終 人の生と神の世と
川の流れる音がする。
岩を叩く、
――川は静かだ。結は思う。
山を下り大海へ流れゆく己の運命のせいなのか。あきらめでなく、ただ淡々とすべてを受け入れているような、そんな
それが結を惹きつける。
「おい、大丈夫か」
男の声がして、結は飛び起きた。
肩をゆすって結を起こしたのは、村の男だった。
「まったく、よくこんなところで眠れるな」
結はぽかんと口を開けた。
「ここは……龍神さまは」
言いながらあたりを見回す。龍の姿はどこにもない。
薄暗い洞窟の中だ。結の足元には
まぎれもなくここは“龍の巣穴”だった。
結はどこにも
「何を言っているんだ。寝ぼけているのか」
男はあきれたように言う。
結はうわの空で自分の身体を検分した。――なにも問題はない。
風雨にさらされていたはずの衣も、乾ききっている。周囲の岩々も雨に濡れていたはずなのに、その痕跡はどこにもなかった。
夢かと疑ってしまうほど、どこもかしこも、何事もない。
村の男はひとつため息をついた。
「まあ、お勤めご苦労。帰るぞ」
言われて、結はようやく顔をあげた。すると頬にすっと雫がつたう。
涙だった。目尻にたまっていた涙がこぼれたのだ。
結はあわてて頬に手を触れた。そのまま
泣きはらした証拠だった。
――夢じゃない。
結はつばを呑んだ。
龍神は結を咎めなかったのだ。
「村は――! 村は大丈夫ですか」
結が焦って男の衣の裾をつかむと、男はぎょっとしたように身を引く。
「何を言っているんだ」
「村に異変はありませんか。皆無事ですか」
男はさらに顔をしかめた。
「ずいぶん気味の悪い夢だな。やめてくれよ、こんなところで」
結の身体の力がゆるゆると抜けた。胸を押さえる。心臓が早鐘を打っている。
許してくださったのだろうか――。半信半疑で思った。
――龍神さまは、わたしを許してくださったのだろうか。
結の気も知らず、男は肩をすくめた。
「おい、
“華姫”の仕事を終えた結を、迎えに来た一団だ。
伝説上では“華姫”は龍神の求婚を受け入れて龍になり、人の世に戻ることはない。けれど祭での“姫”役はあくまで形式的なものなので、役目を終えると、供を連れてひっそりと村に帰るのがならいなのだ。
「寝ていたのか。不謹慎な」
出口に巫女がいた。しかめっ面で、だしぬけに小言をこぼす。
しかし結は耳に入れなかった。あたりに目を走らせ、ただちに目当ての人を見つける。
男衆の最後尾にいる――
達と目が合う。彼は静かに、切なげに微笑んだ。すべてを承知している顔つき。結がここにいることが、それこそが答えだと、彼だけが知っていた。
結は心底安堵した。
龍神さまはわたしを許してくれたのだ。わたしのわがままを――。
今度こそ、つよく確信する。
そうとなれば居ても立っても居られなかった。結は駆けだし、ためらいなく達に抱きつく。
男衆が驚き、冷やかしの声をあげる。そして巫女が卒倒しそうな金切り声をあげた。
「龍神さまがおわすところで、なんということを」
しかし結はもう人の目など気にしなかった。
「達」
ただ名を呼ぶ。彼の瞳をのぞく。
達は目を見開いて、こちらの真意を探るように見つめ返した。そして、おそるおそるという風情で口をひらく。
「……選ぶのか、おれを」
結の頬が朱に染まった。
達は一瞬、こわれるほどつよく結をだきしめた。結は目を閉じてそれを受け、達の香りを吸い込んだ。
清く静かな香り。
先刻まで嗅いでいたような――。
「行こう」
達が結の手をひき走りだす。
いよいよ激怒した巫女の声がする。男衆がさらに大きく沸いた。
「達」
目を白黒させて走る結に、達はふりむいて笑う。
「母さんに許しをもらいにいこう」
「なんの許し」
「
あきれたような声。結が真っ赤になったので、達はまた笑った。
「良かった」。彼は浅い息でつぶやく。
「おれを選んでくれて、良かった。龍の身で、結を一度手放すのは賭けだった」
「……龍の身?」
結はぎょっとした。
達はこちらを面白そうにうかがう。彼の透きとおる薄茶の目が、紅くなっている。夏の空に輝く星のような、
「因果なものだ。まさかこのおれが、結を人の生にとどめるとは。そばに居たいと欲をかきすぎたろうか」
――人の生?
心底驚いて、結は達の手を離そうとした。しかし達は離さない。離してくれない。
結、と彼は愛おしげに名を呼ぶ。
「おれを選んだのは、結だよ。言ったろう、
「達……」
そんなまさか。達が――。
がく然として結はうろたえた。一瞬、背すじに震えが走る。
「こわい?」
達が小さく笑う。「また逃げる?」。
走る足どりがゆるむ。
「そんな……」
結は動揺しながら、つないだ手をつよく意識した。ひんやりと心地よい彼の手。ずっと結を撫でてくれた優しい手。
彼の顔を見る。美しい彼の面ざし。瞳の色はちがえど、十数年も一緒に過ごした幼馴染の顔には変わりない。その顔がいま、ふとさみしげに
それを見て取ると、結のこわばりが徐々にとけていった。
達は、達だ。わたしの大切な人だ。
大切な人をいまさら怖いなんて、思えるはずがなかった。
それに――。昨夜が思い出された。
達は龍になっても、ずっと彼のままだったじゃないか。
わたしを肯定してくれ、わたしの最善を、しあわせを一番に考えてくれた。そして解き放ってくれた。そんな龍神さまを嫌えるはずがない。
――ならば。
「――逃げたりしない」
結は静かに応えた。
歩が止まり、達が結を衝動に任せてだきしめる。結はまた頬を赤くした。
「人の生を楽しむのもよいものだ――」
心底うれしげに、達はわらいかけた。
「結。いつか人の生に飽いたら、神の世へ行こう。――雫となり瀬となり遥かな大河になろう」
結は目を見開き、やがて気が抜けたように笑った。
その笑みは落花の風情があった。
水の流れる音がする。ふたりのいる道の脇に、川が横たわっている。
結が水浴びをする沢。龍神の沢だ。
その澄みとおった清流に、色鮮やかな紅葉が降りしきる。水面はまるで錦の織物のようだった。
――なあんだ。
達の腕のなか、晴れやかな気持ちで結は思った。
もっと早く言ってくれれば、こんなに迷うことはなかったのに――。
さらさらと川は流れる。
流れゆく。
了
龍神の求婚 谷下 希 @nonn_YASHITA
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