第71話 余裕。

『それ』は空中へ、抵抗の無い、なにも必要のない世界への入口。


迷った。

また自分を蔑ろにしないかと思ったからだ。

でも入った。『その世界』へ。


なにかをする時、なにかを始める時。人は選択する。

ソレは普通なこと。

運動不足だとジョギングを始める。

女の子のにモテたいからバンドを始める。

仕事のスキルアップに資格を取る。

自分の思いを伝えたくて小説を書く。

色々、様々。

ソレは取捨選択。

時間、環境、関係。

ソレを得る。ソレを捨てる。

ソレが普通。


余裕は一度ソレを得ている。


静はソレを知らない。


初め余裕は『灰色ソレ』が正解、求めていたホンモノだと思った。

白色ソレ」を得ないように気をつけ、しかし結果『灰色ソレ』を得てしまった。


「まわり道って良いなって初めて思ったよ」

その言葉は抵抗を生む。


ソレ、をしたかもしれない。

静は理性的な考えでもってソレと向き合う。

「私は急いで生きてきただけだった」

その言葉は時間を生んだ。

「ソレは違うよ、静」

戻った色は点々と一部分だけ。黄、赤、紫。

「静にはソレを選んでほしくない。四季さんがそうだったように」

「気づいてたんだ」

「今な」


余裕は今でも灰色の世界をえがいた静の描きかけの絵が好きだった。


「まだ捨てきれてない、あの灰色の世界を」

「好きだからでしょ」

「うん」

色は輪郭をぼやけさせ、滲みながら世界に広がっていく。


「俺、よく急ぐんだ。自分じゃそんなふうには思ってないし、そんなことをしてる実感もない。でも、周りからしたらそう見えるらしい。急いでる。焦ってる。そんなふうに」

生まれた抵抗が体を離れ宙に浮かぶ。

それ、をしっかりと余裕は目で追う。


「初めて言われたのは親父からだった。『お前は一生懸命を履き違えてる』、って。子供の時分は友達やその親からも『余裕っていつも一生懸命だよな』『余裕くんはいつも一生懸命ね』って言われてた。当時から俺はそんなつもりがなかったけど、大人になって、仕事するようになって、社会というのを知って、ソレが当たり前、俺にとって普通なものになった……その矢先に言われた。きつかった、あれは」

抵抗は姿を変える。

重さへと。ソレはバラストだ。

「全身がダルくて、色んな感覚が無くなっていった。それからは、新しいことはおろか、今まで出来ていたことも出来なくなってな」

「いいお父さんだね!」

「はっ! ただのクソ親父だ」

ふふ、と静の笑い声が聴こえる。


「私好きだな、余裕のお父さん。凄いとも言えるかな。履き違えてるって、それ否定してないし、間違ってるとも言ってない。余裕って思い込み激しそうだもんね!」

「それを静が言うか」

「私だから言っていいの!」


静は一生懸命という言葉が好きだった。

命をかけて、一途に、それ、に取り組む。けれど切羽詰まってもいる。

唯一といってもいい、意味を知っている言葉

自分のためにあるんだと思った。



「静の両親は? どんなひと?」

「うちは一応共働き」

「なんだよ、一応って」

「中華料理屋なの。父ちゃんと母ちゃんが結婚した歳に店始めたんだって」

「へえ、それこそ凄いじゃないか」

「でもそのときにはもう私が母ちゃんのお腹にいて。だから繁盛し始めて一年もしないうちに父ちゃんがひとりで店やらなきゃいけなくなって。でも父ちゃん、『あんなの屁ともなかった。それどころか燃えた。燃えたなぁー、我が人生いち燃えた』って」

「おお、なんか静っぽい」

「ええっ!? あんな飲んだくれと一緒にしないでよ!」

静が少しだけ困ったように言う。

ぼやけた黄、赤、紫色の温度が上がる。まるで燃えているかのように。

しかし、それ、ではキャンバスを焼いてしまう。


「絵はいつから描いてるんだ?」

「わかんない。気付いたときには描いてた」

「両親どちらかが絵を好きだったとか?」

「全然。父ちゃんは祭り好きで、他人に迷惑かけることをなんとも思わないような人。母ちゃんは、そんな父ちゃんを口と力技で抑えこむ天才だった」

「なるほど、エキセントリック夫婦だ……。それに、足したら静じゃん」

余裕はあの狭い道路でのやり取りを思い出していた。



もし、ソレという普通がない人間が存在したら。

それ、しかなく、其れ、以外ない。そんな人間がいたら。


余裕は違う。


二人は違ったもの感じる。その輪郭がはっきりしてくる。


「余裕は? なんで?」

ずっと前を向いていた目線を、静は全開の窓の外へと逸らす。


があったからだよ」

余裕の感じてるものは、常に傍にあって、隣り合わせで、向かい合わせだったもの。


「俺、天才なんだよ」

「ふーん」

二人にとって天才とはただの言葉の選択でしかない。


「それまでは軽トラやダンプしか乗ってなかったんだけど。さっき言った仕事がうまく行かなくなった時期に正志さん、俺がいたレーシングチームの監督してる朽木正志さんに会ったんだよ」

「くちき、って……」

「啓介の親父さんだ。仕事から帰る途中で軽トラが調子くずしてな、とりあえず脇に停めて外に出た瞬間に声かけられた」

「え!? 停まってすぐにってこと? あっ」

静は思わず余裕を視てしまう。

気づいた余裕は自然に笑顔になる。


「そう。すぐ後ろを走ってたからな。なんでも俺の走ってるラインに見惚れてたら急に止まったから急いで話しかけたんだってさ。ビビったよ、いきなり『普段何乗ってる』だもんな。これだって言おうとしたら、『まあいい、とりあえずウチの車やるからチームに入れ』って言ってきて。完全に頭のおかしいおっさんだったよ。まあ、今でもそう思ってるけど」


届かなくなってしまう。

おっとっとと、余裕は浮遊していたバラストを軽々と捕まえる。

その瞬間、元の抵抗へと戻る。

あー、これじゃないな。

確かに俺のはこれと同じで自由を奪う。

でも俺には必要なものだ。

それに、静には必要ない。バラストに、抵抗になってしまう。


「そうなんだ」

寂しげな表情で下を向き、言葉だけが宙に舞う。


余裕の人生には道があった。正確にはきっかけが用意されていた。

朽木正志と出会い。レースという環境に身を置くようになり、二十代の全てを費やした。

けれど、知らず知らずのうちに急いだ人生、履き違えた一生懸命は、灰色な回り道になった。


でもは無駄じゃなかった。

輝くように目に写った灰色はきっかけだった。


自覚するきっかけをくれた。


過ぎた時間は戻らない。受け入れなくては。呑み込まなくては。

どんなに永く、辛く、不味くても。


「ほんとに、何やってんだんだろうな」

まっすぐ進行方向を向き発せられた言葉は、流れ去る景色を無視してしっかり余裕の中に留まる。


もう履き違えない。

俺だけの色。

灰色な欺瞞も自分だった。

そんな色が本物なはずがない。

静が俺を好きになった理由も今ならちゃんと分かる。


。俺の色は」


それ、は、青でも緑でもない。唯一無二な色。

急いできたから。回り道してきたから。そんな自分だから纏うことができる色。


全開の窓から風が吹き込む。

風を視ることなどできるはずがない。

しかし、が自分の体にずっとあったものなら?


風色かぜいろ


自分を自然に、あらゆるものをニュートラルに眺める色。

見つけたり、探したりしなくても良かった。

もっと濃く、さらに輝かせればよかった。


限界。

ずっと超えてきた。

がなかったらとっくに俺は死んでいた。

上等だ。

「これが俺には必要だ。それでいい」


ガシン!!


ステアリングには、わずかのブレも伝わってこなかった。

吸い付くように、一切の失速もなく、『それ』を突破した。


静は思う。

余裕綽々な今がすごく彼らしいと。

誰よりも速く前に進む其の色に見惚れていた。

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