昭和から未来へ向けて

森本 晃次

第1話 バブル崩壊前夜

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。若干実際の組織とは違った形態をとっているものもありますが、フィクションということで、見てください。


 あれは久則が、大学に入る頃くらいだったろうから、今から四十年くらい前になるだろうか、時代はまだ昭和、国鉄、専売公社、電電公社などがあった頃である。つまりは、鉄道(私鉄は除く)、タバコ(塩)、電話関連事業などが、国営化されていた頃のことである。

 当時は、タバコ、塩、電信電話関係はすべてが国営だったため、民間に参入は許されなかった。

 今のように、ケイタイ電話の会社がいくつもあったりなどということはありえない時代だった。

 さらに、当時はバブルと言われていた時代。

「土地ころがし」

 などという言葉があったように、形のないもの(バブル)を架空に運営することで、お金儲けができるという時代だった。

 そのことに誰も疑念を抱く人はおらず、どんどんと事業を拡大すればするほど儲かるという単純な理屈の時代だった。

 しかも、

「銀行不敗神話」

 なるものがあり、

「銀行は絶対に潰れない」

 と言われていた。

 それが、バブルが弾けたと同時に、バタバタと倒産していく。

 それはそうであろう。事業を拡大しすぎたせいで、弾けたバブルの状態では、今まで回収できていた資金が焦げ付いてしまう。

 支払われるお金が滞ると、こちらが、支払わなければいけないところに支払いができなくなる。

 すると、生産したものを売ることで生計を立てているところは、売るものが作れなくなり、当然お金が入ってこない。

 すべてが、循環で動いている世の中で、一つが泊ると、すべてが止まるというのは当たり前のことである。

 その時初めて。社会全体が大きな自転車であることに気づくのだ。

 世の中には、

「自転車操業」

 という言葉がある。

 会員制の会社だと分かりやすいが、売り上げを上げるには、理論的にも実質的にも、

「会員数を増やす」

 ということをしなければ、ダメなのだ。

 そのためには宣伝費がかかる。さらに、宣伝や営業には人がいる。つまりは一番お金がかかる人件費が必要だ。そのために、会員を増やそうとする。そうやって、ぐるぐる回っているのが、自転車の車輪のようなもので、これが自転車操業というものである。

 ということは、すべてが同じスピードで回っていないと、すべてが止まることになる。これが自転車操業の恐ろしいところだ。

 所帯が大きければ大きいほど、本当であれば、混乱が大きい。完全に止まってしまうと、どうしようもなくなり、ヒビの入った部分から、腐っていくのだ。

 それがバブル経済の恐ろしさで、その腐敗を少しでも止めようとしても、元々、実態のないもの。何をどうすればいいのか、誰にも分からない。

 銀行が潰れるのも当たり前というものだ。

 まずは体力のない零細企業が息の根を止められる。それと同時に社会が回らなくなったことで、金銭的な流れを一気に担っている銀行にそのしわ寄せが襲ってくる。一般企業が危ないので、何とかしようと思うと、子会社はほとんどダメで、銀行も当てにならない。そうなると、気が付けば、どうしようもなくなっているということだ。

 自分が瀕死の状態にいることを理解すると、会社から見ても、個人として見ても、そこにあるのは、すべてが破壊され、原形をとどめていない世の中だった。

 まるで、アルマゲドンのような状態に、人間一人の力など、存在すらしていないようなものであった。

 そんなバブルの時代を高校、大学と過ごしてきたので、世の中というものがあまりよく分かっていなかった。普通に勉強し、学生生活を送っていれば、普通に好きな仕事につけるというだけのことだとした思っていなかった。

 しかも、大学冴え出ていれば、職に困ることはないくらいのもので、小学生の頃から、中学受験という、ちょうど小学生の頃くらいから流行り出した中学受験というのも、かなり大げさすぎるように思ってきたが、将来のことを考えれば、巻き込まれたのもよかった気がする。

 ただ、もっとも久則の場合は、勉強が好きだったピークが小学生の頃だったので、自らが中学受験をしたいと親に言ったこともあって、自分から中学受験に望んだことで、その後に訪れるであろう高校受験は免除の状態であった。

 なぜなら、入った中学が、中高一貫の私立中学だったので、留年さえしなければ、高校へは自動的に進学できるというものだった。

 その分、中学に入る時に受験をしたということだったのだ、

 当時の久則は、教科の好き嫌いがハッキリしていた。しかし、理数系が好きなのか、文科系が好きなのかと聞かれると、どちらともいえない。好きなのは寡黙であって、分類に属する学問全般ではなかった。

 例えば、数学と化学は好きだが、物理と数学は苦手であったり、歴史や地理は好きだが、英語や国語と言った学問は苦手だったりする。そのくせ、本を読むのは好きだという、趣味の世界にまで入ってくると、学問とは一線を画しているようで、実に面白く感じられるものだ。

 久則は、全般的に成長が晩生だった。思春期を迎えたのは、友達に対してかなり遅かったような気がする。中学に入ったら、そのどこかで思春期というものを迎えるというくらいの知識は当然にあった。特にまわりの友達の様子を見ていると、それもよく分かってくる。

 女生徒に対しての目が今までと違っている。相手の視線を意識するようになり、友達の間では女の子のエッチな話題に終始していたり、その中にはかなり露骨なものもあった。

 まわりから清純だと見られ、久則の目から見ても、従順にしか見えない女の子を捕まえて、

「あの子は、彼氏をとっかえひっかえ取り換えて、やりまくってるんだ」

 などと、聞きたくもない露骨なウワサが耳に飛び込んでくる。

「本人の耳にでも入ったら、どうするんだ?」

 と思ったが、たぶん入っていることだろう。

 しかし、その話題の出所がどこだか分かるはずもないのをいいことに、まるで酒の肴のようにウワサに尾ひれがついていくようだ。

 久則は訊いていて聞かないふりをしていた。本当はそれが一番卑怯ではないかと思ったが、入ってくるウワサに戸は立てられない。そんな言い訳を頭に抱いて、必死になって自分を正当化している。

 その時、ふと感じた。

「俺は、彼女のことを気にしてしまっているのではないか?」

 好きになったのかどうかは分からない。

 ただ、彼女が見知らぬ男と、抱き合っているのを想像する自分に嫌悪を感じているくせに、身体が反応しているのだった。

「どうしたんだ? この感覚は?」

 ムズムズしてくる感覚を悟られるのは怖かったが、我慢している自分に、ゾクゾクしたものを感じる。

「我慢なんか、することはないんだ。それが当たり前なんだ。我慢せずに触ってみればいい。気持ちよさを通り越したら、そこに未知の世界が広がっているさ。これは子供の俺たちが超えなければならないものなのさ」

 と、久則の様子がおかしいことに気づいた友達がそういった。

 実際に友達の言う通りだった。これで久則も思春期の入学式を済ませたも同然だったのだ。

 そのことを後になって話すと、

「あんなのまわりが見れば一発さ、こっちも我慢せずに快感を貪ろうとするんだから、お前のように我慢しているやつがいると、俺たちが困るのさ」

 と言っていたが、自分も思春期を意識した時、同じことを感じたのだった。

「確かに、同じ世界に足を踏み込んだのであれば、何も我慢することなどないのだ。我慢することが、むしろ快感に感じられるのは、思春期に足を突っ込み、そのことを自分なりに納得できた状態でないと、許されることではなかった」

 と、感じたのだった。

 ただ、まだ、足を突っ込んだだけで、スタートラインに立ってだけだった。突っ込んだ足を抜こうという意識がまったくない瞬間。それは突っ込んだ瞬間だというのは、万人が認めることだろう。

「一瞬でも足を突っ込んだのだから、まだ海のものとも山の者とも分からない状態で、足を抜こうとするのはおろかなことである」

 と、単純に考えれば分かることだった。

 これは理屈ではない。算数の世界だった。本当は公式に当て嵌めて判断するという意味では数学なのだろうが、久則は数学が嫌いだった。小学生時代の算数が好きだっただけに、最初はおかしいと思ったが、数学というのは、算数の派生型であり、算数を理論で考えた結果が数学という学問になるのだ。

 本当であれば、数学の公式を覚えたあとに、その応用編として、算数の文章題をやれば、さぞや数学にも入ってきやすくなるというものだが、というものだが、それは、ありえなかった。

 もし、数学の中に算数が入ってくれば。最初から数学を好きにならない限り、小学生の頃に好きだった算数と出会うことはない。それだけ、過去の過程を少しでも変えようとするのは危険なのだということを誰が理解しようというのだろうか?

 だが、算数があって、数学があるというのは、それなりに理由があってのことだと思う。数学が先にあれば、その後での算数というまったく逆の発想はありえない。あくまでも、数学の中に算数が入り込んでいくというパターンだ。

 では、逆に算数の中に数学というのはありなのだろうか?

 考えてみると、

「それはそれで十分にありではないか」

 と思うのだった。

 それは、数学から算数を考えた時に、ありえないことで見つけた妥協策とはまったく意味合いが違っていた。どちらかというと、妥協策を考えた時に出てきた。

「逆さまの発想というもの」

 それが、ピタリと嵌っただけのことである。

 むしろ考えなくてもいいことではないかという思いの中で、

「数学と算数の優先順位であったり、上下関係を求めることが滑稽である」

 と気付かせてくれたのかも知れない。

 考えてみれば、算数から、数学というように、小学生の勉強から、中学、高校に至って、派生形ではあるが、どこか違った学問に感じさせるものはない。国語は現代国語と古典に別れたり、理科が化学、物理、生物に別れたり、社会が塵、歴史、倫理社会に別れたりはしたが、それは、派生形というよりも、単純に、大きくなってきたので、物理的に分裂したというだけのことではないのだろうか。

 だから、

「理科が好きだった。でも、化学は好きだが、物理と生物は嫌いだ」

 ということにもなるだろう。

 理科が好きだったと言っても、そのすべてが好きだったわけではない。理科の中でも嫌いなのも小学生の頃にあった気がした。

 確かに理科と社会は好きだったくせに、テストの点数は最悪だったような気がする。

「勉強はテストのためにするんじゃないんだよな」

 と自分に言い聞かせてきた。

 それを言い訳だと思っていたが、言い訳だと一言で片づけてしまうことが言い訳の言い訳たるゆえんではないだろうか。

 そう思っていると、学校の勉強というのは、思春期と違って、いくらでも修復ができる気がした。

 思春期に思い込んだことは、結構後々まで頭の中に残っている。自分の考えの原点になってしまったりもしているのだが、融通が利かないというべきなのか、それとも考えていることが真面目過ぎるのか。

 真面目過ぎるとすれば、それは思春期を大きなものとして捉えていて、自分が全体を見渡すことのできないという理由付けに、真面目という言葉を当て嵌めているような気がしてならないのだった。

 思春期に感じるエッチな発想も、あくまでも自分が真面目に思春期を考えているということでの矛盾を、

「我慢するほど、快感が増してくる」

 という感覚で受け止めるのだから、矛盾も我慢の一つとして受け入れようと考えているのではないかと思うのだった。

 思春期を暗黒の時代だと思っているのは、そんな言い訳に塗れた時代だったからだ。逆に言うと、もっとスリリングな時代にできたのではないかという後悔が、今も燻っているからではなかったか。

 スポーツが苦手なのも、芸術に造詣がないのも、小学生の頃、その中でも十歳の頃までに自分の中で見切ってしまっていた。

 学校の体育の時間が億劫で、特に跳び箱の時間は地獄だった。

「どうして、あんなものを飛ばなければいけないんだ?」

 と真剣に思っていた。

 ただ本当に苦手なのは鉄棒のはずだった。小学校二年生の時、逆上がりをしようとして鉄棒から落っこち、そのまま口から落ちてしまったようで、前歯を二本も折ってしまった。まだ乳歯の時だったからよかったのだが、その痛さは尋常ではなく、しばらくトラウマになっていた。

 だが、三年生になってその時のことを思い出すと、鉄棒から落ちるのが当然のように分かっていたかのように思えた。それは、その後鉄棒をすることにトラウマがあるくせに、その割に怖いとは思っていないことに由来していた。

 なぜ怖くないのかというと、二年生の時に落っこちた理由が分かったからだ。

「そうだ、あの時は、、落ちるべくして落ちたんだ」

 と思ったのだ。

 そもそも鉄棒競技をしようとするのに、順手だけで、親指を反対川に回して、ストッパーとして使わなければ落っこちるのは当たり前のことである。

 そのことを三年生になるまで理解できなかったことは問題だったが、三年生までに理解できなかったことを、三年生になって急に理解できるようになったというのもおかしなことであった。

「一体、自分の感覚はどうなっているんだ?」

 と感じた。

 だが、三年生になって、

「鉄棒ではケガするべくしてケガをしたんだ」

 と思うと、鉄棒を怖いと思わない自分のことを納得できる気がした。

 逆に、怖いと思っている跳び箱では、実際に失敗したり、ケガをしたりなどしたことはなかった。

「気を付けるのに、気を付けすぎることはない」

 と思っているから、ケガをしないのだろうか。

 そういう意味では逆に、

「これくらいのことでケガなど起こるわけはないはずだったのに」

 と思うような、些細な時にケガをしていたりしたものだ。

 そんな時というのは、十分に注意をしているつもりになっているだけであって、

「こんな時にケガをする要因が存在するわけはない」

 と思った時に限って、ケガをしている。

 それを思うと、それまで感じたことがないくせに、言葉だけを意識していた、

「油断」

 というものが自分の中にあると思うようになっていた。

 それまでは、油断というのはあくまでも感覚であって、

「気を付けてさえいれば、油断などありえない」

 という思いの裏付けのように思っていた。

 だが、裏付けというのは、あくまでも、

「言葉を使うだけで、まるで自分の考えるのが億劫だとでも言いたい時の言い訳にしているだけのような気がする」

 と思うようになっていた。

 そういう意味では、小学生の頃、まるで定期的にケガをしていたのは、無数にある機会やタイミングの中で、定期的に訪れる油断に、ことごとく反応してしまったことで、ケガをしていたのであろう。

 ただ、この思いは逆にいえば、言い訳にも使えるというもので、

「定期的にケガをしている方が、たまにケガをして、そのケガが、大けがに繋がったことを思えば、定期的なケガというのは、油断からのもので、そもそも危険が隣り合わせでもなんでもない。だから、ケガと言っても大げさなことになることはない」

 と思うようになっていた。

 そんな小学生の頃だったので、跳び箱の記憶だけがその後の自分に残り、ケガをすることはないと思いながらも、スポーツ全般に、

「怖いものだ」

 というトラウマを残すようになった。

 だから、自分からスポーツをすることはなかったのであり、恐怖というものを言い訳にしているというところまでは理解していた。

 一方、芸術に関してであるが。小学校の頃というのは、その目覚めに近いことを押しててはいる。一番積極的なのは、音楽ではないかと思う。

 これは、久則の私見であるが、芸術の中で、絵画、彫刻などの作品や、文芸関係に比べて、音楽の授業はだいぶ熱心な気がしていた。

 音楽の授業というといくつか種類があったような気がした。まずは、合唱を行ったり、今はリコーダーと言っているのか、当時の縦笛、そしてハーモニカ、カスタネットなどといった楽器を奏でることも授業の中で積極的に行っていた。

 一年に一度、父系を招いての、音楽会なども催されて、皆それぞれに楽器の担当を担い、少年少女でオーケストラを俄かに組んでいたのだ。

 そのために必要なのは、楽器を演奏する技術と、もう一つ大切なのは、楽譜を読める力であった。オーケストラなどは、楽譜を読んで演奏しながら、コンダクターの指示によって、演奏を行う。それが基本だった。

 しかし、久則は三年生の時点で、すでに楽譜が分からなくなり、落ちこぼれて行った。その頃から音楽に対して興味を失っていた。

 それでも、楽器を演奏するという以外の音楽の授業おあったので、その時は結構好きな時間であった。それは、有名作曲家の作曲した音楽を聴くという、音楽鑑賞の時間であった。

 その時間だけは、同じ音楽の時間であっても、別の授業を受けている気がしていた。趣味として音楽を奏でることに対しては、早々に挫折したが、音楽鑑賞に関しては、大人になってからでも、レコード、CDを聴くということで、楽しい時間となっていたのであった。

 他の芸術の時間として、図工の時間があった。

 この時間は、絵を描いたり、彫刻などの工作を行ったりと、

「芸術的な作品を生み出す」

 という意味では、実は一番、芸術を賄う時間としては好きな時間であった。

 ただ、絵画に関しては、まったくできない時間であった。

 しかし、工作に関しては好きだった。特に木工細工などは結構好きで、当時の小学生時代の土曜日というのは、休みではなく、午前中だけ授業が行われるという、いわゆる、

「半ドン」

 という時間であった。

 給食が出るわけではなく、四時限目の授業が終わると、そのまま下校ということになる。

 小学生の頃というと、すぐに空腹になる頃であって、急いで帰ってから、家出昼食を食べることになる。

 高学年くらいになると、自分で勝手に何かを作って食べるということも多かった。

 母親が買いも二から帰っていないということもあり、下ごしらえをして、用意しておいてくれた食材を使っての調理はそれなりに楽しかった。

 一番好きだったのは、タコ焼き機を用意してもらっていて、下ごしらえの小麦粉と卵などを混ぜた銀のボウルに入った粉と、切っておいてくれた食材であるタコや、天カスのような材料を使ってのたこ焼きづくりは、土曜日の昼食の恒例となっていた。

「よく飽きないね」

 と言われていたが、飽きることはなかった。

 これが、自分の性格だとずっと自覚していたことが、後述に出てくるのだった。

 たこ焼きを食べた後には休憩をして、その後に、庭になったところで、木工細工をすることにしていた。家にあった大工道具、釘やハンマー、のこぎりなどを使って、スーパーの奥にあった木材のコーナーで木の板を買ってきて、木工細工を楽しんでいた。

 基本的にうまく完成させることができた記憶はあまりないのだが、久則にとって、これが人生最初の、

「趣味の時間」

 だと言えるのかも知れない。

 木工細工は結構難しかった。本当であれば、設計図のようなものを作り、長さもしっかりと図って綺麗に切り口も揃えなければうまくいくはずもないということが分かっているくせに、設計図を作ることはしなかった。

 それは今でこそ思い返しても不思議に思うのだが、設計図を書かなかったのは、敢えてのことであった。

 設計図を書いて細かく計画を立てて、行うということを、どうやら毛嫌いしていたところがあった。

 あくまでも、感性でできることを目指していたような気がする、それは、他の一般的なやり方に対しての違いを自分で絞めそうという、自己顕示欲の表れのようなものだったのではないかと思うのだ。だから、基本的にうまくいく方が難しいというものであったが、それでも、趣味の時間を持てたことが、久則にとって、嬉しかったことは間違いない。

 さらに文芸の時間ともなると、今度は作文であったり、読解力というべきか、読書力であった。どうしても、文章ではセリフばかりを先に読んでしまうくせがあったのだが、それが、テレビによる影響であることを、子供の頃には意識していなかった。

 現在のように、ネットでの情報提供などまったく存在しなかった時代である。やっと、テレビが全盛期を迎えた頃だった。何しろ、その十年くらい前までは、カラーテレビがない家が多かったくらいだ。

 昔の部落と呼ばれるような貧困地区には、テレビのない家庭も結構あり、ニュース映像が生中継でゲリラ映像として映された時などは、テレビを持っている人の家に集まって、皆が見ていたものだ。

 まだ子供だった自分たちには、

「好きな番組がなくなって、しかも面白くもない、まったく進展しないテレ部放送を見て、何が面白いんだ」

 としか思っていなかった。

 映像というのは、楽しくなければ見ている価値がないと思っていただけに、自分がどれだけ映像作品に依存していたのかということを、その時に思い知らされたのだろうが、その理屈が子供では分からない。

 だからこそ、自分でも分からないうちに、本やテストでの文章を読む時は、どうしても端折って読むのだった。

 それは、結果を早く見たいという思いがあるからではないだろうか。結果を見るということは、それだけ映像のように視覚に訴えることでしか、情報を得ることができなくなっていたということであろうか。

 そういう人間が急激に増えてきたのか、学校でも、

「活字をどんどん読むようにしてください」

 と言われていた。

 それは自分たちが子供の時代にしか経験のできない小学生の時代だから、その一点でしか見えていないが、自分たちよりも前の世代、後の世代とでは、どんな言われ方をしているのかが分からない。

 ひょっとすると、ずっと同じように、活字を読めと言われていたのかも知れないが、むしろ、他の時代に関しては、あまり意識をしていることはなかった。

 そんな文芸に対しても、久則はまったく興味を示していなかったと言えるであろう。

 だが、大人になるにつれて、

「どれでもいいから、芸術に携わっておけば、よかったな」

 と感じるのだった。

 中学に入ってから、何となくであるが将来のことを考えていると、それはまず自分の好きな教科から、考えるようになった。

 まず最初に考えたのは、学校の教師で、それも、社会科の先生だった。

 歴史であったり、地理を教えることができればいいと思うようになっていったが、それとはまったく違った発想として思うようになったのは、

「薬学への道」

 であった。

 生物、物理は苦手だったが、化学は好きだった。たぶん、物理が嫌いだったのは、数学という学問を受け入れることができなかった自分の責任ではないかと思うようになっていた。

 物理というと、、どうしても数学の知識が必要で、昔の偉人が発見した理論を数学的に証明したのが物理学だった。だが、薬学は、確かに数学の知識が必要であるが、基本は化学で、数学というのは、基本的なことさえ分かっていればよかったような気がした。

 歴史が好きなことも手伝ったかも知れない。薬品の多くは、医薬に使っていながら、同じ薬品を、爆弾のような兵器としても使用している。それは歴史が好きな久則にとってもってこいというものであった。

 近代史が好きな久則は、近代戦争の時代に造詣が深く、政治的な面、さらに兵器開発などと言ったことにも興味を持っていた。世界大戦など、そういう意味では、総力戦であり、大量破壊兵器、殺戮兵器のオンパレードであった、

 いろいろな社会的にも信頼を得ている科学者たちが、祖国のためというか、半強制的というか、開発に携わることになる時代。人間の精神がそれほど病んでいたということなのか、それとも、時代が精神を狂わせたのか、常軌を逸したかのような兵器がどんどん開発される。

 科学者の中には、人類を飢餓の恐怖から救った面を持ちながら、大量殺りく兵器を開発するという正反対のことを行った人もいる。それほどの罪悪感があったのかは分からないが、その精神的な感情が一体どこから来て、どのようになるのかということを、誰が知り得るというのだろうか。

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