第9話 先代の思い

 病院に向かうと、意識不明だった先代は、だいぶ意識が戻っていた。旦那の悟が付き添っていたが、先代は紗友里が来たことを、それまでに見たことがないほどに喜んでいた。

「紗友里、やっと帰ってきてくれたんだね?」

 そう言って、涙を流しているではないか。

「大旦那様、大丈夫なんですか?」

 と紗友里はそう言いながら、心の中で詫びた。

 自分が不倫旅行などをしたために、こんなバチが当たってしまったのだとすれば、そのバチがどうして先代に当たるのかと思い、それが、紗友里には申し訳なさで、いっぱいになったのだ。

 それなのに、手放しで、帰ってきた自分を迎えてくれた。しかも、これほどまでに喜んでである。それを思うと、自分の浅はかさに情けなさすらあった。

「紗友里、いい顔をしているよ」

 という言葉は、本来なら皮肉に聞こえてきそうなのだが、なぜか先代に言われると、皮肉には思えない。本当に先代から見て、いい顔に見えたのだろう。

 だから、紗友里は先代のその言葉を訊いて。

「どうして、いい顔に見えると思うんですか> 先代にとっての私のいい顔って、どういうものなんですか?」

 と素直に聞けたのだ、

「紗友里は、本当にやりたいことをしている時ほど、いい顔ができるんだと思うんだ。その顔が私にとって一番の幸せであり、癒しなんだよ。きっと、いい絵を描けるんだろうと思うんだ」

 というではないか。

「どうして、大旦那様は、私が絵を描いているのをご存じなんですか?」

 紗友里が絵を描いていたということは、ホステスをしていた頃も知っている人はいなかった。

 大学時代にちょっとした趣味として齧った程度で、知っている人は少なかったはずだ。

 そもそも紗友里が絵を描き始めたのは、大好きだった母に教えてもらったのが最初だった。

 小学生の頃、よく絵を描くのが趣味だった母親に連れられて、よく一緒に田舎の方に絵を描きに行ったものだった。

「そういえばさっきの夕方にふと思い出した田んぼの中の四つ辻の光景、道の傍にあったあの祠の光景は、母親と絵を描きに行った時に見た光景だったんだわ」

 ということを思い出したのだ。

 あの時は確か、バスを待っていたような気がする。田舎のことだったので、バスが来るまでに一時間以上もあった。普通の人だったら我慢できないくらいの時間だっただろうが、母が持っていたスケッチブックの画用紙を一枚もらって。鉛筆を借りて、その場所の絵を描こうと思い、描いた記憶がある。

 確か、あれば絵を描いた時の記憶に残っている最初のものだった。いつも母親が描いているのを見ているつもりだったので、結構スムーズに描けたつもりだった。その時に描いた絵の光景と同じ場所で掻かれたと思っている絵が、実は今住んでいる屋敷に飾ってあった。

「もう一度絵を描いてみたいと思ったのは、その絵を見たからで、高校生の頃まではちょっとした趣味としてデッサンを描いていたことがあったが、今ではすっかりやめていた。それを今回の旅行でまた始めようと思ったのは、

「今回の旅行を不倫旅行にしたくない」

 という思いがあったのと、それ以上に、

「屋敷にある記憶の風景の絵に負けたくない」

 という思いがあったからだ。

 すると、先代はベッドで横になりながら、

「屋敷の中にある一枚の絵を、紗友里はいつも気にしているだろう?」

 と訊かれて、

「ええ、よく分かりましたね?」

「あの絵、誰の作品か知っているのかい?」

 と言われて、意外な質問にキョトンとしている紗友里を見て微笑みながら、

「あれはね。紗友里、君の作品なんだよ。君が小学生の頃に描いた作品さ」

 というではないか。

 これにはさすがにビックリして、その場でひっくり返りそうだったのを必死で抑えた紗友里だった。

「どうして、その作品がここにあるんですか? しかも、大旦那様がそれを知っているというのは」

 と聞くと、

「君のお母さんから聞いたんだよ。紗友里が描いた絵だってね」

「じゃあ、大旦那様は私の母をご存じだったんですか?」

「ああ、君のお母さんとは、実は知り合いだったんだ。私の友達を通じて仲良くなってね。よく数人でいろいろ話したものだったんだ」

「そうだったんですね?」

 と言って、しばらく先代の顔を見ていると、どこか懐かしい思い出がよみがえってきたような気がした。

「君のお母さんが、君のお父さんと結婚してからは、ほとんど会ったことはなかったんだけど、私がこのスーパーの社長になってから、パートに一時期来てくれたんだよ。その時に、娘が描いた絵だって言って、自慢げに持ってきたんだ。私にくれるというので、ありがたくいただいたわけなんだ」

 と先代は言っている。

「でも、どうして、大旦那さんは私の母の娘があのクラブにいた私だって分かったんですか?」

 と訊かれて、

「実は、私はずっと前から君のことを気にかけていたんだ」

 というではないか。

「どうしてなんですか?」

 と聞くと、

「実は、君は私の娘なんだよ。本当はこの話は墓場まで持って行こうと思っていたんだけど、それだけはどうしてもできないと思ってね」

「どうして?」

「私は君のお母さんを愛してしまった。悟の母親を早くなくしてしまったことで、私はかなりショックが多きくて、仕事を一生懸命にすることで忘れようとしたんだ。それはきっと悟も分かっているかも知れない。だから悟は私に、新しい母親がほしいとは一度も言わなかった。あいつもお母さんは一人だと思っていたんだろうね。でも、そんな時現れたのは君のお母さんだった。私は君のお母さんに十分な癒しを貰った。私からみれば、君のお母さんは天使だったんだよ。たぶん、君のお母さんも私のことを好きでいてくれたと思うんだ。だから、お母さんのお腹の中に君がいると知った時、私も嬉しかったし、お母さんも素直に喜んだはずだったんだ。だから、君のお母さんに私の後添いになってほしいとお願いしたんだけど、それだけは承知してくれなかった。きっと、悟のことを考えたんだと思う。悟が母親だけを慕っていたのを分かっていたからね。それで、君のお母さんは考えた挙句、私の前から姿を消した。でも、君のお母さんは、私に父親だと名乗らないことを条件に、合わせてくれたんだよ。君が小学生の頃に、よく遊びに行っていたおじさんがいたのを覚えているかい?」

 と言われて、確かによく遊びに来ていた。

 だが、それは父親の上司という触れ込みではなかったか。よく父が許したものだと思った。

「でも、確かお父さんの上司ということだったのでは?」

 と聞くと、

「ああ、そうなんだ。君のお父さんは、私に対して寛大だった。そもそもお母さんのことをずっと前から君のお父さんは好きだったらしいんだけど、彼女が私を愛していると聞いて、一度はあきらめたらしい。だけど、君のお母さんが、私との子供を一人で育てようとしているのを見て。どうしても自分が一緒にいるということを君のお母さんに言って、二人は結婚したんだ。君のお父さんは、だから君を自分の子供ではないと知りながら、育ててくれたんだよ。私も本当に嬉しかった。だからその分、悟にも愛情を注いできたつもりだった。そういう意味で私は君たち家族には言い切れぬくらいの音があるんだ。だけど、今は君を義理の娘として私の元に置いておけるなんて、これほど幸せなことはない。本当にお礼がいいたいんだよ」

 と言って涙ぐんでいた。

 それを見て。紗友里ももらい泣きしそうになったが、

「えっ、でも、ということになるのであれば、私と悟さんって、異母兄弟ということになるの? 大旦那様は、それを承知で二人を一緒にさせたということですか?」

 と感じた。

 そういう意味の倫理や道徳に関してはうるさい人だと思っていた先代が、そういうことができる人だったんだと思うと、かなり複雑な気持ちになっていた。

「実はここだけの話なんだが、君と悟は血がつながっていない」

 といきなりの言葉に、またまたビックリさせられた。

 ここまでくれば何が正しいのか分からなくなった。それは正義かどうかということではなく、事実か否か? ということである。これは真実を訊いているのではなく、事実でしかないということである。

「だからと言って、私と悟さんが夫婦というのはおかしいわ。ということは、悟さんはあなたとも血の繋がりがないということになるのよ」

 というと、

「そういうことだ。悟は私の前の妻の連れ子だったんだ。私は連れ子であるあの子を自分の子供として育ててきたんだけど、やっぱり、自分の本当の子供をそばに置いておきたくなった。そして、君の行方を捜したんだよ。すると、君がクラブのホステスをやっているというじゃないか。ビックリして会いにいくと、さらにビックリしたことに、君は、お母さんとそっくりになっていた。本当は息子の嫁ではなく、自分の嫁にしたいくらいだったが、さすがにそうもいかない。だから、君を嫁としてそばに置いておくことを私は選んだ。君も悟もその方が幸せだと思ってね。私の考えは間違っていたのだろうか?」

 と言って、泣いている先代を見ると、

――これが、本当のお父さん――

 と思うと、紗友里も涙が出てきた。

 紗友里は思った、

―ー私は、本当にこれでいいのだろうか?

 という思いでいっぱいだったのだ、

 確かにこの家の家系からすると、いや、父から見ると、息子と嫁とはまったく立場が正反対だったのだ。それを知っているのは自分だけだったというのも、苦しかったことだろう。

 紗友里の両親はすでになく、先代の奥さんも亡くなっているのだ。それを考えると、紗友里はどこか、複雑な気持ちになってきた。

 たぶん、もう長くない父親は、気持ちも心も弱くなっていることだろう。ひょっとすると、自分の命が短いということも、すでに分かっていることなのかも知れない。

――だけど、お父さんはどうしてその話をしてくれたんだろう?

 と思った。

 少なくとも、ここまで黙ってきたのだから、このまま墓場まで秘密を持っていくという気持ちだったことに間違いないだろう。

 それを思うと、父が自分の死期を察していると考えるのも不思議ではないような気がする。

 これまでの自分の罪を認めて、この世での未練を断ち切ろうと思ったのかも知れない。

 紗友里は確かにこの告白を訊いて、少なからずのショックを受けた。だが。いまさら本当の父親が誰だなどということで一喜一憂するつもりはない。父親が誰であっても、今はすでに大人になっていて、そんなことにこだわる年でもないと思っている。

 しかし、最近の紗友里は今までの自分とは明らかに違っている。何かに取り憑かれたような気分になることもあれば、不思議な感覚に陥ることもある。

 その証拠に、やけに子供の頃のことを思い出したり、初めて見るはずの光景を懐かしいと感じてみたり、さっきまでいた温泉での滝の近くにあったキツネの祠もそうだ。

 先代が危篤になったということで、急いで帰ってくる時に見た窓からの光景。逢魔が時の印象も、思い出すべくして思い出したような気がして仕方がない。

 それも、今先代から聞かされた言葉が影響しているのではないかと思うと、少なくともここ数日の出来事や感じたことは、すべて、

「感じるべくして感じたことだ」

 と言えるのではないだろうか。

 ということを思えば、あの滝つぼで出会った真由美という女性の存在も、まんざら自分に関係のない人間だと言えるだろうか。

「お姉ちゃん」

 と言って慕われることに喜びと感動を覚えた。

 それはまさに、引き寄せられる何かの力が働いたのだろう。ひょっとすると、真由美には紗友里が、

「お稲荷様」

 に見えたのかも知れない。

「私って九尾のキツネなのかしら?」

 と、少なくとも目的が不倫旅行だったのを、明らかに忘れていて、真由美の存在がまたその思いを引き起こさせたのかも知れない。

「お前には、非常なる混乱を今引き起こさせているかも知れないが、許してほしい。そして私ももう長くはないだろうから、こうやって君に話し手おきたかったんだ」

 先代はそういった。

「この話は主人には?」

 と聞くと、

「ああ、話をしているよ。ほとんど表情を変えたようには見えなかったが。それなりに思うことはあっただろう。ひょっとすると、ウスウス気付いていたのかも知れない。もちろん、私が死んだ後はやつが社長をやってくれるだろう。そのことは名言しておいた」

 と先代はいう。

 先代の様子は、本当にやつれているように見えた。最初にクラブで先代を見た時のあの活気に満ちていた人と同一人物だとは思えないほどだ。必死になって、自分の息子の嫁になってほしいと言っていた先代の姿には鬼気迫るものがあった。自分がこの人の娘だと知った今では、あの時の鬼気迫る思いが分からないでもない。

 世の中には自分の本当の出生の秘密を知らずに生きている人が、自分が思っているよりもたくさんいるだろうと思っている。そしてそのほとんどがその秘密を知りたがっているのではないかとも思う。

 それは子供であればあるほど、そう感じるのではないだろうか。ただし、

「知りたいとは思うけど、同じくらいに知るのが怖い」

 とこれも、自分で思っているよりもたくさんいるのではないかと思うのだ。

 それだけ、出生の秘密を知るということは、今まで暮らしてきた日々にデリケートな問題を投げかけるということである。なぜなら、秘密にされているには、そこには何らかの理由があるからに相違ない。

 例えば、父親が著名人であったりして、なさぬ中において生まれた子供は、秘密裏に養子に出されたり、育てられずに養護施設に預けられた李することもあるだろう。

 しかし、昭和の昔では、さらにひどい状態もあり、

「コインロッカーベイビー」

 なる言葉があり、生後間もなくの子を、コインロッカーに放置し、そのまま死に至らしめるというむごいことも実際にはあった。

 また、平成の頃から、

「赤ちゃんポスト」

 なるものも、存在し、育てられないと判断した親に捨てられる運命にあることもを引き取るなどということもあっただろう。

 もちろん、これはあまりにも極端な例であるが、大人になって結婚し、不倫まで経験した紗友里には、それを非難する権利はないと思っていた。

 しかし、それは自分の後ろめたさから、生まれてきた子供を処分するということに対して、見て見ぬふりをしてきたことを自覚した。

 そもそも、不倫などという、読んで字のごとく、

「倫理に非ざること」

 と行う人間は、どこか精神に疾患があるのではないかと思っている。

 孤独や寂しさというものが気持ちの中にあるのも、その精神疾患から来るものだと思いながらも、倫理に反するというジレンマを感じながら、不倫という快感に塗れている。

 だが、果たして、不倫というのは、そんなにも人間を狂わせるほどの快感なのであろうか?

 実際に不倫をしたのは、その人が好きだったわけではない。肉体的に満たされればいいというだけの軽い気持ちだった。

 いや、最初は軽い気持ちだったが、今から思うと、本当に軽い気持ちだったのかというのを思い知らされるような気がした。

 不倫をしている時、なるべく視野を狭くしていたような気がする。

 本当であれば、細心の注意を図り、まわりを絶えず確認しながら行うべきなのだろうが、もちろん、計画には余念はなかったが、最低限のことしか考えていなかったことは認めよう。

 もっとまわりに気を遣わなければいけなかったのは分かっているが、心のどこかで、

「バレルならバレてもいい」

 という思いがあったのかも知れない。

 結婚してからというもの、一体どこに幸せがあったというのか、新婚の時にあれだけイチャイチャしていて、まわりが羨むほどだったのは、まわりに見せつけることで、結婚したという気持ちを高めようとしていたのだろう。

 そんなことでもしなければ、確認できないような結婚生活など、最初から、

「絵に描いた餅」

 同様だったのかも知れない。

 紗友里は自分が何か勘違いをしていたような気がしていた。最初、自分がこの家にくるまでは、

「私ほど不幸な人間はいない」

 と思い、不幸であるからこそ、、何をやっても構わないとすら感じたほどだった。

 不幸を作り出したのは、世間であり、その世間の代表が、富豪と呼ばれる人たちがいることで、自分たちのような世間から押し出されたような人間は、不幸を持って生まれて、抗うことのできないものだと思っていたのだ。

 しかし、それは間違いだったようだ。

 確かに人間は生れながらに平等ではない。富豪の家に生まれた人間、貧困にあえいでいて、その日の食事にも困るような家庭に生まれた人間、そんな人間は、生まれてきてはいけないという思いが心の奥底にあり、親から、

「あんたさえいなければ」

 という言葉を、限りないほどに聞かされて育った人もいるだろう。

 言葉の意味も分からないまま、ただ、その言葉が自分を呪縛しているのだということだけは分かる。それが本能というものであり、生まれてきたことを、親が悔やんでいるよりも、次第に強く感じることになる。

 何しろ自分のことであり、生まれてきたことがなぜ悪いのかを考えるうえで、すでに、その言葉を真偽を考えるという過程をかっ飛ばしてしまっているのだ。そうなると、今度は自分を否定することになり、生まれてきたことが悪いことだということが、すべての前提で、物事を考えるようになる。

 そうなると、すべてがネガティブに始まってしまう。つまり、善悪の判断という過程が欠落することになってしまう。

 今回の不倫も、まわりからの、

「不倫は悪いことだ」

 という意見を、ただ、

「悪いことだ」

 と感じることで、何がどうして悪いのかということを考えない。

 そもそも、人からモノを奪うということを悪いという発想自体がない。

「取られる方が悪いんだ」

 ということになる。

 発想の原点は、弱肉強食、強ければ正義、齢から負けるのであって、それが悪という形で認識されるというのが、紗友里の考えだった。

 もちろん、同じ考えを持った人もかなりたくさんいるだろうと思うが、それでも、ほとんどの人は善悪の葛藤の中から、弱肉強食を選んだのであって、そもそもそれが悪だということを誰が決めたのか。

 それはただの倫理としての考えに基づくものであり、紗友里のように、身体と気持ちを切り離し、あくまでも身体だけの関係であれば、本当に旦那を裏切ったことになるというのだろうか?

「倫理という考え自体、それが正しいということを果たして誰が決めたのだろうか?」

 とも考えられる。

 紗友里は今回の旅行で、絵を描く楽しみを思い出していた、

「そうだわ。これが本当の私の姿なんだわ」

 ということを感じた一番の理由は、絵を描いている間の時間が実に早く流れたからである。

 まるで次元の違う世界にいるようで、完全に開放されたせかいで、そこは誰にも犯すことのできない世界。自分にすら犯すことのできない聖域だと言えるのではないだろうか。だから、幻想を見たりして、初めて見るはずのものを、以前にも見たかのように感じるのだ。ただ、それを、

「幻想」

 という言葉だけで片づけてもいいものなのかどうか、絵を描きながら考えていた。

 そんな時現れた真由美という妹と話をしているうちに、自分の過去が次第によみがえってくるかのように思えた。

 そこへの先代のカミングアウトと言えるほどの真実の告白だった。それは紗友里にとって別の意味での衝撃であり、告白された内容に、それほどの驚きがあったわけではない。ただ何を感じたのかというと、

「この世で起こることには、何かそれなりに意味があることなのだ」

 ということであった。

 それは、事実が真実と呼ばれるものに近づいていくからではないかと思えた。世の中には真実がすべて事実だとは限らないし、事実がすべて真実でもないだろう。そうなるとどこかの場面で、必ず、それぞれは近づこうとするに違いない。

「そもそも、不幸って何なんだろうか?」

 と、紗友里は考える。

 今までの自分が不幸だったのだろうか? キチンと両親が揃っていて、学校も出してくれた。何か不満があるとすれば、それはすべて自分の中から出るもので、それが尾を引くことはなかった。

 性格的に、あまり細かいことにこだわる方ではなかったので、その時々で感じた不満は自分の中でそれぞれに解決してきた。

 もっとも、それが最善だったのかは分からないが、もし悪いことであったとしても、そのことに最後は気付くことができて、次の問題の解決には使わなかっただろう。

 そのおかげもあるのか、紗友里の人生は、

「輪切りの人生」

 だったような気がする。

 その時々で節目節目があっただろうが、都合の悪いことも、そうでもないことも、すべてがリセットされた人生だったと思っている。

 したがって、過去のことはほぼ忘れてしまっていて、記憶にないことが多い。だが、何かあると、思い出してしまうのは、それを夢に見たことを思い出すというような感覚に陥るからだ、

 それを自分では、デジャブのようなものだと思っていた。つまりは、

「初めて見るはずなのに、どこかで見たような気がする:

 というのは、

「本当は初めて見るものではないはずのことだ」

 ということである。

 紗友里はそのことを分かっているつもりだが、認めたくはなかった。なぜなら、デジャブのような感覚で過去を思い出す時というのは、あまりいいことでなかったという思いが大きかったからだ。

 だが、今までにそれがひどかったということはなかった。何かが起こっても、それは、悪いことではありながら、最悪のことではない。すぐに立ち直れることが多い。

「いつも何か危ないことが起こる時は、自分の中で危険を察知し、何とか最悪の場面を回避することができるのだが、その後で安心するからなのか、その反動からなのか、急に油断してしまうことが多い」

 それが、その場面の危機を終わらせることになるのだが、軽症で済んでしまう理由だったのだ。

 紗友里は自分で車の運転をすることはなかったが、もし自分が車の運転をしていたとすれば、事故が多かったとしても、そのほとんどはうっかりミスであり、人身事故のようなものはないだろう」

 という感覚であった。

 そういえば、初めてクラブで先代と会った頃、クラブでの会話で先代が似たようなことを言っていたのを思い出した。あの時、

「分かりますわ。私もうっかりミスが多いので」

 と言った時、

「うんうん」

 と言って。満足そうにうなずいていた先代の顔を思い出した。

 その顔も、ずっと印象に残っていた表情で、その表情がきっと、今までもそうだったように、これからもずっと先代の表情として、自分の中で育まれていくのを感じたのだった。

「紗友里はこれから自分で好きなことをしながら生きていけばいいんだ。会社の方は悟に任せればいいんだからね。それに君には実は妹がいるんだ。彼女は、すでに悟を助けて仕事の方を任せることにしている。私が実は悟に近づけたものであり、最近まで悟は知らなかったことだ。私がすべてを告白すると、私の気持ちが分かってくれた。君の妹は本当に君によく感性が似ている。だが、その感性は仕事向きなところが強い。だからと言って芸術的なところも十分すぎるくらい優秀なんだ。だから、彼女には仕事面では悟を、そして芸術という面では、君を十分にサポートしてくれる。そんな存在だと思うんだ」

 というではないか。

 すると、病室の扉をノックする音が聞こえ、

「どうぞ」

 と先代がいうと、扉が開いて、そこにいたのは、何と温泉で知り合った、舞鶴真由美ではないか。

「お姉さん、これからもよろしくね」

 と言って微笑んでいた。

 それを見ながら紗友里は、引きつってはいたが、なぜか恍惚の表情になり、顔が真っ赤になっていくのを感じた。

「私、キツネに化かされているのかしら?」

 と、思わず呟いていた……。


                  (  完  )

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キツネの真実 森本 晃次 @kakku

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