第73話 地球照。

「なににする?」

「女は黙ってブラック!」

「ぷっ!」

「なに!?」

「い、いや、別に。つうか静、コーヒー飲むんだな」

「悪い?」


ガコン、ガコン。


「はいよ」「ありがとう」


チッチッチッとボンネットから音がする。

「ごめん、今開けるよ」

余裕は運転席、ハンドル右下のレバーを引くと、ガコッとFDのボンネット前方がわずかに上がった。

早足で正面にまわり、そそくさとその隙間に右手を入れ、レバーを引き上げスーッとボンネットを上げる。


モワッとした空気。

微かに香る揮発したラジエター液。


全開走行をしたあと必ずこうして余裕はFDのボンネットを開ける。

とてつもなく好きな行為で、どうしようもなく好きな匂い。

それどころか、こうして相棒でなにかを、相棒になにかをすることが好きでたまらなかった。


「気持ちいいって?」

「ん? ああ、うん。気持ちいいっって」

分かっていてもどうしようもなく口角が上がってしまう。


あー、どうしよう。好きだなぁ。どうしようもなく好きだなぁ。


「そういうの、どういう顔していいか分かんないからやめて」

ニヤケ顔の余裕から急いで静は顔を背ける。

ニヤケ顔をさらに緩ませ、余裕はニター顔をする。


あっ。


暁闇あかつきやみにいる月。

その周りには点々と虹色の星星がきらめいていた。

ほうっと息を吐くと、薄い白色の膜がその全てを覆う。

黒は灰色に。黄色は梔子くちなし色に。でも虹色はそのままで。

「星ってすごいなぁ、あんなに自分の色を輝かせられるなんて」

その言葉につられて余裕は空を見上げる。

「ほんとに」

一言返すことで精一杯。


「さっき」「ん?」

「さっき、私が絵をいつから描いてるか聞いたでしょ? ちゃんと思い出したわけじゃないけど、あれかなってのはあった」

「いつ?」

二人は夜空を見上げたまま会話する。

「初めて空を見た時」

「覚えてるのか? そんなこと」

「え? 余裕は覚えてないの?」

「覚えてないよ。っていうか、普通覚えてないぞ」

「普通?」


あ。


「なにそれ……私はてっきり余裕も覚えてると思ってたのに――私は覚えてる。母ちゃんに抱かれて病院から出た時だった。朝方、もう明るかった。東の空から太陽が私を照らして、私はその光の先を追ったの。そうしたら自然に空に目がいって」


見上げた顔はそのまま。

左半身が熱くなっていくのが分かる。それは、空にある光を全て自分に静が反射しているからなんだと気づく。


静にとって太陽は光。

色は光から生まれ、画家はそれを殺す。だから色を再現できる。


余裕は覚えていない。はじめて空を視た日を。

ただ、よく空を視た。

こうして走ったあとに缶コーヒーを飲みながら。

障害物が全く無い海で背伸びをしながら。

視界を邪魔する水色の線に負けないように。

どうしても滲んでしまうような時でも。

春、夏、秋、冬。

昼間、夜。

晴れ、曇り、雨。

視たいと思えばいつでも、どんな時でも視た。


「やっぱり思いだせない。こんなに好きなのに」

「好き?」

「視るのがな。面白くて好きなんだよ」

「なに視るの? その時」

「んー、空気? あ! 風! あと、雲に、やっぱり太陽と月だな!」

喉の乾きをまだ湯気の上がるコーヒーを一口飲むことで潤す。

「私はあとね! 暑さと寒さ! 星は?」

「視るよ! 当たり前だろ!」

左半身の熱が冷めていくのを余裕は感じる。


「やっぱりミルクと砂糖入ってるほうが良かった」

「ぶっ!」口に含んだブラックコーヒーを勢いよく吐き出す。

「ただの苦い水だった、これじゃ」

「初めて飲んだのか?」余裕が言いながら飲み直す。

「うん。コーヒー自体」

「ぶはっ! ごほっごほっ!」先程よりも盛大に吹き出す。

「なにしてんの? さっきから」

「い、いや、べつに……ほんと、静って変わってるよな」

「それを余裕が言う?」


違った感覚。

この二人には違った世界が存在する。

余裕=車。

静=絵。

あまりにも極端で、純粋な『それ』と『其れ』は絶対に分かり合うことはない。

けれどそこには、悲しいやら、切ないやらのセンチメンタルな感覚は決して存在しない。

二人の関係はバランスがとれていない。けれど、だからこそ、とれている。

余裕がプラスなら静がプラス。

余裕がマイナスなら静がマイナス。

そしてその関係において、どちらかがプラス、もしくはマイナスになることは絶対にない。

言葉にしてしまえば陳腐だが、ほとんど奇跡だ。


「これからどうするんだ?」

「絵を描き続けるに決まってるじゃん! 余裕は?」

「……走り続けるよ。俺もやっぱり走ることが大好きだから」

「ただ走り続けるの?」

「んな訳あるか! 自分が世界一速いと思えるようにだ!」

「だよね! 私だって世界で最高の画家だって思い続けるために描くよ!」


二人にもう迷いはない。

答えは前提で、当然なことだった。

ごくごく自然で、ただただそこにあるもの。

そしてなにより、最初からあったものだからだ。

以前以後、過去から今。そして未来へ。一切変わること無く、一心に成長し続ける。

抜きつ抜かれつ、まっすぐ突き進むだけ。

邪魔や弊害もある。あるが、それもまた一興だと一度口に含み、噛み砕き、不味ければ吐き捨て、そうでもなければ飲む干す。

強固だが柔軟に、謙虚だが不遜に。

ひねり出し、干からびても潤沢に。

一生懸命。

もっと速く。もっと上手く。

遠くまで、遥か遠くまで。

そう、あの月に届くように……。


飲みかけの缶コーヒーを持っている逆のほうの手を空へ、月へと静は伸ばしていた。


遠い。

でも、届きそう。

んーっ。

つま先立ちになり、今できる自分の最高地点にまで手を伸ばし切る。

「あ!」

一生懸命に伸ばしていたおかげで、静の体勢が崩れる。

「あぶなっ!」

一切その格好を解かなかった静を、余裕が急いで支えようとして抱く。


カーン!

勢いよく二本の缶が同時にアスファルトに落ちる。


「……シートの調整をしてくれたときにできなかったから今してもいい?」

「あの時とは体勢が逆だから俺がする」


静の大きな瞳に月が映り込んでいることに気づく。

余裕が風ではなく月光を纏っていることに気づく。


「……」

「……」

「……」

「……にがい」


東の空が白んできた。

同時に燦々と輝いていた月色が褪せてくる。

いまにも消え入りそうなそれを、満月と呼んで良いものかと静は思う。


「消えそう」

「そうだね」

「どうしてわかるの? 視てもないのに」

「視てるよ」

「私の目に写ってるのじゃなくて、直接視て!」

「その前に、もう一回」

「ん……」

「……」

「…………もういいでしょ、視て」

「そんなに焦んなくても大丈夫、消えないから」

「満月だから?」

「そう。あれだけ太陽の光を受けていればそんな簡単には消えない」


空色はそのまっさらな色と引き換えに、少し前まで虹色に輝いていた星の色をひとつづつ奪っていく。


なのに月だけは新しく生まれた色に消されることはない。

光を失いつつも、まるでえがいたようにそこに居続ける。


「でも変だよ」

余裕は、「よっ」と抱えていた静の体を起こし、背を向けていた月に一緒になって向き合う。

「確かに――。あれは、満月とは違うような……あれじゃ、まるで」

「あれって……」


朝の透明色はその濃さを増していく。


地球照。

それは、太陽の光を地球が反射したことで、うっすら視ることができる月の欠けた部分。


二人の視ているもの。

それは、地球の色を纏っただった。


地球照の仕組みにはまだ続きがある。

月が地球から受けた光を反射し、その光を、色を地球に届け返す。


余裕には『風色』に。

静には『無限な色』に。

自分色に染まった月の光を二人は全身で視た。


「色なら届くね」

「ああ、届く」


止まったような時間。その間も余裕はどうしてか空を視続けた。

『きっかけ』を探していたのかもしれない。

似ていると思い眺め続けた空。そこに視えているものに。


静が絵を初めて描いたかも知れないと言った記憶は間違っていなかった。

太陽の光を生まれて初めて受け、無限の色を殺すことなく空へ反射した。

その先には月があった。


「よし! 帰るか!!」

「うん! ずっとこうしていたいけど帰んなくちゃね!」


ゆっくり、惜しむように。けれど、

急いで、弾むように。


スーッ、カタン。

バタン。

くっ、カチ、カチ。キュシュシュシュ、シャヒン! 

ヒュンヒュンヒュン。

カコ。


透明色な空気にオイルとガソリンが染み入り、浅葱色がそれを揺らした。

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