Chapter 6
就活用に買ったリクルートスーツの最初の出番は、九月の頭に訪れた。
冷たい雨の降る日だった。季節にグラデーションなどない、とばかりに、空気がデジタルに秋へ切り替わったかのようで、あれだけしつこかった残暑も、どこかへ消え失せてしまっていた。足元から冷気が染み込んで来る。
食事会でも開けそうな、華美でないのに品のあるホール。そこに沢山の椅子が並べられ、黒尽くめの群衆が、顔を俯けて腰かけている。私もまた、その一人だった。
鯨幕や十字架。そういった分かりやすいアイコンはどこにもなかった。落ち着いた声に促されるまま、参列者は順繰りにホールの奥へ進み出て、思い思いのやり方で別れを告げてゆく。
人の流れを察知して、体に力が入る。ふと気づけば、ホールの奥へ向かう列に並んでいた。何の覚悟もできないままに、足が体を前へと運ぶ。前を歩く男の子の肩越しに、白い、長方形の箱が見えた。耳鳴りがする、視界が揺れる。ふらつく体を足が支えた。倒れることすら許されない。
箱の縁から、組み合わされた指が覗く。あんな色だったっけ。不自然に白くて、サルスベリとか、骨みたいだ。その色に目が吸い寄せられて、白色の侵食が始まる。じわじわと広がって、すぐに視界が真っ白な光で染まった。チカチカする。濡羽のような黒も混じって、少し不気味な薄紫がアクセントになる。
体が揺れた。誰かの手が肩に触れ、それに強く揺すられている。
「美緒、美緒」
ずっと、目は開いていた。声が届いてピントが合った。声の主は、
「帰ろう。歩ける?」
黙って頷き、立ち上がる。
去り際、つくしちゃんの両親を見かけた。少し距離があっても分かるくらい、腫れて、赤くなった目。二人の前には、まだ幼い子どもと、母親らしい女性が立っていて、彼女は何度も何度も頭を下げていた。だから多分、その子がそうなんだと思った。
あの子はきっと、悪くない。非があるとすればつくしちゃんの方だ。自分の体のことくらい、よく分かっていたはずなのに、どうせ放って置けないからって、無茶をしたんだろう。その結果、相手の家族にいらない罪悪感を負わせて、多くの人に迷惑かけて、時間を割いて見送らせて。
泳げない訳じゃない、というのはつまり、泳ぐのに向かない、ということだ。その自覚だって、あったはずなのに。
一緒にやろうと買った、二人用のボードゲームだって、まだ封も切ってない。欲しいとせがんだのは自分のくせして。見通しもなく、その場の感情に従って行動するのは良くないと、何度も言った記憶がある。だからやっぱり、悪いのはつくしちゃんだ。
でも、そうだとしても、心の中でくらい、責めることは許して欲しい。彼女自身の行動が、彼女自身の命を奪ったのだとしても、原因を作ったのはそっちなんだから。自分の子どもくらい、きちんと見てろよ馬鹿野郎。
同じサークルに所属していることもあって、帰り道は未来先輩と一緒になった。二人とも、ほとんどの時間をじっと押し黙ったまま歩き、電車に乗り、歩いた。やがて大学が近づいて、そろそろ別の方向に別れる、という段になってようやく、
「まあ、らしいっちゃらしいか」
と、先輩は呟いた。
私は――。吸い込んだ空気が、声に満たない擦過音を作る。噤んだ唇に鈍い痛みが走り、微かな鉄の匂いが口に広がった。
私は、そうは割り切れない。自らのポリシーを貫いて、最期まで自分らしくあったのは、本当に良いことだと言えるのか。できるかも分からない人助けに及ぶのは、愚かではなかったのか。
彼女は確かに、自分らしさに殉じたのかも知れない。でも、それを良しとして受け入れることは、私にはできなかった。英雄的自己犠牲は、きっと称賛すべきことなんかじゃない。身の丈を考えろ。それに合った範囲で行動しろ。
今まで沢山助けて貰ったから、今度は私が色んな人の役に立ちたいんですよね。そう語る彼女の声が、リフレインする。そう思うなら、あなたは尚のこと直情的に動くべきじゃなかった。
手を差し伸べられる人の数は、自分が死んだらそこでカウントストップだ。この先あったかも知れない、誰かを救う無数の機会、可能性の一切を今後あなたは失った。
腹の辺りにわだかまる、熱い何かは、きっと怒りだ。燃え上がるような熱が、体を満たす。出口を求めて上昇を始める。喉を伝って立ち昇り、目に滲む。
熱い吐息が喉を焼いた。この目から、今にも零れ落ちようとするこの熱も、きっと怒りだ。
もしも彼女がここにいたなら、私は生まれて初めて、人の頬を音高く張るかも知れない。或いは、力強く抱き締めてやれるかも知れない。でも、つくしちゃんはここにはいない。
私は今、どうすれば良いのか。痛いほど握り込んだこの拳を、ゆっくりと開いてやれば良いのか、振り下ろせば良いのか。なら、どこに?
答えは、いつまでも見つからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます