ソナタワルトシュタイン
増田朋美
ソナタワルトシュタイン
その日は梅雨空らしく曇ってなんだか蒸し暑いなあという感じの日であった。いつもどおり、水穂さんがベートーベンのソナタワルトシュタインの練習をしていたところ、玄関先から声がした。
「すみません、あの、今日利用を申し込んだ、牧野由香と申しますが。」
「はい、お待ちしていましたよ。」
応接室にいたジョチさんは、玄関先に行ってそういった。玄関先には、一人の女性がいたが、その隣にはまだあどけない感じが残る小さな男の子が立っていた。
「息子さんが、いたんですか?」
ジョチさんが聞くと、
「はい、そうです。牧野夢路といいます。」
と、由香さんは、彼を紹介した。ジョチさんはとりあえず暑いから中へ入ってくれといい、牧野夢路くんと、牧野由香さんを部屋の中にいれた。
「確か、利用を申し込んだのは牧野由香さんで、夢路くんという息子さんがいるとは、書いてありませんでしたけどね。まさか、夢路くんだけを預かれというわけではないでしょうね?」
ジョチさんは確認の為にそれを言ってみたが、由香さんは
「実はそうなんです。今日、親戚で葬儀がありますので、夢路を預かってほしいのです。」
といった。ジョチさんは良くも騙したなという気にはなれず、
「保育園とか、そう云う場所には頼めなかったのですか?」
と聞いた。
「それが最適なのはわかりますが、保育園で問題を起こしてしまって、退園を申し付けられたばかりなんです。しばらくは私がそばにいましたが、今日だけでいいですから、預かっていただけないでしょうか。私の立場もありますので。」
「問題とはどんなことをしでかしたのですかね?」
由香さんにジョチさんは聞いた。
「はい、保育園の先生とも一言も口を利かないんだそうです。保育園で扱う音楽にも関心を示さないので、それで退園ということに。」
由香さんは、恥ずかしそうにいった。そうなると、発達障害とか、自閉症のようなところもあるのかも知れないとジョチさんは思った。
「児童精神科とか、そのような場所にはかかっていますか?」
ジョチさんは、もう一度きく。
「ええ、まだこれからなんですが、やっぱり行った方が良いでしょうか?」
「そうですね。これから思春期に疲れてしまわないためにも、早めに行ったほうが良いと思います。もしかしたら、特別支援学校などに通う必要もあるかもしれません。」
由香さんは、それを聞いて更に困った顔をした。
「今日はどうしても行かなくちゃならないのですけど、預かってはくださいませんか?」
「ええ、まあ、できないことはないですが。」
ジョチさんは、ちょっとため息をついた。
「ただ、条件があります。この案件が終了したら、必ず児童精神科などで見てもらってください。そうしないと、あなたはネグレクトということになってしまいますよ。」
「分かりました。やります。」
由香さんはいやいやそうに言った。
「でも、今日は預かってください。」
「利用申請のときは、息子さんがいらっしゃるとは書いていなかったので、こちらとしましても戸惑いましたが、事情があるなら仕方ないですね。それなら条件付きで預かりますよ。必ず、見てもらってきてくださいね。」
ジョチさんがそういうと、由香さんは、晴れやかな顔になり、
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
といって、そそくさと製鉄所を出ていってしまった。あとは、その小さな男の子である夢路くんが残ったが、夢路くんは、一人で子供向きの本を読んでいるだけであった。
とりあえずジョチさんは、夢路くんに応接室をでて、食堂へ出るように言った。夢路くんは、返事はしなかったが、ジョチさんにちゃんとついてきた。
「おう、誰だこいつ。今日は新しい利用者が来ると言っていたけど?」
食堂へ行くと、杉ちゃんが言った。
「ええ、新しい利用者は、彼のことだそうです。名前は牧野夢路くんです。」
とジョチさんがいうと、
「こんな小さな利用者か。まあいい。それより、もうすぐお昼だし、カレーを作ってやる。」
と言って杉ちゃんは、にんじんや玉ねぎを切り始めた。その間も夢路くんは本を読むだけであった。
と、四畳半から、ソナタワルトシュタインが聞こえてきた。間違いなく水穂さんが弾いているのだが、夢路くんは、本なんか読むのはやめて、音のする方へ行ってしまった。ドアを叩くこともなく、ピアノの隣にやってきて、ちょこんと座ってワルトシュタインを聞いていた。
水穂さんが第1楽章を弾き終わると、夢路くんは小さな手を叩いて拍手をした。
「どうもありがとうございます。」
と、水穂さんが言うと、
「ベートーベンのソナタワルトシュタイン。」
と、夢路くんは小さな声で言った。
「ああ、基本的に喋れるんですね。お母様は、保育園では誰とも口をきこうとしないと仰っておりましたが。それでは、喋れないのではなくて、あえて喋らなかったんですね。」
と、ジョチさんが言うと、
「だって、みんな僕が喋ると変なやつだと言って笑うから。」
と、夢路くんは言った。
「それは具体的にどんな状況で笑われるのですか?なにか、笑われてしまう様な失態をしたのでしょうか?」
ジョチさんが聞くと、
「わかんないけど、みんな笑うの。きっと面白いというか変なんだろうね。僕のこと。」
と、夢路くんは答える。
「それでは、もう一つお伺いしますが、なぜあなたは、先程の演奏を聞いて、すぐにベートーベンのソナタワルトシュタインだとわかったのですか?小さな子どもさんが聞くような音楽では無いでしょう?」
ジョチさんがもう一度聞いた。ジョチさんの言い方は、老紳士みたいな言い方なので、ちょっと子供さんには通じにくいのではないかと思われるのであるが、夢路くんは、通訳無しで、その言葉を理解したようである。
「うん。パパが弾いてたの。」
「お父様が、弾いていたんですか?」
「うん。パパは、そういう音楽が好きで、よく弾いていたんだよ。他にも、月光とか、熱情とかそういうのもやってたの。」
夢路くんはそれを当然のように言った。月光や熱情を知っているのも、子供らしくなかった。
「お父様は何をされていたんでしょう?ただの会社員でしょうか?それにしては随分高尚な趣味を持っていらっしゃる会社員ですね。」
ジョチさんがまた聞くと、
「ううん、大学で教えてたの。」
と、夢路くんは言った。
「何処の大学ですか?」
ジョチさんはそうきくと、
「静岡大学。」
夢路くんは嬉しそうに答える。
「ああ、このあたりでは有名な大学ですね。お父様はそこで教えていらっしゃったんですね。それでお母様もなにか音楽やっていらしたんですか?」
ジョチさんが聞くと、
「ううん。ママは、何もしてなかったよ。ただスーパーマーケットで働いていただけで。今は、クラブで働いているけどね。」
夢路くんは答えた。
「クラブってあの、いわゆるお酒を飲むクラブですか?」
ジョチさんが聞くと、夢路くんはそうだよと答えた。
「じゃあ、お父様とお母様は、一緒に今でも暮らしているわけですか?それはまた面白いご夫婦ですね。」
「違うよ。」
夢路くんは言った。
「去年の夏にさようならしたの。ママがよく言ってた。パパはピアノを弾きすぎて、僕やママの事を考えてくれないから、もう一緒にいなくたっていいんだって。」
「でも、本当は、そう思いたくないんですよね。」
と、水穂さんが夢路くんにいった。夢路くんは図星だったらしく小さくなった。
「いえ、いいんですよ。そう思ってはいけないとか、その様な法律は何処にもありません。あなたは、本当はお父様とお別れしたくなかったのではないですか?でも小さな子どもさんだったから、何も言えなかったのでしょう。でも、本当はお父様がいてくれなくて、えらく寂しいのでは無いでしょうか?」
ジョチさんがそう言うと、夢路くんは小さな声でハイと答えるのである。
「僕はパパの弾いてくれるワルトシュタインが好きだったから、、、。でもママは、あんな音楽聞かせても、何のためにもならないって、怒ってて。あれ、僕のせいなんだよね。ママはよく、あんな音楽聞かせても何も教育にはならないって言ってたから。僕がいたから、パパは家を出ていったんだ。」
「いえ、それは違います。あなたのせいではありません。それはお母様のわがままというか、お父様のことを理解できなかっただけのことです。」
ジョチさんは夢路くんに言った。
「保育園では、お父さんのことで周りの園児さんにバカにされたりしていたんですか?」
水穂さんがそうきくと、
「ううん。先生に笑われた。みんなと同じことができない子は、いくらお父さんが偉くてもだめな子だって叱られた。」
と夢路くんは答えた。
「それでは、もう少し高尚な保育園に入ることはできなかったのでしょうか?例えば私立の保育園に入れてもらうとか。」
ジョチさんがそうきくと、
「でも、公立でないと入れさせて貰えなかった。」
夢路くんは小さな声で言った。
「まあ、仕方ないことなのかもしれませんが、そういう経済的なことで曲がってしまうことは、よくあることなんですよね。まあまだ五歳でそういう事に気がつくことができてよかったのかもしれませんが。そういうことなら、アドバイスさせて頂きますが、お母様からいくらお父様の嫌味を言われたとしても、ああこれはただ、お母様がわがままを言っている、僕は何も知らないよ位の気持ちで無視をしてしまってください。もし、やりたいことが見つかったのであれば、お母様に、必ずやりたいんだと主張してください。それが、精神疾患などの予防になるんです。」
「でも、僕一人ぼっち。」
ジョチさんがそう言うと、夢路くんは小さな声で言った。
「保育園でも、あの子には近づくなって言われて、誰もよってこないんだ。みんな僕の言葉遣いとか、そういうことで笑うし。だから、もう保育園は行きたくないよ。」
「でも、お母様が働いている以上、家の中に一人でいるということ言うこともできません。だから、何処かの施設に通う必要はあると思います。ただ、地元の公立の保育園では、保育料が安いとかそういうことで、あなたと同じ様な音楽を好む人は、得られないと思いますね。」
「そうですね。一人ぼっちで一日中過ごすのも、つらいですよね。」
ジョチさんがそう言うと水穂さんが話を続けた。
「非常に難しいところですが、、、。」
とジョチさんが言いかけると、
「おーい、カレーができたよ!」
と、杉ちゃんの声がした。そこでジョチさんは、お昼にしますかといった。三人は、カレーをたべるために、食堂に行った。テーブルの上には、カレーのお皿が乗っている。椅子に座って、杉ちゃんにスプーンを渡された夢路くんは、すぐにむしゃむしゃと食べ始めた。そういうところは、やはり子供であるのかもしれなかった。そういう一面もあるからこそ、保育園で馬鹿にされるのかもしれなかった。更にはおかわりまでせがんで、一緒にいたジョチさんがすごい食欲ですねと言っても、平気だった。
「食べ終わったら、たまの散歩に行くけど、一緒に行きます?」
水穂さんがそう言うと、
「行く!」
と夢路くんは、カレーを頬張ってそういった。ジョチさんは、来客応対のため製鉄所に残り、杉ちゃんと水穂さんの三人で、バラ公園にたまの散歩にでかけた。たまは後ろ足が悪いので、小さな子どもさんを引っ張ることもなく、ちゃんと散歩させてくれた。時々振り向いて、三人の人間の様子を確認することもある。
それにしても今日は暑い日だったので、三人とも喉が渇いてしまい、バラ公園のカフェに行くことにした。カフェに行くとマスターが、中でカーヌーンの教室をしているがそれでも良ければお入りなさいといった。杉ちゃんたちが中に入ると、聞こえてきたのは、やっぱりカーヌーンと呼ばれることのような三角形の楽器の音であった。その音が止まって、
「あら杉ちゃん。水穂さんも具合が今日はいいの?いい天気だから、散歩日和と言いたいけれど、熱中症には気をつけてちょうだいよ。」
という言葉が聞こえてきた。誰かと思ったら、中村櫻子さんだった。頭にスカーフを巻いているから分かりにくかったけど、たしかに櫻子さんだった。
「ああ、ここでカーヌーンのレッスンやってるんだね。着物着て、スカーフ巻いて活動する女性なんて、なかなかいないと思うけど、それでは、よく似合ってるよ。」
杉ちゃんが彼女にいうと、
「ええ。だって、一応、イスラムの教えをしっかり守ってますからね。まあ私はシーア派ですけど。」
と、櫻子は言った。
「そうなんですね。どうしてこのカフェでレッスンしようと思ったんですか?出張稽古ですか?ピアノのレッスンでもそういう事はありますけど。」
と水穂さんがそう言うと、
「ええ、良い言い方をすればそういう事になりますわ。ですが、カーヌーンはどうしても中東の楽器と言うことで、偏見をもたれやすくなりますので。」
と、櫻子は言った。夢路くんはそのカーヌーンを興味深そうに見ている。櫻子がカーヌーンを教えていた生徒さんは、夢路くんよりも2歳か3歳ほど年上の女の子であった。彼女は、夢路くんが興味深そうに楽器を眺めているのを見て、そっとカーヌーンを差し出してくれた。
「彼女は、西村実花ちゃん。去年の夏からここに来ているの。なんでも学校にいけなくなってしまったようで。普段は家庭教師の先生と一緒に勉強しているんですって。まあ今は全部の子が、小学校に行けるかというと、そういうことでも無いし。学校に行ければ幸せかということでも無いですしね。家庭教師の先生もいい人みたいだし。それなら、ここで、息抜きしてもらってもいいと思ってね。」
と、櫻子は彼女を夢路くんたちに紹介した。
「西村実花です。よろしくお願いします。」
実花さんは、にこやかに言った。
「もし、僕がピアノを習ったら、一緒に合奏できますか?」
夢路くんは実花さんに言った。
「ええ、できますよ。と言っても、ピアノとカーヌーンでは、前例がなかなかないと思うけど。」
櫻子が言うと、
「前例が無いからやってみるということもできるさ。いいじゃないか。ぜひ、ピアノを習って、実花ちゃんと一緒に楽しくアンサンブルさせてもらえ。」
と、杉ちゃんがにこやかに言った。
「ここにいたんですか。夢路くん、お母様が迎えに来ましたよ。」
不意にカフェの入口からジョチさんと、お母さんである、牧野由香さんが入ってきた。
「ごめんね。今日は早く終わったから、帰ってきたわ。すぐに帰りましょう。」
由香さんはそういったのであるが、夢路くんが櫻子と一緒にいたのを見てちょっと嫌な顔をした。夢路くんもその母の顔を見て、やっぱりピアノをやりたいと言うのは、言い出せないようだ。
「ここの理事長さんから、あんたが喋れるようになったと聞いたわ。それでは新しい保育園を探すから、早く家に帰って、面接の支度をしましょう。」
「ちょっと待ってください。」
不意に水穂さんが、由香さんに言った。
「その前に彼のことを考えてあげてください。彼には、お友達が必要なのです。今ここで実花ちゃんとやっと話をすることができたんです。もう少しだけ待ってくれませんか。」
「お友だち?」
由香さんはすぐに言った。
「そんなの新しい保育園に入れてしまえばすぐできるわ。」
「いえ、そんな事はありません。本人から聞きましたが、言葉を真似されたり、先生からバカにされたりしているそうです。それを新しい保育園で繰り返させないためにも、彼にはお友達が必要だと思います。新しい保育園もきっと経済的なことで、高尚な保育園には預けられないとは思うんですけど、でもそれでは、夢路くんが、孤独で苦しむことになります。そうさせないためには、保育園の外でお友達が必要です。今、ここで実花ちゃんと一緒に、ピアノとカーヌーンでアンサンブルしたいとやっと前向きな話をしてくれました。それを、大人がもみ消してしまうのは、やってはいけないと思います。」
水穂さんは、夢路くんの肩にそっと触れながらそういったのであった。
「すぐに新しい保育園に行きたいとは思いますが、少し待ってくれませんか。」
「そうなのね。」
と、由香さんは、小さい声で言った。
「どうして、あの人にいつも私が負けてしまうのでしょう。誰だって、あの人に従えという。私の意見が通ったことは一度もない。偉い人を旦那さんにもてて嬉しいねと言って、私の寂しさをわかってくれた人は何処にもいないわ。だから私は、あの人と別れた。でもなんで、あの人はこうして私につきまとってくるのかしら。なんで私は、あの人の束縛から逃げられないんだろう、、、。」
「勝つとか負けるとか、そういう事は、考え無い方がいいよ。お前さんのした失敗は、別れたお父様と、自分が対等でいようとしていることだったんじゃないかな。そうではなくて、お前さんが、別れたお父様から学ぶんだという姿勢になっていれば、うまく言ったと思うけどねえ。」
と、杉ちゃんが彼女に言った。
「そうなんでしょうか。学ぼうと言っても、あの人は何も教えてくれないでただ、他の女の子たちとピアノのレッスンばっかりやってて。だから私は、夢路にも有害だって思ったんです。それが、間違いというのですか?」
由香さんはちょっと困った顔で言った。
「ああ、その勘違いがいけなかったんだよ。夢路くんは、お父様を本当に尊敬しているみたいだし、何よりも、お父様が弾いていたワルトシュタインをちゃんと覚えているぞ。」
と、杉ちゃんが言った。
「でも、二度と帰ってこないでと、私はあの人に言ってしまったし。もう取り返しがつかないわ。これからも私は、一人で行きていくつもりだったのに。」
由香さんがそう言うと、
「覆水盆に返らずですが、夢路くんはきっと、お友達が得られたら、もう少し強い少年になるのではないかと思います。それは、男である僕たちにもわかります。」
とジョチさんはにこやかに言った。
「ふたりともとても楽しそうじゃないですか。それを大人が奪ってどうするんです。大事なことですが、夢路くんはあなたの所有物ではありません。それを考えて、お友達を作らせてあげてください。ほら、見てくださいよ。」
大人たちが、それを見ると、夢路くんは実花ちゃんからカーヌーンの説明を一生懸命聞いているのだった。
ソナタワルトシュタイン 増田朋美 @masubuchi4996
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