第75話 道。
ガヤガヤと騒々しい声たち。
その音をかき消すように響き渡るそれ以外の騒音。
陽炎が浮かぶようになってきた時期。
平坦な黒の上を様々な色が彩る。彩るが、それはすぐにその場所から消え去っていく。
「いいか! 今日の路面温度はこの時期にしては高い。タイヤはおろしたてだが、他のとこに比べたらウチは不利だ……って、そんなこと言われなくても分かってるか」
その言葉を聞いて首肯だけする。
前には逃げ水だけが視て取れる。
背中には色とりどりの思い、考えが、いちいち強いものとなって刺してくる。
いてぇなぁ。
でもこの感じ……。
嫌だけど、面倒くさいけど、邪魔だけど。
――さて、と。
集中が痛みを一瞬で消滅させる。
灰色の景色が先程の音を消す。
ヘルメットとフェイスマスクが化学的な臭いを遮断する。
乾いた口内はずっと味がしない。
「よし! いきなりかますぞ!!」
ポンポンとヘルメットを叩かれるが、その振動も感じない。
目線を上に移す。
丸が縦に四つ、横に5つ並ぶ。
どんなことでも出来てしまう。そんな確かな感覚。
色褪せていく視界。拒むように一度目をつむる。
少ししてゆっくり開く。背中の痛みが蘇り、色とりどりの音が鮮明に聴こえる。路面の水分が揮発し独特の臭いを発生させている。
無意味なことなど一つもない。
一挙手一投足に理由が生まれ、意味を成り立たせる。
一瞬に一喜し、一音に一憂する。
敏感に、敏捷に。
アイシールドを下ろし、ブレーキペダルに足を置く。
右手でステアリング、左手でシフトレバーを握る。
その全ての動作を同時に、他の誰よりも素早く丁寧に行う。
後方の十七人十七色がそれぞれの音を持ってして自分に色を纏わせる。
そのことを背中で確認すると、一番最後になって自分に風色を纏わせる。
サーキットのパドック上部にあるスクリーンが、車内に備え付けられたインボードカメラの映像を写し出す。
「ん?」と思わずエンジニアの脇坂が声を漏らす。
「どうかした?」その声にマネージャーの道上が反応する。
「強くなりましたね……余裕」チーフエンジニアの本山が脇坂と道上の顔を視ながら言うと、二人は同時に頷く。
「強い? それって元からでしょ」
メカニックの土屋が三人のベテランの会話に付け加える。
それを聞いて三人が同時に互いの顔を見合わせる。
一瞬の間が空き、三人は再度大きく頷いた。
「あほ!」
脇坂が土屋の頭を小突く。
「いって! もう、なんでですか? なんもしてないじゃないですか」
「土屋。ちょっと……」道上が手招きする。
「なんすか? ――いてっ!」
「二人とも、ちゃんと理由を言ってからにしないと……その前に」
「いて!?」本山が土屋に近づき小突く。
「なんなんですか三人とも!?」
「いいですか、土屋くん」
「なんですか? 本山さん」
「余裕は強くなかったんですよ」
「え?」
「そうだな。あいつは正志さんに紹介されて初めてうちの車に乗った瞬間から速かったし、上手かった。でも、強くなかった」
道上はスクリーンに写ったままの余裕の映像に目をくれる。
「そんな! だってジェニー・ルームって」
「ぶぁか! あんなもん他のチームでだけだ! うちであいつのことをそんなふうにいうやつは誰一人としていなかったんだよ!」
いつも以上に荒い口調で脇坂が怒鳴る。
「ジェニー・ルーム……天才の余裕なんて。あいつの名前にかこつけたメタファーでしかなかった。やっかみや、僻みが募りに積もった連中のただの悪口でしかなかったよ」
「そうだったんですね……俺、余裕さんにひどいこと言っちゃってた」
「ああ、それなら大丈夫だよ。実際気にしてたのは私達だけで、余裕自身は気にしてないどころか、興味もどんな意味合いなのかも一切気にも留めてなかったからね」
スクリーンがスターティンググリッドに着いた全車両を捉えた上空からの映像に切り替わる。
等間隔に並んだ様々な色に彩られた車両の中、一番前。ポールポジションというその場所に、何色にも混じることのない色を濃く、そして一番強く存在させている一台に全員の視線が集中する。
「強かったよ、あいつは最初っから」
突然聞こえた声に、ピットにいる全員が振り返り、スクリーンから目を離す。
「正志さん!」
最初にその名前を叫んだ脇坂が駆け寄ろうとし、それに全員が続く。
「お前ら、そんなふうにあいつのことが視えてたのか……まったく」
車椅子姿の正志は、誰の目から視ても以前よりも明らかに弱っていることが分かるほど小さく視えた。
が、その一言、たった一言で、駆け寄ろうとした全員が足を止め、慄く。
「目ぇ離すな」
その声で一瞬にして全員がスクリーンに視線を戻す。
スタート三分前を知らせるシグナル音が鳴り響く。
「いいんですか、病院抜けてきて?」本山が聞く。
「いいんだよ、んなことは。それより今日のセットは?」
正志が聞くと、急いで一台のノートパソコンを目の前で開いて見せる。
「あんな状態でどうやってここまで来たんですかね?」
土屋が誰に聞くわけでもなく言うと、奥の方から声がしてきた。
「親父! 待ってろって言ってんだろ!」
よほど急いでいたのか、額に汗しながら啓介がピットに入ってきた。
「啓介!」
「ご、ごめんツチ。あっ、皆さん、すいません! ご迷惑をおかけして!」
息を整える間もなく、切れ切れに謝罪をする。
「そうか、啓介くんがここまで連れてきてくれたのか」正志に車のセットアップの説明をしながら本山が言う。
「はい。おい、親父はもう関係ないんだから邪魔しちゃ悪いだろう」
そう啓介が父親に促すと、いいからと本山は啓介に向かって穏やかな笑顔をみせた。
「おやっさん、大丈夫なのか?」
土屋が啓介に近づいて聞く。
「うん、まあ。多分本当は駄目っぽいけど担当の先生が特別に許可してくれて」
スタート一分前のシグナル音が響き渡る。
それに反応して、ピットの雰囲気が一瞬にしてガラリと変わる。
「じゃ、またあとでな!」土屋が軽く手を上げ離れていく。
「うん」
チーム全員が持ち場につき、起こり得る全てに対応できる姿勢を作る。
ピットの中。
強い逆光で真っ白な外。
サーキット全体に、先程までとは明らかに違う音が広がる。
「やっぱりすごいな、ここは」
啓介が呟く。
「当たり前だ。ここは一生慣れることがない場所だ。そんなところここ以外他に絶対にない」
正志は顔をほころばせる。
それは、久々に視た父親らしい表情を目に焼き付けておこうと力を入れた啓介の瞳を緩ませた。
並んだ丸。その一番左だけが赤色に点灯する。
次に横の丸。その次、次、一番端まですべての丸が赤く灯る。
わずかの間が空く。
そして全ての色が消えた。
一斉に飛び出した18台が隊列を綺麗に保ったまま1コーナーになだれ込んでいく。
その中で一番前。
浅葱色の車だけが一人、違った世界にいるかのようにいち早く右へと姿勢を変えた。
「よし!!」
チーフエンジニアの本山が強く言い放ち握りこぶしを作った。
ワアッ!! と、ホームストレートに設けられた観客席から声が上がる。
外でスタートを視ていたクルーたちが視えなくなっていった自チームの車をピット内のモニターで確認するために戻っていく。
すでに2つ目のコーナーを抜け、S字まで車を進めていた。
「もうあんなとこまで!?」
脇坂が珍しく驚いた声を出す。
後続との差は、1コーナー進入時よりさらに開いていた。
まるでレールの上を走っているかように、一切の挙動もなくスムーズにヌルりとS字をクリアする。
コース最大曲率のコーナーもそのままに、直角に曲がったコーナーが迫る。
「うおっと!」
マネージャーの道上がそのコーナーの処理スピードに心配そうな声を出す。
「今ほとんどブレーキしてないんじゃないのか!?」
「次ヘアピンです!」
興奮して声がいつもより何倍にも大きくなった土屋が当たり前のことをみんなに知らせる。
プロであるピットクルーの感覚をもってしても、理解不能な侵入スピードでヘアピンに突っ込んでいく自分たちの車に、全員が無言で見守るしかない。
これもまた、理解不能な場所でブレーキランプが灯ったかと思うと、画面越しでは消えたかのように視えなくなった。
その光景に「あっ」と声が上がる。
それは、曲がりきれず、コースアウトしたと誤認したからだ。
けれど、音だけは変わりなく聞こえ続けていることに、ふーっと、全員が固唾を飲んだ息を一気に吐き戻す。
「変だ」
脇坂が無表情で言う。
「あれだけの運転に車がついていけているのはおかしい」
その口調ははっきりと発音されていて、自分の言っていることに間違いがないという信念が込められていた。
しかし、それと同時に理由のわからない、原因不明な気持ち悪さを催す。
このコース最難関といわれている複合コーナーに向かって性能の持つ限界を超えて躊躇なく突き進む無機質の塊。
ここでピット全体が間違いのない錯覚に陥る。
まるで自分が走っているかのように、次第にそれが確かな感覚となってひとつになっていく。
うっ! っと誰かがえずく。
その音を皮切りに、そこら中で同じような音が発生しだす。
完全な拒絶。
目を背け、耳を塞ぎ、人によっては体を縮こませ、表情は嫌悪と赤色の抜け落ちた肌の色になったが、この世界から出ていくものは皆無だった。
自分も異変の中にいて、それでは駄目だと唇を噛み切る。
もちろんそんなことをすれば口元から血が流れる。
その形を作れていたのはピットの中で三人だけ。
「あれが余裕の本物の色か」
その口元に鮮血はない。
正志の目には視えていたからだ――風色が。
曲率、高低差、アンジュレーション、直進。それら全てを無にしてしまっているその色が。
「あいかわらずハチャメチャなやつだ」
確実なステアリング操作。
冷静沈着なブレーキポイント。
揺らぐことない信念をもってしてのアクセル。
この場所を走る者には必ず備わっておくべきものが今の余裕にはない。
そうなるのなら、という進行方向。
負担を生むのならやらない減速。
性能を超えた単純な加速。
事実として存在させてはならないものを体現する余裕に、長年一緒にやってきた仲間たちでさえ、強く、酷く共感を拒んだ。
「なんなんすか……あれ」
やっとのことで土屋が声を絞り出す。
名物でもある、世界的に有名な超高速複合コーナーに差し掛かる。
「やっぱり似てるなここ」
コースに出て初めて余裕は声を出す。
思わず出たその言葉は、あの道のあのコーナーを指している。
「でも、あの段差はないか……なら」
そこで初めて余裕は無理矢理にステアリングをこじ、いらない減速をし、同時にアクセルペダルから足を離す。
ドン!!!
その瞬間色濃く纏っていた風色が消えた。
「あいつ!?」
余裕は、ベストラインを外し、イン側の縁石に必要以上、いや、完全に乗り上げた。
「正志さん怒ってるだろうなぁ」
そう言った口元はこれでもかと緩んでいた。
車体全体が空中に浮かび上がった光景を、今この場所にいるすべての人達が目の当たりにする。
この時だけ。
この瞬間だけ、すべての人の目に風色がうつった。
ついさっきまでの気持ち悪さが消え、無重力を感じ、自由を体感した。
その世界に入った。
普通、常識なら余裕の運転は、ミスやトラブルの類だ。
しかし、余裕に共感させられた観客、プロフェッショナルの人間でさえ、その行為が間違っていないと、本当の正解だと思い知らされた。
本物を得た。
ざっ。
ガシャーンや、ガシンといった機械的な音が一切しない着地。
タイヤがアスファルトに触れた時に起こる必要最小限の音だけが立つ。
「変わらないってぇことか。ふっ、らしいな」
正志が啓介に促す。
「ああ、分かってるよ」
それに応じて車椅子を押し、ピットの外へ、帰ってくる相手を迎えに行く。
先に世界で唯一な音だけが聞こえてくる。
「いい音だ」
「やっぱり、来てたか」
シケインを抜け、最後の加速体勢を作る。
「……来た!」
啓介が身を乗り出し体全体でその姿を確認する。
まるで瞬間移動でもしているかのように近づいてくる。
「それがお前が選んだ道か」
「そうだよ」
二人の前を風が通り過ぎていった。
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