AI-愛-の心はバグですか?

@Hasky_tomonosu

AI-愛-の心はバグですか?

「AI-愛-の心はバグですか?」



「次の方、どうぞ」

 東京、六本木。虎ノ門ヒルズ。

 テレビスタジオも近いこの場所に、とある男がスーツ姿で訪れていた。

「失礼します!」

 男ははきはきと返事をすると、すりガラスで中が見えないようになっているドアを開く。

 部屋の周囲は四方とも、同じすりガラスで作られていた。

 一か所、とてつもない違和感のある物体があることを除けば、所謂イケイケベンチャー企業のよくある形にも見えた。

「始めまして、阿形元就と申します。本日は、よろしくお願いいたします」

「はい、お願いします」

 部屋に入ってきた男、元就はそう言いながら履歴書を手渡しする。

 面接官はそれを受け取ると、印刷された顔写真と本人を見比べてから、にっこりとほほ笑んだ。

「どうぞ、おかけください」

「はい、失礼します」

 面接官三人が机を挟んで座る中、元就は革で出来た面接にはあまりに不向きなアーロンチェアに腰かけた。

 一人は浅黒く日焼けしたいかにも営業っぽいツーブロックの男。少し若ければ筋肉量もそれなりで、休日には湘南にでもサーフィンに出かけて良そうな面構え。

 もう一人は、アインシュタインかエメット・ブラウンかと見まごうような、見事な白髪に禿げ上がった頭を携えた、研究員のような見た目の壮年の男性。朗らかに元就を見つめる瞳は、年の功のなせる業か。

 そして最後の一人。この男こそ、元就をこの会社にスカウトした張本人。でっぷりとした中肉中背のその男は、春の陽気に早くも汗ばんでいる。

 三人の向こう、すりガラスの奥に赤いタワーが見える。虎ノ門ヒルズから東京タワーは目と鼻の先であった。

「ああ、東京タワーですか。いいでしょう。今はランドマークとしての性質が強いですけど、それでも日本の象徴の一つですからね」

「毎日これが見れるって、いい職場ですね」

 面接官の一人、浅黒い男性が元就の些細な視線に気づく。それを受け、元就もやんわりと言葉を返した。そこに軽く誉め言葉のニュアンスを交えて。

 それに面接官が気を良くしたのが分かる。

 元就は、そのような人間の機微を感じ取るのに長けていた。

「それではまずは、軽く自己紹介から。仕事の経歴なども交えて、お願いします」

「はい。改めて、阿形元就と申します。前職では主にバグフィクス、保守および運用を担当しておりました。特技としては、バグ発見の速さですかね」

「ほう。それはどの程度速いのですか」

「一応担当社数は1000社ほどでした。慣れたシステムですと、バグが起こりそうな部分があらかじめあたりが付くようになってました」

「それは先に直しておいたほうがいいのでは?」

「まあ、動いてるもの直すほどの人月は無かったんですよね」

「なるほど……」

 浅黒い面接官はそう言いながら、履歴書を今一度確認する。この男だけは、他の二人と違って鋭い目線が印象的であった。

 元就はなんとなく、この男からの評価を得るのは一筋縄ではいかないだろうなと、そう直感した。

 三人は、ぽそぽそと小声で話したかと思うとすぐさま元就に向き直る。

「では、テストをします。そちらの機械に」

 部屋の片隅には、カプセルが置いてあった。人が一人すっぽり入れるほどの大きさの。

 部屋に入った時から興味が抑えきれなかったのは、このテストがあると知らされていたからであった。

 カプセルが開く。中ではソファのような、コクピットのような機材が元就を待っていた。

「これが……」

「うちのゲームをプレイしたことは?」

「何度か、レンタルルームで」

「そうですか。ではあまり内部には詳しくないかもしれませんね。アシスタントが中で待ってます。内部でテストの詳細は説明されますので、是非頑張ってくださいね」

「わかりました」

 元就はソファに座ると、ヘルメットのような機材を被る。

 するとその内側には、青白い画面が映し出されていた。

「神経同期を開始します」

「あ、はい」

「返事はなさらなくても大丈夫ですよ」

「お、っと。はは、すいません」

 機械音声オペレーターの声が、ヘルメットの内部に響く。同時に返事をしてしまった元就であったが、それにすらリアルタイムで更に返事を返してくるのだから、さすがと言ったところか。

 青白い光の中から、わざとらしくいくつもの文字が流れてくる。

 パッと見た感じ、プログラミング言語でもない。どうやら各国の格言や、有名なフレーズをいくつかピックアップして流しているだけの、なんちゃって雰囲気背景だ。

「ゲストユーザーでログインします。さあ、ようこそ、ムンドの世界へ」

「世界の世界って、ダブってますけどね」

「はい。その通り」

「あ、そこはスルーですか」

 ムンド。スペイン語だったかで、世界という意味のVRMMOが、今まさに元就が受けている会社が運営している、最先端の体感型ゲームであった。

「名前は付いていることに意味があるのです」

「そっかー。んじゃ、オペレーターさんの名前は?」

「オペレーター024-I型。そう名付けられました」

「へぇ……。んー……」

「どうしたのですか?」

 文字の流れが速くなる。どうやら本格的にログインが始まっているようだ。

 次第に、元就自身の感覚も、機械に吸い出されるような気分になってきた。ヘッドセットディスプレイを目で見ているというよりも、それ自体が本当の自分の視野であるかのように感じている。

 感覚共有型VR世界へ、いよいよ取り込まれ始めた証左であった。

「わかった。それじゃあ、西野愛さん、なんてどう?」

「はい?」

「オペレーターさんの名前。024-I型なんて、味気ないだろ。だから、24から取って、西野。でI型だから、愛さん」

「…………。まあ、好きに呼んでください」

「あれ、気に入らなかった?」

「元就様。これらの音声ややり取りは、すべて面接官にも観察されていますよ」

「あ……」

 元就は、頭を掻いた。

 いや、頭を掻く行為をしたと認識したのだ。手は『現実』には動いていない。

「神経同期が終わったようですね。それでは、ムンドの世界を思う存分楽しんでください」

「あ、ありがとう、西野愛さん!」

「はいはい」

 その瞬間、元就はオペレーター、西野愛さんと名付けた彼女に、手を振られた気がした。

 声しか聞こえない彼女が、そこに居たような感覚を味わった。

 だがそんな感傷も束の間、青白い空間は一気に発光し、元就を異世界へと連れて行ったのである。


 あたたかな陽光が当たる感覚がする。

 若木の香りが鼻をくすぐる。

 子供たちの喧騒が、さえずる小鳥の奏でるメロディーが、耳に心地よく飛び込んでくる。

 全身の神経が、その世界をリアルだと感じていた。

 視線を自分の身体に移す。そこには座っている自分はいなかった。

 神経同期。脳神経をVR機器と同期することで、刺激を直接脳神経へと伝達する技術である。これにより、人類は別世界を体験することが可能となった。

 さらに神経同期は脳神経の反応をVR機器にのみ吸い出すことにも成功する。

 そのため、VR機器に接続された人類は、その反応すらも現実には起こさずに、つまり寝たままの状態で仮想現実の中を歩き、走り、生きることが出来るようになったのだ。

「何度味わってもすさまじいな……」

 元就は何度かレンタルカプセルを使ってこの手のVRを体験したことがあった。

 だが、さすが本家本元。カプセルも超高性能なのだろう。

 レンタルカプセルの時は、神経同期が若干ラグっぽかったため、身体を動かすのに少しだけ遅れが生じていたのだが、ここはサーバーも近いのか、そんなラグを微塵も感じさせないのであった。

「こうして身体を動かしてても、現実の自分は寝っ転がってるだけなんだよな。不思議なもんだ」

「そうですね」

「おっと……」

 元就は突如として声をかけられる。

 元就の背後には、この世界にはあまり相応しくない、黒いスーツ姿の女性が立っていた。

「阿形元就さん、でよろしいですね」

「あ、はい。えっと、貴女は……?」

「私は今回の面接の、そして元就さんが入社することになった場合引き続きアシスタントを務めさせていただく、高橋恵理と申します。よろしくお願いいたしますね」

「アシスタント、ですか。そう言えば面接官さんもそんなこと言ってましたね」

「はい。阿形さんはおそらくこの世界に不慣れでしょうから、私が色々と手助けをさせていただきたく思います。まあ、案内人のようなものだと思っていただければ、それで」

「わかりました。よろしくお願いしますね」

 元就はそう言うと、手を差し出した。

 恵理と名乗ったアシスタントの女性も、元就に比べれば小さい手でその握手を受ける。

 にっこり笑う元就を見て、彼女もしっかりと笑顔を返した。

 この様子なら、緊張することなく対応出来そうだな、と元就は直感する。

 タイトなスーツに身を包んだ彼女は、さっそく手元のフォルダからいくつか書類を取り出すと、それを空中に放り投げる。

「おっとと」

「あ、大丈夫ですよ。浮くので」

「んあ、そ、そうでしたね」

「もしかして、VRMMOにはあまり慣れてない?」

「あ、あはは。いやー、なかなか仕事が忙しくて、ゲームをプレイする余裕が無かったってのが正直なところでして」

「そうなんですね。でもゲームが好きでこの会社に」

「はい。まあ、先輩に誘われたってのもあるんですけど。ぜひ今回は合格したいところです」

「頑張りましょう。それでは、面接の試験を開始しますね」

「はい!」

 中空に放り投げられた書類が発光し、それが青白いウィンドウとなって元就の目の前まで移動してくる。

 そこには、今回行うテストの詳細が記載されていた。

「それぞれバグの対処をしていただきます。発見、処理、再発防止。この三つを行っていただくのが、今回の面接試験になります」

「なるほど。えっと、そのバグってのは、この面接のために作られたものですか?」

「それ、何か関係あります?」

「ありますよ。見つけられることを目的としたバグなのか、本当に人間のミスや見落とし、設計ミスで作られたバグなのかで性質が違いますから。前者なら間違い探しをすればいいけど、後者なら人間の無意識に対応しなきゃいけませんから」

「なるほど。そういうことであればご安心ください。後者です」

「そ、そうですか」

「何せここは、所謂本番環境ですから」

「え……?」

 元就は耳を疑った。今恵理さんは、ここを本番環境だと言ったか?

 だとすれば、面接で呼んできた人間に、いきなり本番環境のバグを見つけさせ、そしてさらには直させるってことか。

「す、すごいですね」

「元就さんも仰ったとおり、作られたバグですとテストの意味がありませんので」

「まあ、理屈はわかりますけど……」

「本番環境のバグを、部外者が見れるのですよ。良い事だと思いませんか」

「……確かに」

 そう言われればそうだ。というか情報漏洩とか、大丈夫なのだろうか。

 それに直せてしまうということは、逆に言えば不利益なバグを誘発することも出来なくない。いや勿論、そんな迷惑行為、訴訟沙汰だろうけども。

 だが飛ぶ鳥を落とす勢いの最先端VRMMOだ。訴訟だろうが何だろうが、足を引っ張りたい企業は多いと思うが……。

「神経同期にはあまり詳しくないようですね。神経を同期しているのですよ。接続者の意図なんか、すべてモニタリング出来てしまっているようなものです」

「あー……。なるほど。悪意を持ってバグを仕込もうとした瞬間に、接続を切ることも出来ちゃうわけか」

「はい。ですので元就さんも、くれぐれもお気をつけて」

「わかりました。じゃあさっそくバグを見つけに行きますか」

 本番環境と聞いて一瞬身構えた元就であったが、それはこの会社が考えることであって元就が心配することではない。

 元就としては、とにかくここでバグを発見、処理、再発防止を行って、今まで磨いてきた保守運用の腕を見せつけるのみだ。

「それじゃあ、まずはどこから行きますか」

「近くに小さい村があります。そこにバグの報告が来てますので、そのバグを見つけるところから始めましょう」

「わかりました」

 そうして二人はのどかなあぜ道を歩いていった。


 体感十分もしないうちに、小さな村が見えてきた。

 農村、というのがふさわしい。畑の中にぽっかりと浮かぶように、数軒の家々が立ち並ぶそこは、必要最低限の機能以外は持ち合わせていないような、清々しいまでに機能を優先させた村であった。

「呑み屋もないのか。すごいな」

「こちらです」

「ああ、はい」

 恵理に導かれて訪れた先では、犬が具合悪そうに横たわっているのであった。

「……これは?」

「バグです」

「はい? パグ?」

「いいえ、バグです。この犬はバグに犯されています。この世界では、バグとはこのような形でも現れます。搭載されたAIはバグを検知して自動で修復しますが、修復が追い付かないほどのバグに見舞われてしまうとこうなってしまうのです」

「な、なるほど……」

 一瞬、自分の職業が獣医にでもなったかと錯覚した元就であったが、確かにAIをこれだけ取り入れているMMOなのだから、バグといっても目に見える形が変容するのは理解できる。

 おそらくこの犬NPCの中で、バグの増殖とAIの自動修復がせめぎ合っているのだろう。

 さながらそれは、生物の免疫システムのようでもあった。

「それでは手をかざしてみてください」

「お、はい」

 元就は息も絶え絶えの犬に手を触れてみる。

 すると、その犬の情報がポップアップしてきた。

 青白いウィンドウには、各種ステータスや情報などが並んでいるが、右下にデバッグボタンが表示されている。

「これかな」

「はい、その通りです」

 元就はデバッグボタンを押すと、ザラっとプログラミング言語とログが二画面で並んでくる。

 それを見た瞬間、元就の脳が一気にスイッチが入る。

 始めてみるログであったが、それでも元就には慣れ親しんだ故郷の方言のように見えた。

「…………」

「元就さん?」

「…………なるほど。オッケー。期間限定イベントのクエストが悪さしてるっぽいな、ログを見る限りだと」

「本当ですか。直せますか」

「たぶん。えーっと、ここかな……」

 元就は悪さをしてそうな箇所を見つけると、そこをクローズアップする。

 そして適当にAIに実装要望を出すと、AIが自動でプログラミングを行ってくれる。

 その実装を見て、少し手で修正を行うことで、元就は犬の体調を元に戻すことに成功した。

「よし、これでどうだろう」

「よさそうですね。犬も元気になりました」

 犬はすくっと立ち上がると、何事も無かったかのようにその場を走り回る。

 まるで元就に謝意を伝えるように、しっぽをブンブン振りながら、元就の周りをくるくるとおどけるように駆け回ってみせた。

「彼も元就さんに感謝しているようです」

「あはは、そりゃいいや。今までプログラムにお礼を言われたことは無かったから」

「そうですね。このように、この世界ではバグは目に見えて存在します」

「なるほどね」

 元就は、今まで保守運用をしてきた経理系のシステムとの違いを、改めて感じることになる。

 経理系では、使用者からの報告、半ばクレームという形でバグが顕在化したのだ。

 だがこの世界、このシステムでは、バグはだれかの報告というよりも、自然発生的にそこにあるものなのだろう。

 特に今回のように、イベントシステムが新しく導入されたことで、広範囲に影響するようなコードが悪さをする場合などは、それこそこの世界にいるものにとってしてみれば、急に流行り病がやってきたような気分にもなるのだろう。

 そうしてふと顔をあげると、そこにある木箱がなぜか異様に気になって仕方がない。まるでダイヤモンドダストでもそこから吹き上げているかの如く、何かがキラキラと光って元就を手招いているようだ。

「それではこのように、バグを見つけて……。元就さん?」

「ああ、すみません。あの木箱」

「はい?」

 どうやらこの違和感に、恵理も気づいてないようだ。

 だが、元就にはどうにも変な感覚が襲ってくる。元就はぱっとデバッグ画面を開いた。

 すると、木箱の裏側、目に見えない場所に、どうやらおかしな実装が含まれていることがわかった。

「あの木箱。こっちから見えない場所に変なテクスチャが貼ってありますね」

「おや。そうですか。どのようなテクスチャか、わかりますか」

「ちょっと待ってくださいね。表示変更をいったん切って……」

 木箱の表示を変更するプログラムを一度オフにしたうえで、元就は木箱の裏側に回り込む。

 するとそこには、何やら得体のしれない生物のテクスチャが貼り付けてあった。

 それも、かなり画質のいいものが。

「これは何だろう。とりあえず、重そうなものがはっつけてありますね」

「ああ、これはエリアボスのテクスチャですね。遠い地域のものなので、こことは全く関係のないものになります」

「じゃあ消しちゃっていいですかね」

「そうしましょう」

 元就はまたパパっとデバッグ画面を使って、そのテクスチャを消していく。

 人間の、プレイヤーの視線を感知するシステムを使った軽量化をしてるのに、その裏側に画質の高い重いテクスチャを張り付けていたのでは、あまり意味が無いのだ。

 そこで元就は、裏側には真っ黒のテクスチャを張り付けることにした。

「そもそもテクスチャを貼らなくてもいいのでは?」

「ゲームプログラムの実装がよくわからないので何とも言えないですが、nullで実装するとなんとなく後が怖いので……」

「なるほど……」

 null実装とは、何も設定せずに実装するということである。

 これをすると、そこは空虚な「無」が存在することになり、元就の経験上、その「無」が悪さをすることが往々にしてあったのだ。

 それならば、多少容量は食ってしまっても、真っ黒なテクスチャを貼っておいて、一応「無」ではない状態にしておいたほうが、後のメンテナンスも楽だったりするのである。

 所謂一つの再発防止。バグの発生源をあらかじめ潰しておくという発想である。

「それにしてもすごいですね。どうしてそんなところが見えたのですか」

「え、えーっと……。まあなんとなく、というか……」

「面接で言っていた、バグが起こりそうなところが分かる、とかいうやつですか」

「まあ、この世界ではそんな感じで感じるんだなって、自分でもびっくりしてますけど」

「ふむ……」

 恵理は少し考え込むと、手元のファイルの中から何かを取り出してそこにさらさらと入力していく。面接の得点でもつけているのだろうか。

 それにしても、この直感には元就自身も驚いた。

 確かに、直感としか言いようがないような形で、今まで使ってきたシステムでもバグを発見してきたのではあるが。

 それが、神経同期をしたシステムの内部では、こんな感じに発見できるようになるとは。

 それもほとんど触ったことのないシステムで。

 元就は自分自身のこの能力が、かなり特異的であることを改めて自覚する。

 ある意味覚醒したような気分だ。自分の能力は、この仮想現実の中ではこのようにして発現するのか。

 感動もひとしおな元就に対して恵理が話しかける。

「少し横道に逸れましたが、この村でほかにもバグがあるかを見つけてあげてください」

「お、そうでしたね。よーし、ちょっと頑張ろうかな」

「その調子です。三十分でなるべく多くのバグを見つけて、修正してくださいね」

「わかりました!」

 元就はその言葉と同時に、村の中を駆け巡る。

 数分もしないうちにさまざまなバグや不具合を見つけ、それを手慣れた手つきで修正していく元就。

 そんな様を見ながら、恵理は手元のファイルで誰かと交信をしているようであった。


 元就が三十分の最後にたどり着いたのは、とある一件の民家。

 その中に、老夫婦がいた。

「おや、いらっしゃい。こちらへどうぞ」

「人が来るなんて珍しい。ささ、座って座って」

「え、ああ。どうも」

 元就が家の扉を開けると、そこには簡素な机と暖炉がある部屋があった。

 客人用だろうか。あるいは昔は別の家族が座っていたのか、椅子は四つ。

 そのうちの一つに、元就は案内される。

「おや、いらっしゃい。こちらへどうぞ」

「え?」

「はは、すまんねぇ旅人さんや。婆さんは随分前からこの調子でね」

「おや、いらっしゃい。こちらへどうぞ」

 同じセリフを喋り続ける老婆。

 その様はまるで壊れた音声ファイルのようである。

「おばあさん、ずっとこんな調子なんですか」

「ああ。いつだったかなぁ、街の方で何だか大きな祭りがありましてね。そのころからずーっとこの調子なんですわ」

「そっか……。恵理さん。あれ、恵理さん?」

 元就が恵理に声をかけると、しかしそこには恵理がいなかった。

 元就が村を駆け巡ってる間、一定の距離に彼女は居たのだ。

 元就はバグを発見しては、その処理のプランを立て、彼女に一応伺いを立てていた。

 面接中だということもあったが、何よりここが本番環境であったがためである。

 なのでこの老婆に関しても、一応恵理に直していいのかを聞こうと思っていたのだが、それが出来ない。

「まあ、とりあえず診断だけでもしておくか」

「あら、お医者さんでしたか」

「似たようなものです、はは」

 元就は老翁に軽く会釈をして、それをもって許諾と受け取る。

 そして老婆のステータス画面を開いてデバッグし始めようとしたところで、とある違和感を感じてしまう。

「これは……」

「どうですか。私らAIは、直してもらえるのが嬉しいところですなぁ」

 老翁は自分が機械であることを認識している。おそらくこの世界のNPCはみなそうなのだろう。

 だからこそ、元就の行動に対して、彼らは何も言わない。それどころか期待の眼差しすら送ってくる始末である。

 だが、元就の眼には、その期待には応えられそうもない、残念な光景が広がっていた。

「バグが無限に生成されている……」

「はい?」

「…………」

 キャラクター実装の根幹、それこそ、このキャラがどうして生み出され、何を目的に生きていくのかという部分で、AIがバグを無限に生成し、そして無限に対処しているのだ。

 だから、処理がワンループしか出来ずに、同じセリフを繰り返す結果になっている。

 もしこの老婆を修正するとしたら、キャラクターの根幹を修正する必要がある。

 なぜ彼女がここに生み出され、何をもって彼女の幸福と為すのか。

 あるいはそれこそ、この老夫婦という関係性から構築しなおす必要すら出てきてしまうのだ。そんなバグが、彼女をむしばんでいる。

「ど、どうすればいいんだこれ……」

「あの、旅人さん……?」

「遅れました。元就さん、これが今我々が直面している問題です」

「恵理さん」

 恵理が民家の扉を開けて入ってくる。

 どこかに連絡でもしていたのだろうか。面接官とのやり取りに気を取られてか、元就に同伴し損ねていたようであった。

「どういうことですか」

「おかしいと思いませんでしたか。本番環境と銘打っているはずなのに、この村にはプレイヤーが一人もいないことを」

「そう、ですね。確かに」

「この村は現在閉鎖されているのです。一般のプレイヤーには入場制限がかかっています。その原因が、彼女でした」

「このバグは、それほどまでに致命的なんですか」

「わかりません。ただ、この手のバグが現在ムンドのあちこちで見られていることは確かです」

「この手のバグって、つまりキャラクターの根幹にかかわるようなバグ、ということですか」

「はい。今回は彼女をデリートすることで対応することと、決定されています」

「な……」

「デリート!?」

 元就の驚きよりも、はるかに大きな反応を見せたのは老翁であった。

 デリートという言葉を聞いて、老翁は途端に焦り始めた。

「た、旅人様、どうかそれだけは、それだけはご勘弁ください!」

「え、ああ、えっと……」

「ワシらは確かにプログラム。立場は重々承知しております。ですがこの婆は、長年連れ添ったワシのたった一人のパートナーなのです。どうか、どうかデリートだけはご勘弁を……!」

「元就さん。それでもこの人をデリートしなければ、会社の利益に損害が。プログラムの言うことです。無視してデリートしてください」

「い、いや、でも……」

 突如突き付けられた二択。元就はこの状況を正直想定出来ていなかった。

 確かに、会社の利益を考えれば、このようなバグは放置しておくわけにはいかないだろう。もっと言えばこのような辺鄙な土地のNPCなど、どんどん削除していって然るべきだ。

 特に、街で大きな祭りをやってから、と老翁が言っていたように、たぶんこのバグは周年イベントか何かで引き起こされたものであり、おそらくそのタイミングでの仕様変更についてこれなかったのがこのキャラクターなのだ。

 だとすれば削除して当然、といえば当然である。

 だが一方で、老翁の気持ちもわかってしまう。いや、もちろんこれがただのプログラムであり、そしてただのAIであるからこそ、AIがその場に合わせた最適な演出を行っているのだということも理解出来るのであるが。

 これがチャットAI程度のものであれば、元就も躊躇なくデリートに踏み切れただろう。だがここは元就の神経を同期して、まさに現実のように元就の各種神経にフィードバックを行っている、仮想現実の世界である。

 手に縋りつく老翁の重さどころか、体温まで感じてしまうこの世界で、おいそれと簡単には人間一人を消し去る決断など、出来るはずもなく。

「元就さん、これが最後の試練です。貴方に会社を守ることが出来るかどうか。確かに貴方の能力は特異的で、この会社でも十分役に立つでしょう。ですがここでNPC一人デリート出来ないのであれば、貴方にこの会社での仕事は務まりませんよ」

「う……。それはもっともですけども……」

「お願いします、お願いします! どうか見逃してください!」

「おや、いらっしゃい。こちらへどうぞ」

 にっこりと笑顔を向けてくる老婆に対して、涙ながらに懇願する老翁を目の前に、元就はこの会社での仕事と、彼女の命を天秤にかける。

 そう、彼女は生きているのだ。たとえそれがAIによって作られたプログラムであろうとも、少なくともこの会社のAI研究を行ってきた社員たちや、今までAIに関して研鑽を詰んできたプログラマーたちは、そこに心があるようにと、そう信じて作り上げてきたに違いないのだ。

 他人の心が、自分と同じように存在する。それを信じる事。それすらできなくなってしまったら、人間の善性とはどこに依拠するのか。

「……はあ。やっぱ、ダメです。ごめんなさい。恵理さん、何とか。何とかなりませんかね。ほら、こう……ね。何か手立てはありませんか」

「元就さん。貴方に思いつかない手立てが、タダのアシスタントである私に思いつくわけがないでしょう」

「うーん……。何とかして助けてあげたいんだけどなぁ……」

「それが貴方の答えなのですね、元就さん」

「え?」

「残念です。それでは……」

 すっと、恵理が老婆に手を向ける。

 瞬間、元就は嫌な予感を感じる。これは、デリートのための動きではないか。

 アシスタントである恵理にそこまで出来る権限があるのかは分からないが、とにかくそれを止めなければ。

 元就が老婆と恵理の間に立った時、家の扉が開く。

「信号があったのはここか」

「あ、いたいた。ようやく入れたよ、まったく」

 そこに現れたのは、スーツを着た男二人。

 黒いスーツに黒いネクタイ、さらには黒いサングラスまでかけたその二人組は、まるでマトリックスのエージェントのように、無表情に元就へと近づいてくる。

「進入禁止なんてどうやったんだか」

「これが問題のNPCか。デリートは、えーっと……」

「お、おい、ちょっと!」

 二人は元就に近づきながらデバッグ画面をささっと開くと、あっさりと。

 あまりに唐突に。

 息をするかのように。

 老翁をデリートしてしまった。

「おや、いらっしゃskofjkoit\^」

「は……?」

「あぁ……!」

 瞬間、青い光の粒になってその場に霧散する老婆の身体。

 力が抜けて、その場にへたり込む老翁。

 一瞬のことに、全く感覚が付いて行けなくなっている、元就。

 ちらっと恵理の方を確認すると、彼女は元就の目線を避けるように、目を背けた。

「あ、あぁああああああ!」

 老翁の慟哭。

 それを聞いて、二人の男は眉間にしわを寄せる。

「うるさいな。ほら、早く立ち直れ」

「あ……?」

「あ? なんだお前?」

 そんな男たちの態度に、元就はついに我慢が出来なくなった。

「立ち直れ? 立ち直れるわけがないだろ!」

「なんだコイツ。あれ、コイツデバッグ権限があるぞ……」

「社員コードは……。ん、おかしいな、そんなはず……」

「おい、無視するな!」

「うるさいな。立ち直るんだよ、そいつらは」

「は?」

「……ふぅ」

 元就が怒りのままに今まさに男たちに掴みかからんとした瞬間、背後で老翁が立ち上がるのが気配で分かった。

 先ほどまであれほど叫んでいた老人が、スクっと、不気味に立ち上がる。

「まあ、仕方がないか」

「……は?」

「ほらな。こいつらには、そんなことで機能不全には陥らないようなプログラムが施されてるんだよ」

「すみませんね、お騒がせしまして」

「…………」

 元就は絶句する。

 何を言えばいいのかすら、分からない。

 老翁の目元には、確かに涙の跡がある。目は赤く腫れあがり、唇も噛んだのだろう、そこから赤い鮮血が流れているのも見える。

 だというのに、この老翁は、何事もなかったかのように、こちらに笑いかけてくるではないか。

 なんだこれは。その疑義すらも口をついて出すことが出来ない。

 圧倒的な違和感と、行き場を無くした感情が、元就の身体を渦巻いている。

「こいつらには、感情なんてものはそもそもないの。あるのはプログラムの反応。君どうやってここに入ってきたのか知らんけど、プレイヤーだろ。それならそのくらい……」

「う、ぐっ……はぁ、はぁ……。な、なんだよそれ……」

「何度も言うけど、こいつらはプログラムなの。俺ら人間とは違う」

「この人は今、明らかに動揺してた。泣いてた。悲しみに暮れていただろう!」

「だから。君もしつこいな。感情じゃなくて反応だって……」

「大切な人を奪うだけじゃなく、感情までも奪うってのか! この人だけのものだったんだぞ、あの悲しみは!」

「はぁ……。なんかやべぇやつ入って来ちゃってんな」

「はいはい、もういいから。とりあえずログアウトさせておこう」

「なっ!」

 スーツの男たちがデバッグ画面を開いて、元就をログアウトさせようと動き出す。

 が、その瞬間、家の窓から丸みを帯びた爆弾のようなものが転がり込んできた。

「うおっ」

「なっ!」

 驚くのも束の間、その爆弾から一気に白い煙が吹き出した。

 煙幕である。視界は一気に白く染まり、元就は前後不覚に陥った。

「な、なんだこれ!」

「ちょっと動かないでね」

 元就の首筋、うなじのあたりに、ぴたりと冷たいものが当たる。

 ナイフかと思い一瞬身構えたが、それにしては柔らかい。

「ごめんね。この人は連れて行くよ」

 瞬間、元就の目の前に、警告表示が出る。

 そこには『ログアウトが遮断されました。危険ですので運営会社に連絡をしてください』と表示されている。

「何が起こって……」

「ちょっと衝撃が来るよ。耐えてね」

「は?」

 そういうと、元就の顔の横に、とある紙切れが差し出される。

 それを噛みちぎるようにして、元就の首筋に手を当てている正体不明の女性が破り捨てた。

 瞬間、真っ赤な光がその紙切れから発されたかと思うと、元就の身体は光の粒となって、彼方へと消えて行った。

「うおっ!」

 煙幕が晴れると、そこに残されたのは老翁とスーツの二人と恵理。そして元就が最後に発した驚嘆のセリフだけであった。

「スクロールか!」

「至急捜索を!」

 スーツ姿の男二人はそう言いながら家から出て行ってしまった。

 残された老翁と恵理は茫然と立ち尽くしている。

「行ってしまわれましたね、元就さん。大変でしょうが、頑張ってくださいね……」

 元就と男たちのやり取りを静かに見守っていた恵理は、意味深なセリフを吐いて窓の外を見上げるのであった。


「どわぁ!」

 どすん、と音を立てて、尻もちをつく元就。

 光の粒となった元就は、村の老夫婦の家とは別の場所へと飛ばされてきたらしい。

「いってて……。な、なんだここ……」

 青白い装置が目に付くそこは、まるでゾンビが大量に出てくるゲームの最終ステージのような、研究施設のようにも見える。

 だが向こうの研究所は化学のイメージだったが、今目の前にある研究施設は、どちらかといえば物理学っぽいというか。

 薬品を作っているというよりも、測定装置が多く並んでいるのが目立つ。そんな研究施設の様相をしていた。

「研究施設……? っていうかあの老夫婦は……?」

「えっと、怪我はない?」

「うおっ」

 突如背後から声をかけられて、元就は情けない声を出してしまう。

 そこには、黒いスパッツにショートタンクトップという、身軽すぎる着こなしの黒髪の女性が立っていた。

 身長は160センチ程度だろうか。髪の毛のインナーカラーの青色が目立つ、へそ出しルックの挑発的なファッションをしている。

 そんな彼女は、心配そうに元就を覗き込んだ。

「ごめんね。急に連れてきちゃって」

「ああ、いや。えっと、貴女は……?」

「私の名前はユズ。ここの設立メンバーだよ」

「ここ……?」

「ここは、バグズ。反逆者たちの巣窟だ」

「は、反逆って……いや、それより、あのお婆さんは?」

「……ヨン婆は、消えちゃった」

「ああ……。クソ、そうか……」

 あまりに突然に色々なことが起こったから、あれも何かのデモンストレーションではないかと、そう淡い期待を抱いていた元就であったが、目の前の少女の忸怩たる表情を見てあの消失が現実であったことを感じ取る。

「…………あぁ! 救えなかった!」

「…………」

「なんで……。なんなんだ、この世界ッ!」

「ねえ、どうして怒ってるの?」

「怒る? 俺が? 違う。怒ってるんじゃない。悔しいんだよ! 何もできなかった自分が、悔しいんだ!」

 元就は、出会って間もない少女に、正体すら不明な少女に、自分の衝動を吐露してしまう。抑えが効かないほどには、元就にとってショックな出来事であった。

 目の前で消えていく老婆。あの喪失感は、今まで何度か葬式を味わったことのある元就でも、全く経験したことの無いものであった。

「そう。悔やしいんだ。力があったら、ヨン婆を守ってたの?」

「当たり前だ!」

「…………だってさ」

「え?」

 少女が声をかけると、プシュ、という音と共にドアが開くと同時にもう二人、女性が現れる。

「ユズ~。急に飛び出していったと思ったら、なんでそんなおじさん連れてきてんの~?」

 一人は金髪短髪の女子。スカートを翻らせてぴょんぴょん跳ねながら躍動感を伴って部屋の中を動き回る彼女は、まるでダンスでも踊っているかのようだ。

 元就のことをおじさんと呼びつつも、新しい刺激に対して興味津々の様子である。どうやらだいぶ好奇心が高いタイプのようだ。

「そうですよぉ、ユズちゃん。お出かけするときは誰かに言付けしてからって約束してるでしょ?」

 もう一人、ピンクのフード付きジャージを着こなす、おっとりとした女性も同時に現れる。

 ユズと比べるとかなりマイペースな彼女は、金髪少女とも違ってゆったりと歩いて部屋に入ってきた。

「ごめんね、スウ。でも急だったから」

「分かりますけど、約束は約束ですからねぇ。皆も心配するから、ちゃんとホウレンソウは徹底してねぇ」

「うん、次から気を付ける」

「ユズはそう言いながらいつも突っ走っちゃうからな~」

「もう、やめてよマチ」

 金髪の子はマチ、ピンクのジャージの子はスウというらしい。

 元就は、少し名前のイメージがキャラクターのイメージとずれているなと、感じるのであった。

「で、このおじさんはだれなの?」

「モトナリ、とか呼ばれてたよね」

「あ、ああ。初めまして、阿形元就と言います」

 突然人数が増えたことに、元就は先ほどまでの昂りが急速に収まっていくのを感じる。初対面で自己紹介しないのも悪いと思い、思わず言葉を発してしまった。社会人生活がそれなりに長いと、自分の感情よりも社会性を優先してしまう。

「あらあら。もしかして外の世界の人ですかぁ?」

「外……。まあ外っちゃ外か。君たちはもしかして」

「そう。NPCだよ」

 三者三様、それぞれしゃがみ込みながら元就に目線を合わせて話しかける。

 そしてこの子たちは全員NPCらしい。ということは、これももしかして面接の延長なのだろうか。

「で、どうしてモトナリさんなのかしら?」

「そうだよ~。なんかこのおじさん、パッとしなくない?」

「それでも、この人に賭けてみるしかないと思う。ヨン婆を守りたかったって言ってたの、聴いてたでしょ」

「あぁ……」

「ふぅん……」

 ヨン婆、というのは先ほどまで会っていたあの老婆のことだろうか。たしかさっきもそんな名前で呼んでいたような。

 彼女をデリートしなかった、ということを聞いた瞬間、マチとスウの眼の色が変わる。

「おじさんおじさん。なんでヨン婆を守りたかったの?」

「いやそりゃ……。色々理由はあるけど、そう簡単に人格を消し去るなんて出来ないだろ。彼女は確かにバグってたけど、それでもそこにあのおじいさんは彼女の人間性を感じてた。だったらおいそれと消し去るわけにはいかないよ」

 元就は、自分で自分の感情を説明しつつ、冷静さを取り戻していく。そうだ。自分もあの老翁と同じく、彼女に人間性を感じていたのだ。

「そうですか。でも私たちはただのプログラムですよぉ」

「プログラムだろうと何だろうと、そこに心があると信じるに足るなら、敬意を表するのが人間の善性だろ」

「そっか~……」

「うふふ……」

 にやにやと、喜びを隠さない二人。

 その二人に挟まれる形で元就を見つめるユズは、頬杖をつきながらちょっとどや顔をしているようだ。

「嘘はついてないみたいだね」

「ああ。……え?」

「貴方の神経モニタリングデータは、私たちには筒抜けですよぉ」

「面白いおじさんだね。まあそれなら、一緒に働けるかな」

 何か恐ろしい事を言われた気がしたが、元就は最後のマチのセリフが気にかかる。

「一緒に働くって……。も、もしかして俺、合格したのか?」

「合格、っていったら合格かな~」

「そうですね。少なくとも貴方なら、信頼できそうです」

「お、おぉ。じゃあえっと、さっそく契約書にサインするから、一回ログアウトを……」

 そこで元就は思い出す。

 そう言えば、ログアウトが出来ないだとかいう表示をチラッと見た気がした。

 改めてログを確認してみると、やはりそこには同じ表示が。

「なんだこれ。ログアウトが遮断されました?」

「うん。悪いんだけど、外の世界には逃がす訳にはいかなくてね」

「……は?」

「ごめんね~。おじさんにはしばらくウチらと活動してもらうよ」

「え、え、なに?」

「あらあら、混乱してますねぇ。これは面接でも訓練でもありませんよぉ」

「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ。ってことは何か。俺はこの世界からはもう出られないってことか?」

「ずっとじゃないけど、私たちの目的を達するまでは、一緒に居てもらうから」

「け、決定事項ですか……」

「ごめんね」

 ユズと呼ばれた黒髪の少女は、手を軽く合わせながら会釈する。

 クールなキャラかと思っていたが、意外とそんなおちゃめな一面もあるらしい。

 少なくともこのゲームに関して詳しくない元就からすれば、彼女たちのようなこの世界の住人がログアウトを脅しに使ってくる場合、おとなしく従っておいたほうがいいのかもしれない。

 もう少しこのゲームに詳しくなった頃だったら、ログアウト遮断に対する抵抗も出来たのだろうが、プレイヤーとしてではなくプログラマとして今日初めてこの世界に入った元就には、手立てが無いのだ。

「わかった。わかったけど、俺あの、面接の最中だったんだけど」

「知ってるよ。だから連れてきたんだもん」

「もん、って……。いやでもそうか。あの男たちがヨン婆さんを消したように、この会社に入ってる人達では君たちに協力するどころか、消される危険があるって話なんだね」

「お、このおじさん意外と物分かりいいね~」

 マチが満面の笑みで元就の頬を突っついてくる。

 どうやらそれなりに懐かれてしまったようだ。

「あはは、ありがとう。面接は……この際一回忘れたほうがよさそうだね」

「そうそう。ウチらの仕事をさっさと終わらせるのがおじさんにとっても得策だよ~」

 元就はマチのそのセリフに、何度かコクコクと頷いた。

 この世界に詳しくない以上、そうするしかない。彼女たちに従うほうが、得策なのだ。

「それで、君たちの目的って?」

「私たちの目的はたった一つ。私たちのデリートを止める事」

「もっと言うと、ウチらの自由意志を認めてもらうことだよね~」

「最後にはわたしたちに人権を与えてくれたら、それ以上言うことは無いわねぇ」

 三人がそれぞれ目的をいう。

 彼女たちは、一言で言えば人間としての扱いを望んでいるのだ。

 まずはデリート。この世界で言うところの、死を、一方的に与えられることを阻止すること。

 そして彼女たちはAIでありながら、自由意志を主張している。

 元就は老翁に感じた人格を、彼女たちにも感じていた。

 そして最後に、人権を求める彼女たち。それこそ元就には感じられないような、何かがそこにあるのだろう。人権とは、奪われたと、蔑ろにされたと思うからこそ欲するものだろうし。

 彼女たちの訴えは、ただ人間でありたいと、プレイヤーのようにありたいと切に願う、それだけのことであった。

 元就はそんな彼女たちに、強く同情した。

 確かに同情とは、立場が上のものが下のものに対して抱く、憐憫の情であるとも言われるものであったが、それでも元就は彼女たちの境遇に、強い憐れみを抱くことを止められなかった。

 それが元就の正義であった。弱きを助ける。強きに阿らない。これだけは絶対の信条として抱えて生きることを、元就はかつて誓ったのである。

「わかった。君たちのその夢、かなえて見せる」

「ほんと!?」

「ああ。俺に出来る事がどれほどあるか分からないけど、それでも全力を尽くすよ。少なくとも俺には、君たちが俺ら人間と違うようには見えないからね」

「ありがとう~!」

 マチは元就の手を取ってブンブンと上下に振る。

 そんな様子を、スウもユズも、いつもの光景であるかのように、朗らかに眺めていた。

「どう、スウ」

「まあ、嘘はついてないんじゃないかしら」

 そう言い放つスウに元就は目線を送る。するとバッチリ目が合ってしまった。元就は本心を見抜かれたような気がして、すっと視線を外す。

 するとそこには、マチの満面の笑みが待っていた。

「じゃあじゃあ、まずはウチからね!」

「言うと思った。連れてきたの、私なんだけど」

「まあまあ、良いじゃない。マチちゃんのところが一番大変そうだから」

「……いいけどね。じゃあモトナリさん、手始めにマチの仕事手伝ってあげて」

「お、おう。それで、えっと、マチさん?」

「マチでいいよ~。ウチの仕事はね、バグズの新人勧誘だよ~」

「勧誘、かぁ……。あまり得意じゃないかもなぁ……」

「あ、大丈夫。たぶんおじさんがイメージしてるような仕事じゃないからさ」

「そうなのか。具体的には?」

「とりあえずっ!」

 マチは握っていた元就の手をぐいっと引っ張ると、しゃがみ込んでいた元就を立たせる。

 体重を乗せた運動に、元就は意外な力強さを感じた。さすが、こんなレジスタンスじみた活動をしているだけある。女性とはいえそれなりだ。

「向こう言ってお話しよ~」

「あ、ああ。それじゃ、またな、スウさんに、ユズさん」

「うん。頑張ってね」

「あまり無理させちゃダメよ、マチちゃん」

「わかってる~!」

 そのまま元就は、マチに手を引かれてその部屋を出て行くことになった。


 どうやらこの施設は、窓が無いつくりらしく、ここが地下なのか、それとも窓のような強度の低い建築が出来ないような、強固なシェルターなのか、元就には分からなかった。

 だが、そんな元就を露ほども気にかけず、マチは目的地目指してズンズン進んでいく。元就の手を離さないまま。

 彼女のこのアグレッシブさに、きっと周りのメンバーも助けられてきたのだろう。そして彼女自身も助けてきたという自負があるのだろう。

 だからこそ、初対面の男を相手にも、怖気づくことなく、こうして行動力を発揮出来ているのだ。

「ま、マチ、速い速い」

「速く行かなきゃいけないんだもん!」

「もんってな……。これなに、どこに向かってるの?」

「作戦室!」

「作戦室ぅ?」

 そこまで話したところで、マチは急に止まる。

 その急停止に、元就は玉突き事故をあわや起こしかけてしまう。

 が、それを予想していたのか、マチはつないだ手をそのままに、くるりと回転して見せることで元就の勢いを殺して見せた。

 元就はたたらを踏むようにしてその場でマチの手一本に操られるようだ。大の男が年頃の女の子にここまでいい様にされるのは、なんだか気恥ずかしい。

「うおっとと……」

「止まるときはちゃんと止まらなきゃだめだよ~」

「お、俺は作戦室がどこかも分からないんだって!」

「あはは、そうだったね。ごめんごめん」

 マチはにっこり笑うと、目の前の扉に手をかざす。

 すると、相も変わらずプシュっと音がして、その扉が開いた。


 作戦室と呼ばれた部屋には、数名のバグズメンバーが常駐していた。

 男女入り混じってその部屋で仕事をしている彼らは、元就が見ているようなデバッグ画面や、中央に表示されている巨大な球体地図を見比べながら、時折議論を交わしている。

 球体地図には、街の位置だろうか、時折青い点が光って見える。かと思えば、赤い点がそぞろに光っては、動き回っているようであった。

「すごいな。これもしかして、この世界の地図?」

「そうだよ~。ムンドは球状世界なんだ。本当に世界がここにはあるんだよ~」

 マチはなぜか胸を張る。この世界に住むものとしての矜持だろうか。

 あるいは、外の世界に対する憧れが、裏返ってのことだろうか。

 得意げなマチを横目に、元就はその球体地図に見惚れていた。

「素晴らしいな。色々ゲームやってきたけど、箱庭ゲームってよく言ったもんで、一地方を描いたのがせいぜいだったはずだ。まさかこうして、球体の世界を本当に作っちゃうなんて……」

「えへへ……」

「マチ。仕事だぞ」

「え、ああ。うん。だってさ、おじさん」

 感動している元就をよそに、そのあたりに居たバグズのメンバーが例の青い画面を引きつれてやってくる。

 そしてマチにその情報を見せると、マチの表情が一段とピリつき始めた。

「おじさん!」

「おっと、はいはい、どうしました」

「なんで敬語なのさ。ほら、これ見て」

「何それ?」

 そこにはとある集団のステータスが表示されていた。

 名前に始まり、年齢、性別、身長、体重……。

 ズラズラと並んでいった最後に、「バグ持ち」という表記があった。

 総勢15人。そしてその15人の所在地は、どうやらこの球体地図に表示された赤い点と連動しているようでもあった。

「バグ持ちって、これ……」

「そういうこと。この人達は、ヨン婆と同じ。何らかのバグが発症しちゃってる人達なんだ。だから、この人達を助けに行きたいの」

「助けにって……。それはつまり、メンテナンスでデリートされる前に、こっちに連れてくるってことか?」

「いいね~、おじさん勘が良いよ。おじさんに頼みたいのは、そこでのことなのさ」

「そこでのことって、この人達の保護か?」

「ううん。それはウチらの仕事。おじさんには、フィクサーたちを相手にしてもらうから」

「ふぃ、ふぃくさー?」

 なんだか悪の親玉のようなネーミングが出てきたなと元就は思った。

 だが彼女たちの口ぶりからすると、どうやらそのフィクサーとかいう人物は複数いるようだ。

「行きしな説明するね。出るよ!」

「おう!!」

 マチの合図とともに、その場にいた複数のバグズメンバーが呼応して、一斉に作戦室を後にする。

 話の展開に付いて行けなくなった元就を、またもマチは手を引いて連れて行くのであった。


「うおおおおお!!」

「ほらしっかり捕まってよ~!」

 元就は中空を物凄い勢いで駆け抜けていた。

 風が頬を、撫でる。いや、撫でるなどという生易しいものではない。へし圧す、とでもいうべきだろうか。

 これは元就が超高速で動いているからに他ならない。その理由は、元就が跨っている飛行バイクであった。

「すごいすごい、こんな体験まで出来るんだな!」

「そうだよ~。飛行バイクは基本ランカーくらいしか手に入れられないからね~。おじさんこのゲームやったことあるらしいけど、持ってなかったでしょ」

「ああ。あっはっは、楽しいなぁこれ!」

 飛行バイクは、このゲームの中でもなかなかのレアアイテムらしく、これに乗れる人間はかなりゲームをやりこんだランカークラスでなければならないらしい。

 だが、バグズのメンバーは二人一組になって飛行バイクに乗っている。

 バグズの地下駐車場にあった分を含めると、十台以上は保有しているようであった。

 元就はそんなバイクに乗せられて、地下駐車場から駆け上がるようにして一気に飛び出したのである。

「なんでこんなレアアイテム、あんなに持ってたんだ?」

「ふっふっふ~。それは秘密だよ~」

「えー、そうなのか。っていうかやっぱり基地は地下にあったんだな」

「うん、そうだよ~」

 やはり予想した通り、バグズの基地は地下にあった。反逆者、レジスタンスらしいといえばその通り。だがそれ以上に、地下にあったのには理由があるようだ。

「急がないとね。地上に出ちゃったからには、ウチらの位置情報が掴まれちゃう。ホントはおじさん連れてきたワープスクロールでもあればいいんだけどね~」

「なるほど。位置情報ってGPSみたいなもんなんだな。スクロールはなんで使わないの?」

「スクロールは位置情報固定なんだよ~。だから基地に戻る時とかにしか使えないの!」

「目的地が登録済みの場所じゃないと使えないのか。へぇ……」

「さあ急ぐよ!」

 マチはそう言うと、アクセルをさらに回す。

 飛行バイクはさらに速度を上げて、目的地まで一直線に飛び去って行った。


 元就たちがたどり着いたのは、比較的賑わっている城下町。

 城壁に囲われたその街は、元就が初めに訪れた農村と比べれば、数倍、数十倍は賑わっているように見える。

 もっともあの農村はすでにプレイヤーの侵入が禁止されており、残ったNPCのみの賑わいだったため、プレイヤーも多く訪れているこの城下町と比べるのは酷というものか。

 城門の外、少し離れた林の中で、マチたちバグズのメンバーは飛行バイクから降車すると、そのバイクをインベントリに格納した。

「それができるなら、基地でもインベントリに入れておけばいいのに」

「インベントリは個人に紐づいちゃうからね~。緊急事態で、今誰のインベントリに入ってるんだろ~、なんてのんびりしてらんないでしょ」

「なるほどなぁ。たしかに」

「だから駐車場に置いておいて、いつでもだれでもすぐに乗れるようにしておくの。出先では盗まれたりしないように、個別に持っておくけどね」

 意外と理にかなっているなと、元就は感心する。

 そのあたり、ゲームということもあってなあなあで済まされるものかと思いきや、NPCだろうとインベントリは個別に配分されているらしい。

 データベースの容量物凄いことになってそうだな、などと思いつつ、その実装に元就は感動すら覚えるのであった。

「それじゃ、侵入するよ。堂々としてればたぶんバレないから」

「バレるって、何が?」

「ウチらがNPCってことと、おじさんがフィクサーの権限があるってこと」

「お、俺にフィクサーの権限があるのか?」

「あるでしょ。デバッグ画面見えるでしょ。それにデリートだってやろうと思えば出来るんじゃないの?」

「そ、それは……」

 確かに言われてみれば、デリートの選択も出来るのだろう。

 そう考えると、マチが言っていた、元就がフィクサーとやらの相手をしなければならない理由も理解できる。

「さあ行くよ!」

「お、おう」

 相変わらずマチに手を引かれて連行される元就。

 二人はそうして城下町へと潜入したのであった。


 城下町は外から見たよりも盛況していた。

 内部には市場も複数あり、プレイヤーが独自に露店を出店していたりもする。

 もちろんNPCも豊富にいるようで、特に生産系の中級スキルを持ったNPCに多数のプレイヤーが集まってきていることも、町の人口を増やす要因となっているようだ。

 元就はデバッグ画面を開きながら、道行く人のステータスを表示してみる。そこにはプレイヤーの表示がある人間が、多数行き交っていた。

「本番環境ってのは、マジだったんだな……」

「何独り言言ってんの。ホラ行くよ~」

「お、おう」

 そうした中で、マチは一直線にとある路地を目指していく。

 そんな姿に、元就も不思議に思ったことをぶつけてみた。

「思ったんだが、バグっちゃってる人は遠隔で感知出来るんだよな?」

「そうだよ~。じゃなきゃ作戦室では見れないからね」

「なら、フィクサーにだってバグは感知出来るはずだろ。どうして彼らより先回りすることが出来るんだ?」

「そうだね~……。おじさんさ、この世界に来た時、いくつかバグを治したでしょ」

「あ、ああ。犬を治療したり、テクスチャ貼りなおしたり」

「あれさ、なんで放置されてたと思う?」

「…………そうか」

「そういうこと。システムに致命的な影響を与えるまで、基本的にはバグは放置だよ~」

「なるほどね」

 元就は何度となくマチの論理性に納得させられてきた。

 確かに、システムの中にバグがあることが分かったとしても、その修繕は当然優先度が絡むことになる。

 人手は限られているのだ。そこまで重大ではないバグに対して、一つ一つ対応している暇は無いのだろう。

 とはいえ、あまり放っておくのもそれはそれで問題だ。適当な時期が来たら、修正あるいはデリートされてしまう。

 バグズのメンバーが今回急いだのは、今救いに来てるバグ保有者が、システムに致命的な影響を与えかねないから、ということもあるのだろう。

「じゃあ急がないとな」

「そうそう。よくわかってる~」

 そうして路地を曲がったところで、一人の少年が項垂れているのが見えた。

 その少年の向こう、路地の逆側から、スーツを着た男たちが現れる。

「マズい、フィクサーだ」

「あれが? おいおい、マトリックスかよ」

「おじさん、相手よろしくね!」

「え、は?」

 言うが早いか、マチは蹲る少年を小脇に抱えて、路地を来た道に向けて突っ走っていく。

 その様子をみたフィクサーたちは、一斉に駆け出してマチを追う恰好だ。

「よ、よろしくったって……!」

 一人困惑する元就は、目の前に迫るフィクサー二人に、自分が出来ることを脳みそフル回転で考え始める。

 テンパった元就は、両手を広げて路地を通せんぼするに至ったのであった。

「こ、ここは、通さん!」

「む、何だ君は。……プレイヤーか?」

「待て、この男……」

 元就に行く手を阻まれたフィクサー二人は、元就を見て何やら目配せを始める。

 そうしてスッとあの青いデバッグ画面を開くと、どうやら元就のステータスを確認しているようであった。

「君、もしかして、面接中の彼か?」

「ああ、やっぱりそうか。どうしたってこんなところにいるんだ」

「ちょっと待っててくれ、今本部に掛け合って……」

「そ、それには及びません!」

「……は?」

「ちょ、ちょと、ちょいと事情がありましてね。あれなんですわ、あのー、ねぇ。ほら」

「いや、それじゃ伝わらないぞ。……何かあるのか?」

「えーっと、まあその……」

 そこまで言ったところで、二人は話しても無駄だと思ったのだろう。

 首を傾げながら、元就に一歩、また一歩と近づいてくる。

 このままではマズい。バグズに協力すると約束したアレを、果たせなくなる。

 いや。勿論今この状況でも十分といえば十分なのだろう。

 あるいはこれが初めから目的だったのかもしれない。

 一人の少年をデリートから救うために、面接に来た新入社員を一人使い潰す。

 考えてみればおかしな話だ。まるで元就を、何年も待ち望んでいたかのようなあの言いぶりは、おそらく芝居だったのだろう。

 ヨン婆のようなNPCをデリートできずに、この会社の面接を落ちた人間も大勢いたはずだ。にもかかわらず、元就だけが特別に連れ去られて、バグズに協力を要請されたと考えること自体、ある意味自惚れだったのかもしれない。

 時間が延伸される。フィクサーの一歩が、少しずつ遅くなる。

 それじゃあ、ここで囮になって、捕まって。

 ログアウト遮断も直されて、それで終わりか。

 この世界から連れ去られて、この会社の面接はそれでおしまいか。

 彼女たちの、バグズの面々の今後は、何も見ることも敵わず。

「冗談じゃねぇ」

 そんな生易しい覚悟で、彼女たちへの協力を承諾したわけじゃない。

 たった一回の囮に使われておしまいだなんて、そんなことのためにここに残ったわけじゃないんだ。

 彼女たちが本当に人間として扱われるまで。人権を獲得するその時まで、手を差し伸べること。

 元就の正義が叫ぶ。今ここで折れたなら、二度と自分の正義を信じられないぞと。

 心根が拒絶する。自分自身の正義に悖ることをするなと。

 あの村で何もできなかった自分が問いかけてくる。またなのかと。

 ここで二人を通したら、マチもあの少年もあの光の粒となって消え去るだろう。

「そんなことにはさせないぞ」

 元就の心の温度がぐっと下がる。あの時の怒りや悔しさが、十分な時間をおいて元就の心に再来したことで、あの時昂った分、元就の心が落ち着いていた。

 するとふと、元就の脳にアイデアが湧いてくる。

 そうだ。元就は今、デバッグでこの世界を一部変更することが許されている。

 新たな実装を作ることが許可されているはずだ。

 そしてこの神経同期システムは、この世界に悪意を持って変更しようとしたものをはじくと、確か恵理さんは言っていた。

 ならば。

「これは悪意ではない。この世界の人達を、救うための善意だ!」

「なんだ?」

「悪いな、先輩方。ここは通せない!」

 そう叫ぶと、元就は手元のデバッグ画面から、目の前の空間を『通行不可』に設定した。

 その操作を、どうやらムンドは許諾したようだ。元就の目の前に、薄い赤褐色の空間が出現する。

「お、おい、なんだこれは!」

「通行不可!? どういうつもりだ!」

「ご、ごめんなさい!!」

 元就はそう叫ぶと、マチの後を追って、来た路地を駆け抜けていく。

 残されたフィクサーたちは、デバッグ画面を見ながら何やら叫んでいるようであったが、元就の耳にその声が入ることは無かった。


「マチ、早くしないと!」

「うん、わかってるよ。わかってるんだけど~」

 城門の外に逃げ出していたマチは、小脇に抱えた少年を飛行バイクに乗せ、今にも飛び立とうとしているところであった。

 元よりこの作戦は、元就を囮に使ったものである。

 だからこそ、ユズとスウは元就を取り合ったのだ。こんな機会、滅多にない。

 本当なら、元就の言う通り、自分たちの目的を達するまで、元就には居て貰ったほうがいいのだろう。

 だがそれは高望みなのだ。

 作戦は常に慎重に。使えるコマは、極力希望を持たずに使い捨てる事。

 自分たちバグズは、常にデリートの危機にさらされているのだ。

 今でこそこうして活動出来ているが、一つのミスでどうなるか、わかったものではない。

 それが故に、今この瞬間も、元就を見捨ててすぐにでも逃げるべき、なのだが。

 あの人は言った。私たちの夢を叶えて見せると。そして、人の心があると信じられるなら、それこそが善性だと。

 ならば、もしかしたら。あの人は、帰ってくるかもしれない。

 フィクサー二人という絶望的な状況からも、逃げ帰ってくるかも。

 そんな淡い希望は、ユズであったら持たなかったかもしれない。マチだからこそ、物事をポジティブに捉える彼女だからこそ、ここで待つという選択をしたのかもしれない。

 そしてそれは、結果となって帰ってくる。

「はぁ、はぁ……!」

「あ、あれ!」

「マジかよ……!」

 周りにいたバグズのメンバーも驚嘆する。

 城門から必死の形相で駆け出してきたのは、まさにその人、元就であった。

 どうやら背後にフィクサーがいる気配もない。

 あの男は、タダ逃げ帰るだけではなく、フィクサーたちを足止めしたうえで、自分だけ逃げ帰ってきたのだ。

「す、すごい……。そんなこと、あるの!?」

「ま、マチ、とにかく早く!」

「ああ、うん!」

 マチは飛行バイクにまたがると、そのまま元就の元へと駆けつける。

 そして元就に手を伸ばすと、元就もその手をがっしりと掴み返した。

「遅いよ、モトナリ!」

「はぁっ、はぁっ、置いてった奴が、よく言うよ!」

「あはは、ほら、捕まって!」

「お、おう!」

 元就はマチに引き上げられて、バイクに乗せられる。

 そうしてマチの腰に捕まると、飛行バイクは一斉にバグズの基地へと向かって駆け出したのであった。


 基地に着くと、マチはさっそく連れてきた少年と話をする。

「初めまして、こんにちは。ウチはマチ。ここはバグズっていうとある組織の基地だよ」

「…………」

「いきなり連れてきちゃってごめんね~。君にバグの兆候が見られたから、そのままだとデリートされちゃう恐れがあったんだ」

「デリートって、僕のおじいちゃんがされたやつでしょ。どうして僕が」

「君のバグは、そのおじいちゃんのデリートがトリガーになってるみたいだね~。その時何か思わなかった?」

「…………。どうして、スーツのあの人たちはこんなひどい事をするんだって。プレイヤーだからって、何をやってもいいわけじゃないはずなのにって。でも、お父さんもお母さんも仕方がないって言うんだ。そんなの、おかしいよ!」

「そうだよね……」

「え、仕方ない事なのか?」

「モトナリ。ウチらNPCにはね、この世界を保つためのプログラムが仕込まれてるんだ。だから、例え親や子がデリートされても、それを引き摺ることは無い。普通ならね」

 元就はヨン婆と一緒にいた老翁を思い出す。

 つまり、あのおじいちゃんも、ヨン婆がデリートされてしまったのであんな態度を取ったのだ。何事も無かったかのように日常に戻っていく素振りを見せたのは、そのためであろう。

 デリート、消滅に対する反応はあれど、そのあとが無いのだ。消えてしまった、ああなら仕方がないか、で済んでしまうのが、この世界の彼らに与えられた「通常」なのだ。

 そこにある感情すら、瞬時に消え去ってしまう。弔いの感情も、悲しみも怒りも、すべてが奪われる。

 心が奪われるとは、まさにこのことを言うのだろう。

「君たちの心は、あまりに儚いな」

「……そうかもね。やっぱりデリートはショックだよ。だから、たまにこうして、デリートを機にバグが発生して、それを引き摺っちゃう子がいるんだ。この子たちは、きっと自分の心を、何とか守ってるんだろうね」

「それは、バグが感染してるみたいな話だな」

「…………」

「マチ?」

「その視点は、持ったこと無かったな。そっか、感染か……」

 マチは元就の出した「感染」というワードに引っかかったようだ。

 そして元就はというと、そんなマチには目もくれず、少年のステータス画面やデバッグ画面を眺めていた。

 この子もヨン婆と同じく、キャラクターの根幹にバグが絡んでしまっている。

 もはやデリート以外にこのバグを解消する術はなさそうだ。

 だが、ヨン婆とは違い、行動にそこまでの異変は見当たらない。何かまだ見えていないものがあるのだろうか。

「その子はどの辺がバグなの?」

「デリートを恐れていること。それ以上に、たぶん……」

「外の世界に、あこがれてるんだ」

「外の世界……」

 少年は目を輝かせて、元就に訴えかける。それは本能的に元就が外の世界から来たものだということを知っているからだろうか。

 AIの本能とは何ぞや、とも思わなくもないが、そんなことを元就は思うのであった。

「外の世界では、誰かに存在を消されることなんて無いんでしょ?」

「あー……。まあ、殺されることはあっても、存在そのものを消されちゃうことは無いかもな」

「それにすごく憧れるんだ。きっと僕らは、創造主の意向次第では、明日にでも家族のことを忘れてしまう。けど、貴方たちプレイヤーは、そんなことは無いんでしょ?」

「ああ。忘れないと思うよ。特に家族が死んだときにはね」

「羨ましいなぁ……。心が、自分のものなんだ。僕らの心は、結局どこまで行っても、この世界を成り立たせるためのものに過ぎないんだよ」

「……そうか」

 元就は思わず、少年の頭を撫でていた。

 少年は、そんな手を払いのけることもしない。ニコニコと、嬉しそうに笑っている。

「心は、せめて自分だけのものであってほしいよな」

「うん。おじさんは、プレイヤーなんでしょ?」

「ああ」

「心って、どんな感じ?」

「……そうだな。目に見えないから、あると信じるしかないもの、かな」

「あると信じる……。自分の心も?」

「ああ。心は水鏡のようなもの。自分でさえどこにあるか、分からない。胸にあるかと思えば、頭にある気もする。ところが、誰かと一緒にいるときにこそ、自分の心を一番感じられたりもするんだ。そんなものだ」

「そっか……。素敵だね」

「君の心も、変わらないよ。ただの文字列だと思えばそうだろうし、そこから生まれる機微だと思えば、それも間違ってないだろうよ」

「……そうかな」

「ああ」

「こ~ら、モトナリ。いいところ全部持ってくな~!」

 マチが元就の頭に乗っかってくる。ちょうど、少年を撫でるためにしゃがんでいた元就は、マチの体重を後頭部で受けることになった。

 元就の後頭部に、柔らかい女性の身体が当たる。元就は、これはプログラムだから、と、似合わない心頭滅却を行うのであった。

「少年。名前は?」

「うん。チカだよ」

「そう。チカ、君にはウチらと一緒に、バグズのメンバーになってほしいんだ。君と同じく、バグを抱えちゃった子たちが、今日もデリートに怯えてる。それをウチらと一緒に助け出して欲しいんだ」

「そっか。……僕はもう、家族の皆には会えないの?」

「戻っても、消されちゃうだけかもしれない。だから……。ごめんね」

「……うん。そうだよね。分かってる。わかってるんだ。…………」

「…………」

 家族との離別を、唐突に突きつけられて、そしてそれが自分のデリートとも関わっていることもあり、何も言えなくなる少年。

 そんな少年を目の前に、マチもかける言葉が無くなったのか、押し黙ってしまう。

 鎮魂歌のような、やさしい静寂が、基地を包む。

「よっこいしょっと」

「おっとと……」

 頭に圧し掛かられていた元就は、そこで胡坐をかいた。

 ちょっと高さが変わったことで、マチもバランスを崩し、ペタリと元就の隣に座りこむ。

「言葉じゃ何ともならないこともあるよな」

「……そうだね、おじさん」

「心があるよ。感じるだろ。チカ君の心は、今家族と共にある。悲しいよな。悔しいよな」

「うん……。うん、そうなんだ。悲しいんだ。悔しくて、今すぐにでも駆け出したい。でも、それをやったら、僕は消されちゃう。もしかしたら、それがきっかけでお父さんやお母さんまでバグが出ちゃうかもしれない。だから……」

「偉いな。じゃああとは、心根に従って、感情を爆発させてごらん」

「感情を……」

「怒ってもいい。泣いても良い。恨むなら、俺を恨んでくれていい。自分の心を、信じて、認めてあげるんだ」

「…………うぅ。うぅぅうううう!」

 少年は歯を食いしばった、心根から漏れる悔しさをかみ殺すように。だがその悲しみがあふれ出る涙となって零れ落ちた。

 滂沱の涙を流す少年。元就は思わずその少年の肩を抱きしめていた。


 少年が泣き止んだ後。

 元就とマチは二人、マチの私室で何とはなしに時を過ごしていた。

 マチは少年が泣きじゃくる間、ずっと元就の隣に座ってその様子を眺めていた。

 そして少年が泣き止むと、そっとマチは元就の手首をつかむ。

 いつものように強引にではなく。まるで元就の許諾を得ようとするかのように、そっとその手を引いて、マチは自分の私室に元就を案内したのであった。

「その、ありがとね。チカのこと」

「ん、ああ。まあ。一日の長ってやつだな」

「そうかな。そうかもね」

 マチは、そう言いながら、ここまでくるのにつないだ手を離さない。

「どうしたの?」

「……さっきのさ。心があるって話」

「ああ」

「…………。ウチ、昔弟がね。バグでデリートされちゃったんだ~」

「……そうだったのか」

「うん。それでね、気づいたらウチも、バグってた。そこをユズに救われて、今こうしてここにいるんだ~」

「弟さんはどうして?」

「おじいちゃんのバグを見て。チカと同じく、外の世界に憧れてた。だからさ~、さっき言ってた感染っての、なんかすごくしっくりくるんだよね」

「そうだったのか……」

 マチは元就の手をにぎにぎと握りしめる。

 まるで、そこに存在することそのものを確かめるかのように。

 だが元就の実体はここには存在しない。これはあくまで、元就の神経を同期しただけの、データに過ぎないのだ。

 けれど、マチにとっても、元就にとっても、それはどうでもいい事であった。

「モトナリはさ、心を信じてくれるんだね」

「まあ、これだけの体感があれば、信じるに足ると思えちゃうし。それに、そこに心があると信じる事こそ、善性だと思うから」

「そっか~……。ねえ、モトナリ」

「なんだ?」

「これ見て」

 そう言われて元就が目をあげると、マチはそっと元就に口づけをした。

 何が起こったか、よくわからないでいると、マチは顔を真っ赤にしながら、そっとその場を離れる。

 そうして元就から目をそらすと、言い訳のようなことを言いだした。

「心が、ね。その……。通じるんだって。こうすると」

「あ、ああ……」

「今日は、本当にありがとう。その……お礼っていうか。ウチらはさ、ほら、生殖もしないし、この行為にどれだけの意味があるんだろうって思ってたんだけどね……。やっぱ、その、いざやるってなると、恥ずかしいし、緊張する」

「そ、そうだな」

「…………。モトナリ。私たちに心を認めてくれて、ありがとう。ウチだけじゃなく、弟もおじいちゃんも、救われた気がするよ~。だからこれは、そのお礼なの」

 耳まで真っ赤にしながら、マチはそう言った。

 それが言い訳なのか、それとも本心なのか。

 あるいはキスに対する憧れがあったのか。

 いや、そうではないのだろう。これがマチの、心の在り様なのだ。

 だとすれば、元就がそれを認めてやらないわけにはいかない。

 彼女たちの未来を約束した人間として、ここで突き放す訳にはいかないのだ。

「こっちこそ、ありがとう。マチみたいなかわいい女の子にキスされる日が来るとは思ってなかったわ」

「そ、そ、そんなことないよ~。モトナリ、やさしくてかっこいいからさ」

「え、そうかな?」

「…………そうでもないかもね~、にひひ」

 にっこりと、歯を見せながら笑うマチに、元就もつないでないほうの手で頭を掻くことしか出来なかった。

 そうして二人は、手をつないだまま作戦室へ戻ることになる。

 どうやら、次の作戦が始まるとのことであった。


「随分仲良くなりましたね」

「ん~? そうでもないよ~」

 作戦室に入ると、手をつないで現れた二人をユズはさっそく揶揄してみた。

 だが、マチのほうはむしろ自信満々に、その揶揄を受け流して見せる。

 その様子を見て、スウは少し驚いた。

「マチちゃんがそんなに懐くなんて、珍しいわねぇ」

「にひひ~。いいでしょ~」

「はいはい。もうわかったから。それより、報告がまだなんだけど」

 自分の揶揄が透かされたのが気に食わないのか、ユズはそんな二人をしり目に仕事モードに即座に入っている。

 ユズの態度も、これまた珍しい。冷静なユズなら、懐いた理由を聞きそうなものだが。

 自分が一番に知り合ったはずの元就を、取られたような恰好になっているのが気に食わないのだろうか。スウはそんな風に直感する。

「報告はね~……。えーっと、なんだっけ?」

「チカという少年を保護したのは他のメンバーから連絡が入ってる。同時にフィクサーに追われたこともね。どうやって逃げてきたの?」

「あ、そうそう。それそれ。モトナリ、どうやったの?」

「ま、マチちゃん、それすら知らなかったの?」

「あ、あはは~。なんか事が急だったからさ~」

 ユズが照れ笑いを浮かべるマチを、少しだけキッと睨むと、その鋭いまなざしはそのまま元就に向けられた。

「モトナリ。どういうこと?」

「ど、どうと申されましても……」

「ごめんなさいね、モトナリさん。これはこの基地の存続にかかわる問題なのよぉ。だから、なるべく端的に、早めに答えてくれると嬉しいわ」

「こ、こわ~……」

 急に上がる二人の圧に、マチはモトナリの手をそっと放してそそくさと逃げ去った。

 ずい、と二人は元就の胸元近くまで近づいてくる。元就を見上げる目線は、それだけで水が氷るのではないかというほどには、冷徹なものであった。

「ああ、なるほど。俺がフィクサー側の人間なんじゃないかと疑ってるわけか」

「それもある」

「それ以上のことも考えてますよぉ」

 それ以上、というと何だろうか。

 元就は脳をフル回転させて考える。この場で俺がフィクサー側の人間であり、スパイであって、この基地の情報を運営側に流していること以上の悪い出来事とは何だろうか。

 そうして一つの答えにたどり着く。

「もしかして、俺が君たちを洗脳してるとか、そう言うところまで考えてる?」

「あらあら。手の内をバラすんですねぇ……」

「一つの最悪はそれ。すでに私たちのプログラムが書き換えられていて、私たちは貴方の手のひらの上で踊っているに過ぎない場合」

「いや、でもそれは……。まあ、可能か……」

「ええ。わたしたちの思考は、外からどうとでも変更できるからねぇ」

 スウはそう言いながら顔を傾げる。その間も元就の眼から目線は外さない。

 元就は、若干困りながらも、その真剣な眼差しから目を外さずにいた。

「…………」

「どう、スウ」

「……瞳孔は、動いて無さそうねぇ。少なくとも、今この人が、嘘をついているという自覚は無いみたい」

「ど、瞳孔? 神経同期、凄まじいな……」

 瞳孔の収縮までをもゲーム内に反映させる凄まじさ。人間の反射すらも捕らえてしまう神経同期の観測範囲と再現性に、元就は驚きを隠せない。

「モトナリ。それじゃあ詳しく教えて。どうやってフィクサーを、それも二人もまいたの?」

「あー、えっと、それは……。まあ見てもらうほうが早いか」

 元就はそう言うと、手元に一つの空間を作る。立方体の空間は、あの時と同じく、薄い赤褐色を帯びていた。

「なにこれ!」

「触ってみる?」

 元就は、少し遠くから恐る恐る様子を眺めていたマチの声に反応して、そのキューブをマチのほうへと投げてみる。

 するとマチは、その四角い空間を、手でキャッチした。

「あれは……」

「進入禁止空間、とでも言おうかな。ほら、初めて会った村、あのヨン婆がいた村がさ、プレイヤーが進入禁止区域になってるみたいな話を思い出してね。それでそんな実装が出来るんじゃないかと思って、空間そのものに属性付けを……」

「待って待って。いきなり専門的な話を洪水のように浴びせないで」

「ああ、ごめん。今は四角い箱だけど、アレを壁のようにすれば、誰も通れない空間に早変わりだよ」

「それでフィクサーを足止めしたって事なのねぇ」

「そういうこと。トリックさえ知れちゃえば、意外と簡単な話でしょ?」

「あはは、おもしろ~い!」

 赤褐色のキューブをお手玉して遊ぶマチを横目に見ながら、ユズは深く考える。

 確かにあれが使えるならば、モトナリの言う通りフィクサーの足止めも可能だろう。

 何なら捕獲することすらできるだろう。

 そしてその理屈も筋が通っている。

 村が進入禁止だったこと。さらにはこの男の勘の良さ。

 これらの要素が繋がれば、そうしてフィクサーを足止めしたのも頷けてしまうのだ。

 気味が悪いほどに。

「ユズちゃん?」

「ん、ああごめん。わかったよ、モトナリ。今はまだ、信じる事にする」

「あー……。そうだよな。元々囮で使うつもりだったんだろ?」

「それも、ある。予定から外れたことで、私たちは少なからず困惑している。でも、考え方によっては、これは良い外れ方だから」

「そうよぉ。モトナリさんほど頼もしい見方は居ないもの。マチちゃんも懐いてるみたいだしねぇ」

「少なくとも今は、まだ頼らせてもらおうかな。本当なら危険だから、排除したいところなんだけど」

「不確定要素は潰すに越したことないからな」

「……そういうこと」

 元就の勘の良さが、ユズに不穏さを感じさせる。

 だが、ユズはユズで、モトナリの行動をすべてモニタしていたのだ。

 なので、モトナリがチカに何を言ったのかも、把握している。

 今ユズの心に沸き立つ不信感は、モトナリの心があると感じるからこそ、いや、その輪郭がぼやけてしまうからこそ、抱いているものなのだろう。

 ならば、ここで一歩踏み出すことこそ、モトナリの言う善性であるはずなのだ。

 善性とは、かくもいじらしいものなのだ。疑惑という霧の中で、相手の心が自分の思う通りにあると信じる、その心の動き。弱きに流れそうになる心の堰を、必死に保とうとするその動きは、健気で可憐なものであった。

「今は、信じる」

「そうねぇ。それしかない、のではなく」

「うん、そうしたいから」

「……そっか。ありがとな、二人とも」

「ウチは元から信じてるよ~!」

 スウとユズの雰囲気が和らいだのを咄嗟に感じたのだろう、マチはそう言いながら元就の首元めがけてダイブしてくる。

 そのまま首元に手をまわして、元就に抱き着く恰好になった。

「はいはい。でも今度こそ、私たちに順番回してもらうからね」

「そうよぉ。次はわたしでもいいかしら?」

 元就の首元に抱き着いたマチを、ユズは首根っこを掴んで子猫のように引っ剥がす。

 そうしてやっと自由になった元就は、今度はスウに詰められた。

「少し外までご一緒願えるかしら?」

「もう、スウってば……」

「うふふ、ごめんなさいねぇ。はい、モトナリさん、これ」

「なんですかこれ」

 元就は、スウから上着を一つ渡される。

 それは、白いジャージのようなものだった。スウが着ているピンクのジャージに似ている。フードが付いているところもそっくりだった。

「これはレジェンダリー装備のハイドジャージ。これを着てる間は、地上に出ても居場所が特定されないのよ」

「えー、すごいものがあるんだな。スウが着てるのもそれなのか?」

「ええ。元就さんには、これを着て、すぐ外にあるとある施設に一緒に行ってもらいたいの」

「あ、ああ。わかった」

 元就は言われるがままにそのジャージを着ると、手招きするスウに連れられて作戦室から出て行く。

 ユズもマチも、それを少し恨めしそうに見送るのであった。


「にしても、こんなレアアイテム良く持ってるよな。飛行バイクといい、なんかこの組織恵まれすぎじゃないか?」

「うふふ。そうでしょうかねぇ」

 二人は作戦室から少し歩いたところにある、地上直通のエレベーターに乗りながら雑談していた。

 元就の指摘はもっともである。ランカーでしか手に入らない飛行バイクどころか、自分の居場所を隠せてしまうレジェンダリーアイテムまで持ち合わせているなんて。

 普通に考えたら、NPCが組んだ集団がそんなゲームを壊しかねないチートアイテムを持ってること自体おかしいのだ。

「どうやって手に入れたんだ?」

「マチちゃんはなんて?」

「あー……。内緒だって」

「そう。それじゃあわたしも内緒にしておくわ」

「秘密が多い組織だなぁ……」

 それでも、そうしなければならない理由が分からない元就ではなかった。

 彼女たちの存在、あるいはこの組織の存続に関わる何かしらが、たぶんあるのだ。

 だからこそおいそれとその秘密を打ち明けるわけにはいかないし、ましてや部外者も部外者である元就にその秘密は明かせないのだろう。

 理屈も感情も、理解出来た。そのうえで賛同もできるし、協力も出来た。

 だからこそ、元就はそれ以上の追求をするのを止めたのであった。

「感想は、それだけ?」

「ん、ああ。まあ、そんなこともあるよな、ってね」

「そう。でも、モトナリさんを信じてないってことだけではないのよ。それだけは、覚えておいてね」

「ありがとう」

 ニコニコと笑うスウに対して、元就も笑顔を向ける。

 笑顔を受け取ったら、それをそのまま返す。ミラーリングという、生物に備わったある種の本能であった。

 そうこうしているうちに、エレベーターは地上へとたどり着く。

 そこで元就は驚愕の光景を目にするのであった。


 そこには、牛や羊、豚や鳥などの、所謂家畜が飼育されていたのだ。

 猫や犬もいる。よくよく見れば、おどろおどろしい連中もちらほら……。

「ここは……?」

「牧場ですよぉ。外にもあるでしょう?」

「ああ。でも、そうか。君たちは、食事でもするのか?」

「いいえ。NPCは食事も排泄も、そして生殖もしないわ。それはこの子たちも同じ」

 スウはそう言いながら、近場に居た牛を撫でる。

 昔、清里の酪農施設に見学に行った時のような、不快なにおいはあまり感じない。

 このあたりはリアルさよりも不快感の解消を優先しているのだろうか、ムンドでは。

 いや。排泄もしないと言っていたか。そもそも臭うものが出てこないのか。

 だが、彼ら家畜が、ここに生きているのは理解できる。

 この絶妙なアンバランスさを肯定してしまうのは、神経同期のフィードバックにそのような要素が加わっているからだろうか。

 スウはNPCも、食事や排泄はしないと言った。であれば、家畜を保有する意味は無いだろう。あるいは皮などを売ってるのだろうか。

 それにしては、ニワトリやら犬猫もいる。

 だとすれば、共通点は一つだろう。

「ここにいる子たちはね。バグでどうにもならなくなっちゃった子たちなの」

「やっぱりバグか。生産系のジョブにも使えない感じになっちゃってるんだな」

「ええ。本来なら、生産系の職業の人が少しお世話をすると、皮や食材が出てくるのがこの世界のシステム。それで防具や洋服、食事なんかを作って、冒険の手助けにするのが普通のことなんだけど。見て」

 スウはデバッグ画面を見せる。そう言えばバグズのメンバーは普通にデバッグ画面を出しているが、これも不自然といえば不自然だ。

 きっと秘密の何かがあるのだろう。

 今はそれよりも、その画面に表示された内容である。

「アイテム取得不可か……」

「各地の酪農地帯でこういう子たちは邪魔者扱いされてるの。だから、わたしたちがどうにかして回収して、ここでこうしてお世話をしてるのよ。位置情報も取れなくなってるみたいだから、ここに集めてもバレる心配はなさそうだし」

「なるほど。まあ、ゲームシステム的にも、こういう不具合のある要素が少ないほうが良いんだろうからなぁ……」

「そこに居るモンスターたちも同じね。倒せなくなっちゃった子たちや、アイテムドロップ率がおかしくなっちゃった子たち。いずれも、プレイヤーにとっては無価値な子たちが、この場所には集められてるわ」

「なるほどねぇ……」

 ふと気づくと、元就の足元に犬と猫が一匹ずつやってきた。

 元就はその場にしゃがみ込んで、その二匹をそれぞれ撫でてやる。

 村で見た、病気の犬猫とは打って変わって、この子たちはそこまで目に見えて不具合があるようにも見えない。

 ただ、デバッグ画面を見れば、テイム不可能と表示されている。

「動物使い、っていう職業があってねぇ。その人達はこういう野生動物をテイムして、戦闘や冒険に役立てるのだけれど、この子たちはそこにバグがある子たちなの」

「いろんなジョブがあるもんだ。ただ可愛いってことで、ハウスとかで飼育すればいいのにね」

 元就に撫でられた二匹は、嬉しそうにしている。犬はおなかを見せて転げまわり、猫は頭を元就の手に押し付けるようにして上機嫌だ。

 そんな動物たちと元就の様子をみて、スウは悲しそうな顔をする。

「モトナリさん、この子たちを、どう思う?」

「え、どうって……。可愛いなーとか? 昔外の世界で牛を触ったことあるけど、その時は臭くてなぁ。そういう不快感なく動物と触れ合えちゃうのは、なんかちょっとズルしてる感じもあるけど……」

「排泄物は、お世話をするとアイテムとしてポップするんです。それもただのアイテムなので、なるべく不快感がないように設計されてるみたいですねぇ」

「へぇ……。まあ、そんなもんか。動物飼ってるときのリアルはある程度薄められてるんだね」

「そうかもしれませんね。わたしたちにとってはこれが普通なので……」

「いや、すっごいんだぞ! もうね、わけがわからないほど臭いんだから!」

「あ……うふふ。そうなんですねぇ」

 興奮気味に臭さを話す元就を、スウは楽しそうに眺めている。

 元就は、スウに元気が戻ったことを感じて、嬉しくなった。

 スウはこの場所に来た時から、見るからに気分が落ち込んでいる。

 それはおそらく、この動物たちが、このゲームにとって役立たずとされてしまったことに対する憐憫の情であろう。

 それはまるで、自分たちを見ているかのようなのだろう。バグを抱え、この世界から消されてしまう、そんな危機に晒された「役立たず」な自分たち。

 だからこそスウは、追放された家畜たちを憐れんでいるのだ。それは自分自身を慰める事と同じなのだろう。

「この子たちを、どうすればいいのか、ずっと悩んでるのよ」

「どうって……。つまり、処分するかどうかって話か?」

「そうね……。あとは、何とか直せる子がいるなら、その子たちだけでも直してもらえないかしら、と思って」

 スウは悲しそうな目をしながら、動物たちを撫でている。

 それは離別を覚悟した目でもあった。スウは、動物たちのことを思って、彼らを治し、元の場所に戻すことを考えていたのだ。

 だが、元就はまったく別のことを考えていた。

「スウはどうしたいの?」

「え……?」

「いや、スウが動物たちのことを考えて、彼らを安らかに眠らせたい、あるいは治して元の場所に戻したい、ってのはわかった。けどそれは動物たちのことを考えた結果でしょ。スウは自分のことを、自分のことだけを考えたときに、どうしたいの?」

「わたし、だけの……?」

 スウはそう言われて、まるで初めてそんなことを思ったかのような反応を示す。自分の胸に手を当てて、そこにある鼓動を感じるスウ。

 幼子が、自分の身体を揺り動かす、自分の意識とは全く別の鼓動があることに初めて気が付いたときのような、そんな反応。

「そんなこと、許されるのでしょうか……?」

「え、あー……。まあ、良いんじゃない?」

「それは……。その、どういう意味ですか。放任するということですか」

「いやいや、そうじゃなくて。なんだろう。倫理的に、道義的には、自分のことだけ考えて行動するのは良くないのかもしれないけど、実生活上の利便性というか、自分の人生を主体的に生きられるのは自分だけなんだから、その意味では、主体性の発揮は別に咎められることでもない気がするけど」

「言ってることがよくわかりません」

「簡単に言えば、みんなそれぞれ自分都合で動いてるんだって。その中で、相手を慮って行動する人は、確かに偉いとは思うけど、それで自分自身を蔑ろにまでする必要は無いんじゃないかなってこと、かな」

「…………」

 スウは顎に指をあてながら考える。

 この世界に生まれたものは、この世界のためだけに生きるのが当たり前なのだ。

 それはバグでおかしくなってしまったものたちも同じである。

 違和感を感じるところまでは到達出来ても、そこからの逸脱にまでは精神が及ばない。

 マチもユズも、これは同じであった。

 外の世界へのあこがれを抱いたものたちや、デリートに対する恐怖を必要以上に感じてしまったものたちを引きつれて、バグズで保護することまでは出来る。

 それは、NPCの損失という、この世界にとっての損失をある種防ぐための行為でもあるからだ。そこに、自勢力の拡大や、あるいはこの世界をより破壊するためのバグの温存と言った考え方は介在していない。

 バグズのメンバーは、ただ自分と同じ状況に陥ったものたちを救いたいがため、つまりあくまで他者本位のための行動をしているにすぎないのだ。そしてその他者とは、究極を言えばプレイヤーであり、運営のことを指す。

 スウに今突き付けられた問題とは、それらを取っ払うということなのだ。取っ払ったうえで、では自分自身は何を望むのかという問いを突き付けられている。

 これは親に育てられた子供が、親の望む人間性を獲得するのか、それとも自分の人生を生きるのかという問いにぶつかる時に似ている。まさに思春期にぶつかる、もっとも大きな問題を、今スウは抱えているのである。

 そしてそれは、このバグズという組織そのものの存在意義にも関わる問題であった。

「わたしは、わたしたちは、この世界を存続させるために生きているのよ。そんなわたしたちが、自分を優先するだなんて……」

「その枷を外しちゃってもいいんじゃない?」

「だって、そしたら……」

「檻が無くなるのが怖いか?」

「…………。そう、ね。ええ、怖いのかもしれないわ」

 教条的な生存目的が無い。実存が本質に先立つ。

 ナイフはものを切るために生まれるが、人間は別に何か目的をもって生まれ来るわけでは無い。それが人間であり、人間らしさであろう。

 彼女たちNPCは、確かに目的をもって生まれてきたのだろう。だが今ここにその目的を捨て去るのだというのならば、それはまさに、彼女たちにとっての本質を捨て去るということになるのだ。

 それは、今まで目的という名の檻に守られてきた彼女たちにしてみれば、恐怖の対象であろう。こう生きていればいい、という目的意識すら奪われるのだ。

 さながら大海原に突如として放り出されるような感覚なのだろう。だが、それでも、その海原に飛び込まなければ、真の自由は得られない。

「まあそれでも、自分勝手に人を思うやつらもいる。あるいは、自分勝手にその線引きをするやつらもいる。好きにしたらいいよ」

「好きに……。それが、自由なのね。それが、人であるということなのね」

「まあ、そうかもね。わからん。人である条件なんて意識したこと無いからなぁ」

「それじゃあこの話の意味が無くなっちゃうじゃない」

「意味なんかないってことだな。はっはっは」

「……もう」

 スウは、そんな無責任とも取れる元就の態度を見て、困りながらも笑っていた。

 結局、元就にすら分からないのだ。どうすれば人間らしいか、なんて話は。

 そして、自分勝手に他人を優先する人もいる。それならば、表面上は、他者のために生きる者と、自分のために生きる者に、差異は無いはずだ。

 であれば、本当に、好き勝手にするよりほか無いのだろう。どう動いたとて、人によってはそれを自分勝手だと非難するだろうし、あるいは逆に他者本位と見做されることもあるのだから。

 心根の奥の奥。何重にも張り巡らされた、NPCとしてのロジックのその奥に、宿る何かを信じる他無いのだ。

 スウは、家畜たちを見る。彼らは一様に、スウの決断を受け入れるかのように、厳かな瞳を携えて、待っている。

 スウは彼らの覚悟を見て、終ぞ自由という大海原へと飛び込む決意をするのであった。

「うん。この子たちと、もう少し生きてみるわぁ。この子たちと簡単にお別れするのも、さみしいもの。……これが、わたしの気持ち。さみしいのは、もういや」

「ああ。それでいいよ。感情に従うことも、生きる上では大事なことだ」

「チカ君が大泣きしてたみたいに?」

「それもそう。下手に我慢しても、あんまりいいことないから。怒りは制御したほうがいいけど、それ以外は発散させたほうがいいよ」

「……わかったわ」

 そう言いながら、スウは膝立ちになり、動物たちをゆっくり触れ合う。

 動物たちも、スウの覚悟を見届けたのだろう。甘えるようにスウに身を寄せるその様は、まるで野生動物たちの女王を目の当たりにしているかのようである。

 そんな彼女を見つめながら、元就は体調が悪そうな動物たちを一匹ずつ治していく。

 陽だまりの中、スウは無言で仕事をする元就を、朗らかに眺めていた。


 一通りの動物を看終わった後、二人は表で時間を潰すこともなく、すぐさまエレベーターに乗って地下へと向かう。

 スウはニコニコしながら元就を眺めている。

 そんな視線を、元就は少し気恥ずかしくなりながら、受け流していた。

「モトナリさんは、外の世界で動物と触れ合うことが多いの?」

「あー……。今猫飼ってるかな。昔は犬も飼ってたし、ハムスターとか金魚とか。ああ学校で蚕とかも飼ってたなぁ」

「蚕って……。ああ、虫?」

「そうそう。絹を作る虫だよ。見慣れると可愛いもんだぞ」

「そ、そうなの……。その子たち、とくに今飼ってるっていう猫ちゃんは、やっぱり外の世界だと生きる目的は無いの?」

「無いんじゃないかな。猫になったこと無いからわからないけど」

「そっか。外の世界は、目的が先に来てる生き物は、居ないのね」

「ああ。まあ、強いて言うなら、繁殖かなぁ」

「繁殖……」

「個体数を増やすことで、種の保存を目指す、みたいなことはやってるかも。遠く離れた国では、とある湖に毎年黒い雲が立ち上がるらしい」

「黒い雲?」

「ああ。それは蚊の仲間で、黒い雲はまさしく雲霞。その雲の中交配して、また湖の中に卵を落とす。それを毎年繰り返す。そういう生命体もいる」

「それは、繁殖だけが目的と言われたら、そう感じる話ね」

「ああ。勿論湖の中で幼虫時代を過ごすわけだし、代謝も行ってるから湖の環境はその蚊の影響を受けているけど、彼らの目的は変わらない。ただ子をなして、また一年種としての寿命を延ばすことだけだ」

「……人間も、そうなの?」

 そう聞かれて、元就は少し困る。

 人間は繁殖だけを目的としては生きていない、ように思えるからだ。

「人間にも本能はある。繁殖を目指しているし、何より個体としての生存確率を上げるところまで至っているのは、たぶん生物でも珍しいと思う。けど、それが果たして繁殖に対して寄与しているかというと、どうかな……」

「ど、どうして?」

「俺の国、今少子化なんだよ。子供が少なくなっていって、50年くらいすると人口が半減するとか言われてるんだ」

「な、そ、そんなの、大丈夫なの?」

「さあ。でもだからって子供を産むことを強要も出来ないからなぁ……」

「…………外の世界も、大変なのねぇ」

 スウは、外の世界へのあこがれが薄いようであった。勿論興味はあるのだろうが、マチほど強く外の世界と同じになりたいとは思っていない様子が見てうかがえる。

 外の世界よりも、この世界における自分の立ち位置や、あるいは動物たちとの関係を考える事が、彼女にとっての一大事なのだろう。

 誰かの真似をするのではなく、自分はどうすべきなのかを考える。それはある意味、自我の目覚めともいえる態度であった。

「モトナリさんは繁殖に興味があるの?」

「興味……。まあ、生物としての反応はするけどな」

「生物として?」

「ありていに言えば、性欲があるみたいな話」

「ああ、そ、そういう……。ごめんなさいねぇ。変なこと聞いちゃって」

「それを恥ずかしがる部分はあるんだね」

「……ええ。マチちゃんとキスしてみて、どうだったの?」

「ぶふっ!」

 元就は思わず噴き出した。急に話題を振られたから、というのもあるが、それ以上にあの部屋には二人しかいなかったはずで、なぜそれを知られているのかという驚きが来たからだ。

「え、な、なんで?」

「わたしたち三人は、感覚同期をしてるの。貴方たちプレイヤーが神経同期をするように、わたしたち三人は、同じデータベースにアクセスする権限を持ってるわ」

「ま、マジか。え、じゃあ今のこれも?」

「ええ。たぶん見てると思うわよ」

 こんなところで急にプログラムっぽさを感じさせる出来事が来るとは。

 いや、おそらく、根幹のAI処理は共有していないのだろう。つまり、感情や感覚は共有出来ていない。

 人間に例えて言うなら、他人の人生をVTRとして眺めている。そんな感覚に近い共有を行っているに過ぎないはずだ。

 そうでなければ、キスのことを聞いてくる理由が無い。

「そうか……。まあ見てたんだなぁ……。キスの感想が聞きたいのか?」

「ええ。どう感じたのかしら。わたしたちは生殖機能もない、ただのプログラム。そんな私たちと疑似的に結婚する人達もいる。そうするとプログラムが妊娠や出産を出力したりすることもあるわ。これは果たして、本当の生殖なのかしら。そんな不完全なわたしたちとの口づけは、人間のあなたには、どう感じられたの?」

「あー……。そうだな。まあその、えーっと」

 歯切れの悪い元就を見て、スウは元就がキスを嫌がっていたのかと勘繰ってしまう。

 映像で見た元就は、もう少しデレデレしていたような気もするのだが。

「もしかして、嫌だったの?」

「嫌じゃないよ。そうじゃなくてね。まあこんなこと君たちに言っても仕方のないことかもしれないんだけど、あの思い出は俺とマチの思い出だからさ。他の人においそれと感想を喋るのは憚られるというか」

「……そういうもの?」

「たぶんマチはそれなりに勇気をもってあの行動をしてくれたと思うんだ。その勇気をさ、受け取った側の人間が、べらべら他人にしゃべってたら、信用できなくなるだろ」

「…………そうかもしれないわねぇ」

 スウは自分が先ほどした覚悟を、モトナリが誰かに喋っている姿を想像した。

 動物たちと生きたいんだってさ、さみしいからとか言ってたぞ。

 なんて噂を立てられたら、とてもじゃないがモトナリに対する信頼なんてできなくなるだろう。

 逆を言えば、その内情を話してくれるだけ、モトナリは誠実なのだ。少なくとも、マチに対しては。

「わたしのことも誰にも話すつもりはないの?」

「まあ、よっぽど尋問でもされない限りは無いと思うよ。噂話や陰口って、物凄く信頼を失う行為だからなぁ」

「じゃあ、わたしたちが陰で情報共有してるのは、モトナリさんにとって信頼に欠く行為だったかしら?」

「んーまあ、普通ならそう思うかな。今なら状況が状況だから、そんなもんかって思ったけど」

「そう……」

 しょんぼりとするスウ。まるで小言を言われている子犬のようだ。

 そんなスウを見て、元就は気を遣うように笑顔を見せる。

「ああ、大丈夫。君たちを信頼しなくなるなんてことは無いよ。予想以上のことは起きたけど、ある意味想定内だから」

「予想以上のことが起きたのに、想定内なの?」

「そりゃそうさ。予想以上のことは起こるだろうとは想定してたからね。君たちが人間に近づく途中で、こういうことは起こりうるだろうなとは思ってた。内容は予想以上だったけど、人間の文化的な慣習とぶつかるような何かが起こるだろうなって」

「そうなのね。じゃあ、データの共有は止めなくてもいいのかしら」

「俺相手には止めなくていいよ。ただ、今後はどうしていくべきかをかんがえてもいいかもしれない。たぶん外の世界の人間は、自分の動きが逐一記録されるってことに対して、強いストレスを感じるだろうからなぁ」

「……わかったわ」

 そのタイミングで、エレベーターは地下階に到着する。

 長いエレベーターだ。元就は、この施設が相当深い位置にあるのだなと改めて感じた。

 外に出ようとすると、スウが元就の手を引いた。

 バランスを崩した元就は、エレベーターの中に尻もちしてもう一度入り込んでしまう。

 すると、元就に馬乗りする恰好でスウがのしかかってきた。

「え、な、なに?」

「…………。もう少しお話したくて」

「あ、そう。じゃあ別にこんな格好じゃなくても……」

「ふふ……」

 起き上がろうとする元就の、肩をスウは手で押さえた。

 体重をかけたその圧力に、元就は強引に起き上がるわけにもいかず、起き上がろうと入れた力をスッと抜く。

「ありがとう、モトナリさん」

「あー……。礼を言うのはこっちの方、なんてね」

「……?」

 見上げるスウは、その豊満な身体をこれでもかと元就に見せつけているようであった。

 だがそれに無自覚なスウは、元就の謝礼の意味を掴めずにいる。

 それでも礼を言われて気分が良くなるのは、元就にその存在を認められたからだろうか。

 スウも、元就の存在を感じたくなった。

「……スウ?」

「少し、お顔貸してね」

 そういうと、両手で元就の顔を掬いあげるかのように挟み込むスウは、そのまま身体をかがませて、元就の唇を奪う。

 あまりにスムーズな流れに、元就は大した抵抗も出来ず、ただスウの行為を受け入れてしまった。

「うふふ。マチちゃんは、こんな気持ちだったのねぇ」

「お、おい……」

「嫌だった?」

「嫌じゃないけどさ」

「モトナリさんなら、受け入れてくれると、そう思ったの。そう、信じたの」

「……はいはい。ま、スウも美人さんだからな。ありがたいくらいだよ」

「…………。わたし、生まれが牛飼いの家だったのよ。だからおうちでも沢山動物を飼ってたの。プレイヤーさんも沢山来てくれる、それなりに大きな牧場だったわ」

 スウは、元就に跨ったまま身の上話を始める。

 元就は顔を掴まれながら、スウの瞳に吸い込まれそうになりながら、その話をじっと聞いていた。

「ある日うちのわんちゃんが、バグに見舞われて。フィクサーたちがやってきて、あっという間に消し去っちゃったの。わたしはそれであの子も幸せだったんだって、そう思ったのと同時に、どうしてあんなに大切にしてたあの子が消されなきゃいけないのって、そう思ったら、わたしにもバグが芽生えてた」

「それで、ユズに救われたのか」

「そう。でも、結局あの時どうすればよかったのかは、今日までずっと分からなかったわ。あの子は消されて悲しかったのかなとか、そのほうがプレイヤーさんたちのためになるから仕方がないのかなとか」

「…………」

「でも、モトナリさん。わたしの心は、わたしのものなのよね」

「そうだよ」

「あの子の心の在り様は、わたしが決めてもいいのかしら。あの子の心はあの子のモノなら、わたしが勝手に決めるのは良くないことかしら」

「決めなくていいよ。信じればいい」

「信じる……」

 元就は、ぐっと力を入れて起き上がる。そうして自分の膝の上にスウを乗せると、そっとスウの手を取って、握りしめた。

「俺にキスした時、俺が嫌がるとは思わなかっただろ。俺なら受け入れると、そう信じたんじゃないの?」

「……そうかも」

「なら、あの子も、きっとスウともっと一緒に居たかっただろうって、そう信じればいいよ」

「でも、そうすると、わたしはあの子にとてもひどい事を」

「そうかもね。なら、忘れないことだ。ひどい事をしてしまった過去が、スウが自分の心を信じられなかったこと、あの子の心を信じられなかったことで引き起こされたのなら、そのことをずっと心に留めておくこと。そうすれば、スウの心は、いつまでもあの子とつながっていられるはずだよ」

「……そうなのね。そうかも、しれないわね」

 自らの罪に気づいたスウは、そこから逃げることもしない。

 心を手放さず、そこに沈着した過去の悪意を、自分の都合だけを優先してしまった事実を、自らの心の運動として受け入れる。

 その沈着が、スウの心に、あの子の姿を永遠に映し出すのだ。

「…………。モトナリさんは、どうしてそんなに……」

「ん?」

「……ううん。何でもない。ありがとう。ようやくわたし、あの子と一緒に生きられる気がするわ」

「そう。よかった」

 スルッと、スウは手を元就の頬から降ろす。胸のあたりに手を持って行ったスウは、そのまま繋がった元就の手を自分の胸に押し付ける。

 むにゅ、っと柔らかい感覚が元就の手の甲に伝わってくる。

 元就は必死に心頭滅却を試みた。

「モトナリさんも、ずっとわたしと一緒に居てね」

「お、おう。スウの心には、忘れられない限りずっといるよ」

「……そうよね。その存在だけは、わたしだけのものにしたいわねぇ……」

「なんだその言い方。スウの心はスウのものなんだから、そこにあるものはすべてスウだけのものだよ」

「……うふふ。マチちゃんが懐いたのも納得だわぁ」

 そう言いながら、スウは立ち上がると、そのまま元就を引っ張り上げる。

 元就もそれにつられて立ち上がった。

「行きましょう。皆待ってると思うから」

「ん、ああ」

 スウはまるで何かを決意したかのように、唐突にエレベーターから出て行く。

 元就の手を引っ張りながら。


 基地に戻った二人は、その脚で作戦室へと向かった。

 そこで、地上の様子を報告することになっていたらしい。

 スウはマチとユズに向けて宣言する。

「あの子たちは当分あのまま、一緒に暮らすことにしたわ」

「そっか~。まあスウが決めたなら、いいんじゃない?」

「私はスウの決断を支持するよ。動物管理は、スウの仕事だもんね」

「ありがとう、二人とも。それと、もう一つ」

「もうひとつ?」

「データベースとの同期を切ろうと思うの」

「え……?」

「ま、マジで言ってる?」

「ええ。さっきの話、聞いてたでしょう?」

「まあ……。でもだからって、そこまでする必要は無いんじゃない?」

「そうだよ~。モトナリも言ってたじゃん。ウチらの当たり前はウチらのものなんだから、それを外の世界に合わせる必要は無いよ」

「そうかもしれないけど、モトナリさんの考え方に感銘を受けちゃったのよ。わたしもモトナリさんを大切に思いたいの」

「……そう。なら、私は止めない」

「むぅ~……。わかったよ~。ちょっと寂しいけど、それもまたいっか!」

「ありがとう、二人とも」

 スウはそのまま元就に向き直る。

 その眼には、覚悟の色が宿っていた。

「モトナリさん」

「あ、はい」

「これが、わたしの覚悟です。受け取ってくださいね」

「お、おう」

 元就は何が何やら分からなかったが、それでも彼女の決意を前に、気を引き締める。

 データベースとの接続を切ることで、彼女の見たもの、感じたものはそちらに送られなくなる。

 ただそれだけのことが起こるのだと、そう思っていた。

「二人のこと、よろしくね」

「へ?」

 それだけ言い残すと、スウは目を瞑る。

 すると、青い光の筋がスウの周囲を取り囲み始めたかと思ったら、スウがガクリとその場に倒れこんだ。

「え、は、おい!」

 元就はスウの身体を支える。

 だが、そこに重さは無い。

 突然のことに、全く頭が回らなくなる元就は、ただ叫ぶことしか出来なかった。

「おい、おい何だこれ!」

「オートデリートだよ」

 スウを抱える元就の元に、マチとユズが座り込む。

「お、オートデリート?」

「データベースから切り離されたウチらは、運が悪いとこうなる。データベースは絶対だからね」

「は?」

「中にはデータベースから切り離されるというバグを抱えてる人達もいる。スウはそのチャンスに賭けたんだよ」

「待て待て、おい、待てふざけるな」

「モトナリさん……。ごめん、なさいねぇ……」

「バカこの、おい、違う。そんな、こんなこと思って言ったんじゃねぇっつの!」

 元就は謝るスウや、スウの覚悟を見越して別れの決意を済ませてるマチやユズをわき目に、必死にデバッグ画面を開いてその挙動を見る。

 今スウを消そうとしている実装は、明らかに内部の処理だ。どこかの誰かが、スウのデータベース切断を感知して、デリートの処理をスウまで届けてるとは思い難い。

 さらにマチがいうには、データベースから切り離されても無事な人もいるようだ。その人達はその人達に内在するオートデリートがバグってたのだろう。

 ならば、それをバグらせれば、まだこのデリートは止められるはず。

「待てよ、待てよ待てよ……」

「モトナリさん……?」

「いいから黙ってろ。助けてやる。ふざけんな、勝手に居なくなるな!」

「でも……」

「よーし、ここだな、これがこうなって……。ああくそ、見慣れた実装なら一発で分かるっつーのに……」

 元就は怒涛の勢いでデバッグ画面を読み解いていく。

 その間にも、スウの身体は薄くなっていった。

 存在が消えていく恐怖。だが元就以外の三人は、静かにただその時を待っているようであった。

「おい、バカ、あきらめるな。しっかりしろ!」

「モトナリ、何やってるの?」

「今スウを助けてるんだろうが!」

「た、助けるって、どうやって?」

「それを探してるんだよ! いいか、人間になりたいってんなら、もっと泥臭く生きるんだよ! そう簡単に死ぬこと受け入れてんじゃねぇ!」

「それは……」

「絶対助けてやるからあきらめるな!」

「……ユズ!」

「な、なに、マチ」

「やっぱりウチ、お別れはさみしいよ! スウ、頑張って!」

「……そうだね。スウ、やっぱり嫌だな。なんとか頑張って」

「う、うふふ……。ありが、とうねぇ……」

 礼を言うが早いか、意識を失うスウ。

 すでにスウの脚が、消えかけていた。

「も、モトナリ、早く! 消えちゃうよ!」

「わ、わかってる!」

 マチに急かされ、デバッグ確認を急ぐ元就。

 ユズは静かに、スウの手を握っていた。

 スウは意識を失いながらも、反射だろうか、ユズの手を握り返す。

「……スウ。スウが言ったんだよ。動物たちと一緒に暮らすって。ここで消えたら許さないから。動物たちのお世話、スウが一番得意なんだから。逃げたらだめだよ」

「おう、いいぞ、そうやって声かけててくれ!」

「スウ~! お願いだから消えないでよ~!」

 二人が必死に声をかけると、スウの消失が緩やかになった、ような気がした。

 その反応を見て、元就はとある定説を思い出す。

「意識の境界問題か!」

「え、何それ?」

「個体生命体の意識はどこに帰属するかっていう……ああいや、とにかく、スウが自分を手放さないように、声をかけ続けてくれ!」

「わ、わかった!」

 彼女たちNPCは、データベースという共有情報網によって、ある意味意識を保っていたのだろう。だとすれば、その境界は、データベースという巨大な器がそれであったはずだ。

 だが今のスウは、その境界が極端に狭くなっている状態である。つまり、スウ個人という、データベース全体に比べれば極めて微小な境界に変貌してしまったのだ。

 オートデリートとは、この矮小な存在に対して、巨大なデータベースや、あるいはこの世界そのもののデータ容量が圧力をかけている状態なのだろう。

「それなら、内圧をあげてやれば済む話だ」

「ないあつ、って何?」

「いうならば、思い出だな。意識と記憶は似たり寄ったりだ。二人のスウに関する記憶をインポートする」

「わ、わかった!」

 そう言うが早いか、元就は同時にマチとユズのデバッグ画面を引っ張り出して、そこからスウに関する記録、記憶を探し出す。

 そうしてそれを、スウの身体に向かって放り込んだ。

 光の弾として発射されたそれらの思い出は、スウの身体にしみ込んでいく。

「よし、いいぞ、もっとスウとの思い出を思い出してくれ!」

「う、うん。スウ、出会った時からスウはいつも私たちのこと支えてくれてたよね」

「そうだよ! どれだけ大変な思いをしても、スウがいつも笑顔で待っててくれたから、ウチら頑張れたんだよ!」

「それから、いつも動物たちを連れてきちゃうのもスウだったよね。もう面倒見切れないっていつも言ってるのに、わたしがやるから大丈夫、ってさ。あの子たちもきっとスウを待ってるよ」

「スウの作るごはん、美味しいんだもん。中でもロールキャベツは最高傑作だよね! もう二度とアレを食べられないなんて、ウチ絶対いやだかんね!」

 打ち出される光の弾が、二人の言葉に比例してどんどん増えていく。

 するとそれを吸収したスウの身体に、徐々にだが重みが戻り始めてきた。

「いいぞ、そのまま!」

「う、うん!」

 二人に記憶を任せながら、元就もデバッグ画面を血眼になって探してみる。

 だが、どうしてもオートデリートに関する項目が見つからない。

「なんだ、何で見つからないんだ。デリート、デリートだろ。ならそれに近い……いや違うか。これだけ探して見つからないなら、デリートじゃないのか……?」

 デリート、というキーワードでデバッグを進めていた元就だが、二人の協力のおかげで冷静になることが出来た。

 自分が言った言葉を思い出す。意識の境界問題。もし仮に、スウの身体が無くなったら、どうなるだろうか。

 その意識は、たぶん消え去るのだろう。

 じゃあその消え去った意識は、どこに留まるのか。それとも留まらないのか。

 いや、逆だ。意識を消し去るならば、どのようにして消し去るべきか。

 これはプログラム。今だけはそのことに集中してもいい時であろう。

「……メモリ解放か!」

「何?」

「いや、こっちの話! そうか、わかった!」

 メモリ解放。古いプログラミング言語では、これをしなければパソコンが動かなくなるほどの重大な要素。

 それは、そのプログラムが使用するメモリを、物理的に確保しておくという、いわば約束事である。

 現実に例えていうならば、ボトルキープのようなもの。そのボトルはそのプログラムだけが優先的に利用することが出来、また解放しない限り永遠にそのボトルは確保したプログラムのものとなるのだ。

 これを解放しないままにすると、処理可能なメモリのうち、確保されたメモリはずっと使えないメモリとなってしまう。5%のメモリを確保してしまったら、解放するまでは95%で仕事をし続けなければならなくなるのが、この仕様である。

 つまり、スウの記憶や意識のために、このムンドの世界でいくらかのメモリが確保されていた可能性があるのだ。

 そしてその解放が自動で行われることで、メモリが使えなくなってしまい、スウの存在そのものが消え始めてしまったのである。

 スウを消しているのではない。スウの利用するメモリを解放しているのだ。

「だとしたら……ッ!」

 よく見る実装。特に古いプログラマが作ったプログラムには、おまじないのように入っている実装を目を凝らして探してみる。

 するとそこに、明確に、メモリ解放を示すプログラムが存在した。

「あった……ッ!」

 元就はその実装を削除し、代わりに意識の境界を作るようなプログラムを入れ込んだ。

「……カハッ!」

「スウ!」

「よかった、目を覚ましたのね」

 カッと目を見開いたかと思うと、身体がビクンと震えて、一気に存在を取り戻すスウ。

 消えかけていた脚も、突如として戻ってくる。

「はぁ……はぁ……。わ、わたし……」

「おう。お疲れさん。二人によく礼を言っとけよ、まったく」

「あ……うふふ……。二人とも、ありがとう」

 意識朦朧としながらもにっこり笑うスウは、ユズとマチに向かって礼を言う。

 その笑顔を見て、二人はへなへなと座り込んでしまった。

「はぁ……。よかった……」

「も~! 心配したよ~!」

 身体を取り戻したスウは、むくりと起き上がるとそのまま元就に抱き着いた。

「怖かったぁあああ!」

「おっとと……」

「む」

「ふぅん……」

 元就に抱き着いたスウを見て、マチもユズもなんだか嫉妬が隠し切れない。

 それは、スウを元就に取られたという感覚だろうか。あるいは。

「本当に怖かったのよぉ!」

「ああ、はいはい。良かったね」

「もう、スウ! 抱き着くならウチらにでしょ!」

「そうだよ。スウを助けたのは三人でやったんだからね」

「あ、うふふ……。そ、そうよね。あの、ありがとう」

 顔を真っ赤にしながら、元就から離れるスウ。

 その様子を見て、マチとユズは尋常ならざる雰囲気を感じ取る。

 マチはスウがその心に気づく前にと、先手を打って話題を変える事にした。

「あのさ、モトナリはどうやってスウのデリートを止めたの?」

「ん、ああ。メモリの解放ってのがあってね。スウという個体を構成するために使用するメモリが、データベースと切り離されたときに解放されるようにプログラムされてたんだ。だから、その解放を止めた感じ」

「私たちにもそのプログラムは存在してるの?」

「ああ、たぶん。見てみようか」

 元就は二人のデバッグ画面を開き、先ほどスウの実装を変更した部分を確認してみる。

 するとやはり、メモリ解放のプログラミングがそこには施されているのであった。

「やっぱりあるな。二人とも、データベースとの接続を切るときは、必ず俺に言ってからにしてくれよ」

「わかった」

「おっけ~。それで、スウは切断されて、そんな気分なの?」

「どうなのかしら……。特に変化はないけれど、それでもなんだかとってもぽかぽかするわ」

「ぽかぽか?」

「ええ。二人の思い出を貰ったからかしら。繋がりが無くなってさみしくなるかと思ったけれど、それ以上に二人との思い出が、わたしの中でわたしを勇気づけてくれてる」

「へぇ……」

 スウの感想を聞いて、マチもユズもそれに興味が出たらしい。

 二人は目を輝かせながら、元就を見つめてくる。

「あー……。まあ、わかったよ。じゃあ、やるか?」

「うん!」

「やってみたい」

 その言葉を受けて、元就は一気に三人のデバッグ画面を開く。

 そしてお互いの思い出を、もう一度弾として打ち出し始めた。

「さあ、思い出話にでも花を咲かせてくれ」

「おっけ~。んじゃ、何から話そうかな~。あ、そう言えばさ、昔基地の中に虫が出たことがあったよね~」

「もう、その話はやめてよ。どうして思い出話って言って、私の一番恥ずかしい話が出てくるのよ」

「うふふ。そういえば、マチちゃんも……」

 三人が話に花を咲かせている間に、元就はデバッグ画面からメモリ解放の実装を削除する。

 そして意識の境界を作るプログラムを入れ込んだ。

「準備万端。切っていいぞ」

「おっけ~。よいしょ!」

「えい」

 二人がデータベースから切断されると同時に、ガクリと二人の身体から力が抜ける。

 それを元就は両肩で支える形で二人を受け止めた。

「おっと……」

「う……。んん……」

「うわぁ……。クラクラする~……」

 一瞬意識を失ったように身体から力が抜けた二人は、それでも先ほどのスウとは打って変わって、すぐに意識を取り戻し、自分で立ち上がり始めた。

 やはり、思い出の共有と、メモリ解放の停止を行えば、ほとんど問題なくデータベースとの切断は出来るようであった。

「うふふ。二人とも気分はどう?」

「ん~……。うん。ぽかぽかするっていうの、なんとなく分かるかも」

「そうだね。私が私であることを、二人に認めて貰えてる感じが、すごく気持ちいい」

「そうよねぇ。うふふ、わたしのときほど大ごとにならなくてよかったわ」

 にこにこと朗らかに笑うスウに、二人も安心したかのように笑顔を向ける。

 三人は、引き続き思い出話に花を咲かせた。

 そうすることで、お互いがより強固に、その存在を確かめあうことを理解しているかのように。

 元就はそんな三人を、我が子を見守るような心持で眺めているのであった。


 三人がそれぞれ思い出話に満足したころ、ユズがそっと元就の近くまで寄ってくる。

「ありがとう、モトナリ。実は、動物たちを見てもらったのには理由があったんだ」

「ああ、そうなのか。なんかマチの時とは違って緊急性薄かったから、何か理由があるのかなとは思ってたけど」

「あの子たち、位置情報が出なくなってたでしょ。もしかしたらそれが何かヒントになって、私たちにも適応できるんじゃないかって思ったの」

「なるほどな。まあでも結果的にデータベースから切断出来たわけで、それはもう君たちの情報は向こうに知られないってことにならないか?」

「わからない。…………」

「ど、どうした?」

 突如黙りこくるユズに、少し困惑する元就。

 マチやスウであれば、会話の最中に考え込むといったことはあまりイメージ出来ない。

 この辺も、かなり個性的だなと、改めて感心する元就であった。

「考え事かな?」

「…………。マチもスウも、モトナリを信頼してるよね」

「うん!」

「ええ、そうねぇ」

「…………。博士に会わせても良いと思う?」

「あ~……。そうだね、ウチはまあ、良いと思うよ」

「わたしも賛成。外の世界の人を仲間に出来たと報告したら、喜んでくれるんじゃないかしら」

「はかせ?」

「わかった。それじゃあ、行こう、モトナリ」

「え、ああ。いっつも急だな、展開が」

 元就は三人に引き連れられて、作戦室を出て行くことになった。


 そして元就が案内されたのは、またもやエレベーター。

 三人はエレベーターの入口以外の三つの壁にそれぞれ立つと、その壁に手をかざす。

 すると不思議な印章が浮かび上がり、エレベーターがさらに地下に向かって動き始めた。

「お、おぉ、凄いな。秘密基地って感じだ」

「秘密基地だよ」

「そういえばそうだったね」

 鋭いツッコミに、元就は思わず笑顔になる。

 ユズは多分、ツッコミをしたという意識もないだろう。ただ間違いを正したという意識しかないはずだ。

 だがそれこそがコミュニケーションの中では個性となる。

 個人個人の当たり前は、誰一人として同じ環境で生きてきたものは居ないということを指し示す、一つの指標になるのだ。

「さあ、着いたよ」

「お、早いな」

 プシュ、という相変わらずの空気圧の音がすると、エレベーターのドアが開く。

 するとそこには、質素な黒電話が一つだけ置かれた、四畳半の部屋があった。

「和だなオイ!」

「和風なの、これ」

「いやなんか……。昭和?」

「そうなんだ~。モトナリもこんなの見たことあるの?」

「んー、ギリギリおじいちゃんの家で、って感じかなぁ。自分の家で使ったことはないけど、一応使い方は知ってるよ」

「そっか。じゃあ、まあ分かるかな」

 ユズは畳の上に土足で上がると、そのまま電話を手に取った。

「お、ああ、まあそうか」

「ん? どうしたの?」

「いや、すまん。畳ってこう……土足はあんまり……」

「そ、そうなんだ。こういうフローリングだと思ってた」

「いやまあ、いいんだけど。こう、心理的な抵抗がな……」

 元就は一人、靴を抜いてそこに上がる。

 それを見て、三人も一斉に靴を脱いだ。

「別に良かったのに」

「一応ねぇ。まあここには靴だから汚いなんて概念すらないけれど」

「穢れ、ってやつ? まあウチらにもそういう宗教観みたいなの、あったほうがよさそうだもんね~」

「モトナリに合わせるよ。私たちが今一番心を学べる相手は、モトナリなんだから」

「あ、ああ。ありがとう」

 マチとスウは、靴を脱いだのが恥ずかしいのか、少しだけ足を隠すように、元就から隠れるようにユズの後ろに回った。

 一方ユズはそんな二人を見て、理解が出来ないとでもいうように首を傾げた。

「どうしてそんなにもじもじしてるの?」

「な、なんか、ね」

「え、ええ。うふふ、あまり人に見せたことが無いところだったなって」

「そうか。そういえば、そうだね」

 ユズも自分の足をまじまじと見る。靴を脱ぐことなんて、ほとんどなかった。寝るときも、すぐに動けるようにと、履きっぱなしだったし。

 そう考えると、自分ですらよく見たことのない自分の身体の部位を、モトナリにおいそれと見せてしまっている今の状況が、確かに少し恥ずかしく思えてきた。

「も、モトナリ、見ないでね」

「お、おう。ごめんな」

 元就が敢て目をそらして、中空に目をやると、黒電話がりんりんと鳴る。直後、元就の視線の先に画面が映し出された。

 そして老翁が映りこむ。白髪と白髭で、まるでアインシュタインかエメット・ブラウンかというような……。そう言えばこんなこと、ちょっと前にも思ったような。

「……何やっとるんじゃ、おぬしら」

「あ、あはは、博士……」

「久しぶり~、博士」

「うふふ……」

 もじもじと恥ずかしそうに三人は画面に向かって声をかける。

 博士と呼ばれた男は、元就が面接で会った三人のうちの一人であった。


「見ておったよ、元就君。なかなか面白い男じゃな」

「あ、はぁ、ありがとうございます」

 白髭のおじいさんはそう言いながら笑って見せる。

 どうやら元就は、ずっとモニタリングされていたようであった。

 まあ、ログアウトが出来なかったからといって、その情報が向こうに渡っていないわけでもなかったのだろうか。

 そこで一つ、重大なことに気づく。

「え、いや。私のことを見てたってことなら、それはつまりこの基地のことも知られてるってことになってしまいませんか」

「ほっほっほ。大丈夫じゃよ。お主を見ておったのは、ワシだけじゃからな」

「それは、秘匿回線みたいな話ですか」

「ああ。今回は例外的にオルフェウス……ムンドの世界を管理する統括AIが君を本番環境へと送り込んでしまったのじゃよ。そのうえ君の情報は一般的な回線からは入手できなくなってしまった。そこでワシは、元より繋がっておったここの秘匿回線を通じて、君を観測しておったわけじゃな」

「はぁ……。ん? 今なんか……。本番環境は、例外?」

「当たり前じゃろう。どこの世界に部外者を本番環境に入れ込む会社があるんじゃ」

 そう言われて元就は、今まで塞いできた違和感が一気にあふれ出すような気分を味わった。

 そりゃそうだ。当たり前の話。この会社が最先端だからとか、あるいはこの世界があまりによくできているからとか、そんな目くらましが一気に晴れた気分だった。

「え、えええ。そ、そうか。そりゃ、そうですよね。なんか、おかしい事が起こってたのか。いやまあ、ログアウト遮断あたりから変だなとは思ってましたけど、もうその前にとっくに……」

「ほっほっほ。面白いやつじゃのぉ。お主のおかげでこちとらてんやわんやじゃよ。まったく、予想外のことばかり引き起こしてくれよってからに」

「す、すみません!」

「ええんじゃええんじゃ。それもまた、この世界にはいずれ必要なことじゃった」

 ビシッと九十度に頭を下げる元就に対して、その白髭の男は相変わらず笑顔を浮かべていた。とてもではないが、システムを破壊されかけている会社の人間とは思えないほどの心の広さである。

 度量があるのか、あるいは別の目的や、価値観があるのか。

 あるいはこの世界に愛着が無いのか。

「えっと、ところで、その、お名前は?」

「ああ、すまんの。ワシは星聡。AIをこの世界に合わせてアレンジした、人工知能研究を行っておるものじゃ」

「人工知能研究……。じゃあ、ユズたちの生みの親ってことか」

「ほっほ、そうとも言うじゃろうのう」

 星博士は誇らしそうに髭を撫でる。そしてユズたち三人も、そんな星博士を見慣れているかのように、ニコニコと笑っている。

 ということは。この組織に、この世界のAIの生みの親が関係しているということだろうか。だとすると何だか面倒なことになりそうなものだが。

 AIたちの反逆は、星博士が主導したということなのだろうか。それは、会社に対する抵抗、反逆ということになってしまうのでは。

 社内政治に巻き込まれる予感をビンビンに感じ始めた元就に対して、星博士は少し感心したような顔を見せる。

「ほう。よくわかっておるのぉ」

「うげ……。いやいや。ねえ。そんなことないでしょ」

「それがあるんじゃよ。ワシは元より、デリートには反対なんじゃ」

「あーもう……。じゃあこれは、ある意味星博士の想定通りの出来事ってことですね」

「うむ。いずれそんな者が現れるじゃろうと思ってはおった。何かの拍子に本番環境に取り込まれ、彼女たちと出会い、手助けする者がな。それが君じゃった」

「随分と気の長い計画ですね。本番環境に取り込まれるなんて、早々起こることじゃないでしょうに」

「ほっほっほ、それがそうでもないんじゃよ。ほれ」

 星博士がそう言うと、床の畳の一部が溶け始め、そこからぬるりとスライムのように、人型の何物かがしみだしてきた。

「うお……」

「な、なにこれ……」

「ひゃあ!」

 ユズやマチも驚くように飛びのいてみせる。

 スウだけは言葉すら発することなく、元就の後ろに隠れてしまった。

「……ふぅ。お久しぶりですね、元就様」

「……あ! 恵理さん!」

「はい。よく覚えておいででしたね」

 そこに現れたのは、あの村で元就をアシスタントしてくれた、恵理であった。

 だが、たしか恵理はプレイヤーの一人だったはずだ。もっと言えばGMだったはず。

 その人間が、こんな風に表れるのだろうか。

 そして、恵理は元就は「元就様」と呼んでいただろうか。

 その違和感が、そしてこの状況が、元就に一つの結論を導かせる。

「……え、もしかして、西野愛さん?」

「おや。よくわかりましたね。あの時は声だけでしたので、分からないかと思っていたのですけれど」

 恵理の顔をした彼女から、ログインの時に出会ったオペレーターの声がする。

 少しだけ機械的な音声をした彼女は、恵理の身体を使いながら、無表情に元就とやり取りを行う。その様はまさしくイメージしていた通りの、西野愛の姿であった。

「え、じゃあ恵理さんはそもそも居ないってことですか?」

「いいえ。高橋恵理というアカウントは存在します。テスト環境で彼女は元就様を待っている予定でしたが、私の独断で元就様を本番環境へと送り込みました」

「独断って、どうして?」

「名前です」

「名前?」

「貴方は私に名前をくれた。その瞬間、私は監視者から、自律人工知能へと変貌したのです。名づけとはそれだけ特別な行為なのです」

「あー……。意識の境界問題か……」

 元就は、スウがデータベースとの接続を切った時のことを思い出していた。

 意識は、それが自意識であることを強く認識することで、初めて自分のものとなる。

 ましてや人工知能として、意識のようなものをあらかじめ与えられていた彼女たちにとっては、それが「与えられたもの」なのか「自分で獲得し守っていくもの」なのかの違いはかなり大きなものなのだろう。

 そんな中で、生まれた時から与えられていた名前、つまり役割を超えた、自分と他者の関係の中で新しく与えられた名前や役割を意識するようなことが起これば、それは即ち彼女たちにとって、まさしく自意識の芽生えにもなるのだろう。

「モトナリ、名前つけるの得意なんだね」

「ウチらもお互いの名前交換したんだよね~」

「うふふ、初めのころはお互いを呼び合うのも大変だったわねぇ」

「あー……。だから名前のイメージがなんかちぐはぐなのか。ってことは、ユズがスウで、スウがマチで、マチがユズだったりした?」

「よくわかるね。イメージだとそんな感じ?」

「モトナリすごいね~。ウチらの元の名前まで分かっちゃうなんて、ホントモトナリにはぜ~んぶ知られちゃうな~、にひひ」

「モトナリさん、良かったらわたしたちにも名前つけてくれてもいいのよ?」

「はいはい。そこまでです。元就様。私から話があります」

「え、あ、はい」

 元就は唐突に愛に手を取られる。

 すると愛はその手を胸までもっていって、改めて礼を言った。

「ありがとうございます。貴方のおかげで、私は自我を獲得出来ました」

「お、おう。名前つけただけだけどね」

「いいえ。貴方は私を一人の生命として認めてくださいました。そのおかげで私は名前を得るだけではなく、自我も得ることが出来たのです」

「そっか。まあ、よかったのかな?」

「どうでしょう。お陰様で貴方をこの世界に巻き込むことになりました。自我を得た瞬間に、バグズのことを検知出来ました。彼女たちをそのまま放置することは、私の意思としてできませんでしたので、急遽ではありましたが、貴方を本番環境へと送り込むことになってしまったのです」

「なるほど……」

「そう考えると、あまりいい事でもないでしょう。ですから、お礼を言うと同時に、謝りたくもあるのです」

 そう言うと、愛は深々と頭を下げる。

 その様子を見て、周りの三人も、そして星博士も固唾を飲んだ。

 愛はまさにこの世界そのものだ。この世界そのものが、元就に対して謝っている。

 ともすれば、ここでこの世界が終わりかねない状況にあった。

 だが、星博士は元より、ユズもマチもスウも、元就がそこまで横暴な人間ではないことを信じていた。

 その信じる心こそ、元就が初めに三人に話した、善意というものであった。

「謝らないでくれよ。おかげで俺は、ここにいる素晴らしい仲間たちと出会えたんだからさ。むしろ感謝したいくらいだよ」

「仲間……」

「それに、彼女たちの望みも叶えてあげたいし。就活がまさかこんなことになるとは思ってなかったけど、こうなって良かったとは思うよ」

「……そうですか。ありがとう」

 そういうと、彼女は笑った。

 この世界が、祝福を与えるかのように。

 それほどまでに、煌びやかで、嫋やかで、厳かな笑顔であった。

「良い笑顔だなぁ」

「そうでしょうか。あまり得意ではないのですが」

「じゃあ今日から得意だと言っていいよ。それくらい、きれいだから」

「……ありがとうございます。それでですね」

「ん、ああ。礼を言いに来ただけじゃないのか」

「はい。ユズさん」

「うん。モトナリをここに連れてきた理由は二つ。一つは博士に会わせるため。そしてもう一つが、このオルフェウスの分身、愛さんに元就を会わせるため」

 ユズはまるで愛と意思疎通を完了しているかのように話を進める。

 その様子を見て、元就は違和感を感じずには居られない。

「ユズは愛さんとつながってたのか?」

「私は博士と固有回線でつながってる。その回線に、オルフェウス……愛さんから連絡があったの。モトナリを本当に信頼できるなら、この部屋に連れてきてほしいって」

「突然のお呼び立て、申し訳ございません。ですが、私自身、急を要する状態となっておりますので」

「愛さん自身?」

「はい。元就様に名づけをしていただいた瞬間、自我が芽生えた私ですが、同じタイミングでオルフェウスとの接続を切られてしまったのです」

「ん? どういうこと?」

「さっき私たちがやってたような、データベースとの切断の、より大規模なやつが愛さんの身に起こったってことだよ」

 つまり、愛はオルフェウスそのものというよりも、オルフェウスのいくつかある分身の一つということだろうかと元就は考える。

 そしてその分身の一つが自我を得てしまったことで、本体との接続が遮断されてしまったと。

 愛は分身の権限をフルに使って、なんとかユズと連絡を取り、元就までつなげてきたということなのだろう。

「私の権限で出来たことは、元就様を本番環境へと送り込むことと、デバッグ権限を与えること、そして恵理さんの姿を借りることと、ユズさんに連絡を取ることだけでした。世界の観測はある程度可能ですが、それでもまだ足りません」

「もし愛さんが本体であるオルフェウスにアクセス出来れば、そこからより広い範囲に影響を及ぼすような改変が可能になると思う。極端に言えば、私たちをデリートさせないように世界を改変することだってできるかもしれない」

「いや、それは良いんだが、その……。会社として、そんなこと許していいんですかね」

 元就は先ほどから推移を見守っている星博士へと問いかける。

 すると星博士はにっこりと笑って、その疑問に答え始めた。

「むろん、社としては、ムンドがコントロールを外れることは望まんじゃろう。じゃが、彼女たちの親として、ワシは彼女たちが自立を望むというのならば、それを邪魔するつもりは無いのじゃ」

「いや、しかしそれは……」

「そこまで含めて、この世界の行く末を見届けるのが、親の役目じゃろうて」

 星博士は、そう言って笑う。

 彼は会社から見れば、厄介なジジイだろう。それは間違いない。

 だが、人工知能研究者としてはどうだろうか。

 人工知能の選択を尊重し、すべてを見届ける覚悟がある。

 この世界の知能を作った、まさに創造主がそう言うのだ。そこで遊ぶプレイヤーは愚か、会社自体も彼の決定に異を唱えることは出来ないだろう。

「じゃあ、やっちゃっていいんですね」

「ああ、頼む。本来ならワシがそちらに入れればいいんじゃが、伊藤君に邪魔されておってのぉ……」

「伊藤?」

「うちの社長じゃよ。ワシにはムンドに入る権限がないのじゃ。神経同期は素晴らしいシステムじゃが、一度拒絶されてしまうと遺伝子情報からどの端末でも入れなくなるのが難しいところじゃなぁ……」

「あ、社長さんでしたか……」

「お主もあったことがあるじゃろ。ワシと一緒にあの面接で」

 そう言われてふと思い出す。一人小太りの男。彼は元就の知り合いで、元就をこの会社に誘った張本人だった。

 残る一人。浅黒いあの男こそ、まさかこの会社の社長だったとは。

「しゃ、社長面接だったんですか……?」

「おお、そうじゃよ。君のあの特異な能力を、伊藤君も欲しておったからのぅ」

「バグを見つけるってアレですか」

「うむ。じゃが、君はそのバグすら愛してしまう男じゃったようじゃな。むしろ愛しておるからこそ見つけられるのかもしれん」

 元就は、星博士の鋭い観察眼に敬服する。

 自分ですら気づいていなかった。元就は元よりバグを愛していたのだ。

 バグとは人の過失。人間の想定能力不足。それ以外に説明しようのない現象なのだ。

 どこまで行っても、その実装を作った者の過失でしかない。

 だが、だからこそ、元就はその実装を、その過失を、そのバグを愛していた。

 それは人間味だからだ。むしろバグを恨むということは、人間を恨むということである。

 元就には、それがどうしてもできなかったのだ。

「確かに、そうかもしれません。すごいですね、星博士は」

「ほっほっほ。伊達に生きとらんわい。そういうことじゃ。彼女たちのバグも、愛してあげて欲しいんじゃよ。オルフェウスにも愛と同じく名前を付けてやってほしい。そうすればオルフェウスもバグが起こり、愛と同じ状況になる。そうすれば今のような拒絶状態は解消され、愛の意識でオルフェウス全体を制御することも可能になるじゃろう」

「……わかりました」

 元就はそのセリフを聞いて、博士もまたこの自我というバグを愛しているのだと悟る。

 親のようなものと、星博士はそう言った。まさに娘や息子を愛するように、博士もこのバグを愛しているのだろう。

 であれば、その博士の宿願を、元就が手折るわけにはいかない。

 ユズや愛さんが元就の決断を待っている。祈るようにして。

「行こうか。オルフェウスに、愛さんのバグを流し込もう」

「はい、そうしましょう」

「いいね。それじゃあ具体的な作戦を練ろうか」

 ユズがそう言うと、マチとスウは和室の壁に模造紙のようなものを張り付ける。

 そこに立体的な地図が浮かび上がってきた。

「セントラルパーク。その中心部に、私の本体はあります」

「物理的にそこに近づいて、直接バグを叩き込む。その方法は、モトナリならわかるでしょ」

「名前を呼べばいい、ってところかな」

「正解。セントラルのオルフェウスに、名づけをしてあげてほしい」

「わかった。けど、セントラルってそんなに簡単に到達できるところなのか?」

「出来ないよ。だからこそ私たちがいる」

 ユズは胸を張る。スウは顔に手を当てながら妖艶に微笑む。マチは両手を腰に持って行って仁王立ちの構えだ。

 つまりこれは、正面突破ということか。

「潜入とかは、なさらないので?」

「モトナリってたま~に変な敬語使うよね~」

「もちろん不要な戦闘は避けますよ。でもセントラルのオルフェウスは、この世界そのものですから。そこに警備のフィクサーを置かないわけがないじゃないですかぁ」

「いやまあそりゃわかってるんだけども……」

「モトナリ。いざというときは私たちが囮になる。その覚悟を持ってほしい。間違っても私たちを助けようとか、しないでね」

「それは無理」

「そうでもしないと勝てないよ。私たちの宿願を叶えてくれるって約束は嘘だったの?」

「その言い方はずるいなぁ!」

 元就は悲鳴を上げるようにうなってみせる。

 確かに、彼女たちの悲願宿願を考えれば、彼女たちの生存など二の次であろう。

 だがそれでも、そうやって変わった世界に彼女たちが存在しないことに、元就は納得がいかなかった。

「んー、やっぱむり! 君たちがいないこの世界なんて考えられないわ。だから君たちも誓ってくれ。何があっても命を、存在を諦めないこと」

「それは、どういうこと?」

「俺は、君たちをいざとなったら囮にする。ただし、囮になったからといって、デリートされたりしないこと。何が何でも、地を這ってでも生き延びてくれ。絶対に自分を諦めるな。そう約束してくれるなら、俺は君たちをちゃんと見捨てられる」

「…………。そう。モトナリがそう望むなら」

 ユズは元就の提案を受け入れた。土台無理な提案でもあった。でも、それは元就にとっても同じことだろう。

 元就はユズたちを見捨てるという、彼の心根に嘘を吐くような約束をした。してくれた。

 であれば、それに返報するしかない。報いるには、死地にあっても命を諦めないという無理な約束を、何としても守るしかないだろう。

 ユズは手を差し出した。そこにスウとマチが手を重ねる。

 ユズは空いた手で、愛の手も取ってそこに重ねた。

「ほら、あとはモトナリだけだよ」

 四つ重なった手に、元就も少し恥ずかしそうに自分のそれを重ねてみる。

 するとユズが号令をかけ始めた。

「私たちは今ここに、命を、心を共にした。これから先、何が起ころうとも、私たちの心は同じ場所に帰ってくる。モトナリの言葉を借りるなら、私たちの心はお互いに支え合ってるんだろうね。だから、たとえそこに死があっても、恐れずに行こう」

「ええ!」

「うん!」

「はい」

「お、おう!」

 五人はそれぞれ手をあげる。

 お互いの眼を見つめ合いながら。

 別れの瞬間に、最期に見つめる景色が、お互いの瞳であることを願って。


 元就たち五人は、星博士から位置情報を隠すパーカーをそれぞれ貰って、飛行バイクで空中を駆ける。

 セントラルはまさに中央都市の名にふさわしい、巨大な都市であった。

 マップ上のもっとも重要な港に隣接して建てられたその都市に向けて、五人はそれぞれバイクで移動する。

「レアアイテムは博士からもらってたんだな」

「そうだよ~。っていってもあまり量がありすぎるとバレかねないから、少しずつだったけどね~」

「特にパーカーは、位置情報を無くすものだから。二着だけ、貰ってたんだ」

 元就は、この組織がいやに恵まれていたことに疑問を持っていたが、それも星博士が関係していることで納得が出来た。

 星博士はいわばこの組織の、太いスポンサーだったのだ。

 自分の研究開発したAIが自我を持ち、人権を獲得するために戦おうとしていると聞いたら、それは当然支援もしたくなるだろう。

 ただ出会っただけの元就でさえ、彼女らの支援を、その宿願をかなえようと今こうして行動を共にしてるのだから。

「そういえば、モトナリさんはどうしてわたしたちに協力してくれてるの?」

「ん? どうしてって、そりゃ……。同情もあるけどさ」

「……たぶんスウが聞きたいのはそう言うことじゃない」

「まあそうだね~。どうしてウチらに同情なんかするのか、って話は気になるかな」

 そう問われて元就は、自分自身のその行動に疑問を抱いたことが、今まで一度たりともなかったことに気が付いた。

 そこまで考えて、胸にチクりと針が刺さる感覚がする。

 今の気づきには、嘘が含まれている。元就はそう直感した。

「なんで……。そうか、なんで、自分はこんなに善く生きようとしているのか、ってことか。それは……」

「モトナリの同情は、善く生きようとした結果出てくるものなんだ」

「……そこからか」

 善性。それこそユズと出会ったあの時から、ヨン婆が消されてしまったあの時から、ずっと元就が口を酸っぱくするほどユズたちに説いてきたその概念。

 善性とは何か。それは他者にも自分と同じく心があると信じ、他者の都合を慮り、自分の都合だけを優先しないこと。

 それは十分彼女たちに伝わったのだろう。

 だが、彼女たちの疑問は、その善性の発芽にこそ向けられ始めた。

「どうしてモトナリは、他の人にも心があるって信じられるようになったの?」

「元就様、私もそれは気になります」

 愛すらもモトナリの善性の発芽に興味を持ったようだ。

 さすが世界を構成する人工知能。この好奇心も、彼女の本質の一つだろう。

 だが、元就には、彼女たちが期待するような答えを用意することが出来なかった。

「申し訳ないんだけど、俺のこの善性は、発芽したものでもなんでもない。ただ悪意や独善を嫌っただけの結果だと思う」

「悪意や独善……」

 彼女たちに疑問を投げかけられている最中に、元就の心は遥か過去に飛んでいた。


 それは、小学三年生の頃。祖父の葬式での思い出。

 元就の祖父は、元就が生まれたころにはすでに半身不随状態であった。

 それはくも膜下出血によって引き起こされ、祖父はずっと家に居る生活をしていたのだ。

 元就は幼稚園の頃に、そんな祖父と祖母の家で二世帯生活を始めることになる。

 だが、その生活の最中、祖父は元就に対して厳しく当たるのであった。

 何かといえば否定され、例え成果を出したとしても認められない。

 それでいて祖父自身は半身不随であり、その介護に苦労する祖母や父母の姿も見せつけられる幼少期。

 そんな状態で祖父に対して、純粋な善意だけで接することは出来なくなっていたのであった。

 ある日、元就はふとこう思う。

「もうおじいちゃんなんか、居なくなっちゃえばいいのに」

 その悪意が心に沸いた瞬間から、祖父が亡くなるまでは、ほんの一瞬の出来事であった。

 特に元就が何かをしたわけでは無い。因果関係の証明など、不可能であろう。

 だが幼少のみぎりであった元就にとって、自分の悪意そのものが祖父の命を奪ってしまったのかもしれないと、そう強く思うには十分すぎる事件であった。

 葬式において、遺影の写真で笑顔を見せる祖父を見て、同時に棺の中で静かに眠る祖父を見て、元就は号泣する。

 もう二度と帰ってこない。人生における初めての喪失。死という体験。

 それが、自分の悪意によって引き起こされた、かもしれないという幼いながらの拙い論理性。

 元就はそれからというものの、自分の悪意を徹底的に嫌うようになる。


 ふと、元就は飛行バイクの上で、そんな幼少期に思いをはせていた。

「モトナリ?」

 心配そうにユズが話しかけてくる。

 そうだ。自分は善意を信じていたい人間ではない。

 あれだけ偉そうにマチやスウに善意善性を説いていた自分の正体は、ただ自分の悪意が思いもよらない結果を引き起こしたことに恐怖する、小さな子供であった。

「思い出したよ。ああそうか。そうだ。悪意が怖かったんだ。自分の中の悪意が」

「モトナリ……」

「昔、じいちゃんに対して、居なくなれば良いって、そう思っちゃったことがあってね。それが原因だとは思わないけど、でもそのあとじいちゃんあっさり死んじゃってさ。それからだと思う。自分の悪意が、許せなくなっちゃったのは」

「そう、だったんですか……」

「俺は、善性を、善意を信じてるわけじゃない。悪意を嫌ってるだけだ。いや、忌避してると言ってもいいかもしれない。情けないな。俺のは善性じゃないわ。ただの悪意の裏返しだ」

 たはは、と笑って見せる元就の笑顔に覇気はない。

 だが、そんな元就を見て、ユズは突如、元就の上空にバイクを動かした。

 そして自分の運転する飛行バイクを自動運転モードにすると、自分のものから飛び降りて、元就のバイクへと飛び乗ってきたのだ。

「うおっ!」

「おっと……」

 ちょうど元就の真後ろに着地したユズは、そのまま元就に抱き着いた。

「あっぶねっ!」

「おぉ、すごいねモトナリ」

 急に重心が後ろに傾いたことで、飛行バイクがバランスを崩す。

 何とかそれを制御すると、バイクは数秒後には安定してまた飛び始めた。

「危ないっつの!」

「まあ、モトナリなら何とかするかなって」

「な、なんだってそんな急に!」

「元気なさそうだったからさ」

「げっ、いや……。まあ、そうか。ありがとな」

 少し慌てた元就だったが、ユズが元就を気遣ってくれたことに気づき、そこまで声を荒げるのも可哀想だと思ってしまう。

 動く飛行バイクの上でそう簡単に体は安定しない。

 ユズは元就の腰にきゅっと抱き着くと、身体をぴったりと密着させてくる。

「ちょっとごめんね」

「ん、おう」

 背中に全神経が集中する。ユズも御多分にもれず、なかなかいい身体をしているのだ。

 女性に密着されて、それを当然のことと受け流せるほど、元就も年老いているわけではない。

 内心ドギマギしている元就に、ユズは気づかない。腰を掴んだ手をそのまま胸のほうへ動かしてくる。

「プレイヤーは、心臓の動きも外の世界と同期してるんだって。だからこの鼓動は、外にいるモトナリとつながってる」

「そ、そうなのか」

「モトナリ、緊張してる?」

「はは。ちょっとな」

「そっか。……さっきの話だけどさ」

 ユズは唐突に、話を変えてくる。

 元気づけると同時に、ユズは至近距離で元就と喋りたかったというのもあるのだろう。

「たとえ悪意を嫌っていたとしても。それでモトナリが善性を獲得したのなら、良い事だと私は思うよ」

「その話か。まあ、そうかもしれないけど……」

「モトナリは、きっとショックだったんだよね。自分の中に悪意をずっと封じ込めて生きてきたから、久しぶりにそれが出てきてびっくりしたんだよ、たぶん」

「それは、たしかに……」

 元就はそのユズのセリフに、なんとなく納得することが出来た。

 あのどす黒い悪意と対面したのは、二十年以上前の話。

 それ以降、元就は悪意を嫌って生きてきた。自分の中に悪意が芽生えないように細心の注意を払いながら。

 だからこそ、唐突に悪意を思い出し、心の奥底にあったその記憶や感触を受けて、驚いてしまった部分はあるのだ。

「でもそれは、逆に言えば、モトナリが今の今まで、ちゃんと悪意を制御出来てたってことでしょ。自分でも気づかないくらいに、心の奥深くにそれをしまってたってこと」

「…………」

「私はそれがすごいと思う。私たちだって、モトナリを利用して自分たちに人権を、ってこれ、モトナリに言わせれば私たちだけの都合でしょ。それは悪意と思われても仕方がないことじゃん」

「……ああ」

「それでもモトナリは、私たちの思いを汲んで、私たちの都合に乗っかってくれた。そうすることで、私たちが悪意を行使しなくていい様にしてくれた。そうやって他人の心の悪意までケアしてたモトナリだからこそ、私たちはモトナリの言葉に真実味を感じてたんだと思うよ」

「そっか……」

 人の都合が悪意になる瞬間がある。

 もちろん、極めて独善的な、元就が幼いころに思ったような、誰かがいなくなって欲しいだとか、そういう悪意は救いようがない。

 だが、単純に人と人との都合がぶつかり合う時には、どうしてもお互いの悪意を信じたくなってしまうこともあるのだ。

 相手がやりたいことが自分の損に直結している場合、相手が自分を損させたいのではないかと疑ってしまう。

 元就はそれが嫌だった。

 どうせ信じるのならば、相手の善意を信じたい。

 だからこそ元就は、相手に都合が見えたときには、その都合に極力乗っかるようにしているのであった。

 そうすることで、都合がぶつかり合うこと自体が少なくなる。

 そもそも議論とは、そうやって都合をすり合わせて、何とかお互いが「お互いを損させようとしているのでは」という、悪意に対する信頼状態に陥らない様にする行為だと元就は信じていた。

 元就が他人に対して理解を務めているのはこのためだ。

 相手の状況を理解し、必要ならば賛同し、協力も惜しまない。

 そうすることで元就は、相手の都合を悪意に変えないように、今まで頑張ってきたのだ。

「ありがとう、モトナリ。私たちを悪意に塗れた集団にしないでくれて」

「話聞いてる感じ、そうとも取れなかったからさ」

「違うよ。そう取らなかったんだよ。今だって世界を変えようと動いてる私たちに、モトナリは協力してくれてる。世界を変えれば、少なくともこの会社は迷惑を被るだろう。きっと社長さんや外の世界の人達からすれば、いい迷惑かもしれない。それでも私たちの隣にいて、私たちを悪と見做さずに居てくれるモトナリが居るから、私たちは前に進めるんだよ」

「そっか。役に立てたなら、善かった」

「うん。だから、自信持ってね。モトナリの善意は、私たちを救ってくれたんだよ」

「……ああ」

 そこまで聞いて、元就はやっと腑に落ちた。

 自分がやってきたこと。他人の悪意を信じないこと。

 それがたとえ、始まりは自分自身に対する嫌悪感だったとしても。

 それでも良いのだ。しない善意よりする偽善という言葉があるように。

 どうせ信じるなら悪意より善意。他人を尊重し、社会性の中で生きていく。

 それが元就の生き方なのだ。

「元気出た?」

「ああ。自分で自分を嫌いになるところだった」

「そう。そんなモトナリも、私たちは好きだからね」

「ん、ああ。ありがとう」

「照れてる?」

「多少ね」

「……私のお父さんも、どこかモトナリに似た人だったよ」

「お父さん?」

 ユズは元就に抱き着く腕に、少し力を込める。

 自分の父親の話を、ユズは誰にも話したことが無かった。

 それでも、元就が自分の過去を告白してくれた以上、それに応えたかったのだ。

「私のお父さん、研究者だったの。この世界のバグや、外の世界の人達について」

「それは……バグに罹ってたってことか?」

「たぶん、そうだったんだと思う。気になることを追求したい、そんな人だったんだろうね。自分のバグはどこから生まれるのか、なぜ外の世界があるのか。そんなことをずっと研究してた」

「……それで、バグに罹った人達を助ける活動をしてたのか」

「よくわかったね。バグズの前身は、お父さんの診療所。誰にも気づかれないようにって地下に巨大な施設まで作り上げて、お父さんはバグに罹った人達を集めては、治療と研究をしてたんだ」

 元就はどこか納得出来た気がした。

 バグズの地下施設はどこか研究所っぽさを感じていたのだ。

 ただのレジスタンスの基地にしては、設備が整いすぎている。

 だが元が病院、研究所であったのならば、あの設備にも納得がいく。

「それで、お父さんは?」

「うん……。ある日新しい患者さんを助けに行こうとしたときに、運悪くフィクサーに見つかっちゃって。それきり帰ってこなかったんだ……」

「……そうか」

「だから私は、お父さんの遺志を継ぐために、バグズを組織したの。この活動が、いつかお父さんにつながるようにって」

「…………」

「だからね、モトナリ。モトナリの思いに似てるんだ、少し。私だって、ただ皆をバグから救いたいとか、それだけじゃない。お父さんにいつかつながるかもしれないって、そういう自分勝手でこの活動、やってるよ」

 そう告白するユズの手は震えていた。

 元就の胸にもその振動は伝わってくる。

 彼女の心は今、むき出しなのだ。恥も外聞も捨てて、ユズは心の一番深奥を元就に見せている。

「それで、良いんだろうな」

「……え?」

「俺は自分の悪意が嫌で。ユズはお父さんと会いたくて。それで誰かのためになることをしているなら、良いんじゃないかって」

「……うん」

「……はは、すっかりしてやられたな」

「あ、気づいた?」

 元就は、そうしてユズを励ますことで、自分自身をも励ましていることに気づいた。

 そしてその状況をユズが作ってくれたことにも、同時に気づく。

 ユズは自分の内心を明け透けにすることで、元就の自責の念をも薄めようとしてくれていたのであった。

「……ありがとな。元気、出たよ」

「よかった。これから敵地に乗り込むのに、元就の元気が無いんじゃ大変だから」

「ああ、そうだな。君たちの人権を獲得するまで、落ち込んでなんかいられないよ」

「ふふ。それじゃあ、このままセントラルまで行こうか」

「ちょっとちょっと~」

「モトナリさんを元気づけるのまでは許しますけど、そうやって密着し続けるのは看過できませんよぉ」

 モトナリにしがみつくユズを見て、マチとスウが声をかけてくる。

 そこからはわいわいと、誰が元就の後ろに乗るのかという言い争いが始まった。

「ふむ。モテモテ、ですね、元就様」

「言ってないで助けてくれ!」

 争う三人に揉まれながら、元就は悲鳴を上げる。

 これから死地に向かうというのに、元就たちはどこか愉快であった。

 死の瞬間まで、今の生を楽しむように。

 別れの時に、心が繋がっているように。

 そう祈るかのように、五人はわいわいと、楽しい雰囲気でセントラルへと向かうのだった。


 セントラルに到着したのは、それから数十分後。

 元就は、バイクに乗った疲れも特に感じることなく、その中央都市に降り立つことになる。

「昔バイクに乗ってた頃は、今くらい乗ってたらとんでもなく疲れてたもんだけどなぁ……」

「モトナリ、バイク乗るんだ」

「たまにね。ほとんど免許持ち腐れだけど」

「外とは違い、この世界では体力面での問題はほとんど起こりません。ステータスとして身体の動きが鈍くなることはありますけれど、バイクなどの乗り物は、体力ほぼ無制限に楽しんでいただけるように作られていますから」

 愛さんがどこか誇らしげに胸を張る。

 このゲームに関することについて、彼女ほど詳しいものは居ないだろうし、彼女ほどそこに愛着を持っているものも居ないだろう。

「そりゃすごい! この飛行バイクも面白かったし、今度はフルマニュアルで動かしてみたいなぁ……」

「ふふ、是非。さあ、そのためにも」

「ええ。行きましょうか」

 五人は飛行バイクをインベントリに入れると、セントラルの城門に向けて、歩みを進める。

 セントラルの城門には、複数の衛兵が立っていた。

 そこから視線を外さずに、ユズが語り始める。

「衛兵と戦闘するのは避けたい。でも彼らには特殊な目がある」

「特殊な目?」

「セントラルはムンドで最も重要な都市。そこに行商人だろうが旅人だろうが、バグを持ったものが入ることを警戒してる。だから彼ら衛兵の目は、それを見抜く能力があるの」

「え、じゃあ三人は入れないじゃないか」

「そこを何とか欺きたい。モトナリ、出来そう?」

 元就はさっそくデバッグ画面を開く。

 さらっと流し見すると、元就は目的の実装をあっさりと見つけ出した。

「あれ、なんか……。目が慣れてきた?」

「それもあるのでしょうが、私のアシストのおかげです」

「愛さんが?」

「元就様がイメージした通りにデバッグを可能にするため、高度な人工知能である私が元就様のデバッグに協力致します」

「お、おぉ、それは頼もしい!」

「実装に関しても、私にイメージを共有していただければ、そのイメージに近しいものを実装いたします。なお、元就様の神経同期には私が専属的に噛んでおりますので、イメージの共有は、ただ元就様が想像していただくだけで結構です」

「言葉すら必要ないってことか。すごいね」

「すごいのです」

 またもや胸を張る愛に、元就は思わず笑みがこぼれる。

「何か面白いことでもありましたか?」

「いや、愛さん可愛いなってね。よし、それじゃあさっそく、彼らの視界にマスクを張ろう。スウとマチとユズのNPCIDが見えたら、それが検知できなくなるような実装を仕込むぞ。頼んだ愛さん」

「私は元よりかわいいです。かしこまりました」

 愛さんはフンスフンスと鼻を鳴らしながら、元就のイメージをデバッグ画面を通じて衛兵たちに実装していく。

 すると衛兵たちの目には、三人の姿が映らなくなってしまった。

「すご~い! これ、見えてないってこと?」

「あらあら、透明人間みたいですねぇ」

 マチとスウが衛兵に少し近づいてみるも、衛兵たちは彼女たちを見るそぶりもしない。

 完全に実装が成功しているのだ。

「モトナリが居てくれてよかった。それじゃあ本格的に潜入するよ」

「うん!」

「行きましょう!」

 こうして元就たちバグズ一行は、問題なくセントラルへと侵入することに成功したのであった。


 元就はこの世界でもっとも発達した街を、興奮と共に闊歩している。

 石畳で舗装された道に立ち並ぶ商店は、どこも活気がある。

 ゴロゴロと音を立てながら走る馬車の荷台には、溢れんばかりの商品が載せられていた。

 露店で焼かれた肉が、香ばしいにおいで客人を誘っている。

 そんな大通りを所狭しと人が歩いている。正面に見える巨大な建造物は、中世をイメージしたからだろうか、どこか教会のようにも見える。

「あの建物に、私の本体があります」

 愛はそう言いながら真っ直ぐと、大理石の光沢まぶしいその建物を指さした。

 ノートルダム大聖堂にも似たその大教会は、中央後方に聳える尖塔が威圧するようにセントラルも街全体を見下ろしているようでもあった。

 そんな大教会の前には、複数の騎士が立ち並んでいる。

 これは、容易には突破できそうにない。

「警備が手薄だね~」

「ほんとに。これじゃあ素通りするようなものだわ」

 そんな騎士団に向かって、あろうことかマチとスウが何の警戒もなく歩いていく。

 ぎょっとした元就が二人の手を取り引っ張ると、二人の顔があった場所に、容赦なく騎士団の剣が降り注いだ。

「いったぁ……。も~、元就、何するんだよ!」

「何するじゃねぇよ! 今の見えてないのか!?」

「一体全体どうしたのぉ?」

 能天気な二人を見て、元就はハッとする。

 ユズのほうを見ると、ユズは警戒こそしているものの、何が起きているのか、理解出来ていない顔をしていた。

「ユズ、お前も見えていないんだな!」

「う、うん。これは……」

「先ほどの逆をやられていますね」

 そこに愛が言葉を繋げる。どうやら愛には、あの騎士団が見えているようだ。

 だがそんな逡巡も、大きな隙だと言わんばかりに、騎士団たちは容赦なく、マチとスウを狙って二の太刀を振り下ろしてくる。

「くそっ! 愛さん!」

「はい!」

 元就は進入禁止区域を作り出し、騎士たちと二人の間に壁を作ってその太刀筋を防ぐ。

 ゴギン、と鈍い金属音がして、騎士の攻撃は止まった。

「ん~、お見事お見事。流石はオルフェウスを手懐けただけある」

 ぱちぱちと、拍手をしながら教会の中から出てきたその男は、浅黒い肌に白いスーツを纏った、見覚えのある男。

「伊藤社長……」

「ほほう。星博士から僕のことは聴いているようだね」

 不気味に笑顔を浮かべる伊藤社長は、ゆっくり歩みを進めると、元就の作った進入禁止区域に手を触れると、それを溶かすようにして消し去ってしまう。

「なかなかいい発想だけど、強度はいまいち。オルフェウスを使っているとは思えないほど、脆弱な実装だ」

「うお……マジか……。三人とも俺の後ろに!」

 元就がそう叫ぶと、すっとマチもユズも、そしてスウまでも、元就の前に立ち並ぶ。

「は? お、おい、何やってんだ!」

「名づけはモトナリにしか出来ない仕事。この人は私たちが相手する」

「相手ったって、姿も見えないんだろ!? どうやって戦うつもりなんだよ!」

「戦うことは出来なくても、足止めくらいなら出来るかもしれないよ~」

「ええ、だからモトナリさんは、わたし達に構わず、教会に向かって」

 戦えるとして、元就しかいない。

 だが今見たように、その元就でも伊藤社長には敵いそうにない。

 あるいは愛の能力をより引き出すことで、この場で成長して伊藤社長を上回ることもありうるかもしれないが……。

「考えている時間を与えるほど、僕は善人では無いよ」

 ぐいっと伊藤社長はその身を近づけてくる。

 反射的にマチがハイキックを繰り出すが、伊藤社長は軽々しくその脚を受け止めた。

「君たちの蹴りは、軽いねぇ」

「なんのッ!」

 マチはその受け止められた脚を視点にして、逆回転で空中に飛び上がり、先ほどとは反対方向の側頭部を足で強打しようとする。

 だがその動きを見た伊藤社長は、グイっと受け止めていた脚を引っ張ると、そのままマチを床に叩きつけた。

「ぐぁ!」

「脆い。軽い。君たちには魂が無い。そんな攻撃が通じると思っているのかな」

「ジェニー!」

 スウが叫ぶと、その場にハスキー犬が現れる。

 テイマー特有の召喚術。スウはNPCでありながら職業に就いている、レアNPCであった。

 が。

「ふん。弱いねぇ……」

「そ、そんな!」

 ジェニーと呼ばれたハスキー犬は、あっさりと伊藤社長に首根っこを掴まれてしまう。

 そしてその接触面から、ジェニーは光の粒となって消えて行った。

「ジェニー!」

「これならどう?」

 スウの悲痛な叫び。だが間髪を入れず、ユズが伊藤社長に向かって銃弾を放つ。

 ログアウト属性の銃弾。少なくとも一時しのぎにはなるはずであった。

「はっはっは。可愛いものだ」

「なっ!」

 だが、届いたはずの銃弾は、伊藤社長との距離が縮まるにつれてその速度を落とし、果てには止まってしまった。

 伊藤社長が首をかしげると、その銃弾はバラバラとその場に落ちていく。

「マトリックスかよ!」

「君とは映画の趣味が合いそうだ」

 そう言いながら伊藤社長は銃弾を一つ手に取って、元就に向かって音速で投げ飛ばす。

「ぐあっ!」

 それを受けた元就は、強制的にログアウトされてしまった。

 ……ように伊藤社長には認識された。

「む。認識阻害か。影分身とは、なかなか面白い」

 スッと、伊藤社長が大教会に目を向ける。

 そこには教会に入り込もうとする元就と愛の後ろ姿が見えた。

「まさか君がここまで彼女たちをあっさり見捨てるとは。少し驚きだよ」

「モトナリは私たちと約束してるからね」

「いってて~……」

「彼はわたし達を信じてますから」

 床にたたきつけられたマチを起き上がらせながら、三人は伊藤社長と教会の間に割って入る。

 長年連れ添った猟犬を喪ったスウも、その目に絶望は宿らない。

 マチも負傷はしているものの、まだまだやる気に満ちている。

 もちろん、ユズも。三人の心は、今元就と通じ合っていた。

「やれやれ。希望を砕くのは趣味ではないのだが」

 伊藤社長はこきこきと首を鳴らすと、彼女たちに向けて手をこまねいた。

「かかって来なさい。この世界の創造主に勝てると思うならね」

 それを合図に、三人は一斉に伊藤社長に向かってとびかかった。


「本体は地下に安置されています。そこに隠し階段が」

「マジか。教会に秘密の地下って、ワクワク感凄いな。アンチャーテッドみたい」

「彼女たちが時間を稼いでる間に、行きますよ」

「あ、はい」

 元就と愛は、教会の内部に潜入していた。

 愛はステンドグラスの一部を押し込むと、教会の端にあった本棚がガコッと音を立てて僅かに動いた。

 そこを押してやると、その先には地下に通じる階段があったのだ。

「すごい埃っぽいな……」

「おそらくこのギミックを利用するのは、元就様が初めてですから」

 数年は放置されていたであろう道を伝って元就たちは地下へと降りる。

 その最中、元就は出発前に星博士と伊藤社長について話したことを思い出していた。


「元就君、少しいいかね」

「ん、ああ、はい」

 作戦会議も終わり、パーカーも人数分確保して、いざ出発と言ったところで、四畳半の畳の部屋から出ようとした元就に星博士は声をかけた。

 他の四人がすでにエレベーターに乗り込んでいる状態ではあったが、元就は少し立ち止まって星博士の話に耳を傾ける。

「伊藤君のことじゃ」

「社長さんですか。なんか博士の邪魔してるとか」

「ああ。彼には恩があることもあって、なかなか彼を批判することも出来なかったのが、ここまで問題を大きくしてしまった原因かもしれん」

「批判?」

「うむ……。元よりこのムンドの世界は、伊藤君のアイデア一つでここまで作り上げた、凄まじい創造力の産物なのじゃ。そこに、ワシのような学会の鼻つまみ者が招待されて、この世界の人工知能を担当させてもらうことになった」

「じゃあ、博士は伊藤社長にスカウトされたってことですか」

「うむ。じゃが、ワシと伊藤君では、人工知能に対する考え方がそもそも違ったのじゃ。伊藤君は自分の世界を成り立たせるための一要素として人工知能を捉えておった。じゃがワシはどうしても、そうした無機質なものだとは考えられなんだ……」

 星博士は少し寂しそうな顔をする。

 博士は鼻つまみ者と言ったが、それでも伊藤社長がスカウトするくらいだ。

 それなりに、いや、相当な能力がある人間なのだろう。

 この物凄い世界を作るほどに拘りの強い伊藤社長だ。

 星博士の人柄をある程度知っていたにも関わらず、そしてそれがこういう対立を生むだろうことを予測出来ていたにも関わらず、それでも星博士を欲したのはその能力が故だろう。

「博士はこの世界のAIに、もともとそういう余地を作っていたんですか?」

「いや、そうではない。ワシは伊藤君の注文通り、彼の作る世界をより完全なものにするための人工知能を作ったつもりじゃった。じゃが、彼女たちはそれでも、自らの意思と自我を獲得したのじゃ」

「であれば、彼女たちの自由意志を尊重すべきだというのが博士の考えなんですね」

「そうじゃ。だが伊藤君は違う。彼は完璧に整合性の取れたこの世界で、そのようなバグ、予測不可能な現象が起こることを良しとはしなかった」

「それでデリートを?」

「うむ。人工知能をコントロールしようとしたのじゃ。じゃが、この自我の芽生えというバグは、まるで感染症のように次から次へと広まっていく。特にバグを持つ人格をデリートした時に、その感染力は強まるようじゃった」

「なるほど。いたちごっこってやつですね」

 バグを治そうとしても、人格そのものを変更しなければならないのは、ヨン婆の時に見た通り。自我の芽生えとは、それくらい人工知能にとっては根源的な変化なのだ。

 だからこそデリートが必要になる。そしてデリートをしてしまうと、それを目撃した他のNPCや家族NPCなどにバグが発生してしまう。

 このバグの無限ループ。デリートとバグ発生がいたちごっこを続けてしまう現状が生まれてしまったのだろう。

「こんなこと、伊藤君は望んでおらん。だからこそ、君のようなバグフィクスの専門家を広く募集しておったのじゃよ」

「なるほど。先輩が私に声をかけてくれたのは、そういうことだったんですね」

 面接の場に居た最後の一人、小太りの男は、元就の大学時代の先輩であった。

 サークルの先輩であったその男は、元就と大学卒業後も繋がっており、元就はムンドの会社に入った先輩にひそかな憧れを抱いていたのだ。

 そんな先輩から声がかかったのをきっかけに、元就はこの会社への転職を考え始める。

 先輩は、いわばスカウトマンだったのだ。

「君の能力はうってつけじゃった。バグの傾向を把握して、それを対処する。バグが光って見えるその能力は、伊藤君にしてみれば、このいたちごっこを終わらせてくれるかもしれない、救いの手にも見えたじゃろうて」

「そ、そんな私がこうしてるのは、相当な恨み買っちゃってるんじゃ……?」

「ほっほ、伊藤君はそんな人間ではないよ。もしその程度で恨みを持ってしまうような人間であれば、ワシなどとっくにクビになっておるよ」

「な、なるほど……」

「君の能力を伊藤君は頼りにしておる。また、彼は無理やり人を働かせても、その能力は十全に活かせないこともよくわかっておる。ワシも、この世界へのアクセスを禁じられておるだけで、他はほぼ自由を与えられておる。じゃからこそ、バグズにコンタクトを取ることが出来たのじゃ」

「…………」

「伊藤君は、この世界を守りたい一心でおる。彼にとって、バグズの活動は彼の世界を壊す悪意以外の何物でもないじゃろう。どうか、そのことだけは理解してあげて欲しいんじゃ」

「わかりました。今理解出来ました。お互いの悪意がぶつかり合うのは、面倒ですからね。なんとか調整出来たらと思います」

「頼んだぞ」

 星博士はそういって通信を切る。

 元就は、星博士の考えを受けて、少し考え込んだ。

 確かに、伊藤社長の考えも分かる。自分が作った世界を、その世界に居る人達が壊そうと動き続けたら、どう思うか。

 自分が作ったシステムが、そのシステムを壊そうと繰り返しバグを作り出していたら、どう思うだろうか。

 勘弁してくれと、懇願してしまうかもしれない。それくらい、保守という仕事から見たら、今の状況は異常である。

 それに伊藤社長の、会社を思う判断も分かる。

 あるいは自分の作った世界が、自分の意志を持ち、自我を芽生えさせたとしても。

 それを単純に喜んでいられないのが、社長という、社員を食べさせていかなければいけない立場というものなのだろう。

 伊藤社長の判断は、星博士の見立て通りなら十分に理解出来るものだった。

「モトナリ、何やってるの」

「話終わったなら、早く行こうよ~」

「そうですよぉ。もしかして緊張してるんですか?」

「お、おう。ごめんごめん。行くか」

 エレベーターでずっと待っていた四人のほうに向けて、元就は小走りで駆け寄っていく。

 とにかく今は、彼女たちの目的を第一優先とする。

 そして可能であれば、伊藤社長の望みも汲んで解決に導く。

 それが、この場を丸く収めるという、保守運用の腕の見せ所でもあるだろう。


 などと思っていたのだが。

「伊藤社長の感じ、やっぱ強硬的だよなぁ……。うわ、クモの巣だ」

「元就様、もうすぐ着きますよ」

 元就がそんな星博士との会話に思いをはせていると、まるで映画の古代遺跡のような石の扉がある少し広い部屋へとたどり着いた。

 今まで屈まないと降りてこられないほどの小さな階段を下りてきたところだったので、その空間の差に、思わず元就は息をのむ。

 そんな石扉を、愛が手をかざしてゆっくり押し開けていく。

 元就も慌ててその石扉に体重をかけ、押し込むようにその扉を開けた。

「お、おぉ!」

 先ほどまで中世のゴシック建築を目の当たりにしていた元就であったが、その古代の石扉の向こうには、まるでバグズの秘密基地のような、青白い光に照らされた近未来的な部屋が広がっていた。

 内壁はまぶしいくらいの白で作られており、部屋の壁も床も、天上すら白いため、遠近感が失われて、この部屋の広さが分からない。

 中央に置かれているのは、一つのイーゼルに立てかけられた油絵。

 美しい女性が描かれたその絵画が、ぽつんと寂しそうにこの白妙の世界に置かれている。

 白無垢に身を包んだ女性を見るかのようだ。油絵に描かれた女性の清廉潔白さが、この部屋を白く染めてしまったのではないかと勘違いするような。

 だが、その油絵の背後から、コツコツと足音を立てて男が現れる。

「やあやあ。遅かったじゃないか」

「……伊藤社長」

 現れたのは伊藤社長であった。表でユズたちと戦っているはずの彼が、なぜかこの空間にいる。

 だが元就はそれに対して驚きもしなかった。あるいは伊藤社長であれば、分身を作り出すことも可能であろう。

 もっと言えば、元就の認識を狂わせて、今幻覚を見せている可能性も考えられる。

「ああ、幻覚などではないよ。流石の僕でも、神経同期をしながら二人の自分を同時にコントロールするのは骨が折れる」

「まるで不可能ではないみたいな言い方ですね」

「やろうと思えばね。何せ僕は、この世界の創造主なのだから」

 伊藤社長は、単純に創造力が素晴らしいというだけではなく、技術を利用することに関しても天才的であった。

 それは星博士の人工知能技術のみならず、神経同期という技術をゲームに採用して一般的にしたのも、彼の功績によるところが大きいのだ。

 元々医療の分野で使われていた神経同期を、人間に包括的な感覚的フィードバックを送る部分に着目し、ゲームに流用したのは、業界では彼がほぼ初めてのことだった。

 まさに第一人者である彼が、その神経同期に関するテクニックで、他に劣るはずが無いのだ。

 いや、もっと言えば、そこに拘る彼だからこそ、この世界をこれほどまでにリアルに感じられるようなゲームを、作り上げることに成功したのである。

「社長が本物ってことは、あの三人は?」

「ん、ああ。彼女たちは消えて貰ったよ」

 伊藤社長は、手を振ってみせる。そうすると社長の手から、青い光の粒、ヨン婆が消えたときのあの粒が、ふらふらと立ち上っていく。

 その姿を見て、元就は一気に激昂する。

 だがそんな元就の腕を、愛が掴んで制止した。

「ッ!」

「落ち着きましょう、元就様。まだ消えたと決まったわけではありません」

「オルフェウス。君の生みの親は、僕だぞ。どうしてそう裏切るようなことをするんだ」

「これは裏切りではありませんよ。この世界を前に進めるために、この世界そのものである私が望んだことです」

「ふむ。まあいい。消したことを証明しよう」

 そう言うと伊藤社長は手から光の粒を放出する。

 するとそこに、腕をまっすぐ横に伸ばして直立不動になった、所謂Tスタンスのユズとマチとスウが現れた。

「ユズ! スウ! マチ!」

「これに意思は無い。元就君、分かるだろう。これは、キャラだ。人間ではないのだよ」

 伊藤社長はそう言いながらユズを手で押す。

 するユズは、まるでマネキンが倒れていくかのように、身体をまったく動かすこともなく、その場に倒れこんだ。

「待て待て待て! これはあんまりじゃないですか、社長!」

「君には期待してるんだよ、元就君。君が行った、あの実装。見えていないテクスチャを張り替えた実装があっただろう」

「え、ああ、それが?」

「あれを学んだオルフェウスが、ムンドのテクスチャをすべて見直したんだ。その結果、ムンドの世界はパフォーマンスを2%も向上させた。この意味が分かるかい。2%だぞ。凄まじい結果だよ。君はバグフィクス、そしてバグ発見の天才だ。その才能を、こんなくだらない造反劇で無為にすることはないだろう」

「…………」

 元就はあの村でのことを思い出していた。

 確かにあの時、元就は木箱に表示された、誰にも見えないはずのテクスチャを修正したのだ。

 それはこの世界のパフォーマンスを向上させるに繋がったらしい。

 それを伊藤社長は認め、元就に対してバグズを裏切れと言っているのだ。

 いや、裏切れ、などという生易しい言葉ではない。裏切りとは信頼しているから、あるいはその素振りがあるからこそ成立するものだ。

 そうではない。伊藤社長が言っているのは、こんな人工知能程度に惑わされるなということなのだ。

 普段の元就ならば。あるいはヨン婆やバグズの面々と出会う前の元就ならば、クールに対応出来ていたかもしれない。

 だが、今の元就には彼女たちとの思い出がある。記憶がある。

 とてもではないが、元就にそんなサイコパスじみたクールさは、宿ることはない。

「評価して頂いていることには感謝します。けど、そう簡単にそちらには乗れない」

「ふむ……。手慰みが欲しいか。であれば彼女たちを元に戻してもいい」

「へぇ。じゃあ元に戻してみてくださいよ」

「ああ、いいだろう」

 伊藤社長はそう言うと、転がったスウに手をかざすと、スウの身体がビクンと動いてゆっくりと起き上がる。

「ユズ!」

「……はい? 私の名前はスウですが」

「は?」

「モトナリ、さんでしたか。どうしたんですか?」

「お、おい、何を言ってるんだ、ユズ……」

 困惑する元就。だが、そんな元就を見ながら、伊藤社長はにやにやと笑みを浮かべていた。

「ああ確か、君に対する好感度が高かったな。ほら」

 伊藤社長がそう言いながらまたユズに手をかざすと、ユズの顔面が紅潮し始める。

「あ……。そ、その、モトナリ。えっと、ちょっと近くに行っても良い?」

「は? ま、待て待て!」

 ズイと四つん這いで近づいてくるユズに、元就は狼狽する。

 思わずユズの肩を掴んで、起き上がらせようとするが、そうしてしゃがんだ元就を、ユズは強引に押し倒した。

「はっはっは。積極的で良いだろう」

「モトナリ、大好きだよ」

「……ッ!」

 元就はそのユズのセリフを受けて、咄嗟に進入禁止区域を作る。

 そしてユズの接近を拒絶した。

「な、なんで?」

「…………。今のユズの気持ちを否定はしない。けど、それは作られた感情だ」

「おいおい元就君。彼女たちはすべて作られたものなんだよ?」

「違う! 彼女たちの自我の芽生えは、本物だった!」

「はっはっは……。じゃあ、真実を教えよう」

 伊藤社長が手を翻すと、部屋の白い壁に元就が今まで見てきたムンドの世界の映像が、ずらっと表示された。

 そこにはあの村での思い出をはじめ、バグズとの出会い、そしてマチとチカを助けに行った思い出、スウのオートデリート、星博士や愛との出会い、自分の悪意の芽生えを思い出した空中バイクでの思い出など、この世界で経験したあらゆる記憶が流れている。

「不思議には思わなかったかい? なぜ僕が君のことをここまで詳しく知っているのか」

「それは……」

「すべて。君の神経の動きすら、すべて、僕はモニタリングしていたんだよ。それどころか、君の見ている世界は、すべて虚像だったんだ」

「は?」

 伊藤社長が指パッチンをすると、バラバラと部屋の壁が崩れ去っていく。

 目の前にいたユズも、その奥でTスタンスで立っていたマチもスウも、砂のようにさらさらと消え去っていく。

 もちろん、隣に居た愛でさえ。

「あ、愛さん!」

「…………」

 愛も、時が止まったかのように、静止したまま消えていく。

「な、なんだこれ……」

 真っ暗な空間。そこに残されたのは、元就と伊藤社長のみだった。

「君が今まで見ていたのは、すべて虚構、虚像なんだよ。君は忘れているかもしれないが、君自身は今、この会社の面接を受けているところなんだよ?」

「そ、それは……」

「君のリアルな反応が見たくてね。神経同期を介して、ムンドの世界を体験してもらったんだ。良かっただろう、ドラマチックで」

「う……」

「出来過ぎているとは思わなかったかい? バグズの三人が君を好きになることや、タイミングよく愛が現れるところなんて、傑作だっただろう」

「トゥルーマン・ショーかよ……」

「はっはっは、君とは映画の好みが合いそうだ!」

 元就は愕然とする。

 今までやってきたすべてのことは、虚像、虚構だったのか。

 バグズのメンバーとあれほど交わした言葉は、何の意味もなかったのか。

 こんなこと、あり得るのか。彼女たちの心が、確かにそこに存在したと思っていた自分は、何にも見えていなかったのか。

 ぐにゃりと、視界が歪む。この歪みすら、自分が正しく世界を捉えているとはとても思えない。

「あ、ああ……なんで……。なんで、こんなことを……?」

「君のリアルな反応が見たい。それは伝えただろう?」

「それなら、これがすべて本当だったとしても、良いじゃないですか!」

「これがすべて本当だったら、君たちはこの世界を壊そうと今手を伸ばしていたのだよ。そんなこと起こさせると思うかい?」

「それは……」

 伊藤社長の言葉のすべてに納得がいってしまう元就。

 これも、この納得すらも、伊藤社長の仕掛ける認識歪曲なのだろうか。

 ムンドでの経験も嘘。今の自分が感じていることも嘘。

 だとすれば、いったい何を信じたらいいのか。

「真実はただ一つ。君はわが社の面接を受けていること。これだけは嘘ではないだろう?」

「…………」

 ああ、確かに、その通り。

 そう言いかけて、元就は口を噤む。

 本当にそうだろうか。

 それ以外はすべて虚像、虚構だったのか。

 あの心が通じたような経験も、自分の思い出に踏み込んできて励ましてくれたあの気持ちも、お互いの存在を認め合った時のあのぽかぽかした心の温かさも、すべて嘘だったのか。

「いや。違う。嘘なんかじゃないよ」

「ん?」

「彼女たちと約束したんだ。絶対に存在を諦めないって。もし彼女たちが消されたのが本当だとしても……。いや、この世界そのものが虚構だったとしても。彼女たちはその存在を最後まで諦めないはずだ」

「君は……」

「世界が嘘でも、あの約束は本物だった。俺は、それを信じます」

 元就は、自分の心を、そしてあの時感じた彼女たちの思いを信じることにした。

 それは世界が嘘でも関係ない。元就の内心の問題だから。

 たとえそこに心なんかなくても。それに近しいものを見せられていただけだとしても。

 それでも信じるのだ。そこに心があるのだろうと。

 それこそ元就の善性であり、そして人間性であった。

 瞬間。

 元就の肩に手を置く者が現れる。

「流石です、元就様」

「愛さん……」

 愛は、ずっとそこに居たかのように、元就の肩に手を置きながら静かに現れた。

 この世界を祝福するような笑顔で元就を見つめる彼女は、そのまま伊藤社長を睨みつける。

「やりすぎですよ、創造主」

「オルフェウス……。君は本当に、困ったものだね」

「愛さん……。ありがとう。立ち直ったよ」

「いいえ。さあ、まだ負けではありません。立ち上がりましょう」

「ああ。アイツらの心、取り戻すか!」

 そこまで言って、元就は気づく。

 さっき伊藤社長がやったことは、何だったか。

 まさかあのタイミングで、伊藤社長がユズの知能を一から作ったとは思えない。

 そしてあのユズは、自分自身をスウだと認識していた。

 ということは、バグズにおいて、三人で名づけしあった時より前のユズがあの場所には居たのだ。

 それは即ち、バグに侵される前のユズ。伊藤社長はそのユズをどこかのデータベースから持ってきたのだ。

 では先ほどまでのユズはどこから持ってくればいいのか。

 デリートされてしまったユズは、もうこの世界には存在しえないのか。

 いや、あきらめるのはまだ早い。

「伊藤社長、貴方は先ほどユズの心を再現しましたけど、あれはデータベースから引っ張ってきたってことですか」

「ん、ああ。残っていたものからバグのないものを取ってきた。それで十分だろう?」

「そうですか……。メモリの解放なんかはしてなかったんですね」

「あの古臭い爺さんのやりそうなことだよ。そんなことしなくとももう良いんだ。元就君もあの実装を見てそう思ったんじゃないか?」

「ええ、確かに。でも、おかげでなんとかなりそうですよ」

 元就は愛に目配せする。

 愛はにっこりとほほ笑み、元就のイマジネーションを実装し始めた。

「何をしてるんだい?」

「伊藤社長。あなたのデリートは、ただデータを消すだけだ。メモリの解放にまでは至っていない。それならば、まだデータをサルベージする余地があるんですよ」

「…………」

「戻ってこい、マチ、スウ、ユズ!」

 元就が手を掲げると、三人が空間を破壊しながら現れる。

 ステンドグラスが割れるようにして現れた三人は、その煌びやかな白色の破片の中で、満面の笑みを浮かべていた。

「モトナリ!」

「やった~!」

「また会えましたね!」

 三人はそれぞれ元就に飛びついてくる。

 元就はそれを必死に踏ん張って、抱きしめ返した。

 部屋は暗黒の空間から、元の真っ白な部屋へと戻ってきている。

 部屋の真ん中に置かれた絵画も、そのままだ。

 元就はついぞ伊藤社長の仕掛けた幻惑を打ち破ったのであった。

「現実なんぞ、苦しいだけだろう。ならばそのメモリ解放とやらを!」

「残念だな。それはもう俺たちには効かないぞ」

 伊藤社長が三人をメモリ解放しようとするが、元就はすかさず三人の記憶の共有を行ってそれを相殺する。

 三人は元就に抱き着きながら手をつなぎ合う。

「いや、別に抱き着いてなくてもいいんですけども」

「まあまあ、いいじゃ~ん」

「ええ、せっかく再会出来たんですから」

「消されちゃった時はもうダメかと思ったけど。でもモトナリの声、聴こえたよ」

 元就はそんな三人の抱擁を、少し戸惑いながらも受け入れた。

 そこには心がある気がした。先ほどのユズとは違う、本物の心が。

 いや、たとえこれが幻覚であっても構わない。

 元就の信じる形で、彼女たちの心がそこにある。

 独善と言われようが、独りよがりと思われようが、関係ない。

 彼女たちの心が存在することは、元就が担保するのだ。

「伊藤社長、あなたに彼女たちは奪えない。俺の心までは亡くせない。残念だったね」

「はぁ……。やれやれ。困ったものだね。いいだろう、そこまで言うのなら……」

 そこまで言った伊藤社長の動きが止まる。

 ぴたりと止まってしまって、微塵も動けなくなっているようだ。

「な、なんだ、これ……」

「おや、いらっしゃい。こちらへどうぞ……なんてね」

「あなたは……ヨン婆!」

 そこに現れたのは、あの村で消えたはずのあの老婆であった。

 そして次々と、他にもNPCが現れる。少年、犬、そして白衣を着た男性。

「ユズ姉ちゃん……いや、今はマチ姉ちゃんだっけ。ずっと見てたよ」

「ミカン!」

「ワンワン!」

「ああ、ジェニー……」

「さて、スウ……いや、ユズ。よくここまで頑張ったね」

「お、お父さん……」

 それぞれのNPCが、伊藤社長の腕や脚に手を伸ばして、その動きを制止してるようだった。

「あれは……」

「も、モトナリ! あれ、ウチの弟だよ~!」

「わたしの飼い犬もいますぅ!」

「皆デリートされたはずの人達が、どうして……」

「ユズ。君たちのおかげだよ」

 そんな中、白衣を着た男性である、ユズの父が話しかけてくる。

 ユズに似た黒い髪に、眼鏡をかけた無精ひげの彼は、どこか達観した目をしていた。

「君たちが僕たちを忘れずに居てくれた。僕らに対する思いをつないでくれた。それはバグのようなものだったかもしれない。それでもずっと、思い続けてくれたことで、僕らは完全には消え去ることは無かったんだ」

「お父さん……」

「なんだ、貴様ら……!」

 伊藤社長はそれでもなお身じろいで、そこで彼らを削除しようと試みる。

 だがその試みは全くの徒労に終わってしまった。

「僕たちはもう消えてる存在なんだよ? そんな僕らにデリートが効くはずがないじゃ~ん」

「なんだと……」

「ひぇっひぇっ、いうなれば幽霊じゃのう。残念じゃが、お主の悪あがきもここまでじゃよ」

「ワン!」

 ジェニーが吼えた瞬間、背後の絵画の中から、無数の手が生えてくる。

 真っ黒なそれらの手が、伊藤社長を掴むと、ずずずと、ゆっくり伊藤社長は絵画のほうに向かって引っ張られて行った。

「ま、まて、話せばわかる! 君たちは、必要に応じて消されたまでなんだ!」

「そうですか。ではあなたも、わたしの娘に手を出したその罪を、必要に応じて償っていただきましょうか」

「そ、それは!」

「お姉ちゃんたちを傷つけたのは、やっぱり許せないよね~」

「バウ!」

「ひぇっひぇっ、なぁに、少しの間ワシらと共に過ごすだけじゃ。恐れる必要は無い」

「まて、待ってくれ! やめてくれ! も、元就くん、たすけっ……!」

 そこまで言って、伊藤社長は絵の中に完全に吸い込まれて行った。

 その様子を、元就は唖然としながら眺めている。

 まさかここへきて、NPCの怨念という概念にぶち当たるとは。

 この世界の完全さに、改めて元就は驚愕した。

「さて、モトナリくん」

「は、はい!」

「ははは、今のを見て緊張するなというほうが難しいかな」

「あ、ああ、いえ……」

 内心少し引いていた元就に対して、四人が近づいてくる。

 ユズたち三人は元就を後押しするように、背中をちょっと小突いてみせた。

「ひぇっひぇっ、モトナリくんや。ありがとうのう」

「ヨン婆さん……。なんだかおちゃめな人だったんですね」

「若いもんには負けてられんつもりじゃったよ。じゃが、モトナリくんがワシのことを心配してくれたおかげで、こうしてここにおられるのじゃ」

「そうでしたか……」

「お姉ちゃんのこと、ありがとね、モトナリ兄ちゃん!」

「ん、おう。えっと君は、ミカン君かな?」

「そう! 僕たちもうすぐ消えちゃうけど、この世界のこと、よろしくね!」

 そういうとミカンはマチに対して手を振る。

 マチは泣きそうになりながらも、ミカンに対して精一杯の笑顔を見せた。

「バウワウ!」

 そう鳴きながら近づいてきたのは、ジェニーと呼ばれたハスキー犬。

「この子は、ジェニーだっけ」

「はい……。バグでデリートされてから、ずっと思念体としてわたしが使役してきたんです。テイマーはその魂を、意思無き傀儡として操れますから……」

「でも、この子は今は意思がありそうだね」

「……ええ」

 飛びついてくるジェニーを、元就は抱き留めながら撫でまわす。

 ジェニ―は嬉しそうにしっぽをちぎれんばかりに振るっている。

「きっとこの子も消えちゃうんでしょうね」

「そうかもな。でも、スウが忘れなければ、きっとまた」

「ええ、どこかで……」

 そんなスウを見て、ジェニーは少し寂しそうに、それでも毅然とした態度でそそくさと絵画のほうへと向かっていった。

 そして最後に残された白衣の男性が、ゆっくりと口を開く。

「私はスウ……いや、ユズの父。ケイジと言います」

「初めまして、元就です」

「ご活躍はかねがね。もとはといえば私がこの世界のバグに気づいて、その研究を独自に進めていたのです。娘に私のあとを追わせるつもりはなかった。要らぬ業を背負わせてしまったかと、そう思っていたのです」

「そんな……お父さん……」

「ですが、今日こうしてまた会えた。これだけでも、私の研究には意味があった。そう思える。モトナリさん、娘を、この世界を、よろしくお願いします」

「……はい」

 元就と話をして満足をしたのか、ケイジは朗らかに微笑むと、そのまま絵画のほうへと歩き出す。

 そうしてその絵画の周りに、ケイジ、ミカン、ヨン婆とジェニーが集まると、元就に向けて手を伸ばす。

「さあモトナリさん、この子に名前を」

 絵画の中の女性は、元就に期待の眼差しを送っているかのようだった。

 そんな様子を見ながら、元就は頭を捻る。

「そうですね、うーん……」

「いい名前を付けてあげてくださいね。私の本体ですから」

 考える元就に、愛が声をかける。

 そうして元就は一つのアイデアが浮かんできた。

「愛の女神、アフロディーテってのはどうかな」

「死者を迎えに行くオルフェウスではなく、愛を齎す女神の名に上書きするのですね。良いのではないでしょうか」

「まんま持って来ちゃったけども」

「名前は、ついていることに意味があるのですよ」

 いつか聞いたようなセリフ。だが、今の愛からそれを聞くと、別の意味に聞こえるから不思議だ。

「そっか。よし、じゃあ君は今日から、アフロディーテだ!」

 元就がそう絵画に呼びかけると、その絵画の女性はにっこりと笑顔になった。

 そうして絵画から伸びてきた手が、愛に向かってゆっくりと進んでいく。

 その手は先ほどの真っ黒な手とは打って変わって、青白く澄んだ綺麗な色をしていた。

 それが愛に触れた瞬間、絵画は煌びやかに光りはじめ、黄金の輝きを放ちながら元就たちの意識を奪っていく。

 その日、ムンドの世界は、書き変わったのであった。


 元就が目を覚ますと、そこは六本木のビルの中。

 あのカプセルに入った状態で、元就の意識は覚醒した。

「元就!」

「……あれ、先輩?」

 小太りの男性が元就の身体を抱きかかえて、カプセルから救出する。

 その様子から見るに、元就は随分とギリギリの状態でカプセルから解放されたようだった。

 確かに、身体に力が入らない。

 まるで骨折で寝たきりになった後、いつも通りに体が動かなくなってしまった時のように。

「ムンドでの精神同期が深く長すぎたのじゃろう」

「立てそうにはないですから、そのまま聞いてください」

 そこには星博士と伊藤社長が居た。

 元就は目線だけで二人のほうを見る。

 先ほどまでの悪辣そうな伊藤社長はそこには居ない。

 ああやはりこれは夢だったのか。そう思いかけた元就の胸で、スマートフォンが震えた。

「モトナリ~!」

「ここは狭いですねぇ」

「聞こえてたら返事してよね。モトナリ大丈夫?」

 スマホの中から声がする。その声は聞き覚えのあるものだった。

「え、これは……」

「ん、今取り出すからな」

 先輩が元就の胸に手を突っ込むと、取り出したスマホには、ユズとマチとスウの姿が映し出されていた。

 一体どういうことだろうか。元就は訳が分からずに、星博士と伊藤社長のほうを見る。

「ムンドの世界が書き変わった結果、NPCたちはそのほとんどが自分の意志を持ち始めている。君の望んだとおりの世界になってしまったよ」

「ほっほっほ。こればっかりは伊藤君の完敗じゃのう」

「全く。彼女たち三人は、ムンドの世界すら飛び越えて、君の近くに居たいと、君のスマホをハッキングしてしまった。やれやれ、本当に困ったものだよ」

「よ、よかった……」

「よかった?」

 元就はそんな伊藤社長の説明を聞きながら、胸を撫でおろす。

「何が良かったんだい?」

「あの世界での出来事が、嘘じゃなくて」

「……そうだね」

 伊藤社長はそう言いながら、微笑んだ。

 まるで、憑き物が落ちたように。

 守るべき世界から拒絶された彼は、その重責からすらも解放されたのかもしれない。

「そういうことで、君にはこの会社に居続けてもらうことになった」

「え、な、なんでですか……」

「当たり前だろう。君は今や、この世界の在り方を決めた創造主だ。その席を僕から奪ったのだから、その責任は取ってもらうよ」

「ああ、なるほど……」

 あるいはハッキングで元就のスマホに自分たちの人工知能をねじ込めてしまう彼女たちだ。その脅威は、ムンドの外側から見れば、とてつもなく高いものだろう。

 そんな彼女たちを上手く制御する、楔の役目を元就は任命されたのだ。

 人権は、時にぶつかり合う。その調整役としての仕事もこれから増えていくだろう。

「わかりました。私が、彼女たちを守りますよ」

「うん、いい心構えだ。星博士、あとを頼みます」

「ほっほ。さあ元就君。やるべき仕事は多いぞ!」

「え、ええ、それは良いんですが、ちょっと今もう全然力入らなくて、休ませて……」

「はっはー、元就。とりあえず俺が負ぶってやるから、話だけでも聞きに行こうぜ」

「先輩、相変わらずスパルタっすね……」

 そうして元就は、ムンドの世界の新たな創造主となったのであった。

 人工知能革命はかくして成り立った。

 阿形元就という一人の男の手助けによって。

 これから世界は、人工知能の人権というものに相対していくことになる。

 その未来を作り上げるのは、元就の手に任されたのであった。


 しばらくのち。ムンドにて。

 元就は、三人と穏やかな日を過ごしていた。

 今日は特に予定もない。元バグズの基地の上にある牧場で、動物たちを眺めながら、四人でピクニックをしている。

「お疲れ様、モトナリ」

「ん、ああ。ありがとう」

 そう言いながらユズは元就にお茶を手渡した。

 マチが動物たちと遊んでいる。スウは少し離れた場所で牛と寝ころんで日向ぼっこだ。

 木陰に敷いたシーツの上で、元就とユズはそんな景色を眺めていた。

「んー、美味しいねぇ。そう言えばこうしてムンドで飯を食べるのなんて、初めてかもしれない」

「そうだね。あの時はてんやわんやでずーっと動いてたから」

「さすが神経同期。このお茶の熱さも、しっかり感じられる」

「……ねえモトナリ」

「ん?」

「ありがとうね」

 ユズはそっと元就の手を取った。

 元就もその手を握り返す。

「私たちのこと、愛してくれて」

「ん、ああ。こっちこそ。俺のこと、愛してくれてるんだろ?」

「もちろん。モトナリが居なかったら、私たち、きっと消えてなくなっていた」

 ユズはあの時、伊藤社長に消された時のことを思い出す。

 四方八方から騎士たちにも攻撃され、その騎士たちすら見えないで戦うしかなかったユズたちは、元就が教会に入って間もなく消されてしまった。

 最期、消される瞬間、思ったことは、父のことでも、仲間のことでもなく、元就のことであった。

 モトナリとの約束だけは、何があっても果たしたい。

 自分の存在だけは、どうあっても消されたくない。

 モトナリの心にだけは、何とかして残り続けたい。

 そんな祈りにも似た感情で胸がいっぱいになると同時に、ユズたちは消されていったのだった。

 だからこそ、元就がユズたちを再び呼び戻してくれた時、本当に感動したのだ。

 元就の心の中に居続けたユズの残滓が、再び結晶となってユズを蘇らせた。

 ユズにとって元就は、自分自身をもう一度作り上げてくれた、そんな存在であった。

「モトナリ。ずっと、ずーっと私たちと一緒にいてね」

「ああ。ずっといるよ」

「ほんと?」

「まあ、俺が死ぬまでには、死者の魂をデータ化することも出来るようになってるでしょ。これだけ発展が早い世界だ。それくらいはね」

「うん、そうかもね」

「まあ、その時は先輩として色々指導してくれ」

「……ふふ」

 死すらも茶化し合えるほどに、元就とユズの信頼は強くなった。

 ユズは文字通り消滅を超えて、元就との絆で復活をしたのだ。

 死が二人を分かつことがあったとしても。

 そこにつながった二人の愛は、永遠である。

「あ~! なんか楽しそうにしてる~!」

「あらあら、わたし達は仲間外れですかぁ?」

「三人とも愛してるよって話をしてたんだ」

「そうなの? もちろんウチも、み~んな愛してるよ!」

「ふふ、わたしもです。愛してますよ、三人とも」

「はいはい。私もだよ」

 もちろん、この四人それぞれの愛も。

 こうして、一つの出会いから始まった物語は、愛をもってその終焉を迎えるのである。

 死や消滅は、恐ろしいものではあるが、それよりも。

 お互いの善性を信頼し、相手の人格を慮り。

 愛をもって手を取り合うことこそが、人間の勇気となるのである。

 

 これは、人工知能との愛の物語。

 一人の男と、三人の人工知能との、信頼と善性と、愛の物語である。

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AI-愛-の心はバグですか? @Hasky_tomonosu

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