第64話 始動。

「どうぞ」

余裕は助手席のドアを開け、静のことをエスコートする。


「えっと……ありがとうございます……?」

素っ頓狂な声を静が出す。


ゔっ。

声にならない声、さっそく上滑りする。

慣れないことはするもんじゃないと肝に銘じる。

ごまかそうと、余裕が焦って運転席側に回った


最悪な出だし。


パタン……っと、中途半端な気持ちでドアを閉める。

「半ドアですよ」

「え?」

静が室内灯の明かりが点きっぱなしだと指さして教える。

「ああ、ごめん」

しょんぼり顔で余裕は再度ドアを閉め直す。


「あの……」

「なに!?」

まだなにかミスしているのかと、車内を見渡す。

「これって、どうやるんですか?」

静が次に指さしていたのは4点式のシートベルトだった。

「あと、これも。もうすこし前にしたいんだけど分かんなくて」

困りながらそう言ってモジモジと体をうねらせたのは、バケットシート専用のシートレールの動かし方が分からなかったからだ。

「ああ、それは……」


言った瞬間だった。


体に力が入ってなかったんだろう。

まず、順序的にシートレールのほうをやろうとした。

踏ん張ろうとシフト周りに左手を添えながら、利き手の右でレバーをいじろうとした時だった。


ぽふ。

余裕にはそんなふうに聞こえた。


ひだまりの匂い。


視るだけで分かるほど、華奢な体躯。

それでも、まるで、ふかふかな干したての布団に顔を埋めたかのような感触があった。


「……」「……」

世界の時間が止まる。




「んあ!? ごめんっ!」

体勢はそのままに、頭だけをねじり余裕が謝る。

「い、いえ。大丈夫ですか?」

自分の膝の上に突然乗っかってきた余裕の頭を静はそっと押さえる。


『……』『……』

二人の時間が止まる。


「そ」

「え?」

「外からやるねっ、調整っ!」

乗った時の逆動作で余裕が車外に出ていく。


そこからの二人は終始無言で一連の作業が終わるまで黙っていた。

余裕は細心の注意でもってシートの位置を直し、さらに細心の注意でもって、どうやっても衣服に触れなければ不可能ともいえる4点式のシートベルトを、もはや神業の如く一切触れずに静に装着させた。

静は静でもって、なんだか申し訳ないような気持ちで、小さな体をさらに小さく、借りてきた猫のごとくちんまりと縮こまって、ただただ余裕のすることを視ているだけだった。


運転席に戻った余裕は、無意識のルーティンであるシフトレバーを左右にコキコキと動かし、すでに引かれているサイドブレーキのレバーを軽く引き直す。という動作をすると、キーに手を伸ばした。


くっ、カチ、カチ。キュシュシュシュ、シャヒン! ヒュンヒュンヒュン。

「あ、この音!」

体感にして一生分の気まずさを味わった沈黙を、静が破る。


「なっなに!? どうした?」

「前に聞いたことある! なんだ……そうだったんだ。やっぱり」

優しい微笑みで静が頷く。

「あれ? でもちょっと違う……? 繋がってるって感じ。そうそう! 一つになった色。完成した色だ!」

「完成した色。かんせい……した」

似たような表情で余裕が囁く。

安心しきった顔。島との時はいくら脇坂や土屋らみんなが整備してくれたとはいえ、そこはどうにも突貫工事で、今回とは別次元の話だった。

プロが納得し、良しとしたもの。妥協なんてない、決断は自分の選んだベストだと胸を張って送り出した結果だ。


よかった……こうして、今日まで走ってきて。


「じゃあ、行こっか!」

静は自分の言ったことが無視されたのかと、間抜けな顔で余裕のことを凝視する。

「ん? ああ、うん。聞いてたよ、でも、こんなもんじゃない。こいつの色はまだ濃く、きらめく」

余裕はキメ顔で言った。


ギヤを1速へと入れる。

ゆっくり、丁寧に、クラッチを繋ぐ。

スーッと一定のエンジン回転数のまま、まるで空中にでも浮いているかのように前進し始める。

「うわ! すごい!」

無邪気な声が助手席から聞こえる。

なんの語彙力もないその言葉は、余裕の全ての細胞を歓喜させた。



「お昼どうしよっか? なにか食べたいものある?」

特に行き先も決めないまま少し走ったところで余裕が聞く。

「外で食べれるものがいいです」

「外? 外って、外?」

窓の外を指さしながら静に聞く。

「ふふっ、はい。その、外です」

同じ仕草で静が答える。

少し小馬鹿にしながらも、なんだか大人っぽいその笑い方に、余裕は静の意外な一面を視る。

「えっと、外かぁ。外で食べれるものねぇ」

思わず逸らしてしまった目線を早口でごまかす。

「うーん」

本気で悩む静。

「う、うーん」

それにくらべて真剣味に欠けると、余裕も本腰を入れて考え込む。

「あ! ならパンは? 美味いパン屋最近見つけたんだよ!」

「パン……ですか?」

「うん! そこのタマゴサンドが美味いんだよ! あ、嫌いだった?」

しまった! 

以前啓介と行った際、なにがどうなってそうなったのか理解不能な名前すら覚えていないパンが女子ウケが良いと教えられていたのを余裕は刹那的に思い出していた。


「タマゴサンド! 美味しいんですか? そこの? 私、ほんっとに美味しいって思えるほどのタマゴサンドって食べたことないんです! なんせ、大好物なんで、タマゴサンド!!」

「お、おう」

あまりもの静の食いつきぶりに、心境と返答が混ざった声を出してしまう。

「連れてってください! すぐに!!」

「は、はい」

公道を普通に走る分には3速でも余ってしまうFDの性能なのに、その返事とともについ4速へとギヤチェンジしてしまう。

そのおかげもあってか、目当ての店にはすぐに着いた。


二人の目当てであるタマゴサンドを一つずつふたつトレイに乗せ、余裕は、この前啓介が買った、とくに食べたくもないナントカという覚える気もない名前のパン。それと、どうしても我慢できず取ってしまったフランスパンにソーセージが入ったものを買った。


静はというと、車内でのハイテンションそのままに、無事タマゴサンドをゲットできたことを皮切りに、ハンバーガー、カレーパンと、見ただけで味が想像できてしまうものばかりを立て続けに余裕の持つトレイに乗せていく。

「あ! 甘いやつも欲しい!」と言って、チョココロネ、あんぱんを乗せるとトレイがいっぱいになった。

「結構食べるな……」と言いながらレジに向かおうとすると、

『クロワッサン焼き上がりましたー』

という店員の声に、静が即座に反応し、「これならふたつはいけるな」と、二つ目のトレイ片手に言いながら二つ乗せた。

『お会計、二千三百円になります』と言われ余裕は、パンだけを二千円超えるほど買ったの初めてだ……と思ったら、少し笑えてきた。


「いっぱい買いましたね」両手に持った袋を掲げて、静がニンマリ言う。

「買ったねー」つられてニンマリ余裕が答える。

「ありがとうございます、ごちそうになっちゃって。いやー、楽しみだなー!」

静が気持ちよさそうに大股で歩いていく。

「期待していいよ」

はきはきしたお礼に、余裕も嬉しくなった。


「あそこで食べましょう!」

車内にもどった瞬間に静が言った。

「あそこって、どこ?」

「地竜川の河川敷! シラサギ橋の視える! あそこならベンチもあるし!」

エンジンに火を入れようとしていた余裕がその言葉に動きを止める。


「……それって夏葉神社の絵馬に描いた場所……だよね」

言ってから気づく。言ってよかったのかと。

「視たんですか? あの絵馬。なら、もしかして……」


無言で余裕はダッシュボードを指差す。


静が余裕に会いにきたように、余裕にも静に会う理由があった。




四季をホテルまで送り、絵をもらった時。

『この出会いは私に、そしてあなたにも意味があったと思うわ。所謂いわゆる運命の出会いってやつね』

『え? だって四季さん同い年しか興味がないって……』

『はあー。あんたねぇ、そうやってすぐそっち方面に直結させてるから女できないのよ。いい? 大人の男ってのは、もっとこう、なんて言うの……あのー、大きく? そう! 大きくなくちゃだめよ!』

『はあ、大きく、ですか……』

『そう! 大きくよ! ということで』

四季が胸の前で両手を合わせ、パンッ! と鳴らす。

『君が私のことを使ってやろうとしたことに罪悪感があるのなら、ひとつ、言うことを聞いてくれない?』

と、全開な、あざと笑いを視せた。



         

「入ってるよ。そこに」

静が、余裕が指差したところへと視線を移していく。


カポっと、ダッシュボードを開ける。

「はじめて……」

「え?」

「はじめて成功した。やった、やったーーー! 成功だーーー! どうして? どうしてですか? なんで、この絵もらってくれたんですか?」

4点式のシートベルトに押さえつけられながらも、もし、この拘束具がなかったら天井に頭をぶつけようと関係なしに車内を飛び回っていたことが容易に想像できるほど、静が体をバタバタと激しく動かした。


今ならいいですよね?

余裕は断りをいれる。


「運命」

それは静の言葉だった。


確かにその静の言葉に余裕は驚いた。

けれど、大きく息を吸い、大きく吐く。大きな気持ちでもって、その言葉を聞き入れた。


「好きになったから」


みるみる顔色が変色していく。

無理に動いたことで、その色に染まりつつあったものが、一気に、急速に、またたく間に静の色を赤く染めた。


余裕は黙って車を発車させる。

言い放ちたい気持ちは、ステアリングを強く握る両手だけが物語っていた。

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