Chapter 7
今日の朝も、いつも通りに目が覚めた。早朝のランニングもまた、いつも通り。途中までゴーストに追い縋るも、最終的には引き離された。タイムは少し縮まったけど、誤差の範囲と言えるだろう。帰宅して、シャワーを浴びて、ベッドにうつ伏せになる。昨日たっぷり寝たからか、眠気は中々訪れなかった。
浅い眠りから目を覚ますと、まだ八時前だった。
今なら、一限目には十分間に合う。でもまあ、いつでも行ける大学なんて、別に今日じゃなくたって。そう思いかけて、昨日、依莉ちゃんに「明日は行くよ」と返事をしたことを思い出した。液晶に表示された、「待ってるね」のメッセージが目に痛い。
約束を嘘にするのは、心に良くない。幸か不幸か、それを反故にできない時間に起きてしまった。私は逡巡しながらも、まずはクローゼットを開けた。適当な服がなければ学校に行くのはやめにしよう。
そう思ったのに、すんなりと着ていく服はまとまった。仕方がないから、だらだらと部屋着を脱ぎ捨てる。じゃあ、メイクが上手く決まらなかったら、今日はやめよう。
それなのに、今日はなぜだか化粧ノリが良い。だからといって、あんまりしっかり施す気にもなれず、軽くで済ませる。乱れた髪を整えようとすると、それも悪戦苦闘することなく、ほどほどに見られるものになった。
これじゃあ、仕方ない。
大きく、大きく嘆息をして、大きく、大きく息を吸い込んだ。行こう。
久し振りの通学路。こうして歩くのは、初めてかも知れない。
時間からして、どうにか一限に間に合いそうだ。歩調を早めたところで、はたと気づく。そう言えば、まだ今学期の履修登録はおろか、取る科目すら決めていなかった。
どうするべきか、と考えながらも、不思議と足は止まらない。校門はもう目前に迫っていた。
帰るなら、今だ。踵を返して早足でゆけば、十分とかからず再びベッドに潜り込める。眠ってしまえば、何も考えなくて済むだろう。そう思うのに、その十分足らずの帰り道が、今は言い様もなく億劫に思えた。だから仕方なく、構内に足を踏み入れる。
キャンパスを歩きながら、たとえば一ヶ月前ならば、連絡があったとしても、同じように大学へ向かっていただろうか、と考える。日を追う毎に、少しずつ痛みを失っていくこの胸が、私は怖かった。
私はあてどなく、構内を彷徨う。朝食は食べ損ねたけど、食欲はない。図書館へ行く気にもなれず、かと言ってベンチでぼんやりするには寒かった。いつしか、自然と私の足は部室棟へ向いていた。
私たちのサークルに与えられた部室は、大学の敷地の隅の方、日の当たらない、じめじめとした所にあった。少し歩かなければならなかったけれど、毎朝のランニングだけは続けていたからか、引きこもっていた割に、苦にはならなかった。
部室棟は、全体としておんぼろで、小綺麗な大学の建物の中では異彩を放っていた。ここを訪れるのも、随分と久しぶりだ。春学期は休学していたし、夏休みに積極的に活動するタイプのサークルではなかったから。今頃は、十一月の学祭に向けて、会誌の準備にてんてこ舞いだろうか。それとも、もう刷り上がった頃合いだろうか。
アルミ製のドアの前で、私は軽く呼吸を整えた。誰にも会いたくないような、誰かに会いたいような、でもやっぱり会いたくないような、そんな気持ち。どうか、鍵がかかっていますように。祈るようにノブを回すと、ドアは軋みながらも開かれた。
部室の中は薄暗く、ただ、壁の一面だけが明るく光っていた。
「お、来たね」
目を凝らす私に、小柄な人影が振り向いて、久し振りと手を上げた。私は未来先輩に会釈を返しながらも、スクリーンに投影された映像から、目を離せないでいた。
そこに映し出されていたのは、つくしちゃんだった。
海辺の公園を、楽しそうに走る。溶けて、手に滴ったアイスを舐める。日陰にだらしなく寝そべって、顔を煽ぐ。知らない時間の、見知った仕草。
「撮っておきたくなる子だったって、思わない?」
水面に照り返す光を更に反射して、つくしちゃんの足がきらきらと輝いた。丈の短いパンツの先から、むき出しの足がカメラの下に晒されている。晒している。そうだ、私は彼女のこういうところに魅せられ、勇気づけられたんだった。
「実際、演技はそれなりに上手いけどさ、なんか、それだけじゃないんだよ」
「……知りませんでした」
知っていた。彼女が作りたがっていた、ということ自体は。でも、
「もう映画、撮ってたんですね、つくしちゃんと」
「まだ試し撮りくらいだよ。夏休みに、撮り始めたばっかだったから。まだ全然できてない。できないまま……」
誰かが息を吐いた。
「私、かけ持ちしてたからさ。こっちのサークルと、研究会の方と。あっちは、結構撮る人もいるから、機材もあって」
スクリーンから視線を切って、先を促すように先輩を見つめる。彼女の目も、こちらを見ていた。
「あれ以来だね。元気だった」
私は答えなかった。どう答えたものか、分からなかったから。
「そうだ、もう聞いたかな。私はもう一年、大学にいるよ」
「聞きました」
確か、つくしちゃんから。
未来先輩は私の一つ上で、今四年生だ。本来なら、卒業までまだ半年あるけれど、必修単位の取り忘れか何かで、既に留年が確定しているんだとか。
「美緒も気をつけなよ。不用意にモラトリアムを延ばしたくなければさ」
先輩は多分、知っている。私がまだ、夏休みに取り残されているということを。
分かってはいる、言われなくても。ちゃんとしなくちゃ、とはずっと思っていた。心配してくれる気持ちは嬉しいし、ありがたい。でも、あなたに何が分かるんだ、とも思う。
だから、やめて欲しい。
「今日で七週間か。早いね」
そうやって、まだ固まり切らないところに、不用意に触れるのは。
ずっと、優しくて面白い、良い先輩だと思っていた。視点は近いところにあるのに、私にはない見方や幅広い視野を有していて、彼女と話すのが好きだった。でもあのときから、連絡をくれる度、そうしてこうやって話をしている今も、小さな反感のようなものが湧いて来る。
「言ったら。あるんでしょ、何か」
私は、やめて欲しいと思っているのに。
「――前に言ってた、つくしちゃんらしいっていうの」
「うん」
「私は納得できません」
先輩と最後に会った日、別れ際に彼女の呟いた言葉。それは、自らのスタンスを貫いた結果としての死を、受け入れるような色を帯びていた。
「確かにそういうことをする子だと思います。でも、だから良かった、とは思えない」
つくしちゃんが、自分の気持ちに正直な行動を取ったのだとしても、その結果命を落としたことを、肯定的に捉えることは、私にはできない。自己犠牲の精神だからと、それを尊ぶこともできない。
見知らぬ子どもを見殺しにしても、それを後悔し続けることになっても良いから、ここにいて欲しかった。
「別に、私はそれを否定するつもりはないよ」
先輩は、持ち前の朗らかさが嘘のように、抑揚を抑えた声で続ける。
「大学生って、思ったほど大人じゃないじゃん。ある程度社会性が身に着いて、色んな責任も問われるようになるけどさ、まだ子どもらしさが残っているというか、そういう在り方を、他人も自分も許せる、ぎりぎりの年齢だと思うんだよね。少年少女でいられる最後の時間っていうか。それでさ、」
考え込むような間のあと、再び先輩は口を開いた。
「これから、きっと私達はもっと大人になっていく。つまりさ、感情のままに動いたり、他より自分を優先したり、そういうのがどんどん難しくなっていくと思うんだ。その中でさ、こう在りたいって気持ちに蓋をしなきゃいけない機会も、増えると思うんだよ。そういう、理想の自分らしさから外れることを許容できる人とか、見ない振りできる人とか、理想の方を修正できる人とか、いるけどさ……あの子は、そういうタイプじゃないでしょ」
その理解は、的を射ている気がした。つくしちゃんは器用な方じゃない。良くも悪くも、自分の心に素直な子だ。
「だからさ、そうなっていく自分とか、そうなれないのに適応することを強いられる状況とかに、苦しむよりはさ。なんて言うか、あれで……良かった、とは言わないけど。自分のことを好きなままでいられたんじゃないかな、って」
訥々と紡がれた言葉は、口にすることで自分の考えを踏み固めて行こうとするような感じがした。
「要は、こっちの心の整理の問題なんだ。美緒に押しつけるつもりはない。あの子の人生は良いものだったって解釈するのが、絶対解だとも思わない。でも、私がそう思うことは、思いたいという気持ちは、許してくれないかな。そうでも思わないとさ、やってらんないんだよ、私も」
それが多分、本当に言いたかったことだと、直感する。つくしちゃんに起きたことを、言葉で飾り立てて、価値を見出して、心を煙に巻くことで、それを守っている。
先輩のやっていることが、直視できない弱さなのか、前を見ようとする強さなのか、私には分からない。でも、私が自分の心を侵されたくないように、先輩の心に踏み込む権利も、彼女の在り方を評価する権利も、私にはないだろう。
「……私が許すことじゃないです、それは。咎めることでも」
「良かった、そう言ってくれる子で」
ふと、久しく聞いてない声が耳に届いて、私達は弾かれたように視線をスクリーンに戻した。そこでは、再びつくしちゃんが大写しになっていた。彼女はこちらに向けて満面の笑みを浮かべると、画面の奥の方へと、笑い声を上げながら駆けていく。
その背中を見送る私に、「ねえ、美緒」と呼びかける声がする。
「
よく分かりました。そう言う代わりに、私は黙って頷いた。
「ところでさ、動画とか写真とか、持ってない? ありったけかき集めれば、何かは作れると思うんだ。今は結構、補正も利くし」
「続き、作るんですね」
「うん。映画になるかはともかくさ、何かの形で、ちゃんと残しておきたくて。別に私のじゃなくって良いけど、どう思ったとか、何考えてたとか、そういうのをさ。実際に撮ったときと、映像の中で語られる時間は違うかも知れないけど、日記だってそうじゃんか。思い出は風化するし、辛いものほど、そうすべきだと思うけど。でも、残したいって思うんだ。できれば、協力してくれたら嬉しい」
「できることなら」
「ありがとう。完成させるって、約束しちゃったからさ。これをどうにかしないと、私は次に移れない」
そう言う声は、張り詰めていた。
それから先輩は、誤魔化すような笑顔を浮かべて、話題を変えた。
「美緒さ、文学部でしょ。優しい先生多いし、講義数自体も多いから、事情を話せばどうにかなるんじゃないかな。卒業だけなら、多分間に合うよ」
「そうしてみます」
「もし、どうにもならなかったらさ、来年は私と一緒に映画撮ろうよ。可愛く撮ってあげるから」
冗談とも本気ともつかぬ誘いを受けて、私は首を横に振る。
「良いです、私は観る側で」
少なくとも、今はまだ。
「振られちった」
先輩はおどけて、肩を竦めた。
それじゃあ、と手を上げると、またね、と小さな手が軽く背中を叩いた。
部室棟を抜けて時計を見ると、そろそろ一限が終わりに差しかかる頃合いだった。そこで私は、当初の目的を思い出す。
折角来たのに、連絡しないのは流石に薄情だろう。そう考えて、依莉ちゃんに「来てるよ」とメッセージを送った途端、「すぐ行く」と返事が来た。
少しやりとりをして、学食で落ち合うことに決める。「迎えに行こうか」と心配する彼女に、「大丈夫、歩けるから」とメッセージを返して、歩き始めた。
学食に辿り着くと、入口で待っていてくれたらしい依莉ちゃんが、「久し振り!」と嬉しそうにこちらに駆け寄って来た。それから彼女は、正面から私の両肘を取って、体を寄せると「案外背、高いんだねえ」と、感想を漏らした。
昼食を食べながら、私達は他愛のない話に花を咲かせる。彼女の私への接し方は、全く気遣わしげなところがなく、以前と変わらなかった。つくしちゃんのことを知っているのかは分からないけれど、きっと、色々言いたいこともあるだろうに。今はその優しさが嬉しかった。
それでも彼女は、きちんと大学に来るよう、釘を刺すのは忘れなかった。「一緒に卒業したいから」とはにかみながら言う依莉ちゃんに頷きながら、私は自分の恵まれた人間関係を噛み締める。
彼女と別れたあと、午後のキャンパスを抜けて、家に向かいながら、私は考える。未来先輩はちゃんと次に進もうとしていた。依莉ちゃんは、こんな私の手を引っ張って、引き上げようとしてくれている。私は今、何をすべきなんだろう。今すぐ、何かを変えることができるとは思わない。けれど、このままの日々を走り続けたいとも、思えなかった。
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