第63話 当然。

枢、椎、遠明寺姉妹。友達。

羽生、四季、波、絵を通じて出会った自分よりも大人なひとたち。

いろんな思いが静に乗っている。


静は玄関の前からずっと動かず待っていた。



正志、啓介、朽木家。

脇坂、土屋、本山、車を通じて出会った仲間たち。

島、最近やり合った仲。

シマ、あの神社へ連れて行ってくれた友人。

いろんな思いに余裕は乗っている。


余裕はアパート前に車を停めエンジンを切った。


カンカンカン。

ところどころ錆が目立つ鉄製の階段を上がる。

コンコンコン。

木製の玄関扉をノックする。


もう分かってる。誰なのか。自分がどうすればいいのか。

ふわふわや、きらきらや、そして一番は当然どきどきで。

「勇気、必要かな?」

静は、生きてきた中で一番小さな独り言をつぶやく。


「どうぞ」

扉の向こうから中身のあるようでないような声がする。

どうしてか余裕は急いで開けてしまう。


ガチャ!

勢いよく扉が開く。それと同時に風が、外気が部屋の中へと入り込んだ。

バタバタバタバタバタ!

その勢いで部屋中に裏返しで立てかけられていたキャンバスたちが倒れる。


余裕の目に灰色の景色が写る。

静に目に浅葱色の匂いが視える。


「三回目だね」

「三回目ですね」

二人はそんな、数という意味のない挨拶を交わす。


「迎えにきたよ」

余裕は無意識にキザな言葉を口にする。

「はい。待ってました」

静は真正面でそんな言葉を受ける。


あれ?

静は、赤にみるみる変化していく余裕の顔色をしっかりと見て取る。


うっわ! なんだこれ!? 

余裕はイメージトレーニングが無意味に終わったことをはっきり認識する。


「あー! 絵が! !」

ごまかそうと言ったそのセリフに、余裕が気づいたときには時すでに遅し。

「なんで知ってるの?」

当然な反応が返ってきていた。


「え、えーっと……」

大きな目が必要以上に余裕を睨む。

「ごめんなさい。はじめてじゃないです……この部屋に入るの。でも聞いて! その時は一人じゃなくて管理人さんと一緒だったんだ!」

「管理人? 私一回も会ったことないんだけど」

せっかくな大きな目が細く、横長に変化していく。

「ほんとにほんとだって! っていうかその人、画家の鈴鹿四季さんだから。知ってるよね? 有名人だから」

細くなってしまった目が、もとに、いや、それ以上になっていく。

「会ったんですか、あの人と」

余裕はその声が少しだけ怒っているように聞こえた。

管理人を知らなかったこと。それが、あの鈴鹿四季だったこと。それらを通り越して、静は怪訝な言葉を余裕に掛ける。


「どんな人でした? その鈴鹿四季さんという画家は?」

「え? 知らないの? ほんとに?」

「知りませんっ!」

どうしてこんな嘘を言ったんだろうと静は驚く。


分かりやすく膨らませている頬。言った瞬間に背けた顔。言葉尻。

余裕には、嘘だとは伝わらなかった。

可愛い。

ただ、それだけが伝わった。

「俺より年上だろうけど、すっごく綺麗な人だった。言葉遣いも丁寧で、大人の女性って感じだったなぁ……あ! そうそう、絵をもらった」


余裕の言葉に静が全身で強く反応する。

「少し待っててください!」

そう言うとクローゼットから一着の服らしきものを急いで取り出し、全力で洗面所に入って、強めに戸を閉めた。


呆気にとられる余裕。

けれど、自分の言ったことが、静の何らかのスイッチにオンにしてしまったことだけは理解できた。


『そこにずっと立たれるのもなんなんで、あがって待っててください』

言われるまま、余裕は靴を脱ぎ、「お邪魔します」とあの時言わなかった断りを入れてから部屋に上がる。

変わらずの半透明の世界。カサカサいう音。表向きになって倒れた絵。ひとつひとつに静の面影を視てしまう。前の時よりも鮮明に、克明に。

四季が言った『描きかけの絵』すべてが、余裕の目に写る。灰色に。


「そうだ、聞かなきゃ……どうして描けたのか」


バン! 洗面所の扉が開く。

バタバタバタ! 走って近づいてくる音は、部屋の中にいて見えていない余裕に、静の姿を視せる。

ギュッ! 裸足のブレーキが着替えた静の姿を余裕に視せる。

「その格好って」「選んで!」

「は?」

「一枚。好きなの選んで」

「ど、どうして?」

「完成させるの!」

「今から!?」

「そう! だから選んで! どの絵でもいいから!」

静の言葉の真意を余裕が分かるはずがない。


視えていない。

今の静に色の識別はできない。


「ちょ、ちょっと待って! 俺はこの絵が好きなんだ、灰色のこの絵が!」

「え?」

「四季さんは描きかけだって言ってた。確かに色が塗られていない以上未完成なのは分かる。でも、俺はこの灰色だけの絵が好きなんだ。できることなら色を塗ってほしくない!」

「ダメ!」

「でも」

「駄目です! これは私の絵。描いたのは私。あなたじゃない!」


その時余裕は気づく、静の大きな瞳に。


「……分かったよ。選ぶからちょっと待って」

そういうと余裕は部屋中を見渡し、敷き詰めれれた灰色の中から一枚選ぶ。

「じゃあ、コレで……」

選んだ絵が描かれたキャンバスを持ち上げ静に近寄る。


静は、余裕にきづかれないように少しだけ後ずさる。

照れ、緊張。

どうしてか勢いよく迫ってくる余裕。

そんな気持ちの中で一番強かったのは『恐怖』だった。


「この絵でお願い」

「……わかりました」

絵を差し出す余裕。差し出された描きかけの絵を静は受け取る。

一瞬、二人の指が触れる。

感触が二人に伝わる。

けれど、伝わった感触に、余裕と静はそれぞれ違ったものを得る。


「また待っててもらっていいですか?」

「ああ、もちろん」

「ありがとう」


そう言うと余裕を横切り、慣れた手付きで準備を始める。

支度中、何度か静が余裕のことを横切ったが、その間、顔を一度も視ることができなかった。

ただひたすら浅葱色だけを目で追った。

『できるはずがない。あの目じゃ……』

余裕が選んだ絵は、数ある描きかけの絵の中でも一番色が必要になる絵だった。

種々くさぐさな草や木々。そこに残った雨粒。湿った地面に、所々できた水たまり。そして、空にははっきりと半円の虹が架かっていた。


準備が終わり、キャンバスをイーゼルに乗せる。

パレットに必要になる数色をチューブから出す。

そこに迷いなく筆をおとす。


『やっぱり』

余裕は、自分のしたことに後悔していた。

トントンという途切れ途切れの音が部屋に響く。

『色塗ってるんだよな、これ』

見れるわけがなんかった。視てしまえば事実として自分の目に写る。

『絵を描くということにこれだけ非情なことなんてない!』

もういい!……そう口に出そうとした瞬間、

「やったことがないからうまくいくか分かんないけど、聞いてください」と静の声がした。

余裕は一瞬顔を上げそうになる。


「普段こうして絵を描いてる時は集中してるから音とかは聞こえなくなるんです。それに、描く時はいつも独りだから」

言いながらも、トントンという音が途切れることはない。

「携帯の番号はすーちん、あ、余裕さんも会ったことがある病院の先生からきいたの。うーん、やっぱり上手くいかない」

音が止まった。


本当に嘘が下手な子だなと思う。

余裕は自宅の番号は問診書に書いたが、枢に携帯までは教えてないことに気づく。

「そうなんだ。で? どうして俺に連絡したの?」

またトントンと音が鳴り響きはじめる。


「この目を治すことができる可能性があるって聞いて、あなたなら」

あれ?

おかしい。

音が速くなってる……?

それに、増えてる。


余裕はゆっくり顔を上げる。

その目が最初に捉えたのは綺麗に化粧され、準備万端で待っていたことがはっきり分かる静の顔だった。


「できた!」

「もう!?」

「うん! 完成です! いやー、こんなに色使わなきゃいけない絵久しぶり!!」

余裕のほうを振り返りながら言う静の声は揺れていた。


後ろ向きの静が振り返ったことで絵の全部が余裕の目に写る。


草木は揺れ、雨粒は輝き、湿った地面からは蒸発する水分の音が聞こえ、水たまりには流れる雲が写っている。

そして、晴れ渡った空には虹色の虹が架かっていた。


「どうして」

言った瞬間涙がこぼれた。


できた! 静はそう言った。完成、とも。

震えた声で、似合わない微苦笑で。


「えへへ、かなり自信作! どう? 気に入った? 四季さんがくれた絵よりもいいでしょ! ……あ!」

「っぷ! ぷくくくっ、あははは! うん、気に入った! 四季さんの絵よりもこっちの方が好き!」

笑いながら涙を手で拭き取る。

それでも次から次に溢れる。笑えば笑うほど。


『本当に、ほんとに下手だよ……』


絵の世界がどんなもので、絵を描くということがどんなに難しいことなのかなんて、なんとなくでしか分からない。

でも、分からされた。

静が「できた!」と言ったならそうで、「自信作!」といったならそうなんだと。

綺麗に塗られたファンデーションの上からでもはっきり分かる。

頬の赤らみが。


『言うはずがない、こんなに色を使わなきゃいけない、なんて』


少し大きいツナギの袖で隠れた握られたままの筆が小刻みに震えている。



「はぁ、はぁ、はぁ、ごほっごほっ、あー笑った。こんなに笑ったの久しぶり。はあーあ、笑ったら腹減ってきた」

「私も! ご飯行きましょう!」

「うん! 行こっか!」


カチャっと玄関を開け二人は部屋を後にする。

カンカンカンと二つの音が不規則に音をたてながら階段を降りる。


余裕は前をウキウキ歩く背中を見ながら思う、

当然今度は俺の番だな。と。

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