嬉忘症
@mohoumono
嬉忘症
今日は、彼女が来る。俺は初めて会う。けれど、めんどくさいなぁそう考えてしまう。だが、日記の中の僕は、そうじゃなかった。
「元気?」夏葉は、カーテンを少し揺らす。
あるハプニングが起きてから、僕と彼女で決めたノックのような合図だ。
「比較的に元気。」僕は、元気そうに見せるため少し声を張った。
「元気で良かった。」彼女は、カーテンを少し開け、そこから顔を覗かせる。いつもの変わりない緩み切った笑顔だ。それを見るたび僕は、今日も生きてて良かった。そう思えるようになっていた、という事だけどまったく身に覚えがない。この日記自体誰かが書いた偽物なんじゃないかと思うくらい実感がない。それに、俺が誰かを好きになるなんて想像もできない。そして、何て甘いのだろう。コーヒーを飲みたくなるくらい口の中が甘くなる。口笛を吹きたくなるくらい囃し立てたくなる。そんな気持ちに駆られる。一旦落ち着こう。深呼吸だ。吸って、吐いて、吸って、吐いて。そもそも、俺はこんな性格だったか?もっと暗かったはずだ。見舞いを葬式に見立てて罵詈雑言を心の中で呟いていたような記憶もある。そんな捻くれた奴が誰かを好きになるなんてあり得るのか。そもそも他人を信用も信頼もしたく無い。何かを求めてもしょうがない。俺はそれを身を以て知っている。だが、彼女が来るのを何故か楽しみにしていた自分も確かに存在している。なら、もう少し読もうか。そして、読み進めていくと記憶を失うと書かれていた。それも嬉しいことだけを忘れていく奇病に罹ったと。胡散臭いなんて思いながら、読み進めていくと、今日もまた記憶がなくなった。そう書かれる事が多くなっていった。それに伴って書かれた文字が歪んでいた。その記憶が、どのような物なのかは分からなかったが、きっと俺にとってかけがえのない大切なものだったんだろう。震える手で書いたであろう文字からそれを、読み取る事ができた。そして読み進めていくと、
記憶を失った僕へ、よほど読ませたかったのか赤文字で書かれており、紙にシワができるくらい力強く書かれていた。
「このページを読んでいるということは、きっと嬉しかった記憶が全てなくなっているのだろう。憶測だけどこれが発症したのは、僕が一番嬉しかった日の翌日だ。そう君が今思いついたあの日だ。往生際が悪い死に損ないの僕に、一つ頼みがある。夏葉を騙して欲しい。そして、今まで通りの僕を演じてくれ。ああ、そうだ。詳しいことは染谷さんに聞いて欲しい。頼んだよ僕。」性格が捻じ曲がってる文だなんて感じながら読み進める。進むごとに文が柔らかくなっており、紙のシワがなくなり、筆跡も弱くなっていく。そして、水滴が垂れたような跡が増えていった。次のページを開くと、「ああ書き忘れていたことがあった。彼女はきっと、」その後に、何か書かれているようだったが、上から何度も線を書いてその文字を分からなくしていた。何かは気になったが、そんなに気にすることでもないだろうと思い、ページを捲った。「このページとさっきのページは破って、念のため病室のゴミ箱じゃなくて病院の中にあるコンビニで捨てておいてくれ。
じゃあ頼んだよ僕、信頼してる。」それが日記の最後のページだった。まぁやる事もなく、夢もなければ希望もない。なら、やらない理由がなかった。僕の最後の頼み、子供の頃の夢も叶えられてないのなら、最後の頼みくらい叶えてやろうじゃないか。そして、どうにかして彼女を泣かせてやろう。昔の僕は、そんなこと望んでないのかもしれない。だけど、ただ頼みを聞くだけじゃ面白くない。これは一種の意趣返しだ。俺に頼んだのが、運の尽きだったな僕よ。俺は、久しぶりにおかしくなって笑った。個室だったのが幸いだった。こんなとこ見られたら検査からの検査でより時間を失っていただろうから。
そうなれば、染谷のおじさんに話を聞くとしよう。その前に、彼女が来なければ良いんだけどなぁ。俺は会った事もなければ、彼女のことが好きなわけでも無い。それに、憶測だが夏葉という女性は、記憶を失う前の僕、吹春桜に恋をしているのだろう。そんな人が嘘を見抜けないのだろうか。まぁ、記憶喪失なんか考えもしないか。楽観的にいこう、考える時間が短いほど人生は楽だ。さて、染谷のおじさんにメールを送った。日記の件について話があります、と。取り敢えず寝とけば、どっちが来ても大丈夫だろう。僕はそう思い、掛け布団を深く被り目を閉じた。
嬉忘症 @mohoumono
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