3

 午後7時、学校に到着する。辺りはすっかりと暗くなっており、街灯などがない場所は全く様子を確認することが出来ない程である。『いいアンバイだ』と、僕は思った。校門から校舎を眺めると、職員室の明りがまだ灯っているのが見えた。残っている先生に見つからないよう、警戒しながら校舎裏に移動する。

 暗闇の中、僕は理科室の窓のそばまでやってきた。理科室に誰もいないことを確認した後、どくんどくんと鼓動が高まっていくのを感じつつ窓に手を伸ばす。ぐっと力を込めると、窓は何の抵抗もなくカラカラと開いた。


 ……成功だ。


 自分の仕掛けが上手くいった喜びと、アルコールランプを持ち出すという悪さをすることの罪悪感が胸の中で混ざり合う。それは、何とも言えない複雑な感覚だった。今ならまだ間に合う。誰にも見られていないはずだから、何もせず帰れば平和な明日が待っている。

 でも、せっかくここまで上手くいっているのにという気持ちもある。この『アルコールランプ奪取計画』の下準備をする為には色々と条件(りょーちんの班が理科室の掃除当番に割り当てられているか、次の日の1時間目に理科の授業があるか、等)がある。今日の様にピッタリと条件が当てはまる日はもう来ないかもしれないのだ。

 窓の下でしゃがみ込み数分考えた結果、僕は計画を続行することにした。



 外窓と内窓を半分程開き、靴を脱いで理科室の中へ侵入する。この時、靴下に土が付かないよう細心の注意を払った。家から持ってきたペンライトを点け、アルコールランプが仕舞われている棚へ近づく。目的のアルコールランプがある場所は前もって確認済みなのですぐにたどり着くことが出来た。

 僕は何度も周囲を見渡したり、耳をすませ人が居ない事を確認した。その後、鞄からタオルとビニール袋を取り出し、タオルでアルコールランプを包んだ後ビニール袋に入れてきつく縛り、それを鞄の中に入れる。その後素早く理科室から脱出し、窓を閉める。外側からだと鍵を掛けることが出来ないので、明日の1時間目に素早く証拠インメツをする必要がある。



 後は素早く家に帰るだけ。どうか誰にも会いませんようにと願いつつ、怪しまれない程度の小走りで移動していたのだけれど、そんな僕の願いはあっけなく打ち砕かれる。校舎裏から校門まで移動する途中にある自転車置き場にうっすらと人影が見えたのだ。『しまった』と思った時には既に手遅れだった。

 その人物はこちらに向いたまま立ち止まっているので、おそらく僕の存在に気が付いているのだろう。今更校舎裏に引き返すのは不自然すぎるし、学校を囲っているフェンスを乗り越えて脱出する、なんてことも出来る筈がない。こんなことなら律儀に校門を目指さないで、最初からフェンスを乗り越えて脱出するプランを立てて置けばよかったと僕は後悔した。


 一応、こんな時の為の『言い訳』は用意してある。このまま立ち尽くす訳にはいかないので、僕は意を決して歩みを進めた。問題の人物との距離がだんだんと縮まっていき、相手との距離が2メートル程になった時ようやく誰なのか判明した。華奢な身体に肩ぐらいに伸ばした黒髪、ジトっとした目つき。その人物は、同じクラスの春日井かすがいなずなだった。


「ああ、春日井さんか。こんな時間に何してんの?」

「……自転車を取りに」

「自転車?」

「はい、自転車。サイクリングクラブで自転車を使ったのですけど、いつもは自転車通学をしていないからつい乗って帰るのを忘れてしまって。木林君は何を?」

「僕も忘れ物を取りに来てたんだよ。クラブ活動中に使っていたタオルをベンチの所に置きっぱなしにしちゃって。いいタオルだから、失くすと怒られるんだよね」


 僕は用意していた言い訳を披露した。自分としては上手い言い訳で、それでいて自然な感じで言えたと思うのだけど、春日井さんは「そうですか」と一言、素っ気ない返事をしただけだった。春日井さんは普段からこんな感じであまり感情を表に出さない、不思議な雰囲気を纏っている子だった。3年の時彼女がこの学校に転校してきてからずっと同じクラスなんだけど、1度も笑ったり泣いたりしている所を見た事が無かったと思う。言い訳が上手く機能しているのかどうかの判断が難しい、厄介な相手と遭遇してしまったなと僕は思った。


 春日井さんとは殆ど喋った事が無い。下手に会話を続けようとして何か失言してしまうのはマズイと思い、僕は「じゃあ、急いでいるから」と言ってこの場を立ち去ろうとする。だけど、それは突如聞こえて来た「あれー?」という女の子の声で遮られてしまった。


「なずなちゃんに樹君じゃない! 2人で何してるの? こんな時間に」

 


 その声の主は、僕らと同じクラスの淡島あわしまあずみだった。

 淡島さんは明るくて活発、言いたい事はハッキリと言う春日井さんとは真逆のタイプの子だった。それでいて運動神経抜群で、勉強も出来て、スタイルが良くて、少し茶色がかったロングウェーブの髪がよく似合い、クラスで1番可愛い。まさに絵に描いたようなクラスのマドンナだ。彼女に想いを寄せている男子は多く、何を隠そう僕もそのうちの1人である。

 彼女の周りにはいつも多くのクラスメイト達が集まっているので、僕が淡島さんと話す機会は少ない。本来ならこんな風に話しかけてくれるのは大変喜ばしい事なんだけど、今日に限ってはカンベンして欲しかった。どうして誰にも会いたくない時に限ってこういうことが起こるのだろうと思いつつ、僕は慎重に会話を進めていく。


「自転車を取りに来ていたのです」

「自転車を? 何で?」

「いつもは徒歩通学だからクラブ活動で使った自転車を忘れてしまって……」

「あ、そっかぁ。そういう子結構いるよね!」

「僕も忘れ物を取りに来てたんだよ。クラブ活動中に使っていたタオルをベンチの所に置きっぱなしにしちゃって。いいタオルだから、失くすと怒られるんだよね」

「そうなんだ~」

「淡島さんは何をしていたのですか?」

「私は体育館でバレーをしていたんだよ」

「こんな時間に?」

「この時間ママさんバレーの練習を体育館でしていて、私も参加させてもらってるの。で、今は休憩中! 汗かいちゃったから外で涼もうと思って出て来た所」


 淡島さんは胸元をぱたぱたと仰ぎつつそう説明する。そんな光景に目を奪われつつも、僕は冷や汗をかいた。この学校にいる人間が多ければ多い程、僕の犯行を目撃される可能性が高まるからだ。ママさんバレーの練習が夜の体育館で行われていることは以前どこかで聞いたことがあったけど、今回それを考慮するのをすっかりと忘れていた。


「今日は生徒の参加者が私しかいなくてさぁ、退屈だから遊びに来ない?」

「私は買い物を頼まれているからこの後コンビニに行かないと」

「そっか。樹君は?」

「えーと、行きたいけど……さっきまでりょーちんと遊んでてその帰り道に寄ったから、そろそろ帰らないとさすがに怒られるかも」

「そうなんだ、それは早く帰った方が良いね!」


 そんなこんなで、僕らは「じゃあまた明日」と言って別れる。

 僕は家に向かう間、不安で仕方が無かった。さっきまでの会話の中で失言が無かったか確認する為色々と思い返していたのだけど、何度思い返しても大丈夫だという確信が持てなかったのだ。しかし、何か失言に気が付いたとしても今更リカバリーできるわけじゃないし……と思い、割り切ることにする。それと同時に、もう後戻りは出来ないのだと気が付いた。

 

 アルコールランプを盗み出しあの漫画の真似をすることを計画していた時は物凄くワクワクしていたんだけど、いざ実行してみると不安感や罪悪感を感じるばかりでちっとも楽しくなかった。今回僕がやったことは今までの校則を少し破るくらいの『悪戯』とは違う、明確な『犯罪』だ。犯罪を犯すとこんな気分になるんだなと、僕は思い知った。



 ※※※



 ──そうして、真っ暗な通学路を真っ暗な気持ちでのろのろと歩き、ようやっと家までたどり着く。リビングでは、既に晩御飯を済ませたと思われる両親がテレビを見ていた。僕の姿を見ると、母さんが「遅かったじゃない」と声を掛けて来た。


「ちょっとね。クラブ活動の後で町民センターとコンビニに寄ってたから」

「それにしたって7時を過ぎるのはちょっと遅いな。母さん心配していたぞ」

「気を付けるよ……風呂沸いてる?」

「今、葉子が入ってるわ」

「兄ちゃんは?」

「7時の電車に乗るって言っていたからもう少しで帰って来るでしょ。あんたは着替えてご飯食べちゃいなさい」

「うん、わかった」


 僕は2階の自分の部屋へ向かった。正確には僕と妹の葉子の部屋なんだけど、まあとにかく、兄と妹がいない今がアルコールランプを隠すチャンスだ。部屋に入り、自分の机の一番下の引き出しを開ける。中の物を取り出し、引き出しの一番奥にアルコールランプ入りのビニール袋を仕舞い、入っていた物を上から被せ引き出しを戻す。

 ああ、ようやっと終わった。取り合えずはひと段落ついたわけだ。今日は朝から大半の時間気を張り詰めていたので予想以上に疲労していたらしく、僕はその場にぺたりと座り込む。裏山にいつ行くのかとかアルコールランプを返す時の算段等、考えることはまだまだあったのだけど、今は何も考えたくなかった。

 

 この後僕はご飯を食べ、風呂に入り、すぐベッドに横になる。状況を整理しようと思ったけど、いつの間にか眠りに落ちてしまったらしく気が付いたら朝になっていた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る