第74話 王道。
「おい! もう始まるぞ! 早くしろ、四季!」
「はいはいはい。今行くからちょっと待ってて」
「あほ! これは中継なんだから待ってくれるわけないだろう!」
桜の季節。
ロゼ色の花びらが二人の足元を彩っている。
鈴鹿四季と筑波波は空港のターミナルのベンチに座りながら、時間に間に合わないことを悟り、二人してひとつのスマートフォンを視つめていた。
その液晶画面には、二人が入国したばかりの国、フランスのとある場所が映し出されていた。
「まったく、お前がパスポート忘れてくれたおかげで一本飛行機乗り遅れたんだからな」
「私だけのせいじゃないでしょ? なっちゃんもチケット忘れたじゃない!」
「うっさい! それはもう謝っただろ!」
「私だってさっき謝ったばかりじゃない!」
「はあ!? 私はすぐ、忘れた瞬間に謝ったからな。それに比べて四季はフランスに着いてからだろうが!」
「謝ったんなら一緒よ」
「でたでた。その性格なんとかしろって昔っから言ってるだろ。そんなんだから……」
「あーー! あーー! それ以上言ったらなっちゃんのことだって今ここで大声で叫ぶから!」
子供どうしの喧嘩をする、モデルのような中年女二人の醜態を囲むようにして次第に人だかりが出来始めていた。
*
柔らかい空気が窓から入ってくる。
その
「ん? そろそろか……」
左手首にはめた時計で、遠明寺枢は時間を確認する。
「先生、患者さんも一段落しましたしどうぞ、休憩してください」
メガネの看護師が優しく、そうすることが当たり前のように話しかける。
「すいません。それじゃ、お言葉に甘えて」
「どうぞ、ごゆっくり」
診察室のドアを締めたと同時に早足で、次第に駆け足で廊下を走り、一段飛ばしで屋上への階段を上がる。
開閉禁止の立て看板を無視し、普段通りにドアノブを回す。
空に雲はなく、これでもかと晴れ渡っていた。
枢は白衣のポケットからスマホを出し、昨日散々したやり取りを確認するようにスクロールする。
「うーん、心配だ……。もう一言だけでも、ってもう時間ないし、どうしよう」
あーっと悩ましい声を上げ空を仰ぐ。その時スマホが振動した。
「きゃっ!」と、思わずらしくない声を出す。
「誰よ? ――なんだ、姉貴かぁ」
枢はスマホを操作し、椎からのメールを確認する。
『中継始まった! そろそろだよ! 観てる?』
『今から観ようとしてたとこ』
返信したと同時だと思えるほどのスピードで再度スマホが揺れた。
『もう一年経つんだね。短いような、長いような』
その椎の返信に、枢はふっと短く息を吐く。
『それを言うなら速いような、遅いような。でしょ?』
今度はしばらく間が空いて、
『だね! でも……ふふ、遅いなんて言葉似合わないね(笑)』
「たしかに……」
枢は方角を確認すると、その方向の空を眺める。
「晴れてるかな、あっちは」
*
「ありがとうございました」
羽生颯太が会計を済ませた客を見送りながら言った。
しかし、そのうちの一人が何かに気づいたのか羽生のところまで戻ってきた。
「なにかお忘れですか?」と聞くと、
「今度の個展、私必ず行きますから!」とその客がハキハキとした口調でしっかりと羽生に向かって言い放った。
「ありがとうございます。ぜひいらしてください!」
「はい!」
そう言うと、待っている友人のところに駆け足で戻っていった。
羽生はその後姿を重ねる。
「ずいぶん差をつけられたなぁ。でも、僕はまだ負けてないから」
カリーンっと来客を知らせる鐘が店内に響く。
「いらっしゃいませ! なにをお探しでしょうか?」
開かれたドアのステンドグラスが店内の一部を虹色に変えた。
*
ガラス張りの四角錐が広場にひょこっと突き出ている。
そこからは、太陽の光が差し込み、その下には多くの人、多くの絵が常在している。
かつて要塞だったその場所は、今や世界最高峰の所蔵品と展示数で、その名前は美術に無関心な人間でも一度は聞いたことがある。
ルーヴル美術館。
フランス、パリにある世界最大級の美術館。
広大な内部は、先程のピラミッドのような天窓を中心に3つの入口に別れ、その先には彫刻、工芸、絵画。歴史上のあらゆる美術品が展示されている。
「そろそろ時間だ」
背は高いが、それと比例して横にも大きな体躯の男が周りに集まった部下たちに最後の確認をする。
「やっとここまでこぎつけることができた。しかし、まだ絶対に気を緩めるな。あの小娘はここにきてなにをしでかすか分からんからな」
自然にできた円陣の中心にいて、やっとその声が全員に聞き渡るにはぎりぎりな声で喋る。
「わかってます……」と、こっちは長身のスラッとしたデキる風の男が答えた。
「数えきれないほど逃げられてきましたからね」その部下であろう小柄な若い女がすぐ横で余計な一言を付け加える。
「うるさい!」焦りながらもしっかりと女を怒鳴りつけるが、クスクスとまわりから失笑を買う。
ゴホンと、場の雰囲気を大柄な男の咳払いが一蹴する。
「いいかげんにしろ。いいか、今日がどんなに重大で大切な日なのかはお前らも重々理解しているだろう。このルーヴルの命運がかかってるんだ。昨年国立ロシア美術館に入館数を初めて追い抜かれ、今年は勝負の年なのだ! その火付け役にはあの画家しかいない! やっとのことで生存場所を突き止め、様々な仕掛けを駆使してやっと捕まえたんだ、絶対に逃がすわけにはいかんのだ!」
「なんか、どこぞの珍獣でも捕獲したみたい……」
小柄な女がまた、小声で余計なツッコミを入れる。
「そうだ! あれはもう珍獣だ! 皆、あの小娘は珍獣だと思って構わん、とにかく絶対に控室から逃がすな!!」
最初に女を指さしたが、その手は次第にそこに集まった五十人近い関係者全員に向けられた。
「館長」
ゆっくりと、大柄な男に見張り役の女が呼びかける。
「どうした? まさか!?」
「大丈夫です。ただの現状報告です。変わらず彼女はスケッチブックに絵を描き続けてます。逃げる気配は……ゼロです」
「よし……。もう会見開始まで時間がない。私達も舞台に向かうぞ」
「はい」「はい」
デキる風な男、小柄な女、その他大勢が一丸となって館長であるその男の後ろについていく。
「にしてもどうして屋外なんだ。通例なら館内で行うものだろう」
館長の男が怪訝な表情で独り言のように嘆く。
「彼女の要望なんですから仕方ありません。なんでも色は太陽の下で視なければ駄目なんだそうです」
「分からんでもないが……。なぜ屋内で会見を行わなければいけないのか理由は説明したのか?」
「もちろんしました。盗難や劣化、様々な損傷から絵を守るためだと。でも、そうしたら何が気に入らなかったのか急に暴れ出して」
はあー。とあちこちから似たような溜息が漏れる。
「作者からすればひとつの作品に過ぎないのかもしれん……が、あの絵にどれだけの価値があるのか。あの小娘には自覚が足らなすぎる!」
語尾を強めてはいるが、そこには確かな尊敬の念が込められている。
「誰にでも通用する絵。どんな心境でも、どんな環境でも、どんなタイミングでも等しく同じ気持ちになれる絵だと……当の本人がそう言っているのだ。それがどれだけ凄いことなのか。あの絵は、あの画家は、『王道』を歩んでいるということの自負が足らん。まったく」
館長含め全員がほとんど駆け足で会場であるガラスのピラミッドへと急ぐ。
皆額に汗し、その光景は焦り、急いでいることが一目瞭然だった。
が、その中で一人。
見張り役の女だけが、それとは違う種類の汗をかいていた。
「この広場にここまで人が集まるとは。こうしてみると圧巻だな」
先程までの様子が嘘のように、会場についた関係者全員がその景色に圧倒され、静まり返る。
「――よし、時間だ。つれて来い」
館長が見張り役の女に指示を出す。
女は、「はい」と弱々しい返事をし、一人塊から抜ける。
一瞬、館長はその返事に違和感を覚えたが、その意識はすぐに数え切れないほどの観客のほうへ向き直され、ゆっくりとした足取りで用意された舞台へと歩き始めた。
「ボンジュール。今日ここにお集まりになられた皆様」
ナポレオン広場のそこかしこに配置されたスピーカーから、司会者である館長の声が響き渡る。
その声に、散漫していた観客すべての意識が集中する。
「さらに! この映像を観られている世界中の皆様。ボンジュール。そして、コンニチハ」
館長の挨拶に、観客たちから盛大な拍手が沸き起こる。
そこからは、入りは上々だったものの、そのほとんどが我がルーヴルここにあり、と言わんばかりの御託に、次第に観客から進行を急かす声が上がり始めた。
その状況を少し離れた場所で見ていた全員が苦い表情で下を向き、もはや演説と化した館長の挨拶が終わるのをただ黙って待つしかなかった。
「はっはっは! そう急かさずとも皆さんお待ちかねの人物はどこにも逃げませんから!」
「どの口が言ってるんだか……」
愉快に大笑いする館長を尻目に、小柄な女が不満げに嫌味を言う。
「ではでは、名残惜しいですが私の挨拶はここまでにして早速登壇していただくことにしましょうか――」
言ったと同時に両腕をこれでもかと大きく広げ、その人物を招き入れる体勢を作る。「太陽の画家、マダム・シズカ・アラキ!」
――その時だった。
館長から最も近いところに待機していたデキる風の男のすぐ横を人影がすり抜けていく。
「ちょ! あいつ、なにやってんだ!!」
館長は顔の形は崩さず、突然走り寄ってきた見張り役の女のほうへと耳だけを傾ける。
「いません」
「は?」
「控室にいません」
「なにが……?」
館長は、自分に言われたこと、自分で言っていることが分からない。が、硬直したことで変わらずに済んだ満面の笑顔の顔色だけが、本当は状況を把握していることを示すように蒼白にみるみる変化していく。
「どうしてだ――」
招き入れるために大きく広げた両腕もそのまま。
今日ここにその姿を見に来た当人が一向に登場しない気配に観客達が騒ぎ出す。
「どうしていなくなったーーー!」
悲鳴とも怒号とも言えてしまう声と、派手に広げた両腕で頭を抱え崩れ落ちていく醜態が、リアルタイムで地球全土に響き、知れ渡った。
*
「くくくっ!」
「あらあら」
「ええっ?」
「はあ!?」
「うーーーーんっ! 着いたぁ!!」
気持ちよく上げられた両腕は、今にも空に届きそうなほど伸ばされていた。
「ん?」
その視界には、ロゼ色から深緑に変わった一本の枝が入っていた。
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