7 結の選択


 結は龍神の求婚に、ついに心を動かされた。


 わたしがいるべき場所は、人の生ここではないのかもしれない――。


 そう思うと、本当にそうだという気がした。


『来なさい。こちらへ』

 龍神が呼ぶ。水のにおいが、結をどうしようもなく惹きつける。


 川に溶けゆく自分が容易に想像できた。紅葉の錦をまとい、青い樹影をこの身にいだき、しぶきをあげて流れ落ちる自分。


 一滴の雫となり、激しい瀬となり、はるかな大河となる自分。


 ――なんてすばらしいのだろう。

 結は思わずうっとりした。これこそ、わたしが本当に求めていた姿ではないか。


 結、とまた龍神が呼びかけた。

『こちらへ』

 紅い眼をじっと見て、結はおそるおそる口を開く。


「龍神さま。そちらへ行ったら、わたしはどうなるのでしょう」

『私とちぎりを結ぶ。するとおまえの身体は龍となる――清き水となる』

 押し黙ると、龍神は優しい声音になった。


『おそろしいものではない。痛くもない。おまえならば、身を変じることになんの苦難もない』


 ざあ、と川の流れる音がする。龍神の蛇身を包む水が鳴る。

 結はごくりとつばを飲んだ。

 龍神の誘いは、あまりに甘美だ。心が大きく傾ぐ。


『こちらへ来なさい。こちらへ』

 せせらぎのように穏やかな声。結は知らず知らずのうちに身を起こしていた。そっと立ち上がり、足を踏みだそうとする。

 ――楽になれる。そちらへ行けば、楽になれる。

 ただただ、そう思った。


 ――きっと龍になれば、今までのことも何もかも忘れてしまうだろう。でも、それもいいじゃないか。わたしの人生なんて、忘れてもいいようなことばかりだ。


 結の胸がちくりと痛む。


 村娘たちから孤立して、ぽつんと佇んで、川でひとり遊んでいた。村の中にいる方が、ずっとずっと孤独だと思っていた。母はそんなわたしが気がかりで、いつも心配していた。たつると出会って、ようやく笑うことを覚えるまで、わたしは母の悩みの種だった。

 そこまで考えて、結の足がとまった。


 ――たつる


 “もし人として生きるなら――。おれと一緒にならないか”


 彼の言葉を思い出して、頬に血が集まる。


 達の静かな面ざしが脳裏に浮かぶ。品の良い顔で澄ましているかと思えば、幼い表情でくしゃっと笑う。横笛を吹く姿は美しかった。遠くまで響く、染み渡るような音色。


 “それでもいいんだ。おれの思いは変わらない”


 達の真摯なまなざしがよみがえった。


 ――優しい達。わたしの最善を、しあわせを、一番に考えてくれる達。


『結』

 龍神が結の物思いをさえぎった。

『来なさい、こちらへ。私と永久とこしえの世を生きよう』

「龍神さま……」


 何度も何度も結を呼ぶ龍神は、尊い身であるのに、まるで食い下がっているようだ。恋慕れんぼする人のようにも見える。


『そなたは願ったはずだ。川になりたいと』


 龍神は云い、結は唇を噛んだ。


 ――そうだ。心からそう願っていた。いまでさえ、その方が良いのではないかと思っている。


 けれど。けれど――。



 ――たつる



 結は顔をあげた。

「龍神さま」

 眼前にいる龍の、紅玉の眼を見つめる。

 結はおびえる自分を叱咤して、のどから声をしぼりだした。


「やはり人のままでいたいと、そう申し上げたなら……お怒りに触れますでしょうか」


 ごう、と川の流れる音がした。龍神を取り巻く水が急流をつくる。


『何ゆえ』

 龍神の冷厳な声が洞窟に響く。その声に怒気を感じて、結は身体を縮めた。

 くじけてしまいそうな心をなんとか抑えこみ、龍神へ顔を向ける。


「清水になりたいと、川になりたいと思っています……今も。けれどやはり、これはわたしの戯言たわごとなのです。清い願いではありません」

よこしまな願いと言うか』

 蛇の身体が激しくとぐろを巻く。

 結は首をふった。


「そうではありません……そうではないと思います。ですが――人でいることが、自分自身でいることが、つらくてつらくて仕方なくて生まれた願望など、やはり戯言ざれごとでしかないように思うのです」


 風が生じている。龍神の身にまとう水流の雫が吹き飛び、雨となる。

 龍神の深い声が響く。


『そなたのさがは水。人の生がつらいのは当然だ。その苦しみが願いを生んでいる』

「ですが……」

『戯言ではない、それは真実の祈願だ』


 龍神の言葉は真摯だった。

 結の頬に、つうと涙がこぼれる。


 ――わたしの長い年月のかなしみを、龍神は肯定してくれる。救済しようとしてくれている。


 龍神は諭すように呼びかける。

『そなたを人の生にとどめるものは、片手よりもすくない。自身で認めたろう』

 厳格な声に、結は泣きながらうなずいた。

「――そうです。たったふたり、それだけです。……けれど」


 けれど。


「その人たちが、わたしを人の生に強くつなぎとめているのです」


 母。そして、たつる

 たったふたりの、愛しい人。


 龍神が虚をつかれたように黙った。

「龍神さま」

 結は心を込めて呼んだ。


「おそれ多いほどのご温情、心から感謝します。わたしの憂いを、叫びをお聞き入れいただき、それだけでわたしは十分にしあわせです」


 頬にとめどなくつたう雫は、結の涙なのか、龍神の生み出す水しぶきなのか、もはやわからなかった。


「けれど人に生まれたからには。人の生につなぎとめてくれる、大切な人がいるかぎりは。わたしはこの身をあきらめないでいようと思います。たとえこの世が水に合わなくとも、また失望しようとも――あきらめないでいようと思います」


 ――わたしはまだ、何の努力もしていないのだから。


「まだこれから、大切な人が増えるかもしれない……行く末は変わるかもしれないのですから」


 激しい風雨が結を打つ。羽織っている薄衣は、すっかり濡れそぼっている。

『――それが答えか』

 龍神の低い声がした。

 結は誠実に見返し、そしてゆっくりとうなずく。


「すべてわたしのわがままです。村の者は関わりがございません。お聞き届けいただけないのなら、お怒りはわたしへ――。どうか罰をくだすなら、わたしにくだしてください」

 どうか。結は額づいて懇願した。


 風雨はつよく、もはや嵐となっていた。あまりに激しいので、結はもう目を開けていられなかった。龍の紅眼がまぶたに残像をつくる。


 死ぬのだろうか。ふと思った。だが仕方ないと、結は潔く腹を決めた。

 母が、たつるが。大切な人が思い浮かぶ。


 あいまいだった自分の心が、やっと据わったのだ。ここで死にたくはないが、龍神さまに教えをたまわったのだから、このいのちは龍神さまのものだ。


 ――わたしの運命も、すべてお預けしよう。

 そう思うと、すっきりと霧が晴れたような心持ちがした。


 もうろうとしながら、結はふと小さく笑んだ。


『結』


 龍神が呼んだ気がしたが、結は応えることができなかった。もう限界だった。



 そして、ぷつりと意識が途切れた。




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