Chapter 9
翌朝、いつも通りに目が覚める。カーテンを開けると、まだ青みがかった空には雲一つなかった。なぜだか、無性に気持ちが浮き立つような感じがした。衝動に突き動かされるように、ランニングウェアに着替えて、外へ出る。
体を撫ぜる、十月終わりの良く冷えた風が、今はなぜだか心地良く感じた。今日しかない、そんな気がする。海浜公園へ向かう足は、自然と早くなっていた。
水平線の向こうが、薄桃色に染まっている。
グラスをかけて、ランニング用のアプリを起動すると、レンダリングされた私のデータがARとして目の前に現れ、待機モーションを取った。用意された幾つかのパターンを再生しているだけなのに、入念に準備運動を行うその姿に、つくしちゃんの影を見てしまう。
この五〇日間、毎朝背中を追い続けてきた、彼女の記録。つくしちゃんは、いつまでも眺めておくために、これを残してくれた訳じゃない。冗談半分、悪戯半分だとしても、自分の記録を超えることを目指せと、彼女は私に言った。その言葉にちゃんと向き合うことが、きっと、今の私のスタートラインだ。
応える声などないと知りながら、私は呟く。
「今日は、負けないからね」
当然、返事はなかった。彼女はもう、ここにはいない。
設定した開始地点で構えたのを察知して、ゴーストが私の隣に並んだ。ゆっくりと深呼吸をしたあとで、軽く地を蹴って、私は駆け出した。同時にゴーストも走り出す。
足が軽い。人生で一番上手く走れている気がする。風を切って、前へ。景色は前から後ろへ、ぐんぐん流れていく。体は拡張現実とぴったり重なって、時折ダブって見えた。
つくしちゃんに勇気づけられたこと、貰ったものは数知れない。
彼女がいなければ、私は義足に変える決心がつかず、今もまだ車椅子に乗り続けていたかも知れない。或いは、彼女の励ましがなければ、未だにだらだらと病院でリハビリを続けていたかも知れない。
公園の中、ランニングコースを走る。地面を蹴る度、適度な反発が爪先に返り、金属の足を通じて、振動が太腿に伝わって来た。走っている。そう実感する。こうして今、私が走ることができるのは、つくしちゃんのお陰だ。間違いなく、彼女がいなければ最初の一歩は踏み出せなかった。
記憶の残滓は、そこかしこにこびりついている。数え切れないほど多くのものを、彼女は私の中に遺していった。この痛みだって、その一つだ。
時間を経る毎に、少しずつ痛みを失っていくこの胸が、私は怖かった。でも今は、少し違う。
彼女から貰ったものが、全てなくなるなんてことはない。それと同じように、いつか風化して、薄れてゆくのだとしても、この気持ちはきっと、消えはしない。だから、それら全部を、私はちゃんと受け止めて生きたい。喪失を抱えて生きてゆくのだと、私は決めた。
だからそのためにも、まずは今この瞬間を、走り抜けたい。
間もなく、海辺の遊歩道へ抜ける。抜けた。視界が一気に広がって、乱反射する朝日に目を細める。右に折れ、波打ち際に沿って、道を駆け抜けていく。
ペースは快調。過去の記録は、変わらず私にぴったりと重なっていた。いつもなら距離が開き始める頃合いだけど、今日に限ってその気配もなかった。
結局のところ、気持ちの問題だったんだろうと、私は思う。このままつくしちゃんの記録を残しておけば、いつまでも彼女と走り続けられるような気がしていた。けれど、やっぱり、彼女はもうここにはいない。
多分、体の準備はずっとできていた。彼女の不在を認めることが、最後のピースだった。分かってる。ここにあるのは、ただの
耳朶を打つ拍動が、BPMを上げていく。体が熱を持ち始めた。でも、まだ大丈夫。
呼吸が荒くなる。空気が上手く取り込めず、脇腹が痛み始めた。まだ行ける。
間もなく、海辺の遊歩道が終わる。公園に入れば、ラストスパートだ。
遊歩道から外れ、私は再び公園に入った。走りやすい感触が戻って来る。
人のまばらな公園に、スタート地点が遠くに見える。出発したときには、黎明の中で輝いていた外灯も消えていた。ここまで来れば、ゴールまであと僅か。気を緩めかけたそのとき、白いものが視界を覆った。
次の瞬間、視界の前に白い背中が躍り出た。一定を保っていた相手のペースが上がり、急速に差が開き始める。
当分超えられない記録って、そういうことか。彼女の得意げな顔が、目に浮かぶようだった。彼女は最後の最後で、なりふり構わず全力で駆けたんだろう。ここまで並走して、その言葉の意味がようやく分かった。まさか、最後の最後にこんなズルを仕込んでいたなんて。
超えさせる気なんて、最初からないじゃん、と私は心中で悪態をつく。でも、あなたは確かにそういう子だった。
もう二度と、話すことは叶わないと思っていた。けれどどうだ。彼女の場合、残したものですら雄弁に語る。事ここに至っても、つくしちゃんは負けず嫌いだった。
そっちがその気なら、と私は一際強く地面を蹴り込んだ。
それは人生で、或いは彼女との、最初の――そして最後の、全力の駆け比べだった。
この一瞬、保てば良い。後先考えない相手に勝つなら、同じ土俵に降りなきゃ無理だ。
自覚しかける限界をシャットアウト。滲んだ視界が熱を持つ。脳は火花を散らし、思考すら不明瞭に溶けていく。放たれるただ一つの命令が全身に伝わり、それを正確に読み取る義足が、更にスピードを上げて駆け続ける。
揺れる体と、風を切る音だけが、航続可能を伝達する。
今目指す先が、正しい方向なのかは確信が持てないけれど。何となく自分が正しいと思える方を信じて走ることも、少しは大事なのかも知れない。
思考が戻る。ホワイトアウトした視界に、色彩が宿る。ゴールは目前だった。
行く手を阻むものは、もう何もない。ストライドは広く。少しでも距離を稼いで前へ進む。
いずれ風化する思い出の中に、私はあなたを置いていく。いつの日か終わりが来たときに、再び巡り合うこともあるかも知れない。そしたらどうかもう一度、仲良くして欲しい。身勝手だけど、おあいこだ。置いていったのはそっちが先だし、いつも、最期まで身勝手だったんだから。
グラスの表示が、僅かな記録の更新を通知する。
気がつけば、一緒に走った時間よりも、一人で走った時間の方が長くなっていた。私が走るのをやめない限り、タイムラインは未来へ向けて限りなく伸び続ける。それを悲しいことだと思うのは、もうやめにしよう。
さようなら、私のゴースト。あなたから貰ったこの足で、私はきっと、歩いてゆける。
フラットランナー ミツヤヌス @Mitsujanus
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