第2話 在阪プロ野球観戦

 久則は、自分からスポーツをしようなどという考えはほとんどなかった。特に学校での運動部の活動は、見て見ぬふりをしてきた。確かに統制の取れた集団生活を行うことで、規律正しい人間形成ができるということなのだろうが、その頃から、集団生活というものに疑問を持っていた。

 団体競技では努力をすればレギュラーになれて、試合にも出れるだろう。活躍すれば、人気も出て、まわりからの注目度はアップするだろう、だが、しょせんは団体競技、一人だけが目立つということもできない。時には自分を捨ててチームのためにしなければいけないことも多い。逆に自分のことよりもチームのために出場しなければいけない立場の選手だっているくらいだ。

 では、陸上などのような、個人競技ではどうだろう? 確かに個人競技なので、個人での連中になるのだが、あくまでも部活は陸上部。生活の行動もすべては団体に属していることになる。

 そんな生活が人間形成に役立つというのだが、一体それはどういう理屈なのだろうか?

 実際にクラブ活動というものを冷静に見ていると、表から見れば確かに統制が取れていて、練習は厳しいが、それでもみんなの必死な顔を見ていると、裏があるとは思いたくない。

 しかし、辞めていく人間も後を絶たないのも事実だ。そんな連中に対して、

「団体生活に馴染めないというのは、落ちこぼれたんだ」

 というような話が出てきた。

 それは部活だけではなく、学校の授業においても同じだ。

 テストの成績が悪くて、授業についていけなくなる。

「落ちこぼれの生徒を出してはいけない」

 ということは、どこの社会でも言われているが、実際にクラスに何十人もいれば、学年が進んでいくうちに、理解度は千差万別で、理解するスピードもさまざまだ、

 理解するスピードが速い人に合わせた授業を行うと、どうしても、ついてこれない生徒をたくさん産むことになる。しかし、逆に落ちこぼれを出さないようにと、底辺を中心に授業を行うと、理解度の早い生徒を待たせてしまうことになり、他のクラスとの格差が生まれてくる。

 これは、理解度の高い生徒からすれば、差別を受けた科のように感じることだろう。

 落ちこぼれを出してしまう授業をすれば、落ちこぼれた連中は、授業に出るの苦痛になり、そのうちに学校にもこなくなるだろう。授業は面白くないし、一人の孤独を味わうためにいく学校なら、家で一人でいるか、同じように落ちこぼれた連中とつるむしかないではないか。

 それを考えると、落ちこぼれがそのままグレてしまい、学校を辞めて、当時でいうところの不良となってしまうことは避けられない流れであり、大きな社会問題となったことだろう。

 当時はまだ社会問題としての、

「苛め」

 というのが表に出ていなかった時代だ。

 表に出ないところでは結構あったようだが、社会問題になってくる頃ほど、ひどいものではなかった。それでも、学校を辞めて不良になったという流れは、その後の、苛めによる引き込もりや、校内暴力、家庭内暴力へと引き継がれることになっただろう。

 そして、当時の風潮としては、テレビドラマなどで、熱血教師というものが人気だった時代でもあった。

 しかも、運動部の顧問をしていて、学生生活の中での部活というものが、美化されて描かれていた。特に、ラグビーやサッカーなどが大きな話題ではなかっただろうか。それは、オリンピックが終わってからの、スポーツ根性路線と呼ばれるマンガなどから派生したものと、学園ものというジャンルが融合したのが、熱血青春ドラマなるジャンルだったような気がする。

 そういう意味での、スポーツや運動部の部活に対して、大人の都合を押し付けようとするのを、主人公の熱血教師と、彼が顧問をしている部活の生徒によって学生生活を守るという構図は、かなりウケたのであった。

 特に、教頭先生という職業は、

「生徒を優秀な大学に進学させて、進学率をアップすることで、実績を上げ、いずれは自分が校長になる」

 という構想を持っていた。

 これこそ、本当の、

「大人の都合」

 と言えるのではないだろうか。

 そんなドラマに影響されて、ラグビーやサッカーが注目されることになったが、どうしても、プロ化をするほどの社会情勢でもなく、やはりブームは野球だった。

 いろいろなスポーツがマンガになったりしたが、やはり野球が花なのおは、プロ野球の存在が大きかったのではないだろうか。

 少しさらに時代は前になるが、

「巨人大鵬卵焼き」

 などという言葉が流行り、子供が好きなものの代名詞となっていた。

 まるで、初夢のようではないか、ただ、順位をつけられないというだけである。

 今ではレジェンドとなってしまった有名選手がいた、彼らがプロ野球の人気を決定づけたのは間違いのないことであり、さらに、高校野球というのも、野球人気の火付け役でもあった。

「甲子園」

 という言葉が、高校野球の代名詞であった。

 全国大会の行われる球場が、

「阪神甲子園球場」

 ということでその代名詞になっていたのだが、サッカーでいうところの「国立」、ラグビーでいうところの「花園」なども、「甲子園と匹敵するだけの代名詞であったのだろうが、どうしても、定着しなかったのは、野球人気には勝てないというところからであろうか。

 どうしても、プロ化すると、その存在感は強烈な印象を与える。スポンサー会社がいくつもあり、そもそも球団自体が単独の会社なのだから、営業活動がそのまま経営になるのだから、熱の入れ方も半端ではない。

 今のように、サッカーやその他のスポーツがプロ化をしている時代でもあり、メディア発信の根本が、民営の地上波放送から離れている関係もあって、仕方のないところは十分にある。

 考えてみれば、プロ野球と、サッカーでいうところの、

「Jリーグ」

 とは、結成とモットーのコンセプトがまったく違っているところも、サッカーがプロ野球とは違うというところを示したという意味で、画期的だったのかも知れない。

 久則が中学高校時代というと、いわゆる七十年代である。そしてサッカーがプロ化されたのは、一九九三年だったであろうか。二十年以上も経ってのことだった。

 プロ野球と違って、サッカーというのは、

「地元のファン、いわゆるサポーターを中心に盛り上げていくもので、地元に根付いた活動を行うことをコンセプトにする」

 という活動がメインであった。

 したがって、スポンサーを表に出すことのあまりないやり方で、プロ野球のように、球団名に企業名を入れるところはサッカーでは少なかった。あくまでも、地域の球団なのである。

 プロ野球も次第にそのサッカーでの成功に触発されてか、それまでは、在京、在阪と言った人口密集地にフランチャイズの球場を持って、観客動員を増やすということをしていたが、サッカーの方針に触発されてか、サッカーがプロ化する前後くらいから、地方の年に移転することが多くなった。

 昔であれば、関東関西以外では、広島、名古屋、福岡くらいであったが、今では、一度去った福岡に新たに球団ができたことを皮切りに、北海道や東北にも球団ができて、プロ野球も盛り上がってきている。

 しかも、以前は、学生野球、ノンプロ、プロ野球という括りしかなかったg、当時ノンプロと呼ばれる、プロ野球機構には属していない、職業野球のようなものが、全国大会に進む形式のものはあったが、ノンプロのリーグ戦形式のものはなかった。

 だが、これもサッカーがプロ化された頃からくらいだったか、完全なプロ化ではないが、地元地域の職業段によるノンプロリーグのようなものが設立されたりした。

 そもそも、このノンプロリーグの目的は、

「選手を育てて、プロ野球で通用する選手を育成する」

 という目的も含まれていた。

 以前では考えられなかったようなことが、野球界を大きく変えたと言っても過言ではないだろう。

 ここ数十年で、いろいろと変わってきた。

 以前はプロ野球経験者が、アマチュア野球の指導者になることはできなかった時代があったり、プロ球団とアマチュア球団の試合が、いくら交流試合であっても、実現化されることはなかったりしたが、今では行われている。

 やはり、他のスポーツがプロ化するということが大きな影響を持っていたことに違いないのだろう。

 久則は中学高校時代には、高校野球を見るのが好きな時期があった。

 と言っても、高校野球自体は嫌いだったのだが、その中から誰がプロ野球に行くかというところだけが興味があっただけだ。

 そもそも高校野球が嫌いだった理由はいくつかある。

 まず一つは、

「学校や大人の事情い、振り回される典型であった」

 ということだ。

 強くなるために、いわゆる、

「野球留学」

 などというものを用いて、まるで、昔のドラフト前の選手争奪戦のようなことが、今度は高校野球で行われていた。

 プロ野球でもドラフト制度ができる前は、選手獲得は自由競争だった。そこで起こった問題によって、ドラフト制度の導入が決まったわけだが、その理由は大きく二つあったと言われている。一つは、

「あまりにも、争奪戦がひどすぎて、選手の念帽が上がりすぎてしまい、球団の経営が圧迫される」

 ということだった。

 企業側の問題ではあるが、これは球団維持の問題でもあり、経営に行き詰ってしまうと、身売りであったり、球団消滅に繋がってくる。実際に、球団の消滅、身売りが横行した時代があったではないか。

 それが一つと、もう一つでは、

「金のある球団に選手が集まるのは当たり前のことで、そこで有名選手が人気球団に集まることで、戦力に歴然とした差が生まれてしまう」

 ということであった。

 確かに人気チームが優勝するのは盛り上がるだろうが、対抗球団を下しての優勝というのがいいわけで、シーズン前から分かり切っているような、まるで出来レースを見て、何が面白いというのか、これではまるで茶番を見せられているように思われるのも仕方のないこだ。

 人気球団が意外でも、選手を均等にするという目的もあって決まったドラフト制度、今も存続されているが、時代の流れとともに、いろいろな問題を残してきた。

 選手に不利だという考えから、逆指名なるものも出てきたが、結局、以前の自由競争に変わりはないという考えもあり、このままでは本末転倒な状態になってしまうことから、今でも試行錯誤が続いている。

 プロ野球でもそんな感じなのだから、高校野球や大学野球などのような学生野球は、闇の部分で何が行われているかというのも問題だった。

 自由競争なので、優秀な選手を中学時代から目をつけて。野球留学という形で、授業料の免除であったり、奨学金のような形にするところもあった。

 だが、実際にはどうであろう。

 有名高校に野球留学してきた生徒、それは、中学時代までは、

「県でナンバーワンの速球投手」

 あるいは、

「中学球界屈指のスラッガー」

 などと言われて、意気揚々と入学してくるが、全国レベルを知らないと、自分がその中ではたいして目立つ存在ではないということをすぐに思い知らされる。

 そうなるとどうだろう?

 他の選手に負けないようにと、無理をする選手がほとんどだ。何しろ、

「努力は必ず報われる」

 と思って中学までやってきて、頂点に上りつめたのだから当たり前のことだろう。

 しかし、その無理がたたって、選手生命を絶たれるとどうなってしまう?

 野球をやっているから、授業料も免除である。野球ができなくなって退部を余儀なくされると、そのあとは誰も面倒を見てくれない、いわゆる、

「野球での落ちこぼれ」

 になるのだ。

 家族やまわりからは期待されていただけに、精神的な急落を高校生に背負わせるのは酷というもので、そこから先はいわずと知れた、

「転落人生まっしぐら」

 である。

 しかも、受け入れた学校側も、

「野球留学で入ってきた生徒なので、勉強に追いつけなくなったら、普通の生徒と同じだ」

 という風にしか見ていない。

 まあ、それは当然であろうが、学費免除も打ち切られ、勉強も追いつかない。そうなると、自主退学するか、学校でグレるかしかないだろう。それを生み出した自分たちの都合による「スポーツ留学制度」を顧みないことで、今では野球に限らず、ほとんどのスポーツで強豪校による社会問題になっていることは周知のことである。

 久則はそんな社会の仕組みをよく分かっていた。

 なまじスポーツができて、

「いずれは俺もスポーツ留学を受けて、世界的な人気のある選手になりたい」

 と思っている人には見えていないかも知れないが、ほぼほぼ、スポーツ留学の闇を皆分かっていて、見て見ぬふりをしているだけなのであろう。

 そんな社会に子供でありながら嫌気がさしている久則は、スポーツというもの全体が嫌だった。苦手だということの言い訳にしていると言われればそれまでなのだろうが、それだけではなかった。

 もちろん、マスコミなどのニュースや、テレビドラマなどでの影響もあるだろうが、実際に自分の身近にもいたりした。

「野球部でレギュラーを目指す」

 と言って、頑張っていた生徒がいきなり、学校に来なくなったりした。

 生徒が学校に来ない。部員が練習に出てこないのであるから、普通なら先生が心配して家に行ってみたりするのだろうが、もうその頃には、生徒一人に構っている時代ではなくなっていた。

「部員の一人の落ちこぼれが来なくなったからと言って、いちいち気にしていたら、何もできない」

 などと、顧問が言い出すほどである。

 自分の生徒を平気で落ちこぼれというなど、今の時代ではありえないことであるが、当時としては、

「ついてこれないものを、落ちこぼれと言わずに何と言えばいいのか?」

 ということになる。

 確かに教師からすればそうなのだろうが、それまでは、

「落ちこぼれを救わなければいけない」

 という風潮が社会的にあったはずなのに、いつの間にか変わってしまっていた。

 さらに、学校崩壊は続いていく。

 クラスで苛めが目立ってくる。その苛めも以前と違って陰湿なものが多く、以前であれば、苛められている子供にも若干の問題があり、苛めている方が、

「その反省を促す」

 という視点もあったのだろうが、そのうちに視点が変わってきて、

「苛めることに理由なんかない。苛めたいやつがいるから苛めるんだ」

 という、メチャクチャな理由にならない理由が蔓延ってくる。

 それは社会問題になり、実際に自殺者が増えて問題になっても、解決されることはない。解決というのは、何をもって解決というのか、苛めがなくなれば解決なのか。自殺がいなければ解決なのか。分からなくなってしまう。

 そんな世の中で、今度は、先生よりも生徒の方が立場が強くなる。

 昔からあった体罰というものが、今度は過度な教育の行き過ぎとして大きく問題になってくるのだ。

 ちょっと、生徒を叩いただけで、すぐに、

「暴力教師」

 と言われる、

 それをいいことに、以前では考えられなかった

「生徒による教師への苛め」

 が横行する時代になるのだ。。

「生徒に手を挙げれば、暴力教師だぞ」

 と言われれば、何もすることができない。

 これは、今の世の中に蔓延る、

「逆セクハラ」

 などにも言えることであるが、

 女性側が、

「あの上司にセクハラを受けた」

 と言えば、上司は世間から推定有罪の見方をされ、誰も擁護してくれない時期があった。

 今ではさすがに、逆セクハラや逆パワハラなども多いことから、そちらも疑われるが、セクハラ、パワハラが問題になった頃には、

「まさか、訴えた方がウソを言っているなどということはない」

 と思われていたはずだ。

 何しろ、まだセクハラというのがハッキリと市民権を受けていなかった頃に、セクハラを訴えるのは勇気がいることだからだ。一歩間違えれば、

「上司に対して反抗した社員」

 ということになり、却ってまわりからひんしゅくを買い、社会からも隔絶されてしまう可能性があるから、よほどの確信がないと、声を挙げないはずだと思われているからである。

 それを思うと、声を挙げるのが、正義と言われる時代があったことも事実だ。

 声を挙げれば、セクハラが確立し始める頃には、

「勇気を持って告白した」

 ということになるからだ。

 その間隙をついて、人を陥れる輩に対しては世間ではなかなか気づかないものであり、冤罪が蔓延った時代もあった。

 今ではそれも考慮されているだけに、コンプライアンスの問題は、デリケートであり、推奨はするものの、あまり過剰すぎるのも問題だという話もあるが、さすがに、一般的ではないだろう。

 そういう意味で、時代はどんどん変わってきている。

 何が正しいのか、時代によって変わってくるというのも、よくよく考えるとおかしなものであるが、、逆に言えば、時代が生き物だと思えば、不思議でも何でもない。

 なかなか時代や世間を一つの生き物として捉えることは難しいが、そうでなければ、時代の波に押されてしまうというのが今の世界である。

 ただ、そんな世の中というのも、限界があるという考えもある。

「ブームなどは、何年か周期でやってくるものだ」

 という考えもあったりして、流動している世界に限界がないわけではなく、行きつくところまで行けば、再度同じところを回っていると言えるのではないだろうか。

 ただ、科学の発展というものがあるだけに、まったく同じところを回っているわけではない。似てはいるが、若干違った考えが含まれているのは当たり前のことで、それも、文明というものを、人間が作るものだと考えれば、それも当たり前のことであった。

 もちろん、四十年以上も前に、今の世の中がどうなっているかなど分かるはずもない。あの頃はあの頃でよかった部分、悪かった部分が存在し、いい部分も悪い部分も受け継がれていくものだった。

 世の中というものが、そんな時代を重ねて成り立っているということを、高校生くらいになると分かってくるようになった。

 思春期が終わったのか終わっていないのかが曖昧な時期というのが、一番精神的にも肉体的にも不安定だったかも知れない。

 将来に対して、あの時ほど夢を見た時期もなかったし、不安に苛まれた時期もなかったのではないだろうか。

 学生時代には、必ず春になると進級、進学をすることになる。節目があるのだ。

 しかし、社会人になってからは、会社を辞めたり、転勤や部署替えなどがない限り、節目というのはないものだ。

 出世したとしても、同じ仕事に対して立場が変わったり、仕事内容が変わるだけである。もちろん、大きな変化には違いないが、自分の中で感じている節目とは若干違っているのだった。

 そういう意味で、学生時代の一日一日と、社会人になってからの一日一日ではまったく違う。さらに、一か月、一年という単位でもまったく感覚が違っているのは、社会人になってからのことだった。

 学生時代は、いつもずっと長かったと思う。後から振り返っても同じであった。

「三十代になれば、あっという間だぞ」

 と言われたかと思うと、今度は十年度、

「四十過ぎたら、本当にあっという間だ」

 と言われるが、まさにその通りだった。

 同じ毎日のはずなのに、なぜこんなに違うのか分からない。毎日を別に変化もなく過ごしているように思っているのに、どうしてなのだろう?

 自分の意識の外で、余計な感情が渦巻いていたからではないだろうか。そう思っていると、今では、

「さっきのことが、昨日のことなのか、一昨日のことなのか分からないくらいだ」

 というほどになってしまっている。

 それをマンネリという一言で表してしまっていいのだろうか?

 久則は、大学を卒業するまで、関西[福岡1]に住んでいた。父親が野球が好きで、会社から、野球観戦の入場券を貰ってきたということで、家族でよく言っていた。関西の神戸寄りにすんでいたので、当時はよく今はなく、阪急西宮球場に行ったものだった。阪急電車で西宮北口駅で下車し、五分ほどで西宮球場につける。

 阪急の西宮北口駅というと、今では全国的に見ることもできないであろう珍しいものが当時はあったのだ、西宮北口駅というと、梅田と三宮を東西に結ぶ神戸線と、宝塚から今津までと結ぶ今津線とが重なっていた、

 しかも、立体交差をしているわけではなく、何と平面交差をしていたのだ。

 路面電車などでは、交差点で平面交差のところを見ることができるが、普通の鉄道では実に珍しかった。久則がちょうど高校を卒業するくらいの頃に、平面交差はなくなり、今津線を駅で分断し、今津と西宮北口、西宮北口から、宝塚と、二つの路線が存在しているかのように見えた。

 さらに、西宮球場も今は存在しない。実際に跡地に行ったわけではないが、なくなっていると聞いている。ちょうど時代が昭和から平成に変わる頃だっただろうか。阪急ブレーブスという球団が消滅したのだった。

 実はちょうど同じ年に、在阪球団の一つが姿を消した、難波を起点とした南海電鉄が所有していた南海ホークスである。

 南海がフランチャイズにしていた大阪球場もあ何度も言ったが、あれほど、都会のど真ん中にある球場も珍しい気がした。隣を南海電車の難波駅、そして、ちょっと行ったところに、大阪の高速道路が通っている。隣には大きなショッピングセンターもあったりして、どこに球場があるのか、ハッキリと分からないくらいであった。

 家から大阪球場までは、一時間くらい見ておけばいいだろうか。梅田に着いてから地下鉄で難波まで、そこから休場はすぐだった。

 ただ、難波駅というのは、いつ行っても分かりにくかった。何しろ、地下鉄が三つ、そして私鉄が、南海と近鉄(奈良線)と、これも在阪球団を主有している私鉄会社だった。

 近鉄のフランチャイズにも結構行った。当時は日本生命野球場、通称日生球場が主だった。

 実際には藤井寺球場があったのだが、あちらは、住民訴訟の問題で、ナイター照明をつけることができず、デーゲームしかできなかった。しかも、日没コールドの危険性の危険性もある。そういう意味では日生球場は、照明があってナイターができる球場だった。

 近くに大阪城が見える場所で、道を挟めば、大阪城公園になっている。この球場にも約一時間くらいかかっただろうか。こちらにも何度か行ったことがあった。

 ここももうすでになく、ショッピングセンターになっていると聞いた。大阪環状線の森ノ宮駅から行けるのだが、そういえば、日生球場に行っている頃の環状線には、大阪城公園などという駅はまだなかった頃ではなかっただろうか。

 考えてみれば、昔よく見に行った野球場で、現存しているところは、阪神甲子園球場くらいだろうか。

 残っているという意味でいけば、京都の西京極球場(わかさスタジアム)も残っているといえば残っている。阪急ブレーブスの準フランチャイズであった。

 だが、やはり一番よく出向いていったのは、西宮球場であった。家からであれば、三十分も見ておけば余裕なくらいで、今でも、西宮球場近くの光景は目を瞑れば思い出すことができる。

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