おねがい
「私はただ、お山に吹く風に頼りなく揺れるだけの、凡俗な存在であったのだ。それがある日切り倒され、見知らぬ町で、身の丈に合わぬ好奇の目線に晒されることとなった。毎日多くの人間が、私に願いをぶら下げてゆく」
恐らく短冊のことなのでしょう。笹竹が忌々しげに首を振ったように見えました。枝葉が激しく揺れ、短冊ががさがさと音を立てます。
「最初こそ、与えられたお役目なれば誠意をもって全うし、その願いを空に届けようと思った。しかし私は気付いてしまった。皆、私が真に凡俗であることを知っているのだ、と。そう、誰も、誰も私に期待などしておらぬのだろう。だからこそ皆、願いの顔した欲望を、呪いを、この身体中に無邪気に、無責任にぶら下げるのだ」
願いが何故欲望で、呪いなのか、当時の私にはさっぱり分かりませんでした。
「重いのだ。身体が、重いのだ。欲望や呪詛は、私のお山にはないものだ。それがべっとりとこの身体に纏わりつく。嗚呼、ただただ重いのだ」
今なら、笹竹の言いたかったことが、なんとなく分かります。というより、笹竹を人間に置き換えてみれば、ひどくありふれた話なのです。明らかに本心でないと分かるような「あなたならできる」や「期待している」などといった言葉で誤魔化して、様々な要求を軽率に人の肩に乗せる人間は、決して少なくはありません。
その言葉を信じて、乗せられたそれと必死に戦ってみても、誰もその事実を知ろうとはしてくれず、そうしてやっと片付けたところに、また別の要求が乗せられる。私は一体なんのために頑張っているのか、縋りたい言葉はあまりにも空虚であった、と気付いた時、希望は絶望に簡単に転位するのです。私にも、経験があります。今なら、笹竹を抱きしめることも出来たでしょう。ですが、それはそれ。当時の私はまだ小学生。そんなことは、分かるはずもありません。
ですが、笹竹が酷く怒り、悲しみ、絶望しているのだということだけは伝わりました。だから、私はやはり黙ったままではありましたが、その場にじっと留まり、笹竹の声に耳を傾けることに致しました。
「私はお山へ帰りたい。お山で
低く震える笹竹の声は、全てに絶望した存在のそれは、私の背筋をぞわりと撫で、私は、空っぽの膀胱が尿意に疼くような不快感を感じておりました。
「しかしこのままでは、私の、欲と呪詛で穢れた身体は癒されぬ。穢れは、祓わねばお山に帰れない。だから私は、無責任で間抜けなこの折り紙飾りのついたこの枝葉で、私を無責任に穢した全てのものを
縊る、という言葉の意味を、私は知りませんでした。けれどそれがなんだかとても恐ろしいことであるのは、その声色で理解出来ました。けれど、事ここに至っても、私は声を出すことが出来なかったのです。そんなに恐ろしいことが果たして癒しになるのか、お山というのは恐ろしいことをしなければ戻れない場所なのか、とにかく全てが私の理解の範疇を超えておりました。
何一つ分からない、ということは、真っ暗闇に放り込まれたのと同じようなものなのです。悲鳴を上げて良いのか、怒って良いのか、それすらも分からないから、ただ黙ってその状況に慣れるため、そしてやり過ごすためにも、余計なことはせずにいようと、全ての動きと思考を止めてしまうのです。真っ暗闇の恐怖を私はその時、初めて味わったのでした。
「願いは欲望だ。願いは呪詛だ。ならば私は――この欲と呪詛に塗れたこの私は、逆に言えば願いの塊なのだ。願いの塊たる私が願って何が悪い。奴らの死を願って、何が悪い。その願いを無責任に誰か委ねることなく、自らの手でかなえようとすることの、何が悪いと言うのだ」
枝葉の揺れは激しくなる一方で、がさがさ、ざわざわと、嵐の時のような音がしておりました。それなのに、家族の誰も起きる気配はありません。
「さあ、私の願いをかなえさせておくれ」
その言葉と同時に、ほんの数秒前まで激しく揺れていた枝葉は、ぴたりとその動きを止めました。突然訪れた静寂に、漠然と「もうだめだ」と悟ったのでしょう。私はぎゅっと瞳を閉じ、そのまま己の意識を手放したのでした。
翌朝、トイレで眠ってしまっていたことに気付いた私は、前の晩に自分の身に起きた出来事への恐怖よりも、家族に叱られる恐怖に震えておりました。が、その心配は杞憂に終わります。
祖父が、亡くなっていたのです。昨夜全く起きてくれなかった母も父も、悲鳴を上げて廊下を走ってゆきます。ですから、私は永らく、私の身に起きたことは全くの夢だったのだと思っておりました。二十五を超える頃、話の流れで祖父の死にざまを聞くまでは。
心臓麻痺と診断された祖父は、布団のなかで行儀よく「気を付け」の姿勢をしたまま、恐怖と苦悶に顔を歪ませて、死んでいたそうです。まるで寝ている間に、恐ろしい「何か」に乗られてしまったかのように。そしてそのまま、恐怖で心臓を止めてしまったかのように。
私は考えました。何故私ではなかったのだろう、と。ひょっとすると笹竹は、私がその日短冊を吊るさなかったことに、気付いたのかもしれません。そして、私から祖父に標的を変えた――そう考えると辻褄が合います。合ってしまうのです。
さらに私は、この町では何年かに一度くらいの割合で、七夕まつりの翌日に人死にが出ることを思い出しました。両親も弟も、単なる偶然と思っているようで、それを話しても苦笑いをして流すだけでしたが。
「あれ」が全て、真実私が見聞したものかどうか。正直なところ「そうである」と胸を張って答えることはできません。嗚呼、最初にそれは申し上げましたね。「あれ」が全て真実であるならば、口を噤んだままの私は罪悪感に押し潰され死にたくなってしまう、とも申し上げたと思います。あの日の幼い私がそうでした。
もしあの時私が声を上げていたら、笹竹に何かものを申せたのなら、事態は変わったのかもしれません。あの夜から、私の肩には笹竹の残した「願い」の言葉が、常にずんと乗っております。そうして背を丸め、葉が擦れる音にも、お山から吹き降りる風にも恐怖しながら、こうして部屋に籠っております。嗚呼、重い。本当に、重い。
私はただ、死にたくないだけなのです。罪悪感で死ぬのも、勿論笹竹に縊り殺されるのも、まっぴらごめんなのです。
ですから私は、七夕まつりの時期だけ、皆が寝静まる夜のうちに、誰にも見つからぬように、こっそりと町中に貼り紙をして回ります。
「無責任に祈るな」と。「礼を尽くして祈れ」と。「笹竹に、呪われる」と。
皆、私の貼り紙になんとなくの心地悪さを覚えるようで、七夕まつりもどことなく以前ほどは盛り上がらなくなってきたように思います。それでも、死んでしまうよりいいでしょう。
私は、死にたくありません。
死にたくないのです。
ささのはさらさら 芥子菜ジパ子 @karashina285
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