第65話 ごはん。

できるだけ。

レース活動をしていたほどの運転技術のある余裕が、できるだけ気をつけながら運転していた。

理由は簡単。

静がじーっと自分の描いた絵馬を視つめて、ずっと離さなかったからだ。

わずかな振動もさせまいと、異常なほど集中して運転した。


静がその間何を思い考えていたのか、余裕には結局分からなかった。

余裕が一切の振動を起こさないように運転していたことに静は全く気づいていなかった。

相対的でない、けれど絶対的でもない。

他人ということでもなく、ましてや恋人なんてこともない。


二人がしていたことは、

自分の描いた絵を視る。

自分の車を運転する。

という当たり前なことだけ。


「次の降り口を入ってください」

いつの間にか窓を全開にしていた静が、外の景色に目線を移し余裕に言う。


地竜川の堤防は片側一車線のアスファルト舗装の車道になっていて、歩行者や、自転車などは基本的に堤防を降りて、河川敷を通行するようになっている。

そこには、野球場やサッカー場が連立していて、休日になれば、草野球の試合や、サッカーのクラブチームの練習などで賑わう。


「ここでいいの?」

「うん」

ウィンカーを左に出し、車道から外れ河川敷へと降りていく。

「ん?」

降りてみて気づいた。

草野球やサッカーの練習をしている人たちが帰り支度をしている。

部活帰りの学生たち。夕飯の買い物に行く途中の主婦。散歩に出てきた子供連れの夫婦。そんな人たちが行き交っていた。


「うわっ、もう三時過ぎてるじゃん。腹減ってくるわけだよ」

河川敷内の道路は、ここを利用するために駐車場に停められるように設けられているだけで、通行するにあたって徐行しなければいけない通路だった。


「おおっ! すげえ。スポーツカーだ!」「かっけぇー!」

「ママ見て! きれい!」「本当、きれいね」

ゆっくり、周りに気をつけながら駐車場に向かっていると、すれ違いざまにそんな声が外から聞こえてきた。

「なんか注目されてます」

「まあ、ね」

今までに何回もそういった声を聞いてきた余裕だったが、そんな時はいつもどうしてか独りで、こうして誰かが助手席に乗っている状態で聞くのは初めてだった。

恥ずかしい。でも、嬉しい。

窓の外から聞こえてくる声は、FDに乗り始めた時に感じた、『あの感じ』を思い出させてくれた。

駐車場に車を停め、外に出ようとした時、余裕は静に聞いた。

「どうして窓全開にしたの?」と。

言ってから気づいて後悔した。これじゃ寒いのにどうして開けたの。と勘違いされてしまうんじゃないかと。

しかし静は、「だって、それのほうが気持ちいいでしょ?」と当たり前のように何も考えていないような無垢な顔を視せた。


「あ、ベンチ全部占領されてる」

「本当だ。どうしよっか?」

「ま、いいか。あそこで食べましょう!」

そう言うと、静ははじめからそこで食べようとしていたのかのように堤防の斜面を駆け上がり、どかっ、と座り込んだ。

「何してるんですか? 早く食べましょ!」

バンバンと座った自分の横の芝生を強く叩く。


不思議だった。

地竜川は一級河川で、河川敷も広大。なのに、ああして堤防の斜面に座っている人物は余裕の見渡す限り静以外誰もいなかった。

余裕は急いで法面を駆け上がると、どんっ、と同じように緑色の上に腰を据えた。

「一緒に食べようか」と言うと、静は目を丸くし、次には大声で、

「当たり前じゃないですか、もしかして私が全部食べちゃうとでも思ったんですか?」と大きな目を目一杯潰して、あははっ! と笑った。

「そんなこと思ってないって! ……でも言われてみれば少し思ったかも」

余裕も負けまいと、口を大きく開けて笑った。


そんな状況を、何事だと、帰り支度をしていた人たちが。部活帰りの学生たちが。夕飯の買い物に行く途中の主婦が。散歩に出てきた子供連れの夫婦が。

全部が静と余裕の笑い声に注目する。

『すっげぇ大声……ぷぷっ、なんだよ、あれ』

『見てあれ。ウケる』『ねぇ、すっごいよねぇ』

『あらあら、可愛い』

『あのお姉ちゃんたち一緒の服着てる』『ふふ、珍しいわね』『だな、今どきペアルックって』


恥ずかしかった。

でも、すぐに吹っ飛んた。

ガサガサと買ってきたパンの入った袋をあさりながら、「どれにしよっかなぁ」と真剣に悩んでいる横顔を見れたからだ。

「俺はどれから食おっかな!」

余裕も一緒になって袋をあさった。


静は聞いていた。

袋に目線を落としただけでは駄目で、袋をガサガサと音をたてたことでやっと紛らわせることができた。

でも、その原因は余裕とは違っていた。

服装のことは、とっさに着替えて、待っていた余裕の前に出ていった時に気づいていた。

色が分からなくなってしまった両目では、余裕の来ているツナギが、自分が一着しか持っていないツナギ、同じ浅葱色だとは確認できなかった。

でも、それが分かった。

嬉しい。

嬉しくってしょうがない。

どうして?

考えた瞬間にはもう袋をガサガサしている自分がいた。


「これにした!」

「俺はこれ!」

袋から出したものを二人は掲げた。

「あ!」「ん?」

二人は同じタマゴサンドを袋から出していた。

ニッっと静が口角を上げきって余裕を視る。

「だよな」と余裕は恥ずかしげもなく、ポンとタマゴサンドどうしで乾杯をした。


「いただきます! ……ん!? おいしい!!」

んー! っと、タマゴサンドを味わっている静を視て、どうしようもなく嬉しくなる。

思いっきりかぶりついたのだろう、口周りに黄色が混ざったマヨネーズが付いたまま歓喜の声をあげたのを視て「だろ!」と微笑みかける。


「次は……」

「もう食ったのか!?」

「これ!」

静は次にハンバーガーを選んだ。

「んーーーー! これも美味しい! ハンバーガー久しぶり」

口の周りをさらに汚し、けれど、ばくばくと音をたてるかのように食べ進めている。

あまりの食べっぷりに余裕は、じっと静のことをぼーっと視つめてしまう。

「あれ? もしかして、食べたいですか? ハンバーガー」

言ったかと思うと、はい! っと、食べかけのハンバーガーを余裕のほうへと向けた。


この前食べた。

どうして他人に食べかけのものを勧める?

別に食べなくても味は分かるのに。


静が久しぶりに食べたと言った。

静の食べかけのハンバーガーが自分の中に入っていく。

やっぱり、ハンバーガーはハンバーガー。おいしい。


「ね?」

「うん。うまい」


ごはんは美味しい。

まあ、パンだけど。

独りで食べても。

美味しいものは美味しい。

でも、こうやって誰かと食べればもっと美味しい。


え?

静の視ている世界に灰色の、黒と白のバリエーションが増える。

でもそれはまだ灰色だと強調されただけで、光の濃淡が鮮明になっただけに過ぎない。

おいしいと言った口のまわりについたソース。

自分の手にもそれが付いている。

灰色のソースが。


いやだ。

どうして、私に視せてくれないの?

タマゴサンドも、ハンバーガーも、この人の口についたソースも。

おいしい! って言った。嘘じゃない。でも色が分からなくちゃ本当の、本物の味なんて分かんない……。


静はソースの付いたままの手で自分の口をぐっ、と拭う。

ヌルっと言う感触だけはわかる。

でもそれすら本当にそうなのか。本物の感触なのかすら疑いたくなる。


「こわい」

ついその言葉が口をついた。


「次! 次は何食うんだ? 俺はーっと」

余裕が袋をガサガサとあさる。

「これ! ……んー! 美味いーーー!」

無理やりのように口にねじ込んだパンは、ナントカという名前を覚える気もないパンだった。

不味かった。

やっぱりか。

余裕は聞いていた。

こわい。と静の言った言葉を。


一口で一気に半分ほどを食べたナントカというパンの食いかけを余裕は静に向ける。

「ほい、食うか?」


大きく口を開けた余裕が、んっ、として促す。

その顔につられて静が口をゆっくりと開ける。

開けきったと見計らって、ぐっ、と歯跡のついた残りをつっこむ。


「んぐ!? ……ん、うまい」

もぐもぐ咀嚼しながら静が言った。無理やりな笑顔で。

「だろ?」


不味かった。

やっぱり、タマゴサンドとかハンバーガーのほうが美味しい。


美味しいものは美味しい。

不味いものは不味い。

そんな当たり前なことを……忘れてた。

ちゃんと分かる。

灰色の世界にいるからそんな当たり前のことに気づけた。

……この人が。

この人がいたからだ。

初めてごはんを一緒に食べてこれなんだから、この先ずっとこうして一緒にごはんを食べれてたらどれだけ楽しいんだろう。


「……」

「……」

「ま、まず」

「い。ですね、これ」


二人は急いで次のパンを頬張った。

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