第9話 大団円
昏睡状態だった弘子が目を覚ましたのは次の日のことだった。博士から連絡があり、さっそくやってきたのは、浅川刑事と桜井刑事だった。
桜井刑事は自分の大胆とも思える発想を浅川刑事に話していたが、二人とも意見が最終段階までは行っていると思っていたが、決め手に欠けるのであった。
「弘子さんが目を覚ましたというのは、どういう状態ですか? 前に聞いた時にはお話が伺えるかどうか分からないということでしたが」
と桜井が訊くと、
「いえ、大丈夫です。今日まで目を覚まさなかったのであれば、大丈夫なはずです。お話を伺えると思いますよ」
ということだったので、それでも一応問題がないように、博士が立ち会うということになった。
弘子は意識が朦朧とはしていたが、簡単な質問には普通に答えることができ、自分のことは分かっているし、社長が殺されたということをいっても、別にショックを受けている様子もなかった。
むしろ、意識を失ったのは、死体を発見した最中だったので、それが気になったまま目を覚ましたということで、それはまださっきのことのような記憶のようだった。
「ええ、私は社長の死体を発見しました。そして、実は犯人の姿も見たんです」
というではないか。
「えっ? 犯人をご覧になったんですか? 相手はあなたに見られたことを知らなかったんでしょうかね?」
と浅川刑事が訊ねると、
「いえ、分かっているようです。私の顔を見るなり、一瞬戸惑いがあった気がしましたが、でもあれは何をしようかを迷っていたというよりも、じっと私を見つめていたので、逆に私に顔を覚えさせようとした行動に思えたくらいなんです」
と彼女は言った。
「それはおかしな行動ですよね?」
と浅川刑事がいうと、
「犯行があってからかなり経っていたと思うのに彼女がその場にいたのが私にはおかしいという思いから違和感がありました。その違和感の元に彼女の顔を見たので、余計に自分に顔を確認させようという思いだったのかと感じたんです」
という弘子に、
「じゃあ、犯人は女性だったんですね?」
と今度は桜井刑事が訊いた。
「ええ、そうです。私はその人に見覚えもありました」
と弘子は、確信があるように言った。
「ほう、それは誰だったんですか?」
と桜井刑事が訊くと、
「はい、名前は知らないのですが、こちらの看護師さんです。なぜ彼女だとすぐに分かったのかというと、私に今まで一度も笑顔で接してくれたことのない彼女が、逃げる時に、私を見て笑ったんです。笑顔なのに、こんなに怖い顔があるものかと思うほどの恐ろしさを感じました。そして、その思いが、社長を殺したのはこの人に間違いないと感じさせたのです」
と、弘子はいう。
「最初の事情聴取の時、あなたはそのようなことは一切話をしていなかったのですが、なぜ今になってお話になろうと思ったんですか?」
と言われて、
「あの時も本当はいおうと思っていたんですが、実は話を始めた最初から、少し頭に違和感があったんです。だから、まずはとにかく質問されたことだけに答えて行って、大丈夫なようなら、話をしようと思ったんです。自分勝手だと思われるかも知れませんが、私にはあの時、偏頭痛に襲われて、気を失うくらいまでの覚悟はありました。さすがに救急車で運ばれて、ここまで昏睡してしまうとは思ってもみなかったんですけどね。だから、私にとっては、想定内の状態だったのだと思います」
と弘子は言った。
「ところで弘子さんはどうして、犯人の女性をご存じなんですか? あなたは気を失ったまま運ばれてきてずっと気を失っていたんですよ。この病院に前に来たことがなければ、そんなにすぐには思い出せないと思うんですが、どうなんでしょう?」
と浅川刑事が訊いた。
「私、ひょっとして、記憶喪失になっていたんですか?」
と弘子は訊いた。
「ええ、そうですよ。あなたは、その意識がなかったんですよね?」
と浅川刑事が訊いた。
「はい、き奥喪失にかかっているとは思っていませんでしたが、記憶喪失というものへの意識はありました」
とふぃすぎなことを言った。
「どういうことでしょう?」
「でも、記憶喪失になっているということは、博士が私を助けてくれようとしているのではないかと思ったんですよ。川越博士は私にとっての恩人ですからね」
というではないか。
「よく話が分かりませんが?」
と浅川刑事が訊くと、
「ええ、博士は記憶喪失状態にすることで、私たちを救ってくださっていたんです。催眠術を使っての催眠療法というのがあるでしょう? あれに近い形でですね。でも、最近、この街に安価で粗悪な薬物が蔓延るようになったのを博士はすぐに看破したんです。記憶喪失に掛かった人がなかなか元に戻らないということがありましたからね。博士の記憶喪失は、あくまで療法ですから、ある程度の期間が過ぎるとすぐに覚めるんです。それも自然にですね。だから、私たちも安心して博士に任せられたんですが、それがどうやらその薬物が蔓延ったことで、博士の研究が頓挫し、精神的に苦しんでいる人を今度は薬が苛むことになったんです。確かに博士の研究を信じている人のいましたが、その薬の効果は抜群だったんです。あっという間に気分が楽になる。普通の精神状態なら、麻薬だと分かるんでしょうが、元々精神を病んでいる人に対して進めるので、判断力もマヒしています。禁断症状になりにくい代わりに、記憶喪失に陥るという副作用があったんです。それが博士の研究と奇しくも同じ作用を示すということで、今度は博士の立場が微妙になってきました。さすがに博士も黙っているわけにはいきません。一体何がどうなっているのか、独自に捜査を始めたんです。もちろん、警察に相談するわけにもいかない。そもそもそんな話、誰が信じるのかって話ですよね。私は、博士に以前助けられたことがあったんです。そしてここで、看護師をしばらくしていました。だから、社長を殺した看護師も、よく知っています。私を救ってくださった博士のためなら私は何でもできます。博士が私にお願いしに来たんです。どうやら、おもちゃ工場の社長が、麻薬製造に一役買っているという話ですね。どうやら、シンナーが製造に大きく関わっているようで、そこまでは博士も表から調べて分かったのですが、それ以上はよく分からないということだったので、私は内偵を進めることにしたんです。博士の命令などでは決してありません。私が望んで入ったことなんですよ。博士には私のような苦しんでいる人を一人でも救ってもらいたい。その思いがあったからですね」
と、弘子は言った。
「じゃあ、なぜあなたは仲間である、実行犯の看護師を売るようなマネをしているんですか?」
と桜井刑事が訊くと、
「私たちは、決してお互いを裏切ったなどとは思っていません。あくまでも研究のために自部を犠牲にすることが素晴らしいと思っています。だから、彼女もきっと後悔はしないと思います」
という言葉を訊いて、桜井刑事も、浅川刑事も、何とも言えない気分の悪さを感じていた。
彼女たちの気持ちはよく分かる。しかし分かるだけに敢えて、ひどいことをいうのも仕方のないことだ。
「これはどう考えても、マインドコントロールです。犯罪を犯す宗教と同じ手口です。そんなことは法治国家の日本では決して許されない。皆がやっているのは、私刑です」
と浅川刑事がいうと、それを聞いた弘子は、
「そんなことは百も承知ですよ。でも警察って結局組織の中でしか動くことのできないものじゃないですか。何かが起こってから出ないと決して動かない。それは、警察だけじゃない。この国家、ひいては全世界がそうなんだ。国家主義が違ったって、結局行き着く先は、末端の市民がすべて犠牲になるんですよ、必ず、一部の特権階級が得をするようにしかできていない。逆にいえば、そういう体制でないと、たくさんの人をまとめていくことなんかできっこないんですよね? しかも、そんな社会だから、国家の中に、似たような組織が無数にできてしまう、公式非公式を別にしてですね。公式だったら、世論が攻撃できるでしょうが、非公式だと無法地帯です。それぞれの団体の潰しあいにしかならない。そういう意味では私たちがやっていることは警察から見れば、組織や派閥の潰しあいにしか見えないでしょう。でも、結局正義なんてこの世には存在しないんですよ。勧善懲悪なんて夢のまた夢。そんなものを目指すから、結局自分が苦しむことになる。損をする。そして社会からはじかれる。立場的にはじかれたり精神を病んでしまったりですね。そんな私たちを救ってくれたのが、博士なんですよ。博士はこの街の英雄であり、カリスマなんです。麻薬の組織を戦う必要がある。そのために、あの社長の殺害はその第一歩だったんですよ」
弘子は、何かに取り憑かれたかのように、まくし立てた。
さらに弘子は続ける。
「せっかく今までうまくいってきたと思っていたのに、桜井さん、あなたが出てきたことで、何もかも狂ってしまった。私たちは、もうここまでだって思っていますが、別に桜井さんが悪いわけではない。だから、今あなたが苦しむことはない。でも、すぐにあなたはどうしようもないアリ地獄に足を突っ込むことになるでしょうから、その時のあなたを本当は見てみたい。あなたには、私たちのように記憶喪失になったり、意識を失ったりという力がありませんからね。まともに、精神の葛藤に立ち向かうことになるんです。ええ、そうなんですよ、私たちの記憶喪失であったり、意識がなくなるというのは、その精神的な意識は罪の呵責を和らげたり、自分中の葛藤を受け入れるだけの力になっていたんです。だから、博士は絶対に必要な人だったんです。あなた方にはまるで悪徳宗教団体のように見えるかも知れませんがね。そういう意味で桜井さん、あなたには、中学時代からの罪がある。それを聡子さんと一緒に味わってくださいね」
と言って、大きな声で笑いだした。
その声は部屋全体に広がり、遠慮の何もないその声は、いかにも精神異常者を思わせた。
二人がその笑い声に交じって、女性の大きな悲鳴が聞こえてきたのを感じた時、我に返るというよりも、これ以上の不気味な声を、今までに聞いたことがなかったし、これ以降にもないだろうと思わせるほど、背筋に恐怖が宿ったのだ。
「どうしたんだ?」
と急いで、表に出た二人は、声のする方に向かって走り出した。
そこには数人の看護師と患者による人だかりができていたが、気が付くとそこは、博士の研究室の前だった。
凍り付いているかのような野次馬をかき分けで中に入ると、そこには、ナイフで刺されて、断末魔の表情を浮かべている博士が倒れていて、虫の息状態だった。そして、その正面には真っ赤に染まった返り血を浴び、手には凶器と思しきナイフを握りしめている、聡子がいた。
急いで、ナイフを取り上げた桜井だったが、すぐに後悔した。
今まさに人を差した聡子のその顔は、狂気に満ちていて、まったく後悔などしていないかのような不気味な顔は、一番見たくないと思った顔だった。
「このことだったのか……」
と一言桜井は口にして、立っているのがやっとである自分に気づいていた……。
桜井刑事が、それ以降精神に異常をきたして、そのまま入院したのだが、医者の見たたでは、
「このままでは、以前の桜井さんに戻ることはないでしょう。警察のお仕事に戻ることも難しいと思います。実に皮肉なことです。これを元に戻すことができる人がいるとすれば、川越博士だけだったに違いないのに……」
と言って、嘆いていた。
「因果応報、まさにその通りだな」
とどこかからそんな声が聞こえてきた。
浅川刑事は、これまでにも、これからも、こんな事件は二度と嫌だと思っていたのだった……。
( 完 )
因果応報の記憶喪失 森本 晃次 @kakku
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