最終話 前編 急がば回れ、そして王道の意味を知る。

『急がば回れ』


急ぐときは、早道や危険な方法を選ばず、むしろ回り道で確実で安全な道を通った方が早く着けるものだ。

また、目的を達成するのに性急にやらず、余裕をもつ方が確実であり、時には好い運をつかむことがある。




日中の白い日差しは西に落ちかけ、その色を真っ赤に変えている。


「夕日って血の色に似てるな……」

ホームストレートが一望できる観客席に余裕はひとり座っていた。

なにもせず、ただ呆然と。

手には力がまったく入らず、半開きで、それは何かを探しているようでもあった。


「あ」

なにかに気づいたのか、ゆっくりとダラけた両腕を上げ、半開きだった手だけを目一杯開く。

そうした途端、ついさっきまでしていたことがずいぶん昔のことのように感じる。


「透けてる」

西日にかざした両手が赤色に透ける。これが本物の手の色だと認識する。

もう少しすればこの色も消える。

そのことがどうしてか名残惜しく感じた。


この日、生まれて初めて自分につけられた名前に納得できた。


「余裕」


両手だけだったものが全身に行き渡る。


そうか……待ってたのか俺。


「――今日会見の日じゃなかったのか?」

「えへへー、来ちゃった」

「それに、こういう時って普通、後ろから声掛けないか」

「そうなの? 知らない」


風が伸びた髪を揺らした。


「顔赤いよ」

ただただ不思議そうに、特段、意味が込められずにそう言う。


「照らされてるからな、太陽に」

「そっか!」


二人は同じ笑顔を見せ合う。

二人だけの笑顔。

二人だからすることができる笑顔を。


「どうだった?」

「ぷっ! そうだな、それは静にしか言えないよな」

「いいから。余裕が一番になったの?」

真剣な声色せいしょくに一瞬だけ驚く。

「ああ、なったよ。一番」

全く同じ声色で答える。

「なら、よし!!」

もとの笑顔に戻し、そう言いながら両手を腰に当て、胸を張る。

「どうして静が偉そうなんだよ」

「いいでしょ別に。私がしたいからするの!」

言い切ると同時に、さらに胸を張る。

「………」

「……なに?」

「言ってもいいか?」

「え? う、うん」

「大きくなった?」

「へ?」

「おっぱい。大きくなったろ」

とぼけたような表情はそのままで、言われたことに気づいたのか、みるみる顔色が変化していく。

「!!!」

これこそ赤色という勢いで一気に間を詰めてくる。

「あーごめんって! でも、言っていいか聞いたじゃないか!」

「うるっさい! 確かに大きくなったけど、今言わなくていいでしょ!」

「え!? やっぱり?」

「!!!!!」


盛大にはしゃぐ二人の声だけが橙色になったサーキットに響く。


「それで静は? 納得できる絵、描き続けられてるのか?」

「当たり前じゃん!」




『王道』


セオリー、型通り、定石通り、定番、正攻法。




今頃フランスでは、台無しになった一世一代の会見を、ルーブル館長が世界で一番悔やしんでいる。

その館長はこの使い方を最上級でした。

これこそ絵。

誰しもが共感するものだと。


しかし、当の本人にそんなつもりはさらさら無い。

「誰にでも通用する絵。どんな心境でも、どんな環境でも、どんなタイミングでも等しく同じ気持ちになれる」

確かにそう言った。

静なのだからそれはそのままの意味で、本当の気持ちだ。

だから違う。

王道なんかではない。

静に相手は関係ない。

あえてそう考えるのであれば、取れるものなら取ってみろと天高く放り投げられた何かだ。


納得。

それだけ。

これが私の絵。ただそれだけ。


「納得できたんだ。よかったね」

「頑張ったからな、静みたいに」

「いいね……それ」

「だろ」

「うん。私にはできないから」

「そうじゃないだろ。できない、じゃなくて、分からない、だろ?」

「そっか……そうだね」

パンと手を叩き、優しく広角を上げる。けれどその仕草は作られたものだった。ただ、大きな瞳だけは静のままで、まっすぐ余裕を視つめていた。


ピコンっという音と共にスマホが振動する。

「あ、すーちんだ」

「枢先生なんだって? なんとなく内容は予想できるけど」

「えっと、シズ、あんた今どこにいるの? だって」

「やっぱり……」

「いま、余裕のとこ。っと」

「ちょ!? ちょっと待て! それ送る……」

言いかけたところで静がメッセージを送信する。


ピコン。すぐにまた振動する。

「!」

「どうした?」

「……」

「静?」

「え? ああ、うん。あーあ、怒られちゃった」

「? だろうな。あっ!」

「なに!?」

「車、視るか?」

「うん! 視る視る!」


二人は観客席の階段を降りてピットに向かう。


「にしてもよく抜けてこれたな」

「友達が手伝ってくれたから」

「友達?」

「うん。向こうで会った画家目指してる人。ルーヴルに務めてるの、凄くない?」

「ふーん……男?」

余裕の逸らした視線に無理やり静は自分の姿を入れる。

「えへへー、女の人だよー。ルネっていうの。でもね、その人私を監視するのが仕事だったの」

「ぶっ! なんだそりゃ!? ならその人は自分の仕事よりも静を逃がすことを選んだってことか?」

「そうだね」

はっきり言い切る。

「そうだねって、それじゃその人、ルネさんはクビになるんじゃないのか?」

「いいきっかけだって。そう言ってた、ルネ」

「きっかけ……」

「そう。私も聞いたよ、こんなことしてルネはいいのって。そうしたら、私がしたいからするのって。私その時のルネの顔がすごく好きになって、つい描かせてって言っちゃった。ルネも恥ずかしそうにしながらビアンシュールって言ってくれてね」

「へえ、珍しいな。静が人を描くなんて。もしかして俺視たことないかも」

「ないよ。視たい?」

「視たい視たい」

「ちょっと待ってよ……えっと――あった。これ」

静はスマホに残していたルネの肖像画の写真をみせる。

「え?」

その声は、短く吸った一瞬の空気の音と共に発せられた。

「どう?」

自分の絵の感想を聞く。

「どうして……」

「え?」

「これ、本当に静が描いたの?」


聞きたくない、聞いてはいけない、聞いたところでどうにもならないことを余裕は聞いてしまう。

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