最終話
「え……」
さっきまで空を見上げてはしゃいでいた瑞希が、突然世界から色が失くなったかのような顔をして固まり、ゆっくりと俺の方を見た。
俺は俺の頬を焼くその視線の痛みに耐えながら、恐怖で早口になってしまいそうな気持ちを抑え、ゆっくりと話すように意識しながら言葉を続ける。
「別れても二度と会えなくなるわけじゃないしさ。ていうかこれまで通り、あの部屋で共同生活しててもいいんだ。別に恋人同士じゃなくても。あ、ただベッドは2段ベッドに買い替えたいかな。その……大人の事情でさ」
冗談を交えつつ乾いた笑いを発しながらも、俺は瑞希と目を合わせることができない。アームチェアに座った太ももの上に肘をついて、両手の指を合わせて三角形を作りその真ん中に視線を落とす。声が震えないように、顔が引きつらないように、必死で真ん中に意識を集中させる。
「ただ俺はさ、瑞希には悪いけど、この先きっと『普通に』結婚して、『普通に』自分の子どもを抱くことはないと思うんだ。だって瑞希のことが好きだから。瑞希以外の人と家庭を作る気はないよ。でもそれは俺の勝手な気持ちだから、瑞希が気にすることじゃないんだけど、もし瑞希が俺と付き合い続けることでずっとそのことを負い目に思っていくんだとしたら、このまま付き合っていくのはどうかと……どおぅわっ!!」
話の途中で右側に鋭い衝撃を感じて、俺はチェアごと左側に倒れこんだ。頭を守るために反射的に先に地面についた肩に打撲の痛みが走る。世界がぐるんと回転したようだった。一瞬閉じた目をすぐに見開いて何が起きたのかと辺りを見回すと、仁王立ちした瑞希が右側から俺を見下ろしているのが視界に入って、俺は瑞希にチェアごと蹴り倒されたのだとわかった。
「おまっ……骨折したらどうすんだよっ」
「諦めんなよ」
「え?」
「諦めんなって言ってんだよっ!!」
瑞希は大声で叫ぶと、まだ地面に這いつくばっている俺の体にまたがり、俺の襟首を掴んだ。
「み、瑞希?」
俺の顔のすぐ間近まで迫った瑞希の顔は、怒っているようにも見えたし、今にも泣き出しそうにも見える。
諦めんなって……瑞希は俺と別れたがっているわけじゃないのか?
「俺、すぐ逃げるから……すぐ安全な方へ行こうとするから……だから有司が諦めたら終わっちゃうだろうが!!」
「え?」
「嫌なんだよっ!自分でも勝手なこと言ってるってわかってる。でも……駄目だって、俺が有司を縛っちゃいけないんだって、何度も自分に言い聞かせたけど、でも俺はやっぱり有司と一緒にいたい」
そして瑞希は、俺の襟首を掴む手を離すと、俺の胸にそっと自分の額を押しつけた。
「有司のことを、愛してるから」
その言葉が瑞希の口から漏れたとき、俺の体の奥からストンとすべての力が抜けた音が聴こえた。重力に引っ張られた後頭部が地面にぺったりとくっついて、真上に向けられた俺の視力2.0のはずの視界がだんだん度を下げていくようにぼやけていく。無数の星のひとつひとつが水の中に垂らした絵の具のように滲んでいき、臨界点を超えた熱いものが、目尻からポロッと溢れるとこめかみを伝って地面に落ちた。あ……なんだ、俺は……。
この言葉が欲しかっただけなんだ。
キャンプ場に備え付けられたシャワーを浴びたあと、俺と瑞希は高校で使っていた防寒用のジャージ上下をTシャツとハーパンの上に着ると、水場で歯を磨いた。奇跡的に2人とも高校のジャージを取ってあった。
「まさか、こんなときに役立つとはね」
「ホントにな」
そんなことを話しながら俺たちはくすくすと笑い合い泡でいっぱいになった口を水道ですすぐ。
キャンプ場の夜は寒い。俺たちはテントに入るとクリスマスツリーのランタンをつけて、すぐにシュラフに潜り込む。
「俺、高校のときのこと、ずっと後悔してたんだよね」
シュラフの中に落ち着いた瑞希がテントの天井を見つめながら言った。
「ん?いつの話?」
「寮のみんなに俺たちが付き合ってることがバレたときの話だよ」
「ああ」
後悔してるだなんて、そんなこと初めて聞いた。あのとき瑞希はずっと淡々としているように見えたから。
「あのときも俺は1人で逃げようとしてたのに、有司は諦めないでみんなを説得しようとまでしてくれてさ、すごいなって思った」
「いやいや、すごいのは瑞希でしょ。その後、もう一度受験し直してこっちに残ってくれたし」
むしろそのおかげで俺たちはこの2年間離れることなく一緒にいられたのだ。俺のしたことなんて結局何の役にもたたず、空回りもいいとこだ。
「受験し直したのはさ、有司に対する贖罪だよ。俺にできることなんて問題解決のための外堀を埋めることくらいでさ、有司みたいに正面切ってぶつかることなんてできないよ。今回だって……」
言いかけたところで、瑞希がくるりと体の向きを変えると、俺の方を見る。
「俺ホントはさ、有司がニシダの飲み会行くの嫌だったんだ」
「えっ、そうなの?」
今夜は知られざる事実が次々と出てくる。
「だったら言えよって感じだろ?でも……また有司怒るかもだけど、そこで有司に新しい出会いがあるならその方がいいのかなって思った。そしたら諦めもつくかなって。でもあの日、『先に寝るね』ってラインしておきながら俺、朝まで眠れなかったんだよ。有司がなかなか帰ってこなくて。そしたらなんか急に怖くなって。それでね、あの日早く帰ってクリームシチューなんか作って有司のこと待ってたの。自分でも意味不明な行動だと思ったんだけど、有司がいなくなっちゃうかもって思ったらどうしようもなく焦っちゃって。そしたらあの女の子が来て、もうわけわかんなくなっちゃったんだ。俺、有司に彼女作って欲しいのか、別れたくないのかどっちなんだよって思って」
そして瑞希は自嘲気味に笑うと、「あきれるだろ?どこまで自分迷子だよって」と照れ隠しのように俺から目をそらした。
前に瑞希に言われたことがある。有司は俺を神格化して見ている、と。それはついこの前、杉本さんと大学の廊下で話したときにも思ったことだ。瑞希がしていることがとても崇高なことだと。
だけど瑞希のこんな人間くさいところを目の当たりにして、俺は今、少しほっとしている。やっと瑞希と同じ目線で、どうにもならない世の中の理不尽と戦う覚悟ができたのだと新鮮な気持ちになっている。
杉本さん、俺の瑞希は、あなたが思い描く理想の人間じゃなかったよ。だけど、だからこそ俺は瑞希の特別になってやれる。俺は自分のシュラフのファスナーを少し下げて、そこから腕を出すと瑞希の方へ手を伸ばした。
「あきれてなんかないよ。俺こそ柄にもなく弱気なこと言ってごめん。これからも俺と一緒にいて?」
瑞希の目が熱っぽく潤み、俺の手を握り返す。
「……うん」
ほっとして笑う俺を見て、瑞希もふふっと笑った。かと思うと、瑞希は急に真顔になり、もそもそと自分のシュラフから抜け出して、俺の上に覆いかぶさると、俺の唇に自分の唇を押し当てた。
久しぶりの瑞希の唇。ふっくらと柔らかくて温かい。高校の寮で初めてキスをしたあのときから、何百回、いや何千回と重ねてきた唇だ。
「ん?」
目を閉じて瑞希の唇を堪能している最中、俺のシュラフの中で何かがごそごそと動いた。
「えっ?」
俺が瑞希から唇を離して自分のお腹の方に目をやると、いつの間にか開いたシュラフのファスナーから瑞希の右手が侵入し、更には俺のパンツの中へとその手が入っていくところだった。
「え?え?瑞希、ちょっと」
「しーっ、声が、外に、漏れる」
うわっ。瑞希の親指と、残り4本の指が、まだ柔らかい俺の股間を優しく包み込み、まるで全身を抑え込まれてしまったかのように抵抗力を失った俺は、為す術もなく目をギュッとつむった。瑞希が最初はそっと、次第に強く、手を動かし始めると、すぐに俺のそこはムクムクと固く大きくなっていく。
え?これ、どこまでやるの?とそっと片目を開けて瑞希の方を伺うと、瑞希が俺のを擦りながら片手で自分のスボンを下ろそうとしている姿が目に入った。
「いや、ちょっと待った!」
さすがの俺もびっくりして両目を見開くと手を伸ばしてストップをかける。でも瑞希はお構いなしにパンツまですべて剥ぎ取り下半身丸裸になると、俺の上にまたがった。いやいや、無理でしょ?!
「……っ」
固くなった俺の股間に強引に腰を落とす瑞希。するとすぐに瑞希は辛そうに顔を歪める。
「瑞希、無理だって!ケガするからやめよ?家帰ってちゃんとしてからしようよ」
俺は必死で止めようと瑞希の膝を掴んだけど、瑞希はまったく動じず、まだ入り口付近で摩擦に負けているそれを更に押し込もうとして、苦悶の表情を浮かべると震える唇を開いた。
「俺は本当はいつだって有司とこーゆーことしたい!」
「はっ?」
「でも、怖くて……男の……有司の体に溺れていくのが怖くて……自分がどうなっちゃうんだろうって」
そう言って更に腰を押し付けようとする瑞希を、俺はガバッと起き上がって肩を掴んで制止すると、ゆっくりと後ろへ押し倒して包み込むように抱き締めた。そして瑞希の耳元にそっと囁く。
「もっと溺れてよ。ちゃんと全部受け止めるから」
怖くなっても大丈夫。またわけわかんなくなっちゃったとしても、そういうの全部引っくるめて、俺が全部受け止める。
瑞希は俺の腕の中で、少し驚いたように固まっていたけど、やがてようやく呼吸を取り戻したかのように、俺の背中に腕を回すと声を出して泣いた。
鳥のさえずる音で目が覚めた。テントのシートから光が透けて見える。いつの間にか朝になっていた。
隣に寝ていたはずの瑞希はいない。俺は眠い目を擦りながらシュラフから出ると、テントのファスナーを開けて置いてあった靴に足を突っ込んだ。
「うわっ、寒っ」
外に出た途端冷気が体を包んだ。朝といっても視界は薄暗く青白い。まだ陽が昇っていないのだ。
瑞希がタープの下でカセットコンロにやかんをかけていた。
「おあよ〜」
寒さに身を縮めながら瑞希に寝ぼけ声をかけると、「おはよ」瑞希から眩しいほどに爽やかな笑顔が返ってきた。こんな早朝から。さすがは元体育会系。
「ダウン持ってくれば良かったね」
「うん。ていうか改めて見ると笑える格好してるな俺ら。高校のジャージて」
ハハッと笑いながら瑞希がマグをテーブルに並べるので、俺はクーラーボックスに放り込んであったインスタントコーヒーの瓶とティースプーンを取り出してマグの中にコーヒーの粉を入れた。シュンシュンと音をたて始めたやかんの火を止めて、マグにお湯を注ぎスプーンでかき混ぜる。
「俺は紅茶派なんだけどな」
瑞希がぼやきながらコーヒーの入ったマグをひとつ受け取り、アームチェアを湖の方に向けて腰掛けた。
「キャンプ場の朝といえばコーヒーだろ」
勝手な持論を押し付けながら、同じくマグを手に持つとアームチェアを湖の方へ向けて俺も腰掛ける。
「つーか俺決めたわ」
熱いコーヒーをズズッとすすって俺は言った。
「何を?」
「俺、院に進学する」
「え、マジ?」
「いや、まだ親説得しなきゃだし院試も受けなきゃなんだけど」
それが問題なんだけど。
「どういう心境なの?」
瑞希が両手でマグを包みながら俺の方を見ている。
「心理士の資格取ってセクシャルマイノリティ専門のカウンセラーになろうと思って」
「えっ」
「だって、いるだろ。瑞希みたいに悩んでる人いっぱい。そーゆー人の力になりたい……なれるかどうかわかんないけど」
勢いよく言い出したわりに最後は少し尻すぼみになってしまった。だって俺はまだ知らない。苦しみの形が一体どれほどあるのか、俺はまだ何も知りはしない。
そんな俺に瑞希は、「なれるよ。有司なら」と笑ってくれた。うん、なれるわ。とその笑顔に根拠なき自信を得る俺だけど、瑞希の言葉にだってきっと何の根拠もないのだ。でも、今はそれでいいと思った。
「あっ、日の出だ!」
瑞希が湖の向こう側に広がっていた山の尾根を指さした。尾根の1部が発光したように強く光ると、そこから揺れる太陽がゆっくりと上がってくる。
「地球の自転を1番感じる瞬間だよな〜」
しみじみと言いながら、少し温度が上がった気のする空気を吸い込み、縮こまった肩の力を抜いた。
「ねえ、有司」
「ん〜?」
「有司はさ、なんで俺の体で勃つの?」
「ええ〜っ?」
唐突に訊かれて驚いたけど、う〜んと一応考えて、やっぱり答えはこれしかないと思った。
「好きだから?」
すると瑞希は一瞬目を丸くしたあと、ぶっと吹き出して、「有司はシンプルだな〜」と可笑しそうに笑った。
「バカにしてんの?」
唇を尖らす俺に、「してない。すごいなって」といつまでも笑いながら瑞希が答える。
ぜってーしてるし、とコーヒーを口に含む俺に、ようやく笑い終えた瑞希がもう一度、「ねえ、有司」と声をかけた。
どうせまたバカにしたいんだろ、と「何?」とぞんざいに答えると、「帰り、ホテル寄ろっか」とさらりと返ってきたので、俺は飲んでいたコーヒーをブホッと吹き出してしまった。
「そんなに驚くならもう行かない」
むくれたようにマグに口をつける瑞希に、俺はゴホゴホとむせながら、「いや、行く行く!行くって。絶対に行こう!」と勢いよく詰め寄った。
瑞希がニヤッと笑顔で答える。
俺と瑞希を照らす太陽が、地球の自転に合わせてちょっとずつ高く空に上っていった。
〈了〉
雲のなまえ 笹木シスコ @nobbit
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