明日、私はあなたへ「さよなら」を言う。

ヤチヨリコ

明日、私はあなたへ「さよなら」を言う。

 中学時代、「なんで小説なんか書いてるんだよ」と同級生に馬鹿にされたことがある。当時、私はそれに言い返す言葉を持ち得なかった。


「そんなことしてるヒマがあったら、少しでも他のことをやればいいのにさ。タイパが悪いんだよ、タ・イ・パ! わかる?」


 その同級生の名前は三船と言った。


 三船は私の手元をじっと見て、「ふうん」と呟いた。彼の視線の先には、私のA4のノートがある。このA4のノートには小説が書かれている。作者は私だ。人に見せるわけでもなく、ただ好きで書いているだけだが、いつかはこれを本にできたらいいと思っている。できるかどうかはわからないけれど。


 手を止めて、顔をしかめる。風でノートがめくれるのを、ペンを握っていないほうの手で抑える。


 三船とは小学校時代からの付き合いだ。とはいえ、この田舎町では、ほとんど小学校から持ち上がりで中学校に進学するから、そんなこと珍しくもないのだが。


「タイパって?」


 私が首をかしげると、三船はニヤリと笑い、「そんなことも知らないんじゃあ、作家になんかなれやしないぜ」と嘲った。


「なんでそういう話になるの? 作家になんかなるつもりないし」


 私はそう言って、わざとすました顔をしていた。


 作家になんかなるつもりはない。

 本心からの言葉のつもりだった。


 なのに、口に後味の悪さが残った。決して、嘘を言ったわけではないのだ。ここで嘘を言えるほど、私は賢い人間ではない。


 制服のブラウスが背中に張り付いて気持ち悪い。


「なるつもりなんか、ないよ」


 自分へと言い聞かせるように、私はそう繰り返した。 


 パタンとノートを閉じる。


 三船は嬉しそうに「だからおまえはダメなんだ」と呟いた。


「作家になるつもりがないのに小説を書くってことは時間を無駄にしてるってことだ。おまえはただただ時間を浪費してるだけだよ」


 三船の言っていることは正しいとは思う。学生の本分は勉強だ。それ以外のすべてのことはただの時間の浪費。つまり、人生の時間を無駄にしていると同義だと、極端な話だがそういうことだ。


 時計の秒針が一、二、と動くと、分針がかちりと歩を進める。それを繰り返して、人生の時間は日々刻々と失われていく。


「そんなことしてると、人生棒に振るぞ」


 分針が13時40分を指した。

 ――チャイムが鳴る。


 昼休みの喧騒の熱は徐々に冷めていき、教室は平生の平穏を取り戻していく。


 たしかにそうなのかもしれない、と思った。


 ノートに書いた自作の小説は、今まで傑作に思えたのに今はただの落書きにしか見えない。頭を絞り尽くして考えたワンフレーズも、ただのくだらない戯れ言のように思える。


 そう、結局はくだらないのだ。


 作家になるための、努力という投資をしていないのだから。


 私のやっていることは浪費だ。作家になるわけでもない。趣味で書くにしても、公募のコンクールやらコンテストやらに作品を応募するとか、そういった、意味のあることをしていない。


 ただただ好きからというだけで、意味もなく小説を書いている。

 三船にそう突きつけられたことで、否が応にでもそれを自覚させられた。ただただ自分が恥ずかしかった。



 三船に告白されたのは、その翌日の放課後だ。

 三船が自宅へと帰るルートを外れて私を追いかけてきたから、何か用があるのかと思っていたら、案の定だった。


「おまえってバカだからさ。オレがいないとダメだってわかったよ」


 他愛ない世間話から急に話題が切り替わったから、呆気にとられてぽかんとしてしまう。


「オレたち、付き合わない?」


 提案のようでいて、その実、拒否権はないのだろうと肌で感じた。三船は昔からこういうところがあった。相手に決定権を委ねるようにしながら、本当のところ相手に逃げ道はない。そういう傲慢さがあった。


 三船は私の体を舐めるように眺めると、「少しバカなとこが可愛いんだよ。おまえ」とにやにや笑って、私の肩を抱いた。


「やっぱり女って少しバカなくらいが一番だって言うだろ。そういう意味じゃ、おまえはいい女だよ」


 「いやだ」と逃れようとした。けれど、すぐに捕まえられて、さらに強く肩を抱かれた。抱かれた肩が自分のものではないような気がする。自分ではない、別の誰かのものであってほしいと思う。だが、現実は違って、私の体は私のもので、私の肩を抱くこの手は三船のものだ。


 NOを突きつけたかった。だが、そんなことをすれば何をされるかわからないという恐怖もあった。悪い噂を流されるかもしれない。それを聞いた人からいじめられるかもしれない。人には言えないようなことをされると、そんな想像が瞬時に頭を駆け巡った。


 答えはYES。それしか答えは許されていなかった。



 三船と付き合いだしてから、私にNOを言う権利はなくなった。


「おまえはダメだから」

「おまえはバカだから」


 三船はそう言って、私の言うことをすべて否定した。


 食べる物から、着る物、話す言葉。私のすべてを三船が選んで、時には捨てた。そこに私の意志はない。あるのは私という存在だけで、それすらも三船といっしょにいる間はないのと同じだった。


 そうしているうちに、私は自分で自分がわからなくなった。


 まるで、私は三船が創造した美術品のようだ。作者は三船、飾るのも三船、解説するのも三船、私に価値を見出すのは三船だけ。これから歩む人生は私のものではなく、三船のもの。疑いもせず、心の底からそう信じていた。


 高校生になってから、小説を書くことはなくなった。

 三船が書くなと言うから。


 その頃には、三船への愛すらも三船に創られていた。

 いつもの「おまえはダメだから」「おまえはバカだから」の後に、三船は決まって「だから、おまえはオレがいなきゃ生きていけないんだよ」と言う。ダメでバカな私は、三船がいなければ生きていけないのだ、と否定もせずにただ肯定する。思考というものは人生を無駄にすると、三船が言うから、愛というものはこういうものなのだ、と信仰していた。


 けれど、時々、夢から覚めたような感覚になることがある。


 三船の些細な言動であったり、私自身のふとした瞬間の思考であったり、理由はそのときによって違うのだが、不意に「このままでいいのか?」と思うことがある。


 思考はするな、おまえはダメなやつなんだから。

 ――そうなのだろうか。


 おまえはバカなんだから、オレの言うことを聞いていればいいんだ。

 ――なんで、あなたの言うことはすべて正しいの?


 心に湧いた違和感は三船と付き合っているうちにどんどん膨らんでいった。考えてはダメだ、そんなこと思ってはいけないと、頭の中からかき消そうとしても、はじめはぼんやりとしたものだったのが姿かたちを持って、ついには名前すらも持つようになった。


 ダメでバカな私に、そんな感情は必要ない。

 否定するほど、感情の姿は明瞭になっていく。


 気づけば、紙にペンを走らせていた。インクがにじみ、文字の形をとる。文字を持たない人たちにとって、この行為になんの意味があるだろうか。やはり無意味なのだろうか。それとも絵を描いているようにも思えるのだろうか。この行為に価値はあるのか、私は知り得ない。


 終いには、真に価値のあるものなんてないように思うようになっていた。究極的に言えば、食べて眠る、それだけで生きていける。生存に必須な生理的欲求さえ満たせれば、生きていくことはできるだろう。だけど、人はそれだけで生きてはいけないのだ。それの価値だとか意味だとかは、他人が決められるものではない。


 アイドルがいなくたって困らない。

 ゲームをしたって腹の足しにはならない。

 本も、音楽も、絵画だって、そう。


 そこに価値を見出さなければ、すべてのものは無価値となる。


 三船が価値はないと断じた、小説を書くという行為は、私にとって価値のあるものだった。


 ただの字が意味を持ち、単語となり、文となる。

 ただの言葉が根を張り、枝を伸ばし、花を咲かせる。

 文字が、言葉が、私の頭に拓かれた畑を豊かにする。


 ――だから、私はこの小説を書いている。


 三船と私は鏡合わせだった。私は三船の虚栄心を、三船は私の責任転嫁したい、卑屈な性根を映し出していた。それはまるで、お互いがお互いの創り上げた美術品のようであった。私たちは互いに自分自身の姿を相手に見出していたのだ。作品から作者の心像を見出すことができる、とはこのことだ。


 私の恋人の、三船は私が創り上げた虚像である。


 三船のモデルとなった人物は実在する。彼は私をダメでバカな、いい女だと言った。中学時代の私に、なんで小説なんか書いているのかと訊いたのも彼だ。


 私を創り上げた『三船』という芸術家は私の想像に過ぎない。


 私に小説を書かせなかったのは、彼ではなく、私自身。

 私を創造したのは、私だった。


 これは『私』という像からの決別だ。小説を書かない、ダメでバカな、『三船』という男にとって都合のいい女では、もういたくない。


 この小説を書くことに意味があるのか、と考えることもある。だが、それに価値を見出すのが、『私』という人間の人物像キャラクターだ。そうでない私は私ではない。


 明日、私はあなたへ「さよなら」を言う。

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