第69話 感覚。

「うん。もうわかった」


静がFDを運転したのは、余裕の止めた狭隘きょうあい道路を抜け、1つ目の赤信号までだった。

ギヤチェンジしなかったため、静の出した車速は20km/h程度。

けれど静にはそれだけで十分だった。


「五感ってあるでしょ?」

「ああ。味覚とか視覚ってやつだろ」

含みのある物言いで余裕が答える。

「ふふ、なんでそんな言い方になるの? 変だよ。だって余裕は今まで五感ってことに過敏だったでしょ。白色も灰色も、それにこの世界だって」


もちろん今二人の視界は灰色のままだ。

しかし、なにかが僅かに違っていることを静も余裕も感じていた。


「あーあ。静の前じゃ見栄も張れないのか」

「見栄って、そんなの張ってどうするの? 私もう余裕のこと好きなのに」

「うっ。よくそんな普通な顔して言えるな」

「ええ!? なんで? 余裕は私のこと好きなんだから、私が余裕のこと好きって言ってなにか問題ある?」

「はあー、そういうところほんと好きだよ!」

「えへへ~、もっと言っていいからねぇ」


ほんの少し変わった。

変わったことに気づけている。

俯瞰や鳥瞰に見えているけど、そんなことは今までも出来ていた。

感じて、臭って、味わって、聞こえて、視えている。いつも以上に集中している。


「なんなんだろうな、この感じは?」

余裕は自分の視えている世界が静と全く同じものだと知っている。

確認なんてしていない。する必要もない。


「だから今から答えを見つけに行くんでしょ!」

静は余裕の待っていた答えを当たり前に答える。


運転席には余裕。

助手席には静。

元通り。

二人が乗った車はあそこに向かう。


朽木自動車があった場所。島と対決し、四季と確認したところ。

過去に四季と波と羽生が写生に行き、静と四季が絵を描きあった美術館のあるあの山へ。


「あそこだ」

「そうなんだ」

「ん? 行ったことあるのか?」

「うん、ちょっと前にね」


またも峠道に入る手前の信号で止まる。

なぜかいつもここで必ず赤信号で止まる。

けれど余裕は一切不満に思わなかった。それどころか凄く好きな時間だった。

自分はなにをするのか、なにがしたいのか今一度考えろ、そして覚悟しろ。と自問し、相棒と話し合い、よし大丈夫行こう! と自答する時間だからだ。


不安要素はいくらでもある。

四季の時同様自分ひとりじゃないということ。

これほど仕上がった相棒の性能を百パーセント引き出せるのかということ。

そしてなによりも、すでに『灰色の世界』に入ってしまっていること。

二人とも。


恐怖は灰色。

余裕は呑み込んだ。

だからこそ見出だせた。偽物の感覚だと。


なにが、しっくりきた、だ。

まだ自分に嘘をついてるのか俺は。

いいや、それ以上に最悪だ。嘘をついていたことにすら気づけてなかった。相変わらず詰めが甘い。



四季さんはこの世界のことを波さんとすーちん伝いに教えてくれたけど、どう思ったのかまでは教えてくれなかった。

敢えて、そうしたような気がする。

「画家は五感で描く」。あの言葉はこの世界に入ってしまったことで失いかけたから言ったんじゃない。

あの人は最初からだった。

やっぱりあの人は染まらなかったんだ。だから言えた。


輝く灰色。

五感がすべて強調されている。

静には今視えているこの世界が前触れのように思えた。

期待? いいや、

「楽しみ」

思わず声になっていた。

「行こう」

呼応するように余裕が言った。


ギシシと背中から音がする。

包み込むような形のバケットシートに体がめり込むことで、より密着性を増す。

ひとつの塊になるように。

静は自然に上がったよりもさらに高く目線を上げる。

木々の隙間から切れ切れに空が視え、そこに近づいくのが分かる。

暗黒色な空はおかげで、明るく視えた。

余裕が運転席、助手席両方の窓を下げる。全開まで。

一斉に入ってきた風切音はゆっくり聞こえた。

いつもより多い風は、二人の髪を必要以上に撫でる。

すっかり冬の香り。冷たく澄んだ匂い。


静には『ようこそ』と聞こえた。

余裕には『いらっしゃい』。

「おじゃまします」と静。

「また来たよ」と余裕が答えると、アクセルペダルを緩める。

「着いたよ」と余裕は静のほうを向く。

すると、すでに静は余裕を視ていた。

「ぷっ」「ふっ」と二人は同時に息を漏らす。

次の瞬間には山に二人の笑い声がこだました。


「どうする? 一旦外出る?」

「それって変。だって出れないでしょ」

「そうだよな……うん。じゃあまずは」

グルグルっと余裕がステアリングを時計回しにいっぱいまで切る。

ヒューンという音がヒーンというさらに高い音へと変化したかと思うと、ブンっと一気に360度回転する。

そして左半身にかかった重力は一瞬にして真逆に移り変わる。

またもブンっと360度。

抑えきれない興奮が余裕の口角を引き上げる。

白煙が全開の窓から入ってくる。その輪郭がはっきりと分かるスピードで眼の前を流れていく。白色の粒。限りなく透明に近い点。

リアタイヤのコンパウンドの熱変化が準備完了を知らせる。

けれど次に余裕はゆっくり来た道を下り始める。


静の視線は自然と下向きになる。

今度はそのまま世界を視つめる。

白点が次第に窓から抜け、元の暗黒色だけになる。

偏った血液は、マヨネーズがチューブの中で重力によってヌルりと強制に動かされるように戻る。

血管との摩擦で熱が生まれたのか、体温の上昇が気持ち良いと感じる。

本人の意志を無視して流れる景色。強制力が速まっていく。


ギャシュウ! っという音はサイドターンを決めた音。

そこで余裕は動きをやめる。

――四季の時とは違う。

余裕の中では『集中』を気づかせてくれるファクターは『無言』だ。

――喋っていなかった。そのことに気づき、意思を無視して動く感覚をスムーズにやめさせた。


「すごいな、自由自在だ」

「でも、まだ違うでしょ」


静の息は前に出せれていた。

余裕はその息が僅かに白く染まったのを目の当たりにする。


白。

世界の色ではない色。

もちろん、静も視ていた。


無表情の登道、余裕は無駄に喋った。

この道がすべてだと

この車がすべてだと。

誰よりも速いと証明することがすべてだと。


静は無反応で聞いた。

余裕がなかった。白が視えた感覚を失わないようにしようと必死だった。


頂上は先程よりも明るい。

道中と違って遮るものがない。クリアなところだ。

当たり前にしずかで、時間の経過を感じさせない場所。今が永遠に存在しているような空間。

シュンシュンとキレイなアイドル音。

タコメーターは750回転でピタリと針を止めている。

スピードメーターは今か今かとゼロを示す。

後ろのほうの光量がボオっと増える。同時にカチっと引いたサイドブレーキレバーを下ろす。


怖い。

余裕の心境。

呑み込んだのだから当然その感覚はある。

ふっと、思わず息を漏らす。それは笑い声。

走り始めた時、常だった感覚。失ってはいなかったが薄まった感覚。

この灰色の世界の感覚。

「いいか? 行くぞ!」

「うん。行こう!」 

興味。

静の心境。

どんな色でも構わない。どんな色にでも成れる。だからどんな色でも再現できる。

ふふっと、思わず息を漏らす。それも笑い声。

今ここに画材があればどれだけ良かったか。どれだけ楽しく描けるんだろうか。

この透明な世界の感覚。


ガコ。

最小の力で入るファーストギヤ。

すうっと踏ん張った左足の力を抜くと踵がゆっくり離れる。

右足は経験で無意識だが繊細に左足とは逆に力を込めていく。


自分=本物。

今度は違う。

見出す。

探し出す。

本物の色を。


光り輝く灰色は、今まさにその本当の世界を二人に見せようとしている。

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