第8話 記憶喪失
少し待っていると、刑事が羽村の遺留員だということで持ってきてくれた絵、それはまさしく、対決の時、準之助描いていた絵であった。
それを見た時、一瞬、準之助の頭の中に一つの疑問が湧いてきた。
――確かあの時、どんな形でも自由に描いていいと言われていて、同じ被写体にする必要がないのであれば、人情として、相手のいないとこで、相手とは違う被写体に行くものではないのだろうか? 俺にしても、きっと違う被写体に行っただろうに――
と思い返した。
あの時、最初に場所を選んだのは準之助だった。準之助は自分で選んだ場所に、まさか挑戦者である羽村が後からやってくるとは思わなかった。しかも、その真正面で描き始めようとするのである。普通なら嫌がるはずなのに、どうしたことなのかと思ったものだった。
やつがその場に居座ってしまったので、最初にその場所を決めた準之助が離れられなくなったのだ、離れてしまうとまるで逃げたかのように見られる。この場合、作品の優劣が拮抗している時に審査員が反対の材料とするのは、対戦車の勝負に対しての姿勢である。
真面目に勝負に挑んでいる人の方が、中途半端だったり遊び半分で挑んでいる人間からすれば、優位なのは当たり前だ。しかも羽村の場合は普段からその姿勢が、
「あいつはチャラい」
と言われているだけに、芸術に取り組む姿勢の真面目さは、その評価をうなぎ上りにあげていくことだろう。それを思うと最初から、準之助は不利だったと言ってもいいかも知れない。
だが、彼のあの時の様子では、そのようなあざとさは感じていなかったと思えてならない。贔屓目であるが、贔屓したくなるくらいに彼は真面目だったのだ。
準之助はこと芸術に真面目に取り組んでいる相手は、その真面目さが優先順位としては絶対であり、真面目な思いを覆すことは絶対にできないとまで思っているほどであった。
それだけに、羽村という男が、本当はジキルとハイドのような二重人格なのかも知れないとも思ったが、よくよく考えると、芸術家には二重人格者が多いような気がしていた。
真面目に作品に取り組んでいる時は、自分に対して謙虚であるが、いざ、何かの作品に取り組もうと考えている時は、何よりも自分に自信を持つことを大切に考える。それだけ自信を持つことでモチベーションを高めようとするものなのだろうが、そのやり方は芸術家一人一人で違うだろう。
特に彼は芸能人という別の顔も持っている。芸能人を本当の彼だと思うとすると、どうしても、芸術を片手間でやっていることに対して、プロとしては、
「芸術を舐めるんじゃない」
と言いたくなるだろう。
しかし、芸術の向上という目的をもって、芸能人をやっているのだとすれば、そのストイックな態度は、褒められて当然と言えるのではないだろうか。
だが、羽村氏の芸術への取り組みは、決して舐めているというわけではない。逆に、芸能人としての彼を隠れ蓑にして、何かチャラいイメージを世の中に植え付けるための何かの理由がそこには存在しているのではないかと思ったくらいだ。
だが、その理由は分かるはずもなく、ただ、一つ言えることは、あの時の逆さ絵に対しての彼の手法は見たことのないもので、彼オリジナルであった。
ただ、きっとそれは、彼を師匠として誰かが弟子になったとしても受け継がれるものではないと思えた。つまり彼の技法は、訓練さえすれば、誰にでも出せるものではないという考えがあったのだ。
芸術を継承するのが難しいということは、絵画に限らずに他のものでもあることだった。華道であったり、茶道などもそうである。日本の有名な格式のある流派の跡目争いなどは、探偵小説に描かれるようなものであり、それをどう解釈すればいいのか、難しいとろこであった。
準之助は、絵を見て少し角度を変えて見ていたりしたが、急に顔色が変わってきていたようで、そのことに気づいた刑事から声を掛けられた。
「どうしたんですか? 何か気になる点でもあったんですか?」
と訊かれて、
「ええ、あくまでも私の感覚がそう言っているというだけで、確証はありませんが、どうもこの絵は、あの時に羽村氏が描いていた作品ではないように思えるんです」
というではないか。
「えっ、でもこれに間違いないと、まわりの人は言われていますが?」
「ええ、確かに絵の主題、構成などはあの時の絵なんですが、私が見る限りは違うと言わざる負えないんです」
「というと?」
「角度や光が当たる濃淡、さらにバランスなど、どこか違和感がすべてにおいて考えられる。一つが違うと、それに付随していろいろ変わってくるものなのですが、この絵も一つの違いからいろいろ教えてくれます。ただ、それは最初に感じたことの派生ではないのです。だから勘違いなどではないと思うようになったんですよ」
と準之助は言った。
「ということは、非常に似た作品ではあるが、この作品がその時の作品だと思わせるための模倣だというんですか?」
と刑事が訊くと。
「ええ、そうだと思います。だけど、どうしてこんなことをしているのかが分かりません。そもそも、あの場所に絵があって、しかもこれが模倣だということが普通の人では分からない。やはり相手を騙すのか、混乱させるのが目的だとすれば、その目的がもたらす真意が私には分からない。刑事さんたちには分かりますか?」
と訊いてみると。
「なかなか難しいですね。考えられることは、あの時の結構に、この殺人が絡んでいるということを言いたいんでしょうね。考えようによっては。一緒にダイイングメッセージにも思えなくない。確かにダイイングめーっせいーじとしては薄いですが、ここまで情報がなく、なぜ失踪したのかも分からず、まったく彼に関係のない場所で殺されている。分かっている部分はほとんどなく、謎ばかりが残っているとすれば、少しでも手掛かりになりそうなことがあれば、そこを広げていくしか、捜査のしようはありませんよね? そう考えると、あの絵はダイイングメッセージだと思っても無理もないと考えます」
「なるほど、私は違う意味で一つ興味があるんですけどね?」
と準之助が言った。
「というと?」
「あの絵は確かにあの時に描いた被害者の絵ではないです。だからと言って、あの絵を描いたのが、被害者ではないと言い切っているわけではありません。もし、犯人があの絵がその時の絵ではないと看破するのがこの私だと考えて、そして、あの絵を描いたのが本当は本人なのに、それも違うのだというミスリードをさせることが目的だとすれば、これは恐るべき相手だと言えるんじゃないでしょうか? 考えすぎカモ知れませんが、警察としては、そういう意見も聞いてみたいと思うのではないかと思ってですね」
と準之助がいうと、
「なるほど、そこまで計算ずくの犯人だったら、恐ろしいですよね。でも、確かにこの絵を描いたのが誰かということは、今後も捜査で重要になってくるでしょうね。少なくとも誰かがあそこに置いたわけですからね。被害者が置いたとすれば、犯人が処分しなかったのには何か意味があるだろうし、犯人だとすれば、そこに計画性があったと考えるべきでしょうからね」
と刑事が答えた。
そこまでいうと、もう一人の刑事が思い出したように。
「あっ、そういえば、被害者なんですが、直接の死因はナイフで刺されたことによる出血多量でのショック死だったんですが、その前に首も絞められているようなんです。それは解剖の結果分かったくらいの軽いものだったんですが、その時、どうも脳に鬱血のようなものがあったということなんです」
「なるほど、それも不思議な状況ですね。ただ、もう一つ気になったのは、この絵ですね。この絵は、ある意味私が見て完成された逆さ絵だと思うんです。ただ、それは私のものでも、私の師匠の勝野先生のものでもない。ただ、逆さ絵というものの精神、つまり目指すものが一つの場所だとすれば、そこに近づいた作品だと思うんですよ。私ではない。勝野先生でもないとすると、やはりこの絵は、被害者本人が描いたと考えるべきなんでしょうね。それも。模倣するために描いたのではなく、ひょっとすると、失踪中に彼は脳が覚醒したのかも知れない。負けたことのショックがそうさせたのかは分かりませんが、そう思うと、あの絵はやはりあそこにあったのは意味があると思います。ただし。それが犯人に直接結びつくものかどうかは、私は分かりませんがね。ところでね刑事さん、被害者の羽村氏ですがね、行方不明になってから死体が発見されるまでの行方をいうのは、分かっているんですか?」
と準之助は、自分の意見を語って、思い出したかのように、羽村の消息を訊ねた。
「ああ、それが、今のところまったく分かっていないんですよ。なぜ失踪することになったのか、失踪してから殺されるまでの足取りはまったくなんですよ」
と警察はお手上げ状態だった。
「でもですね、他殺死体で発見されたということは、殺人犯人が必ずいるわけですよね? そう考えると、被害者は狙われておるのに気付いたと考えるのは自然なことではないでしょうか? そうなると、失踪の一番考えられる原因は、殺されるのが分かっているので、怖いから身を隠したと考えるのが、妥当ではないんでしょうか? 犯人だって被害者のことをよく知っているのであれば、被害者が立ち寄るようなところに身を隠すわけがない。だから、普通の失踪のように、彼の頼りにする人や知人ばかりを探していても見つかるわけはないと思うんですよ。やはり、それよりも、まず最初は、失踪したと思える段階から人脈中心に見るのではなく、土地や、状況を探ってみるか、あるいは、他殺死体ではありましたが。少なくとも彼は発見されたわけですよね? そこから逆に足取りを探るというのも一つの手かも知れません。ただ、死体発見から遡るのは、死体を移動させていることから、難しいかも知れませんね。もっとも、それが死体を移動させた一番の目的だったのかも知れないですが……」
と準之助はそこまで言ったが、それを聞いて刑事は考え込みながら、
「うーん」
と言って唸ってしまった。
どうやら、準之助の考え方や彼の持ち合わせている感性から組み立てる理論に感服しているようだ。
「いやいや、なかなかの名推理だと思います。確かに言われた通りの捜査は今までやっていなかったですね。さっそく、捜査本部に進言してみることにしましょう」
と言った、
「ところで、山本さんは、そういう理論は最初から頭の中に浮かんでいるんですか? それとも話をしながら浮かんでくるんでしょうか?」
ともう一人の刑事が訊いた。
本来なら、警察がそういうことを民間の人にいうのは、あまり格好のいいことではなく、自尊心がないのかと思われることで、権威の問題となるのだろうが、この二人の刑事には、そこまでの意識はなかった。
確かに民間の探偵でもない、一市民として、聞き込みに協力をお願いしているだけの相手ではあったが、話をしているうちに、共感を得ることが多く、どこか親近感すら感じているのであった。
準之助の方も、このう二人の、距離感がありがたかった。
今まで警察というと、変に威厳ばかりをひけらかし、無駄な距離を取ることで、民間人の警察嫌悪を招いているということを分からないやつが多いと思い、あまりいい気はしていなかった。
そもそも、この年になるまで、刑事というものに出会ったこともなかった。もっとも普通の一般人は皆そうなのかも知れないが、制服警官であれば、何かの時にはお目にかかることはあるだろう。極端な話、昔であれば、道が分からなければ、交番で聴けアバいいという程度のものである。
このT警察署というところは、K警察署のような都会ではない。海岸線に面した、一種の漁港と、さらには夏になれば、海水浴の客が押し寄せて、夏だけ人口が一気に膨れ上がるというそんなところであった。だから冬は半分過疎化していて、海岸線には散歩の人くらいしか立ち寄ることのない、まるでゴーストタウンだった。
幸い、都会にもそんなに離れていないこともあり、山間部には住宅街ができていて、少しずつ住民も増えてきていた。一種の発展途上の街だったのだ。
だが、漁村は昔のままで、ここは冬であっても、冬に獲れる魚を求めて、時代錯誤とも思えるような生活をしている人もたくさんいた。
朝はまだ深夜という真っ暗な内から魚を獲りに行き、近くの魚市場には、新鮮な魚を持って、早朝から出かけるという、普通のサラリーマンが寝ている時間に一日の行動がこなされる。早朝出勤の時間にはほぼ作業は終わっていて、朝食を食べてから寝るというような生活をしている人がまだまだいるところであった。
そんな漁村と海水浴に、さらに住宅街というまったく違った三つの顔を持った街がこの場所だったのだ。
だが、この街を支えているのは、今も昔も漁師たちであり、それは揺るぎない事実だったのだ。
「そういえば、羽村氏のマネージャーの話なんですが、彼はよく、いずれは漁村のような街で暮らしてみたいと言っていたので、そんな漁村で殺害されたというのは、何か思惑があるのか、ただの偶然だったんでしょうかというような話をしていたのを思い出しましたね」
と刑事が言った。
「それは興味深いですね。人に知られないように行方をくらますには、確かにこういう田舎の場所はいいかも知れないですね。しかも、彼は芸能人。まさかそんなところに身を隠しているなどと思わないだろうし、漁村の人に彼を知っている人が多いとも思えないですしね」
と準之助は言った。
『浅川刑事、ちょっといいですか?」
三人に話が盛り上がっていたからか、気が付けば結構な時間が経っていた。そんな時間帯に一段落がつくのを待っていたのか、会話が途絶えたタイミングを見計らって、女性制服警官が、先輩の刑事に声を掛けた。
浅川刑事は振り向くと、
「ああ、これは、九条巡査。どうしたんですか?」
と訊かれた九条巡査は、
「先ほどなんですが、警察署の方に、老夫婦がやってこられて、一人の男性を探してほしいということを言ってきたんだそうです。それがどうも話を訊いていると、今回の被害者である羽村氏のことだったようなんですよね。それで捜査本部の方から、お二人にも話を訊いてもらいたいということだったんですよ」
という話だった。
「ああ、僕はいいですよ。もう帰りますから」
と、準之助はそう言って、二人に遠慮した。
「そうですか、申し訳ありません。わざわざご足労頂きありがとうございます」
と言って、準之助を送り出した二人は、さっそく捜査本部が置かれているところに出かけていき、捜索を願い出たという老夫婦の話を訊いてみることにした。
途中からの参加になったが、さすぐに老夫婦、話がゆっくりであまり進んでいなかったのは高都合だった。
「それにしても、どうしてあの二人が探しているのが、羽村氏だと分かったんですか?」
と浅川刑事が訊くと、
「ええ、老夫婦のいう人相風体が似ていたことと、絵を手に持っていたということから分かったということで、それについて今聞いていたところなんですよ」
という基礎知識を訊いたうえでの聴取参加になった。
なるほど、老夫婦というのは、もうすでに二人とも八十歳を超えているようで、同じ話を何度もするようなタイプだった。実際に見ていてもそんなタイプで、悪い意味で、時間の感覚がマヒしてくるようだった。
「ところでね。その人はお二人にとって、どういう関係だったんですか?」
と質問者のT警察署の刑事が訊くと、
「それがね、十日くらい前にうちの近くの砂浜で、倒れていたんだよ。と言っても誰かに何かをされたというわけではなく、どうも何も食べていなかったような話だったので、行き倒れかと思ってしまったけど、かわいそうに思って家に連れていって食事を与えると、元気になったんだよね」
「じゃあ、探してほしいという人とは、十日前に初めて知り合ったということですか?」
「ええ、そうなんです。でもね、名前を訊いても覚えていないというんですよ、意識も朦朧としていて、人情としてさすがに放り出すわけにもいかないし、本当であれば警察に届けるべきだったんでしょうが、彼が警察は嫌だというし、とりあえず少し面倒を見てあげれば、そのうちに何かを思い出すじゃろうということで、わしら夫婦で元気になるまで見ていてあげようと思ったんですよ。その人のことで手がかりと言えば手に持っていた絵だけだんだけど、それについて聞いても知らないというし、だけど、日に日に元気を取り戻しているのは間違いなかったので、様子を見ようということにして、家族のように構っていたんですよね」
とおじいさんがそこまでいうと、さすがに息切れしたかのようだった。
「そんな状態が続いたところで、またいなくなったというわけですか?」
「ええ、でも不思議なんですが、彼が家にいた期間というのは。二、三日だったはずなんですが、わしらにとっては、一か月以上は一緒にいたくらいの気持ちだったくらい馴染んでいたと思ったんです。だからいなくなったのを見ると、正直ショックで、最初は、記憶が戻って、元気になって帰っていったのかとも思ったんですが、不思議なことにあれだけ一緒に長くいたと思っていたあの人のことが、まるで遠い過去のように思えてきたのが、不気味に感じられたんですね。まるで虫の知らせというんでしょうか? そう思うといても経ってもいられなくなって、警察に相談に来たというわけです」
とおじいさんがいった。
「それが一週間後だったと?」
「ええ、それだけ、この人に関して、時間の感覚がマヒするようなことも珍しかったんです。本当にあの人って存在していたんだろうか? とも思ったくらいに思えてきて、ばあさんとも、いつも顔を合わせて、訝しい気分になっていたというのが、ここ十日の間のことだったんですよ」
ということだった。
それで実際にこの間発見された羽村の死体を面通ししてもらったが、
「ええ、この方に間違いありません」
というではないか。
やはり、おじいさんの虫の知らせという言葉と、絵が置かれていたということ、さらに浜辺に打ち上げられていたようなイメージから、そんなに大きな街ではないので、ここ数日の中で考えると、羽村以外には考えられないということでの面通しでは、間違いないことだったのだ。
そして面投資が行われ、確実にその人だと分かったことで、そこから本当の聞き込みということになる。
もう一度応接ルームに戻った六人、つまり、K警察sの、T警察署からの二人の刑事、さらに彼のことを聞きに来た老夫婦ふぇあるが、一堂に介すると、最初に言葉を発したのは、T警察署の主任刑事だった。
「まずお聞きしたいのは、この人を最初に発見した時のことですね」
と言われて、老紳士は語り始めた。
「あれは、もう夕方くらいだったですかね。シーズンオフの海水養生というのは、本当にごストタウンのように、何もないんですよ。知らない人は、そんなものかと思うだけでしょうが、海水浴客を目当てに商売している人間にとって、この時期は何とも言えない気分になるんですよ。すぐには慣れるんですが、シーズンが終わって半月くらいは、ボーっとした感じだと言ってもいいでしょうね。だから、下手をすると、水平線の太陽が、朝日なのか夕日なのか一瞬分からないくらいの時がある。それを思うと、その時も、男が倒れているのを見た時、一瞬朝かと勘違いしたほどでした。最初は死んでいるのかと思って恐る恐る近づくと、かすかに動いている感じがしたんです。ただ身体に力が入らないのか、起きられないんでしょうね、必死で動こうとしているようでしたが、動けない。私も年老いているので、助けようとすると、共倒れになってしまう。だから、近所の知人の家に行って、手助けをお願いしたんです。それで私の家に運びました。ただ、男は何か身体が痺れているようなことをいったので、知人は、きっと薬化何かを飲まされたのではないかというんです。警察に通報した方がいいと言われたんですが、男の人の話を訊いてみると、どうも記憶が曖昧なようだったんです。それで私はクスリのために意識が曖昧で思い出せないのかと思って、とりあえず、一日だけは、家で養生するようにということにしたんですよ。翌日になると、体力はだいぶ戻ってきて、身体は普通に戻り、意識はしっかりとしているんですが、自分のことが分からない。どうしてあそこにいたのかも分からないということだったので、警察に通報しようか、正直迷いました。このまままるで警察に突き出すような、そして途中で投げ出すようなことが私は一番嫌いだったんですよ」
という。
どうやら、勧善懲悪な性格のようで、さすがに老人に多い性格なのではないかと思っていた。
「じゃあ、そのままにしておこうと思ったんですか?」
と言われて、
「正直、その時は、このまま記憶が戻るまでここにいてもいいんじゃないかと思いました。いつも老夫婦のみで寂しい毎日だったので、まるで息子か孫でもできたようで、その状況を手放すのが忍びなかったというのお本音です。ただ、今は本当に後悔しています。数日だけとはいえ、自分の肉親のように接していたわけですからね。それに、あの時警察に通報していれば、彼は殺されずに済んだのではないかと思うと、悔しくて悔しくて仕方がないんですよ」
と、老紳士は言った。
「いや、これは我々にも同じことがいえると思うんです。もっとしっかり捜査をしていれば殺されずに済んだのかもと思いますからね」
とK警察の浅川刑事がいうと、
「どういうことですか?」
「彼の事務所から捜索願が出ているんですよ。お二人はご存じないかも知れませんが、彼は俳優や歌手もやっている芸能人なんですよ。だから、よくテレビなどを見ている人なら、気がついたのではないかと思うのですが。知人の方もご存じなかったんでしょうか?」
と言われて、
「ええ、知らなかったようですね。知っていれば、まずは芸能事務所に連絡するはずですからね」
ということだった。
「ただ……」
と老紳士は言って、
「というと?」
「あの青年があまりにも疲労困憊していたので、最初は本当にボロ雑巾のような感じでした。顔にもいっぱいドロがついていて、服も乱れまくっていて、何とも言えない感じだったんですよ。だから、私も彼の素性は、きっと、何かお金を使い果たして、ボロボロになってここに流れてきたのかと思ったんです。でも、記憶がないということを聞いて、単純にそれだけではないような気はしていましたが、まさかそんな有名人だったなんて思ってもみませんでした」
というではないか。
「彼は記憶喪失について、何か言っていませんでしたか?」
と訊かれた老紳士は、
「身体が急に動かなくなって、目の前がクルクル回っているような気がしてきたので、その時、クスリを飲まされたのではないかと思ったそうです。正直、毒だったら、このまま死ぬんだろうなとも覚悟したようでしたが、意識が戻った時、最初はここをあの世だと思ったと言っていました。それこそ昔テレビでそんなドラマを見たことがありましたけど、本当にそんなことがあるなんて思ってもみません。しかも話を伺えば、彼は俳優だったとか? 何か因縁めいたものを感じるくらいですよ」
と、この老紳士、最初はただの爺さんだと思っていたが、饒舌になればなるほど、頭が冴えてくるようで、
――この老人の話であれば、信憑性があるかも知れないな――
と感じるほどであった。
老人と言っても、まだまだボケているわけでもない。十分に証言として採用できるような気がしたのだった。
「あの人が言っていた話なんですが、鏡の話をしていたのが印象的だったんですよ」
と老紳士が言った。
「鏡の話ですか?」
「ええ、鏡に映る映像の話をしていたんですが、私も昔同じことを思ったことがあったんですが、その人も同じことを考えているようで、しかも彼自身で考えがあるようなんですよ」
「記憶を失っているのにですか?」
「ええ、記憶を失っているからこそ、余計に何か気になることは忘れないということもあるんじゃないかと思ったくらいなんですが、その話というのは、鏡に映った姿というのは左右対称にはなるけど、上下対称にはならないでしょう? 私たちはそれを当たり前のことのように思っているかも知れないですが、言われてみれば不思議ですよね。ハッキリとした証明はされていないようなんですが、いろいろ言われていることもあるようなんですよ。その中で彼が言っていた面白いことというのは、人間が普通に見る時でも、網膜には上下逆さに映っているというんですよ。でも、頭の中で辻褄を合わせているということなんですよね。もしそれが本当のことであるとすれば、無意識に自分たちが感じていないことも、実際にありえるということになるでしょう? それを私は話したんですが、彼は、絵を描く時にもそれが癒えると言い出したんです。私があなたは永覚何ですか? と訊くと、絵描きだという。でも、どんな絵を描いているのかまでは覚えていないようなんですが、彼が自分で持っていた絵を見せると、これは自分が描いたというんですよ。これは左右逆さの絵だったんですが、それを見ると、右能と左脳の切り替えについての話を始めたんですよ。私はさすがに理解できなかったですが、話を訊いていると、引き込まれるところはありましたね。彼も得の話になると、ひょっとすると記憶の一部が戻ってきたのではないかと思うような話し方になったし、それを聞いていると、分からないまでも、彼の描いたその絵に引き込まれていくのを感じたんです。それで、どうやって描いたのかと訊くと、スマホを使ったというんですよ。写メというんですか? そこに逆から移せば、鏡に映ったように見えるでしょう? それをそのまま写生しているということでした。で、彼が描いたというその絵も、そうやって描いたのかと訊くと、急に頭を抱えてしまって、苦しみ出したんです。私は慌てて、無理に思い出さなくてもいいですよと話したんです、すると落ち着いてきたんですが、かなり憔悴してしまったのが分かったので、その話はそこで終わりにしました」
と老紳士は言った。
結構長い話であったが。その話の中に、真実が含まれているような気がした浅川刑事は、その話がしばらく忘れられないような気がするくらいであった。
――この話、山本準之助にすれば、何というだろう? 納得するだろうか?
と思った、
たぶん、納得するとは思ったが、どこに感銘を受けるか、その方に興味があった。
「彼が、その話をしている時は、記憶が戻ったかのような気はしましたか?」
「そうですね、まくし立てるように話をしていたので、これが彼の本当の姿なのかと思いましたが、俳優や歌手をやっている芸能人というお話でしたが、私が見る限り、その雰囲気はどこにもありませんでしたね」
と老紳士は言った。
――ということは、羽村という男は、どこか二重人格的なところがあり、ひょっとすると、その記憶喪失もそれが原因だったのではあるまいか? 薬を盛られたような話だったが、彼にクスリを持った人間とすれば、ただ意識を失わせ、睡眠作用程度だったものが、彼の性格からか、それとも体力的、精神的に弱っていたのかで、記憶喪失を引き起こしたのだとすれば、何か分かる気がしてきた――
と、浅川刑事は考えていた。
「彼を見ていて、何か不可思議な行動をとる時ってありました?」
と訊かれて、
「それは記憶を失っているんだから、それは当たり前のことでしょうね。何が不可思議なのか、一緒にいると、こちらのリズムが狂うというもので、分からないものですよ」
というので、
「それもそうですね。ちょっと愚問だったことをお詫びしますよ」
と言ったが、実はこれは愚問ではなかった。
浅川刑事の方とすれば、この質問を聞いて、この老紳士がどう反応するかが見たかったのだ。もし、何か辻褄の合わないような話をしていれば、その意識からか、こちらの愚問であっても、自分のことのように言い訳をするかも知れない。それを彼は愚問を愚問としてとらえたということは、この老紳士としては、辻褄が合っていないと思って話をしているのだろうと感じたのだ。
「ところで、彼がいなくなった時ですが、正直、記憶が戻って、自分の世界に戻っていったと思いませんでした?」
記憶喪失が元に戻った時、記憶を失っていた時の記憶がどうなるか、それをどう解釈すればいいのか、考えていた。
ただ、前に聞いた話では、そのどちらも可能性はあるというのだ。もちろん、記憶を失った時の程度にもよるのかも知れないが、彼の場合がどっちなのか、それは元々の性格によるような気もしてきた。
ジキルとハイドのような二重人格であれば、失う前の記憶と、失ってから格納させる記憶の場所は違っているだろうから、両方覚えていてしかるべきではないかと思った。
そして。それを羽村という男に当て嵌めると、きっと彼は二重人格であると思われるので、記憶喪失の間の記憶を忘れないような気がしたのだ。
「二重人格の人間の方が、記憶喪失に掛かりやすいのではないか」
という思いも、浅川刑事にはあった。
それは、記憶を格納する場所が二つあるという理屈から言えることであって。逆にもう一つ疑問として浮かんでくるのは、
「記憶を失っている時、その人は二重人格なのだろうか?」
ということであった。
浅川刑事は、それを否と考える、それは、
「格納する部分が二つあり、記憶を失ったことで、元々あった記憶を封印している部分と、失ったと思っている間に新たに生まれた記憶を格納するための場所を確保できる」
と思うからだ。
極論をいえば。
「二重人格の人間でなければ、記憶喪失にはならない」
と言えるのではないだろうか。
よほど殴られたりしての外的な暴力でもなければ、精神的な状態によって記憶喪失になることはないのではないだろうか。
浅川刑事は自分が記憶喪失というものに対して、今考えていることは、今初めて感じたことではないような気がしてきた。以前にも似たような思いをしたことがあったような気がしたが、それがいつのことだったか、ハッキリと覚えていなかった。
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