それはとある、あの子と一緒に帰る日のこと
彼女……和泉五十鈴との帰り道は、些細な理由で無くなっていった。それは単純に、彼女が母親に帰宅が遅いことを咎められ、帰宅の時間が合わなくなったからだ。
どうして、五十鈴は私と帰路を共にするため、私の退勤時間まで待っていたのだろう。その事実が、奇妙に私の感情を揺さぶった気がした。無駄なことを、と思っているにも関わらずにだ。
今日もまた労働の身体的疲労と、上っ面だけの円滑なコミュニケーションによる、精神的な疲労でクタクタだ。酒でそれらを吹き飛ばしたいものだが、私はアルコールに対する耐性が全く無い。それに、飲むと三日は引き摺る。
すると、もうとっとと寝る以外、疲れを癒やす方法なんて無かった。趣味だった読書も、ここ最近は読むスピードと、書店で買うペースの均衡が完全に崩壊していた。だから、私の部屋はまだ読んでいない本達で埋め尽くされている。
日々を労働に費やし、時々の休みの日すら、親睦会や慰労会という名目で半強制的に消失する。そろそろ、私も若さで乗り切れる頃合いでは無くなって来たのだ。睡眠時間が減れば、数日はパフォーマンスに影響が出るし、階段の上り下りですら息が上がり始める。
そんな毎日が憂鬱で、鬱屈で、退屈で……ほんの一瞬、全てどうでも良くなる瞬間がある。仕事も辞めて、スマホを粉微塵になるまで壊して、口座からありったけの貯金を引き出して、全て使い果たしたくなる。
そんな無益な妄想をして、私は今日も生きている。仕事を辞めず、スマホを落としたら壊れてないか死ぬほど焦って、少しづつ増えていく貯金を眺めながら、高い厚生年金に少しの不満を抱いている。
私はこの頃暑くなってきた日差しを恨めしく思いながら、歩みを進める。ビルを出て、聞き覚えのない名前の銀行を曲がって、そのまま真っ直ぐ進む。そんな、いつも通りの順路だ。
「ぁ……」
ふと、あるものが目に入った。いつもの帰り道の、歩道橋の近くにある学習塾から、見覚えのある少女が疲れた顔をして出てきた。間違いない、五十鈴だ。
私は一瞬、声を掛けようかと迷った。けど、何と言えば良いのだろう? 久しぶり? それとも、奇遇だね、とか?
あぁ駄目だ。いつもあの子から話しかけてくれるから、いざ自分がするとなると、どうすれば良いか全く分からない。
「っ……! 待って……!」
私の声なんて、近くを通る車の騒音で掻き消された。五十鈴はそのまま、私に気付く事無くその場を立ち去っていってしまった。
私は訳も分からず、五十鈴を追いかけた。少し小走りで、歩道橋を駆け上がる。この程度ですら、息が乱れて、汗が滲んでくる。
五十鈴はもう、歩道橋の上には居なかった。あの子と私では、歩幅が全然違うのだろう。普段から並んで歩いて居たのに、そんなことに今更気付いた。あの子はいつだって、私を思っていてくれた。
周りの目なんて知らない。躓いて転びそうになっても、髪が乱れても構わない。私はあの子の背中だけを目指して、ただ走った。
「五十鈴っー!!!」
「うぇ何!? って、りっちゃん!?」
こんなに走ったのはいつぶりだろう。少なくとも、会社という牢獄に入ってからは、こんな風になりふり構わず走らなかった。
足は痛いし、汗が垂れてきて凄く鬱陶しい。急に大きな声を出したおかげで皆見てるし、五十鈴にこんなみっともない姿を見せるのは、とても恥ずかしい。
なのに、なんでだろ。私は今、凄く生きていると実感している。足が痛くて、息が苦しいのに、気分は晴れ晴れとしている。私のことを待っていた五十鈴も、こんな気分だったのだろうか。
五十鈴は横断歩道を渡ったすぐ先に居た。ちょうど、信号は青色で点滅していて、間に合うかどうかは分からなかった。
この前までの私なら、きっと走らなかっただろう。こんな僅かな数十秒のため、身体を酷使する必要なんて無いと、諦めていた。
けれど、今は違う。数十秒のためなんかじゃ無い。それよりもっと大切な……五十鈴が、待っている。たったそれだけの理由で、走るには十分だ。
「一緒にっ! 帰りましょうっ!!!」
信号なんて見ていなかった。ただ、私は五十鈴だけを見て、五十鈴のところに向かっていた。
「りっちゃん!!!」
五十鈴は満面の笑顔で、私を見ていた。気がつけば、私は五十鈴の近くに来ていて、後ろを振り返れば――
「あ……」
信号は、ちょうど赤色に切り替わるところだった。だからなんだと、一蹴されても仕方の無いことだろう。
でも、私にとってそれはとても大事なこと。大人になって、子供の頃の純粋さを失った私にとって、それは何よりも尊ぶべきことだった。
「もぉー! 急に名前呼ばれたらビックリするっす! ……ていうか、大丈夫っすか?」
「ごほっ……! げほっ……! だ、だいじょばない……」
「ぶふっ……! 弱ってるりっちゃん、可愛いっすよぉ!」
それは夕暮れの、どこにでもある普通の光景。いつもの帰り道で、五十鈴と出会っただけの、なんてこと無い日のこと。
「最近見かけないと思ったら、ここに通ってたのね」
「そうなんすよぉ~。赤点ギリギリでキープしてたら、お母さんキレちゃってぇ……これからほぼ毎日、ここに缶詰っすよぉ」
「そう……それにしても、偶然ね。ここ、私がいつも通る帰り道にある場所じゃない」
「あはは……ほんとだ偶然! 本当に偶然! たまたまっす!」
「そうなの。じゃあ、これからは偶然、帰り道が一緒になることもあるのかしらね」
「!!! りっちゃん……!」
「……なによ」
「いいや、何でも無いっす!」
けど……私は多分、五十鈴が居てくれるなら、それだけで良いのだろう。恥ずかしいから絶対に言わないけど、この子は私にとって、大切で特別なのだから。
「あ!!! もうすぐ電車出ちゃうっすよ!」
「そう。なら、急ぎましょうか」
「はいっす!」
私たちは走り出した。理由なんてくだらないものだ。ただ、間に合うかもしれないという希薄な理由だけで、ただ走る。五十鈴はきっとそうだし、私も彼女と一緒なら、それだけで走れる。
今日はきっと、電車に間に合うだろう。点滅する青信号を渡りながら、私はそんな予感を感じたのだった。
走れるあの子と、走れなくなった私 黒羽椿 @kurobanetubaki
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