」
と言っているのと同じではないか。
さすがに戦時中の日本でも、召集令状で駆り出されたとしても、訓練くらいは行ってから前線に送り出すものだ。
それすらなく、ただ人を集めればいいという考えが、一国の首相の口から出てくるというところが、すでに終わっていると言ってもいいのではないか。
そもそも、医療から離れた人というのは、家族を守るために離れたのであって、いまさらボランティアのためにいまさら出ていくことはないだろう。
たぶん、いくら札束を積まれても、誰もいかないのではないか? それでも行けというのであれば、まるで、やくざの鉄砲玉ではないか。
「見事に敵対する相手を殺すことができれば、出所後には幹部として迎えてやる」
と言われているのと同じ感じであり、それが日本国の首相で政府なのだ。
「本当に国民の命を何だと思っているのか?」
というのが、ほとんどの人の気持ちであろう。
血の通った人間を、まるでモノとしか見ていない。それを思うと、精神論を通り越して、独裁国家顔負けではないか。
基本的に日本は前述のように、立憲民主の国である。そんな独裁国家のようなマネ事をしたとしてうまくいくわけはない。独裁には独裁のルールというものがある。勝手にルールを曲げて無理を通そうとしても、その先に見えてくるものは、想像を絶する混乱と疲弊ではないだろうか。
それを思うと、時代は進んでいるのか、過去に戻ろうとしているのか分からない。
これを浄化として捉えるかどうか、それこそ、宗教にすがる人が出てきたとしても、無理もないことかも知れない。
さすがに、三十年近く前に起こった、宗教団体を名乗る連中によるテロ行為によるクーデター未遂事件。それを知っている人は、簡単には手を出せないだろうが、もう三十年近くも前のことである。我々のように五十歳を過ぎている人間でも、その頃はまだ二十代だったのだ。
三十代ともなると、知っている人はまずいない。
そうなると、あの事件も、
「今は昔」
ということになる。
宗教団体の事件は、歴史の教科書の一行くらいにしかなっていないのが、現状なのかも知れない。
今のそんな時代にも、おかしな宗教団体があった。そこも同じように会場というのを借りて、人と会話をするという形式は変わりはなかった、どんな話をしているのか分からないが、そんな団体があるということで、大学時代の宗教団体を思い出したのだ。
その団体は、教祖と呼ばれるようなカリスマな人物が表に出てくることはなかった。彼らは全国に支部を持っていて大阪にも数か所あり、阪神間を総括していたのが、友達に連れて行ってもらった会場だった。
そこには支部長らしき人もいるとはいうが、どんな人だか、会ったことはなかった。
「いつもは、どんな活動をしているんですか?」
と聞くと、
「この会場に来て、皆それぞれの話を訊いているだけですよ」
というではないか。
「えっ? 誰かが講義をするとかいうことはないんですか?」
と聞くと、
「ええ、ありませんよ。ここでは皆が集まってお話をするだけです。だから、ここの登録は宗教法人となっていますが、半分は学校法人のようなものかも知れないとも思っているんですよ」
と、その人は言った。
なるほど、最初に話をした高校生の女の子も、そんなに緊張しなくてもいいと言っていた。彼女が団体の行動に対してあまり詳しいことを話さなかったのは、
「話をしても、誤解を受けるだけだ」
と思ったのかも知れない。
相手は、宗教団体ということで、最初から身構えて聴いているはずだ。そんな相手に、余計なことを言っても通用するわけがない。それを思うと、実際に会場に来て、他の人からその場で聴いた方が分かるに決まっている。そこで気に入らなければ、その人は縁がなかったということになるからである。
久則は、そんな風に考えた。
久則があたりを見渡すと、この間の高校生の女の子は見つからなかった。
「今日は、この間の子は来ていないんだね?」
と聞くと、
「ああ、彼女は大阪地区を中心としたところで、この間君に面会したように、この会のことを軽く話すという役目なんだ。彼女にはそれなりに人を引き付けるものがあるようで、地区本部長が彼女にその役を任せたんだ」
ということだった。
なるほど、この間の彼女であれば、確かにカリスマ性のようなものがあり、口数は少なかったが、いかにも迫力はあった。しかし、ぐいぐい来るタイプでもなく。勧誘という雰囲気を醸し出しているわけでもない。落ち着いて見えるが、暗いわけではない。そんな彼女なのに、妙に説得力がある、聞いている時はさりげない話に思えたのに、終わってみれば、会場に一度くらいは行ってみようかという気になるのだった。
自分が一緒になった自分を含めて六人の集団の中に、一人高校の制服を着ている女の子がいた。
その子は、何となくであるが、久則を意識しているように感じられた。
「ん?」
と視線に気付いて目を少し見開いて驚いたような雰囲気で笑みを浮かべると、彼女も屈託のない笑顔を見せてくれる。
隣なので、少し横を向かないと顔を合わせることができないので、まわりに変な気を遣わせなくないという思いから、視線を向けずに流し目風にしていたが、彼女は真正面から久則を見つめてくる。
その様子は、好奇に満ちた目で、ワクワクしているように思えたが、
――これって、恋する娘の目というのか、興味津々でこちらを見てくるな――
と感じさせた。
久則もいつの間にかまわりの視線を意識することなく、彼女の顔を見つめていた。
他の人は誰もそのことに触れずに、各々で話をしていた。そして、久則と彼女に向けて、声をかけてきたりはしないのだった。
「お兄さんは、初めてなの?」
とお兄さんと言ってくれる割には、ため口だった。
しかし、そのため口は何とも心地よいもので、今までの彼女ができたと思ったその時とは違ったドキドキであった。やはり、
「お兄さん」
という言葉が気になって仕方がないのか、思わず、彼女の瞼に写る自分の姿を探そうなどという恥ずかしさをごまかそうとする態度を取っていた。
久則は一人っ子だったので、兄弟が欲しかった。それも男兄弟ではなく、姉は妹が欲しかった。
「どちらがいいの?」
と聞かれると、正直答えに迷ってしまった。
姉は甘えさせてくれそうだし、妹だと頼りにされることで、今まで感じたことのない、そして憧れている慕われるという感情を抱くことができると感じたのだ。
中学時代くらいまでだったら、迷わず、
「お姉ちゃん」
と答えていただろう。
しかし、高校生になった頃から、妹の存在も捨てがたいものとして意識されるようになり、どちらとも言えなくなった。
どうして妹を意識するようになったのかというと、きっと思春期という意識が強くなったからではないだろうか。
久則にとって彼女というと、
「妹のような存在」
という意識が強かった。
しかし、この意識は、実は思春期の久則の中で(思春期でなくても、本当は変わらないのだが)、矛盾をもたらすことになったのだった、
なぜなら、どうしても彼女を作るとなると、同級生の女の子が意識される。もちろん、年下もありなのだが、まず知り合う機会がないというころで、最初からあきらめているという意識があるのだ、
そうなってくると、思春期前から思春期に掛けてというと、成長は明らかに女性の方が早い。もちろん、個人差はあるのだろうが、同級生の女の子は、同い年というよりも、年上感覚の方が強いだろう。
だから、性的欲求を抑えることができなくなるのであって、そんな性的欲求を恥ずかしいことだと思っていた久則だからこそ、
「妹もいいな」
と思うようになったのではないだろうか。
「姉に対しての憧れというのは、あくまでも甘えされてくれる存在である」
ということなので、性的欲求とは違うという意識を強く持つようにしていたが、妹に対しての意識は、自分のまわりで知り合える同級生に限られてくる。すると、成長のスピードが男よりも早いと思ってしまうと、皆お姉さんのように思えてくる。そんなところが気持ちと資格のアンバランスから、矛盾だと感じるのだった。
久則が今まで、
「俺って、ロリコンではないか?」
と思っていたが、その理由がよく分からなかった、
だが、この時に、自分が一人っ子であることを、自己紹介つぃでに話をすると、
「じゃあ、お兄ちゃんは、お姉ちゃんか妹のどちらかがほしいと思っているんじゃない?」
って聞かれて、心の底を読まれたようで、ドキッとしたが、
「うん、そうだね」
と言われて、前述のようなことを考えた。
その考えの結論が出たわけではないが、自分の中で考えていたことをズバリと突かれ、この場所にいることで、異様な雰囲気に包まれながら、いや、彼女のまっすぐな視線に見つめられながら考えていると、それまで感じなかった別の世界が開けてきた。
最終的な結論が出たわけではないが、少なくとも、自分の中での疑問は解けて、一歩も二歩も先に進んだという気持ちになるのだった。
それが嬉しくて、
――なるほど、ここにいればいるだけで、自分の潜在意識を引き出してくれるような力があるんだ。だから、特別な教えであったり、儀式のようなものは必要ない。人と人が一緒にいるだけで、お互いに相乗効果を生むというのは、前から思っていたことだが、それが実証された気がして、目からうろこが落ちるというのは、こういうことではないんだろうか?
と、考えるようになった。
だから、目の前にいる彼女は、自分よりも年下で、明らかに妹風なのに、考えていること、潜在している意識は、久則なんかよりも、よほど大人なものを持っているのではないだろうか。
ただ、それは、
「相手が久則だから」
という思いがあるのかも知れない。
もし、他の人であれば、そこまで感じることはない。
ただ、それはまだ、実際に見つめ合った相手がその女の子だったということであって、まだ他の人と話をしていないから何とも言えない。
そう思ったのだが、
――待てよ――
と考えた。
そういえば、一番隙のない布陣というのは、将棋では、最初に並べたあの布陣だというではないか、一手差すごとにそこに隙が生まれる。そのことを、その瞬間に思い出すというのは、やはり最初に意識した人が自分にとって一番なのではないかと思わせたのだ。
そう思うと、その子のことを妹として、彼女として、さらには姉としても見れるようになったような気がして仕方がなかった。すでに、彼女に対して気持ちを奪われていたということであろうか。
その思いが、時間の感覚までマヒさせることになろうとは、その時には分からなかった。というのは、彼女に対しての思いが膨れ上がってくるまでに、時間が掛かったのか掛かっていないのかが、自分でもよく分からなかったからだ。
その日に、会場を出た頃には彼女に対しての思いが強くなり、ただそれが妹としてなのか、彼女としてなのかが分からないままであった。
しかし、帰りの時間というのが、それまでに感じたことのない、
「早く一人になりたい」
という感情であった。
その感情というのは、一人でいる時ほど、想像力が豊かになるものではないということを分かっていたからだった。それまでには、そうは思っても実際に経験したことはなかったはずなのに、どうしたことなのだろう。
まずは、彼女として想像してみることにした。彼女として想像するには、表の方がいいということに最初から気付いていたわけではなかったが、確かにこの思いには間違いはなかった。
歩きながら、駅に向かう時、商店街を歩いていたのだが、初めて来るはずの街なのに、懐かしさを感じるのは、
「彼女とのデートでいつも歩いている道」
という感覚に陥ったからだった。
デジャブという言葉があるが、
「それは、初めてくるはずの場所で、かつて来たことがあったような気になること」
ということであるとすれば、このシチュエーションはまさにその通りだった。
しかし、逆の意味でのいわゆる、
「逆デジャブ」
であるとするとどうだろう?
つまりは、初めてきた場所ではないという妄想を抱き、そこに隣に彼女がいる。
「これは未来に起こることを先読みして想像したことであって、ただ、それが想像ではなく、未来を見ているとすれば」
などと感じていると、どんどんこの場所での感覚がシンクロしているようで、何度となく彼女と一緒に過ごすその場所で重なって見える自分がいたりする。
さらにまわりの人を見ると、そこにいるのは、皆自分と彼女だけで、二人の時間を超えた世界がまるで、薄い紙が重なって、どんどん厚くなってくるような感覚と言えるのではないだろうか。
考えてみれば、一枚の薄い紙をどんどん重ねれば、紙の束になるというのは当たり前のように思っているが、元は一枚のペラペラの紙である。
こんな紙がいくら重なったとしても、百枚で、こんなにも厚くなるということにちょっとでも疑問を抱けば、疑問が気になってしまって、なかなか解消できないのではないかというレベルに感じられる。
「これは当たり前のことなんだ」
という意識すらないままでいるから、考えることもない。
ひょっとすると、当たり前だということを少しでも意識していれば、このような疑問が生まれるのは当然のことではないかと思えるのだった。
本当に当たり前のことは、当たり前であるということすら意識しない。それを考えると、道端に落ちている石ころを感じさせる。
石ころだって、
「そこにあって当たり前」
というものであり、それすら感じることがない。
目の前にあって意識することがないのを、
「路傍の石」
という言葉で表すのだろうが、それも、あくまで意識してのことである、
そんな不可思議な現象を、恐ろしいなどと思うこともなく、いや、感情のようなものすら希薄になるほど、彼女とのしたことのないデートに妄想を膨らませていた。
「これは妄想なんだ」
と思うことで、怖い気持ちが消え去ったのかも知れないが、意識としてはまったくなかった。
その分、時間的な感覚がない。気が付けば駅についていたというのだろうが、駅についたことも意識がない。
もっと言えば、自動券売機で切符を買ったことも、自動改札を通り抜けたことも、ほとんど意識はなかった。
私鉄ではだいぶ普及してきたが、まだ国鉄では実用化すら感じられない自動改札というものは、意識して通らないと指を挟んでしまいそうで、本当は危ない。しかし、それを簡単に通り抜けられるのは、すでに自動改札というものが自分の身体に意識以上の習慣を植え付けているということなのかも知れない。
そういえば、一緒に来る時は友達と一緒に来たのだから、どうして一緒に帰らなかったのかというと、
「今日は俺、一人で帰るわ」
と、普段だったら、相手に失礼になると思って絶対に言わなかった言葉なのに、思わず口にしてしまった。
もう少し時代が進めば、ポータブルラジカセ(通称になっている言葉があるが、それはメーカーの登録商標なので)か何かで音楽でも聴きながらであれば、自分の中で妄想がさらに膨らむのだろうと後になって思ったのだが、まだ、その時代にはポータブルラジカセ自体が開発されておらず、商品化されていなかった。
だが、この時の経験があるからか、ポータブルラジカセが発売されると、飛びつくようにして買って、大学までの通学の間、ずっと使っていたものだった。
そんな道を歩く時の妄想を知ってしまった久則は、その時以降、自分の中で妄想することを悪いなどと思うことはなく、むしろ、
「妄想というのは、自分の中で生きていく糧になるものではないか」
と思うようになっていたのだ。
電車に乗って、車窓の光景を見ていると、妄想は少し薄れてきた。車窓の光景に目を奪われていたのだ。
「スピードに目を奪われていた」
と言ってもいいかも知れない。
スピードは、視界を広げるもので、そして、遠くに見せるものだった。
きっと、スピードにおいつかない動体視力を少しでも、追いつかせようとすると、スローに見えるにはどうしたらいいかということを考えてしまうのであろう。
その時に考えるのが、近くに見えているものを、どんどん遠くに見える、つまり小さく見せることが一番なのではないかと思うようになった。
それが実際に証明されたと感じたのは、新幹線に乗った時だった。
最初はその理由が分からなかったが、いつもなら近くに見えると思っているような光景なのだが、実は自分の中で小さくしているだけであった。新幹線が通る場所というのは、騒音の問題があることからか、ほとんどが田舎を通っている。その証拠に、その路線のほとんどがトンネルというところだってあるではないか。
いずれ開発される(ということになっている)リニアモーターカーだって、すべてがトンネルの中だということだ。
考えてみれば、新幹線が実用化される頃から、リニアモーターカーの開発は進められていたのに、新幹線が東京と新大阪間で開通してから、もう五十数年が経つのに、やっと構想が見えてきたという程度ではないか。ロボットやタイムマシンでもあるまいし、どうしても超えられない壁が物理的にあったようには思えないのに、ここまで開発が遅れているというのは、どうせ民衆の知らないところでの利権絡みなのだろうということは、公然の秘密になっているということであろうか。
それはともかく、新幹線に乗った時に感じた、
「車窓の風景が小さく見える現象」
これが、動体視力を少しでもカバーしようとしているものだとすれば、その時に乗った阪急電車の車窓も無意識ではありながら、きっと車窓を走り抜けていく光景に目を奪われていたことだろう。
電車で十分ほど乗ると、自分の住んでいる駅に到着した。
いつもの大学とは別の方向なので、何となく違和感はあったが、同じ違和感でもいつもとは違っていた。別に方向が違うからというわけではなく、十分という時間がなかったかのように感じられたからだった。
今までに味わったことのない楽しい時間、それが感覚のないものであったり、路傍の石のように見えているのに、気付かないものであったりするということに驚きを覚えた。
それが妄想だとしても、妄想を抱くことで幸せな気分になれるのであれば、それの何が悪いというのだ? それを考えると、何が正しいのか分からなくなってきた。
あれは、大学三年生の頃だっただろうか。宗教団体ともすでに決別していた頃だったのだが、あれは、当時できた彼女との何回目かのデートの時だった。
「遊園地にでも行こうか?」
ということで、その当時流行り始めていたテーマパークに行くことにした。
平日なので、さすがに人は少ないだろうという思惑の元、電車に乗って行ったのだ。
昼前くらいだったので、まだ朝のラッシュも過ぎていて、買い物に出かける客や、大学生がちらほらいたせいか、四人掛けの席にちょうど、窓際に、久則とその彼女、その横に別のカップルがいて、久則が、気付かずに彼女の帽子を尻に敷いてしまっていたようだ。
それに気づいた久則は、彼女に頭を下げて詫びたが、その時声には出していなかった。ただ、相手の彼女も分かってくれたのか、暗黙の了解でもあるかのように、無言で頭を下げてくれた。
その時はそれで収まったのだが、ちょうどテーマパークの駅に着いたことで、久則と彼女は軽く会釈をして、小声で、
「すみません」
と言って、降りようとしたその時だった。
「お前何様のつもりだ」
と、彼氏と思しきやつが、久則に文句を言ってきた。
久則には何のことだか分からずに、キョトンとしていたが、男は、
「何とぼけてんだよ。さっき、俺の彼女の帽子を尻に敷いただろう?」
と言ってきた。
「ああ、それはちゃんと詫びましたが?」
というと、
「誠意が足りねえじゃないか」
と言ってくるのだ。完全に因縁であった。
こちらも、相手にどいてもらえわないと降りることができない都合上、どうしようもなかった。
こちらが、しょうがないので、
「すみません」
と言って謝罪を入れたが、結局その駅で降りることができなかった。
それでも、相手の男はぶつぶつ言っていたが、こちらとしては、
「下手に逆らって、彼女に危害が加わってしまったらどうしようもない」
ということで、なるべく逆らわないようにこちらから文句を言わないようにしていた。
それこそ、
「大人の対応」
ということであろう。
だが、相手はそんなことで収まるわけはない。こちらや久則の彼女を睨みつけてくる。
とりあえず、隣の駅で降りることはできたが、さすがに久則の怒りが収まるわけはない。
本当であれば、大人の対応をしたことで、自分の彼女も見直してくれたのかと思ったが、何も言ってはくれなかった。たぶん、何を言っていいのか分からなかったのかも知れないが、せめて何か声をかけてほしかった。
相手の男もそうである。たぶん、あいつは、自分の彼女にいい恰好したかったというだけの理由で敵を作り、その敵から彼女を守ったというパフォーマンスを示したかっただけなのだろう。
それを思うと、怒りが収まるわけもなかった。
相手の彼女もそうである、彼女としても、相手を暗黙の了解で許したのであれば、自分の男が怒り出したのであれば、それを止めるのが当たり前ではないかと思えてきた。
そう思うと、あの時に一番の貧乏くじを引いたのは、自分ではないかと思った。自分の彼女のことを考えて、我慢したのに、何も言ってくれないというのは、あまりにもひどい気がした。置き去りにされて、さらに考えていると、
「裏切られた」
まで思うほどだったのだ。
「もし、俺があの時、あいつと喧嘩になっていれば、どうなったんだろうか?」
と思うと確かに大人の対応は間違っていなかったと思う。
それなのに、その後のこのモヤモヤは一体なんだというのか?
自分だけが我慢して、その場を収めたのに、一番苛立ちが残った中途半端な気分になるくらいだったら、喧嘩になった方が精神的には楽だっただろう。
お互いに痛み分けにはなったかも知れないが、後悔はしない。怒りが¥は時間がくれば収まるものだが、この思いは時間が経てば収まるどころか、ひどくなる一方だった。
「俺が一体何をしたというんだ」
と叫びたい気分になっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます