第9話 大団円
「ところで、彼がクスリでフラフラだった時、何か、うわごとのようなことを言っていませんでしたか? たぶん呂律が回っていなかったと思うので、何を言っていたのか分からないとは思うんですが」
と浅川刑事の質問に、
「そうですね。何かを言っていたような気がしますね。家に連れて帰ってからしばらくは、頭痛に悩まされていたようですから、その時うわ言というよりも、うなされていたと言った方がいいかも知れないです。でも、その言葉がどのようなものだったのか、分かりませんでした。ただ、表情はかなり歪んでいたので、よほど気になることだったんだろうとは思うんですけどね」
と言われ、確かに言葉が何だったか分かればそれに越したことはないのだが、今の段階ではうわ言を言っていたという方が、重要な気がしたので、とりあえずそれだけ分かっただけでもよかった気がした。
「羽村氏は、記憶を取り戻したいという努力のようなものをしていましたか・」
と訊かれ、質問の意味をすぐには理解できなかった老紳士だったが、少し考えてから、
「最初の頃は、何かを考えているという感じがありました。その都度頭を抱えているように見えたので、あれは、思い出そうという気持ちだったんでしょうね。見ているだけでも痛々しさを感じたので、無理をしない方がいいと言ってやりましたが、それが思い出そうとしていたんでしょうね。でもそのうちによほど辛いのか、考えることをやめました。すると次第に顔色もよくなってきたので、本当はもう少し改善すれば、医者に連れていこうかと思ったんです」
と老紳士がいうので、
「最初から医者に見せようとは思わなかったんですか?」
と訊かれた老紳士は、
「最初はそれを考えましたが、いきなり連れて行こうとすると、拒否反応を示しそうな気がしたんです。まわりを避けている様子が見て取れたので、あれだけまわりに対して疑心暗鬼だと、医者なんかに連れていくと、却って逆効果だと思ったんです。少しでも自然治癒してくれればいいと思っていたのですが、だいぶよくなってくれてよかったと思っていたところだったんですよ」
「それが、いつしかいなくなってしまった?」
「ええ、一週間近く経って、だいぶ精神的に落ち着いてきたのか、いい表情になったんですよ。だから少し安心していたんです。これなら病院もいらないなってですね。それにもう一つ病院を恐れたのにも理由があってですね」
「というと?」
「彼を最初に発見した時、何かの薬を飲まされたのか、呂律が回っていなかったじゃないですか? もしその意識が頭の中にあったら、薬品の匂いに反応して、半狂乱にでもならないかということを恐れたんです」
と老紳士は言った。
「なるほど、それは確かにいえますね。どころで彼を最初に発見した時、彼からクスリの臭いがしてきましたか?」
と訊かれた老紳士は、
「それはありませんでした。だから、彼自身が発するというよりも、病院のように薬品の臭いが当然のような場所であれば、思い出したくない方の意識を思い出そうとするんじゃないかと思ってですね。特に記憶喪失になる人のパターンとして、思い出したくないことがあるから、すべてを忘れようとする意識が働くこともあるんじゃないかと思うんです。忘れてしまいたいことと思い出したくないこと、その両方があれば、記憶喪失は二重のものとなって、意識を取り戻すために、二段かい必要になるでしょうね。そういう意味で、彼は二重人格かどうかというのも問題になるんじゃないでしょうか?」
と、老紳士はまるで心理学の先生のような言い方をした。
しかも彼の口調には説得力があり、
「あなたは心理学化何かをおやりになっていたんですか? 妙に説得力を感じるんですが」
と浅川刑事が訊いた。
「私は、K大学の大学院にいたことがあるんですよ、心理学を専攻していましたがね。研究室のようなところで、臨床実験をしていたりしました。心理学を研究するのに疲れて、今の田舎に引き込んだというわけです。大学を辞めてからしばらくは実家の漁業をしていたんですが、兄貴が後を継ぐと言って帰ってきたので、私は女房の実家の漁業を継ぎました。元々、女房の実家の方からも、跡取りがいないということで困っていたようだったので、こちらとすれば、渡りに船でした。おかげで結婚には一切の障害がなく、恋愛に関しては、私の心理学の入り込む隙間がないくらいですよ」
とニコニコしながら言った。
「ちなみに、羽村氏がいなくなった前後、何かおかしな様子はありませんでしたか?」
と言われた浅川刑事に言われた老紳士は、
「それはなかったと思います。いつも通りに漁業の仕事を手伝ってくれていました。ここ数日、隣の漁師の息子が、彼を気に入って、よく、夜街のスナックに誘ってくれました。まだ数回だけだったんですが、彼は楽しそうでしたよ。元アイドルをやっていただけあって、自分の目立つためのタイミングのようなものを、しっかりと捉えていたんでしょうね。誰も羽村君のことを悪くいう人はいなかったようです、でも今から思えば誰も彼を知らなかったというわけもないだろうし、知っていて黙っている方が都合がいいと何か感じるところがあったのかも知れない」
と思ったのだ。
羽村氏がいなくなった後の足取りは、ハッキリとは分からなかった。だが、原因については、老紳士の方で思いあたることがあるようだ、
「羽村君がいなくなってから、少しして、彼を知っているという人がきて、彼が自分の描いた絵を忘れてきたので、絵を返してほしいと言ってきたんです。それで私たちは、彼が家に帰ったんだ。そして、代理の人をよこしたんだと思って、記憶が戻ったんですね? と訊くとその人は急にオドオドし始めて、結局絵を取らずに帰って行ってしまったんですよ。何かおかしいと思ったのですが、その理由は分からずじまいでした」
という話があった。
「訪ねてきたのに、絵を受け取らずに帰った? しかも記憶喪失だということを知らなかった? 何か怪しいですね」
とT警察の刑事がいうと、
「いや、その男が犯人かも知れませんね。その時にはもう殺されていたのでしょうから、記憶が戻っていたのか、それとも記憶喪失のままだったのか、訪ねてきた男にも分からなかったんでしょうね。ただ、その絵に何か秘密があって、その絵を取って帰ったとしても、それが本物なのかどうか曖昧だと思ったのでしょう。もしそれを誰かに渡さなければいけなかったとすれば、ニセモノを渡したというよりも見つからなかったという方が幾分マシだと思って、その絵をそのままにして帰ってきたのかも知れない。もし、絵を持ってきてしまうと、後で、必ず絵を持って行ったやつがいたということで問題になるけど、持って帰られなければ、変な奴がいたという程度でスルーするかも知れないと判断したのかも知れない。そいつの行動派愚かに見えるが、その瞬間主幹の癌弾力に長けている人間の行動だと忌めるのではないだろうか?」
と浅川刑事が言った。
「その絵にどんな秘密が?」
「それはその絵を欲しがる人に訊かないと分からない。ただ、本当に絵を手に入れたいだけで、本当の犯人が殺人まで命令したかですよね。実行犯は、本当はやつに恨みを抱いていて、自分はあくまで実行犯、そして黒幕がすべてを計画したと思わせると考えれば、この殺人も、本当の動機と、犯行を計画した人間の考えの違いが分かるというものですよね。そこで逆さ絵というものの歴史を考えてみれば。何かが分かってくるのではないかと思うんです」
「逆さ絵の歴史?」
「ええ、私も完全には知らないんですが、そもそもは、勝野光一郎という人が提唱したということらしいです。その人の弟子に山本準之助という人がいて、弟子とは言いながら、師匠が自分の免許を皆伝したわけではなく、あくまでも弟子はオリジナルの作法のようです。まったく違った作法によって、同じことを再現するという新しい弟子と師匠の関係を二人は築いたということで、有名になったようなんですね。でも、師匠の方は、最近ではもう逆さ絵を描くことはあまりなくなって、普通の画法で勝負しているようなのですが、山本の方はずっと、逆さ絵を中心に描いているそうです。そんな時、一か月とちょっとくらい前に、、K大学の橋本教授がいきなり、逆さ絵の挑戦状なるものを、山本に叩きつけたことで、話題になりました。しかし、肝心の享受は自分が出ていくわけではなく、その代理として、殺された芸能人の羽村を差し向けた。それはまるで羽村にとって、余興のようなものではないかと言われ、山本氏の挙動が注目されたんですが、甘んじて挑戦を受けるということになり、対決となった。やはりというか当然というか、勝者は山本だったのだが、それから少しして羽村が失踪した。一週間経っても帰ってこないので、羽村の事務所が捜索願を出したというのが、ここまでの敬意です。それから以降は、皆さんと意識を共有している部分になるわけです」
と浅川刑事は言った。
T警察署の方でもあらかたの事情は分かっていたが、もちろん、老夫婦が知るわけはない。
「ということは、結構訳が分からない部分が多いわけですね。なぜ橋本教授が挑戦状をたたきつけたか。橋本教授と羽村の関係。そして代役に羽村を差し向けた教授の気持ち、さらに、羽村の失踪と記憶喪失。羽村も負けると分かっている挑戦をなぜ引き受けたのか。そして。謎の男が出現し、その男が羽村が記憶喪失だったということを知らずにやってきて、元々希望した絵を持ち帰らずに姿を消したこと。今の話を訊いただけで、これだけの疑問がすぐに浮かび上がる。一体この事件はどういう事件なんでしょ? 私などが思うに、ここまで現れた事実と時系列だけで、被害者が記憶喪失になったり、クスリで意識を朦朧にされたり、殺害までされなければいけない理由がどこにあるのか、まったく分からないんですよ。どう解釈すればいいんでしょう?」
と、T警察署の刑事も完全に頭の中が混乱しているようだった。
最初から時系列で分かっている浅川刑事も、こうやってつなげていくことはできるが、疑問という意味では、やはりT警察の刑事と同じものだった。
「一つはですね。羽村がこの件に顔を出した理由の一つとしては、彼は橋本教授の弟だということが判明しています。そして橋本教授は山本準之助と中学時代n同級生です。そお時から会っていないという話でしたが、何か確執があったのか、それとも逆さ絵というものに何か考えがあったのか、そこで一つの仮説として考えたのが、橋本教授は最初から自分が出馬をしようとは思っていなかったのかも知れないということです」
と、浅川刑事がいうと、
「どういうことですか?」
「橋本教授は心理学の教授でうs。逆さ絵というのは、ある意味、心理学が大きく関わっています。それと橋本教授が時々提唱していることとして、心理学の研究には自分が関わるよりも、他人にやらせて研究をする方が、冷静にも見れるし、いい材料がえられるというんですね。それを思うと、教授は最初から自分で出馬する気はなかったのかも知れない。羽村を最初から使うつもりだったのかどうかまでは分かりませんが、彼を一つの駒として考えていたんでしょうね。だから、話題性を取りたい羽村と研究結果を望む教授との利害が一致した。それは羽村の出馬だったのではないでしょうか?」
と浅川刑事の意見である。
「なるほど、そう考えれば、橋本教授側の事情は分かる気がしますが、羽村の記憶喪失と失踪、さらにクスリ迄使うというのはどういうことでしょう?」
「ここからが本当に想像なのですが、逆さ絵というものは、扱う人それぞれに手法が違うところが他の芸術とは違っているようなんです。他の芸術というと、やり方は同じだけど、結果が違うから自由な発想があったのですが、逆にこの逆さ絵というのは、最初の手法が違うようなんです。そのかわり結果を同じものにしようとする思惑があることが一番の特徴で、もし逆さ絵の極意を知りたいとすれば、まずそれぞれ個人の手法を知る日梅雨がある。実はこの羽村という男、芸能人としての顔とは別に、別名戯で芸術界に顔を出していたんです。それはマネージャーも知らないくらいの事情があった。知っているとすれば、兄の教授くらいだったと思います。だから、彼が代役で対決に出ると言った時、利害は一致したのだが、最初は戸惑い、反対もあったといいます。まわりは、当然、芸能人なんかに芸術界を狂わせてほしくないという考えがあったと思ったんでしょうね。でも実は正反対だったということです。でも、それを知っていた人がいたかも知れない。そして、それがお金になると思ったとして、今度はそれが、犯人との間の利害に一致したのかも知れない。ハッキリとした理由は分かりませんが、そのあたりでクスリを使うということになり、それが記憶喪失という副作用を生んでしまった。そう、記憶喪失は副作用だったのかも知れません。もし、その薬が自白剤か何かであれば、裏に組織が絡んでいたとしても、考えられないことではないですよね。そして、本当は監禁しておきたかったのでしょうが、クスリが効いているという安心感が犯人側にあったのか、それとも、羽村氏の本能からなのか、うまく逃げることができた。でも、記憶がないので、行き倒れのような形になったんでしょうね。で、犯人グループとしては、ここまで来ると、羽村を葬るしかなくなってきた。それが、この事件の真相なのではないかと思うんですよ」
と。浅川刑事は言った。
「なるほど、それが浅川刑事の事件の概要というわけですね。でも、今のお話を伺っている感じでは、まだ犯人、あるいは犯人グループに関して分かっていないように思うんですがいかがでしょうか?」
「ええ、それはそうです。漠然と、はんにん、あるいは犯人グルーぷと言っているだけで本当の動機が分からない。芸術の極意を盗むというだけで、クスリを使ったり、殺害したりと、あまりにも話が拡大してしまっていますよね。そこに金という利権があるのか、金に換えられない何かがあるのか。あるいは。それだけを見ていると分からない何かがあるのか、そのあたりが分からないんですよ、もし分かっているとすれば、今回の事件で重要な地位を占めている山本準之助という男性、あるいはその師匠の勝野光一郎という人、そして空らを巻き込むことになる、逆さ絵という研究。そこには橋本教授も関わってくるわけです」
「ということであれば、当事者すべてではないですか?」
とT警察署の刑事から言われた浅川刑事だったが、
「ええ、そうです。ただ今は漠然と彼らを将棋の駒のように、横に置いているわけでしょう? それをどの場所に配置するかということが一番の問題なのではないかと思うんですよ」
というのだ。
「なるほど、その気持ちはよく分かります。私も確かにその通りだと思いますね」
と言われて、
「将棋の世界で、どういう状態が一番隙のない布陣だと思いますか?」
と浅川刑事に言われて、ちょっと虚を突かれた気がした一同だったが、
「どういう意味ですか?」
と代表して、誰かが訊いた。
「それはですね。最初に並べたあの布陣なんですよ。言って差すごとに、そこから隙が生まれてくるんですよ。つまりですね。最初を百として考え、そこから無駄な部分、あるいは不要な部分を省くことで制度の高いものに仕上げるという減算法という考え方が、事件解決には必要なのかも知れないということです。だから、駒の特性をよく知らないと、何もできないんですよ。盤面上にある駒だけを見ていても、作戦は立てられない。相手から奪った駒をいかに使うかということが重要になるわけです。そのことをしっかりと把握しておかなければ、なかなか事件解決には及ばないような気がするんです」
と、浅川刑事は答えた。
「いやあ、なかなか浅川さんのご意見は深いものがあります。どうも我々はそこまでなかなか考えることはできないですからね」
と言われて、浅川刑事は、
「事件の捜査というのは、まず聞き込みなどで、いろいろな情報を得るじゃないですか。そして得た情報をいかに組み立てて、理路整然としたものにして、それを事件に当て嵌めるか、あるいは、事件に当て嵌めてから、事件を整理して理路整然としたものに仕上げるか、二つの方法があると思うんですよ。結果は同じになると思いますか?」
と言われて、
「私は一緒ではないかと思いましたが」
とT警察の刑事がいうと、
「それこそ臨機応変で、その時々で違っていると思います。最初に組み立ててから、当て嵌めると、組み立てる時に間違えると、まず当て嵌まりませんよね。それはきっと中心からまわりに向けて作っているからではないかと思うんですよ。でも、逆に当て嵌めながら理路整然としていくやり方は、ある意味、簡単なところから埋めていくという考え方に違いと思うんですよね。一種のジグソーパズルのやり方です。それもいい時はありますが、その場合、途中にトラップがあったり、間違った発想が介在してしまうと、間違った方向にいくんですよ。そうなった時に、また最初からというのは、結構難しいと思うんですよね」
と浅川刑事は言った。
「でも、それは真ん中から組み立てるのも同じなんじゃないですか?」
と言われると、
「確かに見た目はそうです。でもですね、当て嵌めた時にうまく嵌らななかった時は。もう一度ばらして、組み立てなおそうという気になりやすいんですよ。逆にいえば、ジグそ^パズルのようなやり方で、もう一度やってみようと思えるんです。つまりは、ジグソーパズルのやり方は、私が思うに、最後の手段ではないかと思うんです。少し乱暴な考えではありますが。いかがでしょうか?」
と浅川刑事は答えた。
「つくづく浅川さんの頭の中を覗いてみたくなりますね。本当に間違っていないと思えてきます」
とT警察の刑事は言った。
その言い方がどこか他人事のように聞こえたが、浅川刑事としてお、ついつい熱血漢で話をしてしまっているが、皆が分かって聞いてくれているとまでは感じていない。
「どうせ、半信半疑なのだろうな」
と思っているのも仕方のないことで、浅川刑事は、この場に姿を現すまでは、正直まったく頭の中に何も浮かんではいなかった。ここで、言い方は悪いが、
「他人事のような意見」
と訊いていることで、自分の想いがどんどん膨れ上がってきたというのが本音であろう。
この中にどんな真実が含まれているのか分からないが、少なくともある程度までの事件の奥が見えてきていることに間違いはないと思うのだった。
「事件を考えるにも、いろいろな考えがあると感じました。今感じたのは、一歩離れたところから事件を見てみるというのも、大切なことではないかということが分かったような気がしたことです。浅川刑事に教わった気がしました」
と言ってニコニコするT警察署の刑事だったが、
「一歩下がって見るのは大切なことですよね」
と、今まさに自分が感じていることを口にしてくれて、少し悦に入っている気持ちになった浅川刑事だった。
浅川刑事は続けた。
「やはり、この事件は、最後に辿り着く相手は、山本準之助なんでしょうね。明日にでも山本準之助を訪ねてみますが、皆さんはいかがでしょうか?」
というと、
「はい、ぜひご一緒させてください」
と、T署の刑事も賛同した。
浅川刑事は、さっそく準之助に話を訊くためにアポイントを取った。彼のアトリエにまたしても赴いたのだが、今度はT警察署の二人の刑事が同伴と訊いて、彼自身も自分の意見をいろいろ述べる時期が来たと思ったのだ。
そして。彼らの前で持論を公表すると、大筋はほとんど、浅川刑事の推理と同じであった。ただ、犯人が誰なのか、そこまでは分からない。浅川刑事の感覚としては、たぶん、この事件の動機であったり、見えていない部分というのは、逆さ絵を理解している人でなければ分からないことではないかと思ったのだ。それで、準之助に意見を聞きに来たというところであるが、意外とアッサリと、準之助が犯人を指摘してくれたのにはビックリした。
「あくまでも、私の推理というだけのことですよ」
と言っていたが、彼とてある程度の理論が固まっていなければ、個人名を挙げるというところまではできないだろう。
そういう意味では信憑性があると言ってもいいかも知れない。
「私が思う犯人は、橋本教授ではないかと思うんです。教授であれば、弟の羽村の性格も分かっているだろうし、羽村を自分の代わりに対決させることもできるだろう。心理学の先生なので、きっと、羽村自身が自分で選んだのではないと思うようなことを、いかにも自分で選んだという形のトラップである、一種のメンタルマジックのようなものを使ったのかも知れない」
と彼は言った。
だが、この発想は浅川刑事を急に疑心暗鬼にさせた。
――これこそ、彼のメンタルマジックなのでは?
と思わせたのだ。
ただ、彼だけの犯行ではないような気がする。この事件は最初から共犯者ありきだと浅川刑事は考えていた。しかし、今までの準之助の推理の展開の中で、まったく共犯者という発想が出てこなかったのが、そもそもおかしな気がしたのだ。
共犯者の存在を打ち消すことで、自分を蚊帳の外に置いていたのだろうが、共犯者を作るということはある意味犯罪において難しいことでもある。
まず、仲間割れという考えが最初に浮かんでくるだろう。
そしてもう一つには、お互いの意識の違いから、勘違いが起こってしまう可能性も否定できない。
しかし、何よりも、共犯者を作るということは、一人の犯行がバレると、相手も終わりだということだ。一人が捕まってしまえば、罪のすべてを自分で背負うことになるので、絶対に黙っているということはないだろう、
ただ、例外としてあるのは、
「事後共犯」
という場合である。
真犯人の知らないところで、主犯の犯行に気付いた、あるいは見ていた人がその人に疑いが及ばないように偽装工作をする場合である。その時は、もし真犯人が捕まっても、共犯の存在は分かっていても、それを訴えたとして。誰も信用してくれないだろう。それが事後共犯の場合と普通の共犯お違いの説明になる。
今回の場合は事故共犯であった。真犯人である教授に対して、事後共犯を行った人物がいた。その人物は一体誰なのか、それがこの事件の最大の注目点である。
「全体を把握していて、冷静な目で事件を見ることができる人、それは一人しかいないではないか」
ということで、浅川刑事が考えているのが、準之助だった。
また、逆さ絵というものが、伝統のように、伝承されるものではなく、師匠と弟子という関係ではあっても、決して受け継がれるものではないということも、忘れてはいけない事実だった。
ただ、どちらにしても犯行を裏付ける証拠がどこにもない。それが一番のネックであった。
やはり動機は逆さ絵というものに対しての執着心が引き起こした犯罪だった。ただ、これは準之助に関わることではなく、あくまでも教授が羽村の作法を知りたいところから始まった。だから、そのカモフラージュとして、準之助に勝負を挑むという一見意味不明の行動をしたのだ。
だが、相手が悪かった。準之助はいち早く教授の考えを見抜き。それを利用しようと考えた。クスリを使って一時的な記憶喪失にさせるつもりだったが、まさかここまで効いてしまうとは思わなかったのだろう。準之助自身も、羽村が逆さ絵をやっているということを誰かから聞いて、自分以外に、しかも芸能人なんかにできるわけはないというプライドが彼をハイド氏に仕立て上げたのだ。
ジキルとハイドは羽村ではない。準之助の方だったのだ。
そのことは、分かっていても証拠がない。地道に見つけていくことで、追い詰めていくしかないのだろうが、浅川刑事の考え方として、
――果たして、その頃まで、自分がこの事件に対して今と同じ気持ちでいられるだろうか?
と感じた。
犯人を推理してしまった時点で、すでにこの事件に対して興味を失ってしまっていることに気づいた浅川刑事だった……。
( 完 )
逆さ絵の真実 森本 晃次 @kakku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます