Chapter 8

 賑やかな声が、壁に木霊しながらコンクリートの階段を上がっていく。

 私はそれを、後ろから見送っていた。

 サークルの新歓がひとまずお開きになって、二次会へ向かう最中だった。こういう場合、いつもは大抵、仲の良い誰かが気遣ってくれるのだけど、既にサークルメンバーの大半がほろ酔いで、へべれけになった人もちらほら、といった有様だったから仕方がない。急な階段は、どう考えても車椅子では登れなかった。しかし、盛り上がっているところに水を差すのも申し訳なく思えたし、何よりなんだか気が進まなかった。

 ほとぼりを冷ますように、息をつく。

 階段の両脇にそびえる、高いコンクリート塀の上からは、迫り出すようにまばらな桜が咲いて、降り注ぐ街灯の光が白く散乱していた。夜はまだ少し冷える。リュックからブランケットを取り出して、膝にかける。

 少しずつ、反響する声が遠ざかっていく。

 別に、自分を不幸だとは思わない。どうして上手く歩けない体に生まれたんだろうと考えることもあったけれど、むしろ恵まれているんだと、今は思う。学部の友達もサークルの仲間も、変に私を丁重に扱うことなく、対等な友人として接してくれている。その温度感は心地良く、お陰で去年は楽しい一年を過ごせた。疎外感を抱くことも、ほとんどなかった。

 今日の場合は、まあ仕方ない。ああも泥酔した状態で、他人に気を回してくれというのは酷だろう。まして、今日は沢山の新入生が参加していたし、その相手で手一杯になっているはずだ。彼らを責めるのは、お門違いだ。

 かと言って、社会に全ての責任を引っ被せるのも、何か違う。この階段さえなければな、と思わなくはないけれど、これだって、多くの人にとっては役立つものなはずだ。

 個々の主観が寄り集まって、それらが妥当だと思える共通理解が、一般的な世界観を構築し、現実はそれに寄り添って形作られていくものだ、と私は思う。この階段だって、そうやって作られたはずだ。でも多分、切り捨てられた世界観をいつまでも見放しておくほど、世界は冷たくない。コスト、資材、想像力。きっと、そういうものにもっと余裕ができたなら、多数派とは言えない世界観にも、現実は近づいて来てくれるだろう。そのことに関して、私は結構楽観的だった。

 けれど、前向きなだけで、今目の前にある階段が消えてくれる訳じゃない。まずは、迂回路を探してみよう。そう考えたときだった。

 軽快な足音が降りてきて、私の前で立ち止まる。顔を上げると、女の子の背中があった。こちらに差し伸べられるように広げられた手が、くいくいと手招きをする。

「先輩、乗って」

 ショートカットを揺らして、彼女は後ろを振り向いた。

「危なくない?」

「大丈夫! あんま酔ってないし、鍛えてるんで」

 あんまりにも力強い受け答えに押されるように、私はおずおずとその背に体を預けた。軽々と体が持ち上がる。じゃあ行きますよ、と彼女は階段を登り始めた。ずり落ちないよう、しっかりと肩を掴む。

 その顔には、見覚えがあった。一次会では色んな子が自己紹介してくれたけど、その中でも彼女は、一際鮮烈な印象を私に残していた。

 順番が回って来て、彼女が立ち上がったとき、その出で立ちが、丈の短いデニムからすらりと伸びた二本の足が、私の目を惹きつけて離さなかった。艷やかな光沢を帯びた、洗練されたフォルムの機械の足。臆する風もなく、むしろその美しさを誇示するように、堂々と立ち上がり話す姿は、脳裏に強く焼きついて、彼女が座ったあとも消えることはなかった。

「先輩軽いですね、ちゃんと食べてます?」

「食べてるよ」

 からかうような口振りは、馴れ馴れしさより、人懐こさを感じさせた。あけすけな口調に乗せられて、私は彼女を見て以来、ずっと胸に秘めていたことを口にした。

「その義足、良いね」

「良いっしょ。私も足悪かったんですけど、高二くらいかな、義足にして。先輩変えないんですか」

 気遣う素振りのない、率直な返しが心地良い。

「色々、怖くて。怖くなかった?」

「まあ、分かりますけど。楽しいですよ、今は」

「確かに、楽しそうだね」

「でしょ」

 見えないけど、人の良い笑顔を浮かべているだろうことは、なんとなく分かった。

 実際、彼女は凄く楽しそうだった。こういう風に生きられるなら、どんなにか良いだろうと、少し思う。こういう子と、歩いたり、走ったりできたなら、それはきっと。

「あ、そうだ。名前」

「美緒先輩ですよね。知ってますよ、見てたから。私は、」

「標子ちゃん、だよね。知ってるよ、私も見てたから」

 桜の花が散りかけて、緑の葉に変わる頃、そうして、私達は出会った。

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