第8話 大団円

「ところで、このマインドコントロールの効果なんですが、私の精神科的な診察で分かってきたこととして、どうも、一目惚れという感覚が効果を表しているような気がするんです」

「というと?」

「今回のような記憶喪失に陥る効果を持った洗脳というのは、どうやら、一度も一目惚れをしたことがない人、つまり、一目惚れというものに、免疫のできていない人が、初めて一目惚れをした時に、最大の効果が出てくるのではないかということなんです」

「どういうことですか?」

 と浅川刑事が訊くと、

「そういうことになりますね。だから、さっきの三角関係の話ですが、たぶん、今回問題になっている洗脳というのも、彼女にとって彼への一目惚れが初めての一目惚れだったのではないかと思えますね」

「ところで一目惚れと、そうじゃない場合とではどう違うんでしょうか?」

 と、桜井刑事が訊いた。

 桜井刑事の中には、

――心理学や医学の専門家かなにか知らないが、恋愛をそう杓子定規に捉えられるものではないだろう――

 という気持ちから、逆らっているようだ。

 だが、先生の方はその桜井刑事の気持ちを知ってか知らずか、

「一目惚れというのは、少なくとも自分が惚れるということが大前提にありますね? つまり、相手が自分のことを好きかどうかは分からないが、自分は好きになってしまったということですね。でも、その中で一目惚れというのはまた違った要素を含んでいます。つまりは、好きになった相手の、即座に好きになってもらいたいという気持ちが、ジワジワ好きになってもらいたいという気持ちよりも強いのではないかと思うんです。自分だけが好きになってしまうと、相手にも同じ思いを抱かれないと気が済まないという、これも一種の洗脳に近いものではないかと思いますね」

 というと、桜井が、

「それは洗脳ではなく、その人の思い込みなんではないですか?」

 と言った。

「いや、そう思うかも知れませんが、私は違うと思います。自分が思い込んでしまったと感じるのは、自分を納得させるためであって、本当は相手からの洗脳ではないかとも思うんです。何しろ相手には、自分を一目で好きにさせるという強力な能力が備わっているわけですからね。相手は自分が好かれているということも分かっているので、上下関係も分かっています。だから決して焦ろうとはしないんです。相手を焦らしていじいじさせて、それを、本人の思い込みと感じさせるくらいは、わけもないことだと思うんですよ」

 と、先生はいう。

 浅川はその話を訊いて、

――なるほど、その通りだ――

 と感じた。

 だが、桜井刑事は、なかなか納得していないかのようだった。まるで自分が、

――相手に洗脳されないようにしないといけない――

 という意識を持っていることだ。

 それと一緒に感じる紀一の視線、まるで三角関係というか、三すくみに近い感じがした。

「桜井刑事は、先生には強いが、紀一には一目置いていて、逆らえないところがある。先生は紀一には弱いが、桜井刑事には強い。そして、紀一は、桜井刑事には強いが、先生には弱い……」

 というそんな三すくみではないかと思えた。

 この感覚は桜井刑事だけが持っているものだった。

 紀一は、桜井刑事がこの三人の関係について何かを考えているという意識はあったが、それがどのようなものなのかということまでは、分かっていないようだった。

「ところで、この洗脳というのは、何のための洗脳だったんですかね?」

 という根本的な話になってきた。

 という話に言及してくると、急に先生の舌の滑りが悪くなってくる。

 それは、実際には先生が何かを知っているというわけではなく、それとりも、そのことについて考えてこなかったということである。

 それは、考えることによって、何か恐ろしい結論が出てしまうことを恐れているのだ。

 それを警察の方では、

「何か知っていて、敢えて言おうとしないのではないか?」

 という今、桜井刑事が抱いているような懸念を抱くのではないかと分かっていながら、敢えて考えないようにしていることで、先生の中でジレンマが発生していた。

 それだけ、洗脳が何のために行われているのか、そしてこの薬がどういう効果をもたらすのか、調べなければ先に進まないのは分かっていても、踏み込むのが怖い領域である。

「そこを渡ってしまうと、もう戻ってくることはできないかも知れない恐ろしい領域なのである」

 と感じるところであった。

 そこには、ふい一手はいけない未知の世界が存在し、そして、その世界を我が物にしようとしている反政府勢力が存在しているのも事実だった。

 まだ警察がその存在を知っているのかどうか分からないが、どうやら警察組織くらいの規模では、反政府組織に立ち向かうだけの力がなさそうだった。

 薬の開発にしてもそうだ。

「以前、何かの話で、シンナーとアンモニアを混ぜたような無味無臭の薬が開発できれば、人を思いのままに操ることができる」

 というような都市伝説が流れたことがあった。

 シンナーとアンモニアというのは、きっと一つの例であろう。

「臭いの強烈な二つが混じりあって、無臭になる」

 ということが言いたかったためのたとえだと思われていたが、実際にそれを信じて研究した博士がいて、実はその研究が完成していた。

「ウソから出た誠」

 という言葉はまさにこのことかも知れない。

 しかし、これをどうにかして隠さなければいけない。それが、クスリと洗脳という交り合わないと思わる、

「水と油:

 の関係なのかも知れない。

 水が油に交われば、それこそ、偉大な発明だと言ってもいいだろう。

 水と油の関係というのは、実際に二つの交わらないそもそもの物質で形成されているということだけではなく、実際にはその二つは交わるものであって、その間に結界が存在しているというパターンもある。または、その結界が実は自然なものではなく、交わってしまうと、化学反応を起こし、最大の災いを起こすために、交わらないようにしているという一種の安全装置のような役割のものもあるだろう。

 この三つがそれぞれ、存在していることで、総称し、

「水と油の関係」

 という言い方ができるのではないか。

 そこには、作為があったり、無作為があったり、実際に混ざると危険なものと、そうでなおものが存在するのだ。

 恋愛関係に限っての、水と油の関係を見ると、その間に結界だったり、安全装置が存在するとすれば、それをこじ開けるカギは、

「一目惚れ」

 というものが関係してくるのであろう。

 だが、そこに嫉妬という感覚が絡んでしまったことで、一つの張り詰めた糸が緩くなったのか、あるいは、ほどけてしまったのか、先生は若干の焦りを見せているようだ、

 本来であれば、この先生、少々のことでは微動だにしないはずなのに、この焦りがどこから来るものなのか、次第に分かってくることになるのだが、そうやら、その問題は、由衣に絡んでいるようだ。

 何とあいりを洗脳していたのは、由衣だったのだ。

 彼女があいりをマインドコントロールしていたものを、三角関係に陥った男が変な勘違いをし、あいりが記憶喪失になったのは、由衣のせいだと勝手に思い込んだ。

 もっとも、実際にはその通りなのだが、それを由衣に突き付けて、由衣の方としても、簡単に彼に説明してしまうと、自分が嫌われることは分かっていたので、何とかごまかそうとした。だが、そんなごまかしに乗るほど、彼は純粋ではなかった。

 由衣の誤算は、自分のいうことであれば、何でも信用すると思っていたこの男を見くびっていたことだった。由衣がいくらあざとく振る舞っても、最後には信用できなくなると、憎しみの感情が湧いてきた。

 それにより、由衣に対しての殺意が次第に芽生えてきて、もちろん、

「こんなことになるなんて」

 と思っていたはずであるが、由衣を殺害するに至った。

 我に返ってみると、この男、本当に小心者で、気持ちを表に出すのが苦手で、こうなってしまうと、すべての人間が敵に見えて、すべてを保身にしか結び付けられなくなった。

「俺が悪いんだ」

 と、思っているくせに、保身に走ってしまう。

 感じていることとやっていることが正反対で、神経がほとんどマヒしているかのようだった。

 だが、彼は自分がしてしまったことの本当の罪を知らない。

 それは、

「あいりの記憶が元に戻らない」

 ということだった。

 洗脳を施した由衣はすでに死んでしまっている。その術を解ける人がすでにこの世にいないのだ。

 洗脳が解けるとすれば、洗脳した相手がそれを解くしかないのだが、その人物が二度と現れることがないのだから、死ぬまで、この状態だということだろうか?

 それではあまりにも可哀そうだというものだ。

 彼は由衣の命を奪っただけではなく、あいりという人間も抹殺してしまったことになる。そんな彼がどれほど罪作りなのか、誰が分かるというのだろう。

 誰がこの事実を知っているというのか、一番知り得る立場にいるのは、やはり先生ではないだろうか?

 ただ、先生がそのことを知ったからと言って、あいりの記憶が戻るわけではない。

「彼女は記憶を取り戻すことなく、今の段階からが新しい人生の始まりだという感覚でいることの方が幸せなのかも知れないな」

 と、感じていた。

 あいりの意識がどこにあるのか、誰か考えたことがあるのだろうか?

「犯人はなぜ、由衣さんを殺したんでしょうね? やはろ。マインドコントロールを永遠にしようとでも思ったのでしょうか?」

 と桜井刑事は言ったが、

「いや、そうではないと思うんですよ。元々、この事件では、単純に、由衣さんとあいりさんの関係を知られたくないと思い、警察がまだあいりさんと由衣さんの関係に気づいていないと思ったのか、彼女を葬ることで、彼女への薬のことなどが、明るみにでないようにしようとでも思っていたのかも知れないですね。ただ、そうだとすると、事件としては、かなり甘い考えではないかと思うんですけどね」

 と、浅川刑事は言った。

「でも、この事件、トカゲの尻尾切りで終わってしまいそうに思えてならないですね」

 と桜井がいうと、

「それはあるかも知れない。そうならないようにするために、クスリの秘密を細部にわたって解明してくれることを先生に願いたいところですよね」

 と浅川が言った。

「でも、一目惚れというのがキーだったというのも、少し気になるところですよね」

「一目惚れって、そんなに多くないじゃないですか。自分が相手よりも先に好きになる中で、我を忘れてくらいにまで気持ちが行き着くだけの感情って、ある意味一目惚れしかないと思うんですよ。しかも、恋愛経験がほぼゼロと言ってもよくて、普段から自分を美しく見せようと思っているアイドルのタマゴには、いかにも一目惚れって憧れるものだと思うんですよ。そういう意味では、ターゲットとしてはうまく嵌ったというところだろうね」

 と、桜井は言った。

「ところで、由衣さんのお腹の中の子供って、どういう意味があったんだろう?」

 とさらに桜井が訊くと、

「そこは本当に想像でしかないんですが、由衣さんは、アイドルとの板挟みだったのかも知れませんね。自分がこれから這い上がるアイドルへの道はいくつかの段階がある。今までにもその段階をいくつも超えてきた。そういう自負があるのに、一向にゴールが見えない。そのことに永遠にゴールなんて見えてこないのではないかと思ったんですよね。前に進むにも無限、進んできた道も無限。自分が今どこにいるか分からなくなってきた。それが、彼女をノイローゼにようにした。そのために、マインドコントロールに走り、自分を啓蒙しつつ、ライバルを蹴落とす気持ちにもなってきた。そんな自分に嫌気がさしたのかも知れない。そうなると、男に走るというのもよくあることで、自分がまだ組織に利用されているのを知らず、好きになった男に対し、自分は何があっても尽くすという気持ちにもなった。まるで奴隷ででもあるかのようにですね。だから、その男に委ねて、一線を越えてしまい、過ちを犯しても、自分が悪いという気にもならなかった。それが、今のこのアイドルとしての大切な時期に妊娠などということになってしまった。ひょっとするとその時、あいりが由衣を陥れるという意味で、絡んでいたのかも知れない。もし、そうであれば、本当に因縁深い二人だと言えるのではないだろうか?」

 と、浅川は言った。

「毎日、制限ばかりの生活を強いられ、その中で女の子らしい自分がいるにも関わらず、そこには蓋をして、アイドルとしての仮面だけをつけたまま、これからも生きなければいけないと思うと、急に恐ろしくなってきたのかも知れないですね。アイドルは見られることには敏感で、人の視線には本当に過敏で神経質になるのに、自分から見るとまったく違う自分が二人いるような気がしているのかも知れない。それを思うと,、あいりさんの気持ちも由衣さんの気持ちも分かる気がするだけに、実におしいと思うんですよ」

 と、桜井が言った。

 さっきまでその場にいた紀一の姿が見えなくなっていた。

「どこへ行ったんだろう?」

 と桜井が言ったが、浅川には心当たりがあるようで、そそくさと病室の方に向かった。その病室には、川本あいりと書かれている。

 こちらに背を向けて、眠っているあいりの手を両手で握っているのは紀一だった。その背筋は結構折れ曲がっていて、もうすでに老人の様相を呈していた。

「君だけは、僕がこれからも面倒を見ていきたいと思うよ」

 と言って、完全に眠ってしまっているあいりの寝顔を覗きこんでいる。

 これが、由衣に対して何もしてあげられなかった紀一のせめてもの罪滅ぼしになるということであろうか。トカゲの尻尾切りで事件を終わらせないようにするためには、あいりの証言が必要になることもあるだろうが、その時、もし記憶が戻っていたとして、紀一は、浅川刑事と桜井刑事に対してどのような対応をするというのであろうか。

「限りなくゼロに近い」

 と言われるであろうが、もう二度と彼女たちのような被害者を出さないようにすることが、大切なのだと、その場にいた皆が感じていた……。


                  (  完  )

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限りなくゼロに近い 森本 晃次 @kakku

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