第4話 新興宗教団体

 その女の子とは、どれくらいの付き合いだったのか、正直、女の子と付き合ったという記憶で一番古いのが、その彼女との付き合いだった。大学に入学してすぐくらいの頃に、最初に付き合った女の子がいたのだが、付き合い始めも、別れた時も、自分の中で意識があったわけではないので、本当に付き合ったと言えるのかどうか、ハッキリとしなかった。

 きっと、付き合い始めも別れも自分からではなかったので、意識として残っていなかったのだろう。

 もっとも、今までの恋愛経験で、別れだけはハッキリしていた。自分からふったことは一度もなく、そのほとんどが、相手からの別れの宣言を一方的にされて、押し切られてしまうパターンだった。いつも、別れの理由も分からずに、結局、割り切るまでにいつも時間が掛かるという、時間の無駄遣いばかりをしている頃だったとも言えよう。

 しかし、その頃は、割り切るまでにかかった時間を、もったいないとか、時間の無駄遣いという感覚はなかった。

 どちらかというと、

「楽しかった頃の思い出に浸ってしまっていて、そこから逃れられない自分がいた」

 というイメージが強く、使ってしまった時間は、そこから立ち直るために必要な時間だったことを思うと、もったいないとは思うかも知れないが、無駄遣いだとは思えない、

 無駄遣いだと思ってしまうと、その時間自体を、

「割り切った時間」

 と思ってはいけないと考えてしまい、時間の感覚がマヒしてしまいかけている、大学生活を分からないものにしてしまいそうな気がしていた。

 よくその喫茶店で待ち合わせた女の子と別れた時も、いきなりだった。

 急に連絡が取れなくなって、遭いにいくと、いつもの笑顔は消えていた。明らかに、こちらを睨んでいる顔に見え、

「今まで一番自分を分かってくれていると思った人が、こんな顔をするなんて」

 という思いが強く、怖くて自分から何も言えなくなってしまった。

 その思いがあるから、自分も彼女に何も言えなくなってしまい、一緒にいて一番安心できるはずの相手が、その時から、一番そばにいてギクシャクする相手になってしまい、一緒にいることが怖くなったのだ。

 それだけではない。一緒にいない時に思い出すのが、楽しかった時のことばかりだったのだ。

 つまり、一緒にいるのが怖いくせに、一緒にいない時には楽しい思い出しか感じない。そう思うと、自分が何を望んでいるのか分からなくなってくるのだ。

 その感覚があるから、割り切ることができないのだ。自分の中で矛盾したことを頭の中に描いているのが分かっている。だからこそ、割り切れない。

 昔の歌に、

「三歩進んで二歩下がる」

 というのがあったが、まさにその通りである。

 頭の中に相いれない矛盾した発想があるのだから、それぞれに違う方向を見ているのであれば、当然進んだつもりで、戻っていたりもする。それが、割り切りを決定的に遅くしてしまった理由だろう。

 しかも、楽しい思い出というのは、その時々に存在している。一つや二つなどということはないのだ。それに、時間が経ってくれば、記憶があいまいになり、一つの想い出がいくつもの想い出のように感じられるようになり、どんどん膨れ上がっていく。

 その感覚が矛盾をさらに複雑にしてしまい、余計に割り切れなくなってしまうのだろう。この感覚は時間や数に関係のあることではなく、割り切ることができずに、ここまで行ってしまうと、

「本当に割り切ることなんか、できるんだろうか?」

 と考えてしまうであろう。

 久則が彼女ができてから、いつもいきなり別れが訪れて、それを割り切ることができずに、悶々としてしまうのも、一種の恒例となっているようで、久則のことをよく知っている友達は、

「またか」

 と思っていることだろう。

 彼らに久則が、その時代を過ぎ去ってかなりしてから、理解できるようになったこの発想は、その当時の友達の中には分かっていた人もいるのではないかと感じている。

 それから数人の女の子と付き合ったが、結局よく分からなかった。自分が人を好きになるということの本質がどこにあるのか、それが分からないことには、女性と付き合っているということと、恋愛感覚が同じだとは言えない気がしていたのだった。

 実際に恋愛に迷っている時期ではあったが、今から考えて楽しい時期でもあった。割り切れない時は、人生を勿体ないと思う余裕もなかったが、後から思うと楽しいと思えるのは、もったいないわけではなかったと思うからだろう。

 喫茶店で待ち合わせをした時も、

「何か新しい発見ができるかも知れない」

 と思ったことで、ワクワクしていたような気がする。

 大学生の頃と大学を卒業してからの違いで一番大きかった感覚は。この新しい発見をできるかどうかではなく、できるかどうかを考えられるかどうかということに掛かっていたような気がするのだ。

 その日、友達が連れてきたのは、一人の女性だった。それも年上ならそれほどビックリはしなかっただろうが、何と彼が連れてきたのは、セーラー服を着た高校生の女の子だったのだ。

 話を訊きながら、最初は、

「年下の女の子が説教めいたことを言っても説得力があるのだろうか?」

 と感じたことだった。

 だが、彼女の話を訊いていると、彼女が年下だとは思えない。一生懸命に説得しようとする姿は、年下だという上から目線で見ていたことを失礼だと思わせるだけのものだったのだ。

 彼女の目はしっかりと久則を捉えていて、それでいて、急に視線を逸らしてくると、こちらがビックリして相手の視線を思わず目で追ってしまいそうになるくらいであった。

「坂田さmは、何か不安めいたことってありますか?」

 と聞いてきた。

「ええ、ありますよ。むしろ、不安めいたことばかりです」

 というと、

「そうなんですよ。不安に思うことって、本当はどうして不安に思うかもわかっている。でも実際に考えていくと、その不安が自分で納得のいくことであれば、解決の糸口はおのずと見えてくる。要するに納得できるかどうかということが、一番の問題ですからね。でも、不安めいたことというのは、不安なんだけど、何に対して不安なのか分からないので、考えれば考えるほど、不安が募ってくる。相乗効果の逆なんですよ。だけど、そのことだけは分かっている。だから、余計にそのことが分かっているということを自分で認めたくない。その思いがあることで、どうしていいのか分からなくなる。負のスパイラルというのはそういうことなのかも知れないですね」

 と、女子高生とは思えない口調で諭してきた。

 しかし、彼女の視線はあくまでも上から目線ではない。上から目線ではないのに、どこか相手を恫喝しているようにも感じる。それはきっと相手の納得を促そうとする説得を試みているからだろう。

 しかも、相手にこれが説得であると思わせると、相手は引きこもってしまって、心を開こうとしなくなる。それが分かっているから、言葉も選ぶし、恫喝しているように見せながらも、相手に考えさせようとする。

 相手を従わせようとする恫喝は、相手に考えさせないのが普通だ。相手が考えられるような余裕を与えてしまっては、恫喝の意味がないと思っているからだ。あくまでも先手必勝、恫喝を恫喝として強引に押し切ることが、相手を従わせる恫喝である。同じ恫喝でも種類があることをその時、初めて気づかされた気がした。

 中学生の頃までは、そんな恫喝しか感じたことはない。考える余裕がないだけに、相手が近づいてきただけで、思わず避けてしまうという条件反射をしていたようだ。潜在意識だけで行動する。そこには自分の意志にともなう意識はないと言ってもいいだろう。

 女子高生であっても、相手の余裕をそぐことのない恫喝を相手に浴びせるという高等技術ができるということに、ビックリさせられた。話の内容はともかく、その女の子の存在が久則の中で何かの心境の変化を生んだようだった。

 それが、まさか新興宗教団体だなんて思ってもみなかった。

 宗教団体が怖いという話はまわりの大人からそれまでにいろいろ聞かされてきたが、何しろ大きな事件を起こすわけでもなかったので。子供には分かりにくいものであった。

 といっても、それは子供が理解できないことであり、大人は事件の中に、新興宗教が関わっているものが、子供が感じているよりもたくさんあることが分かっていた。

「宗教団体なんて胡散臭いもの」

 という漠然とした言い方でしかできない大人も、その本質が分かっていないということであろう。

 言っていることに信憑性は感じなかった。何しろ何を言っているのか分からなかったからなのだが、話の内容を考えると、

「言葉の裏を読み取ることに対して、努力をするということが、理解に対しての抵抗ではないか」

 と思えるからだった。

 そんな、何を考えているか分からない自分への納得も、相手を理解しようとする中に含まれているのかも知れない。

 そういう意味では、宗教団体の何たるかというものが分かっていたのかも知れない。

 女子高生に諭されることを、心の中で屈辱と感じながら、何を言っているのかを理解しようとする自分の態度に健気さを感じていた。それをまさか宗教団体の方で先読みし、そんな健気さを逆手に取ることで、相手を洗脳しようとでも思っているのだとすれば、

「宗教団体、侮れぬ」

 と言ってもいいかも知れない。

 だが、これはあくまでも自分の勝手な発想であり、他の人皆、同じような健気さを感じるとは到底思えない。逆に他の人には違う思いを感じたとしても、今自分で感じたような宗教団体への奥深い考えを抱かせるのが目的だとすれば、そちらこそ、侮れないということになるのではないだろうか。

 もし、人心掌握術というものは、

「相手が何を考えていようとも、自分が考えていることをこちらの考えに誘導することができるのだとすれば、それこそ洗脳だと言えるのではないか」

 と感じる。

 それを人心掌握術として、一つの策略のように感じさせる学問が心理学であれば、相手を洗脳するためには、心理学をいかなる方向からも見抜くという方法が用いられたとしても不思議のないことだ。

 さすがに女子高生がそこまでできるというのは、少し考えにくい。となると、彼女も誰かの洗脳に掛かったことで、自分が洗脳されたことへの反動として、他人も巻き込むような意識になっているとすれば、他人を巻き込むことに、一切の罪悪感はないだろう。それどころか、自分がいいことをしているかのように思っているに違いない。

 それが新興宗教における、洗脳であるとすれば、何となくその力の源が分かってくる気がしてきた。

 自分が受けた洗脳を、他人にも伝達すること、つまり、布教活動というものは、古来からそのようにして受け継がれてきたものであろう。

 しかも、その洗脳というものは、素朴な宗教団体の儀式だとすれば、そこに悪意は存在しない。そこに悪意が含まれるのだとすれば、宗教団体以外の別組織の力が働いているのではないだろうか。

 そこに政治的な力が働いているとして、宗教団体の布教活動を自分たちの政治に利用しようとすることで、世論の力を味方につけるということもありえる。

 さらに、他国に対しては、宣教活動と一緒に、貿易と称して布教に参加し、実際にはその国に多大な影響を与えることで、自分たちの思惑通りの内紛やクーデターを引き起こさせ、その混乱に乗じて、相手国を占領しようという考えが生まれてくるのだ。

 それが、帝国主義時代のいわゆる、

「植民地時代」

 ということになるのではないだろうか。

 そうやって、清国や、東南アジア諸国が、欧米の列強国によって植民地化され、世界的な弱肉強食を形作っていったのだ。

 それをキチンと勉強していれば、宗教団体に洗脳されることはないのかも知れない。

 ただ、宗教のすべてを否定するわけではない。純粋に神様を信じる古来からの宗教には、

「宗教の宗教たるゆえん」

 があるのだろう。

 しかし、歴史の事実として、

「過去の戦争における原因となるものに、宗教的な思想が絡んでいるものが、ほとんどを占めている」

 というものがあることは忘れてはいけないことではないだろうか。

 また、実際に宗教団体という形を取っているが、実際にはただのテロリスト集団であったというものが、存在したということは、久則が大学生だった時代から十年後くらいに起こった事件によって明るみになった。それまでにも同じような事件があり、社会問題にもなったものがいくつもあったが、これほど全世界的にセンセーショナルな話題を振りまいたものもなかったでろう。

「彼らが目指したものが何だったのか?」

 宗教団体とは一体、どういうものなのであろうか?

 さすがに昔の帝国主義時代の宣教師たちのようなことは今の時代にはないだろう。昔の宣教師といえば、貿易という隠れ蓑に隠れて布教活動を行い、実際には国家が推奨する植民地計画の一端を担うかのように、布教活動の中で、相手国家にクーデターを起こさせようという含みを持った団体が存在していたようだ。

 占領するのに市場手っ取り早くて、さらに自分たちの行動を正当化して、まわりに怪しまれないような植民地化としては、内紛に乗じて、軍を送り込むということが結構横行していた。

 日本でもそのことが分かっていたからなのか、国内での布教活動、特にキリスト教の布教を弾圧したり、宣教師を処刑したりということがあった。

 やりすぎとも言える行為だが、植民地化された国のほとんどが、宣教師によって内紛を起こさせたという事実もある。それを思うと、今も昔も宗教団体に対して、怪しいという気持ちを一定数持っているのも、仕方のないことであろう。

 そのすべてを否定も肯定もできないが、気を付けるに越したことがないというのは、国民を守るという政府の立場からすれば、当然のことと言えるのではないだろうか。

 そんな中で、一時期話題になった宗教に、

「不貞を許さない」

 というのがモットーの宗教があった。

 基本的に宗教というと、不倫などは許されないことであるという気はしているが、不倫と同意語である不貞があった場合、処刑を受けるということが社会問題になったことがあった。

 当時の社会は、何が正義なのか分からない時代があった。ちょっとでも何か悪いと思われるようなことをすれば、社会的に抹殺されるようなピリピリとした時代で、たとえば、路上で咥えタバコをしていただけで、過激な連中に裏路地に連れていかれて、袋叩きにあったりという事件が頻繁に起こっていた。

 被害者の背中に、紙で、

「天誅」

 と書かれて、行動を起こした団体の名前が書かれていた。

「何とか愛国同盟」

 などというもっともらしい名前の団体だが、やっていることは、暴力でしかなかった。

 反社会的勢力といえばそれまでだが、過激すぎて、警察もなかなか取り締まりも難しかった。

 むしろ警察官の中には、

「なぜ彼らの行動が非難されなければいけないのか?」

 と言葉にはしないが思っているやつは多かっただろう。

 警察としても、手に終えなくて困っていた。本当であれば、自分たちも天誅を加えたいのだが、警察の権力ではそこまではできない。手をこまねいて見ていなければならないのは、ストレスのたまることだった。

 そんな自分たちにできないことを実現してくれる団体がいる。

 なるほどやっていることは過激だが、自分たちにできないことをやってくれて、大いに留飲を下げてくれるのだから、感謝こそすれ、取り締まるなどできればしたくないことだった。

 世の中には、国家権力と言っても警察には手を出せないのをいいことに、やりたい放題の連中がいる。そんな連中の方が、致し方なく事件を起こしてしまった人を検挙するよりも、よほど大切なことだと思っている警官も少なくはないと思う。そんな過激な連中と宗教団体の連中を一緒にするのは、一概にはできないかも知れないが、どこが違うのかを自分なりに警察官であれば、把握してないといけないことではないかと久則は思っていたのだった。

 そんな中で、

「不貞を許さない」

 という考え方には賛否両論あった。

 基本的に

「不貞は悪いことだ」

 という考えは、皆一致していた。

 しかし問題は、そこではなく、いわゆる、

「天誅」

 と呼ばれるものを、どこまでなら許せるかということが人によって違っているということであった。

 だから、彼らの行動に対して一定の考えがないことが、その行動を予知して、対応するということができないのではないか。それが実は彼らの第一段階の行動で、予行演習と言ってもよかった。それらを検証し、世間が自分たちにいかに対応できるかを最初の段階で、シュミレーションしていたというのが、正直なところなのだろう。

 だが、警察にも世間にも分からなかったが、そのことを口にしてはいけないことがあったのだ。当然マスコミもそのことを扱わない、新聞や雑誌にも載らないし、テレビでも話題にしない。

 ただ、毎日のように、不倫をした人がケガをさせられたり、中には殺されてしまった人もいる。さすがに殺人事件まで起こってしまっては、警察の威信にかけて、解決しなければならない。国会でも問題になったようだが、警察がこれら一連の犯行と、宗教団体を結び付けるような絶対的証拠を見つけることはできないので、手を出すことはできない。

 特にこれほど社会問題になってくると、それだけに証拠が確固たるものでなければ、簡単に捜査もできない。

 その頃に問題になっていたのが、かつての死刑囚に対しての冤罪も問題であった。

 警察も、特に検察としては、昔では十分な証拠能力があった犯人による自白を、決定的な証拠として取り上げてきて、それ以外の証拠に対しては中途半端にしか揃えていなかったのだ。

 それを弁護側が巧みについたが、当時の裁判ではなかなか弁護側が受け入れてもらえず、死刑が確定してしまっていた。

 だが、その後の法廷の慣習が変わってきたことで、自白というものが、

「警察側による強制」

 ということが問題となり、警察の捜査に対して、公開性が必要とされるようになる。

 今では考えられないような取り調べが行われていた時代だったのだろう。それは昭和四十年代に流行った刑事ドラマなどのDVDを見れば、どこまでひどいものだったのかということが分かるというものだ。

 刑事が、机の上に足を乗せて、委縮している容疑者を恫喝してみたり、ライトを目の前に押し付けて、

「吐け」

 とばかりの脅しをかける。

 気の弱い容疑者であれば、簡単に白状させられる。中には犯人でもないのに、白状させられ、それがそのまま裁判証拠となり、有罪が確定してしまうという、そんな時代であった。

 本当に冤罪が起こらないわけがないと思うほどの取り調べが本当に行われていた時代があったのだ。

 警察の取り調べの中では、

「これ以上粘ったって、お前にいいことなんか一つもないんだ。今ここで吐いてしまえば、裁判で少しでも罪が軽くなって、ひょっとすれば、執行猶予だってつくかも知れない」

 などと、自白の強要が、いかにも容疑者のためであるかのように話すのだ、

 だが、実際は警察とすれば、自白させて、起訴に持っていければ、そこで事件は解決ということになる。そのために、全力を尽くして、自白に追い込もうとする。

 本来であれば、裁判の上での材料であるはずの証拠が、

「自白させるための道具」

 として使われていた。

 それは、取り調べが刑事課の取調室で行われるという密室だったからだろう。

 今では取り調べの際の虐待などがないように、取調室の扉を開けているようだが、そもそも、犯人かどうか分からない人間を恫喝するというのは、人権侵害もいいところではないだろうか。時代が時代だったとはいえ、本当に暗黒の時代だったと言えるのではないだろうか。

 そんな時代の反省から、

「冤罪を起こしてはいけない」

 という発想が盛り上がってきたのは、その頃からである。

 警察組織には昔から、いろいろな問題があった。管轄による、まるでヤクザの、

「縄張り争い」

 のようなものであったり、

 前述の取り調べにおける憲兵隊さながらの、拷問であったり、さらには、学歴におけるキャリアの問題であったりと、もっともキャリアの問題は、警察組織に限らず、どこの会社にもあることなのかも知れないが、冤罪という問題がクローズアップされてきたことで、影で行われている犯罪捜査がうまく機能しなくなったという弊害も起こっていた。

 警察も、諸事情の個々の問題をいかに解決すべきかということで、多種多様化した犯罪に対して、いろいろな部署を設けることで対応している。

 マルボーであったり、詐欺専門の捜査であったり、麻薬専門から、今でいうネット犯罪に関してなど、それぞれのエキスパートが行うようになっている。これらの方が、相手が組織ぐるみであることが多いことから、一般の犯罪に対してより、捜査は難しいのかも知れない。だからこそ、継続的に長期的な目で見て行かなければならない、そんな部署なのであろう。

 今では、宗教団体専用の組織が実際に存在しているが、それは、宗教団体を隠れ蓑に、凶悪犯罪が横行してきた時期に、新設されたものであったが、実際には、影の組織として、警察内部に宗教団体専用部署というのがあった。

 それを大っぴらにしなかったのは、その部署の本来の目的が、「内偵」というものにあったので、表に出せなかったのだ。

 しかも、警察機構は、ある意味地方分権の形式を取っていて、それぞれの県警を中心に行われていて、警視庁も例外ではなかった。確かに東京は日本の首都として中心にあるのだが、だからと言って、県警と警視庁に上下の差があるわけではなかった。つまりは、警視庁が神奈川県警や埼玉県警に対して上から見ることはできないということである。

 つまりは、同じ警察機構に属していても、それぞれの県警で、ある部署とない部署があったり、それぞれ単独で存在する部署もあれば、部署によっては、二つ以上を一つの部署で見なければいけないところもあった。

 例えば、暴力団関係と宗教団体を管轄する部署が単独に存在する県警もあれば、一緒になっている県警もあるというわけである。

 それだけ、警察機構は中央集権ではないということだった。

 ただし、だからと言って、まったく協力しないわけではない。以前は、警察も警察庁を中心に中央集権であったが、あまりにも県警同士、あるいは、警視庁との軋轢があったために、せっかくの広域犯罪を解決できないということが続いた。

 警察としては、広域に捜査できる部署を設立したが、それだけでは足りなかった。広域捜査部を中心に、それぞれの中央集計になっている部分を取っ払って、あくまでも、警察庁は、広域捜査部の長として君臨はしているが、実際の権力は地方分権ということになった。

 まだなってから、そんなに時間が経っていないので、その実績が証明されるまでに少し時間が掛かるようだが、着実に実績を重ねているのは事実だった。

 ただ、警察組織を今のような形にするまでには、たくさんの事件があり、やはり、昭和の頃からの試行錯誤が、今の警察組織に繋がっていると言っても過言ではないだろう。

 暴力団関係の事件は昭和には多かったが、ニュースになるような凶悪犯罪には、どうしても宗教団体が多かった。

 久則も、子供の頃から、

「宗教団体というのは胡散臭い」

 ということは訊かされていたので、なるべく関わらないようにしようと思っていたが、友達から紹介されたその組織は、実に宗教団体というのとは違っているように思えた。

 それもそうだろう。最初から宗教団体ですと言わんばかりの胡散臭さを表に出していては、誰も見向きもしないだろう。

 ただ、話を訊くというだけのことが本当は胡散臭いということを、その時の久則には分かっていなかった。

 何と言っても、大学生の久則に対して、高校生の女の子を説得にぶつけてくるのは、ある意味反則ではないだろうか。

 思春期を彼女もいない青春時代を過ごし、大学に入ってから、友達としての女の子を意識することはあっても、彼女ができるわけではなかった。

「彼女がほしい」

 という意識はあったが、いつも別れだけが記憶に残ってしまうような、しかも、尾を引いた別れ方をすることに自分の中でどうにもならない葛藤を覚えていた。

 高校生の女の子を見ていると、久則を必死に説得しようというよりも、自分の考えをただ話しているという感じがあり、

――これって、本当の説得なのかな?

 と感じるほどであった。

 説得だとすると、もっと必死になるのではないか、彼女が必死になっているのは、自分の気持ちを言おうとしているだけで、相手が分かろうがどうしようが関係なくも思えた。

「どうせ、他人には分からない」

 という思いが見え隠れしているようで、ただ、そんな中、

――他人には分からないと思っているようなことを、よく彼女は淡々と話ができるものだ――

 と思ったことだった。

 そんな気分になれるような自分なりに納得できることが、この女の子にはあるのだ。それを思うと、彼女のような、他人から何と思われてもいいという確固とした自信が持てる気持ちを形成できる団体がこの団体だということであれば、ちょっとした興味が湧いてきても、無理もないことだった。

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