第62話 思想。
椎は枢から連絡を受けていた。
「言っておく必要がある」、と聞かせれたうえでの妹から。
『ごめん、姉貴。シズのこと助けてあげて。……ほんとにごめん』
ごめん。
謝罪の言葉。お互い、大人になってから初めて聞いた言葉だった。
けれど、椎にはなぜかしっくり聞こえた。
最近使ったのか、それとも、この言葉の使い方を覚えたのか。
椎は妹のその言葉を聞いた瞬間そんなことに意識が向いた。
『へえ、成長したんじゃない? でもね枢、使っちゃ駄目よ、姉貴にそんな言葉』
『でも!』
『分かってる。分かってるから……。了解よ』
『ご……ありがとう、姉貴』
『まかせな。姉貴が妹の頼みを断るわけにはいかないでしょ!』
*
「デートなんだって?」
「え!? ええっと、うん……多分、そう」
椎は真っ直ぐ静のことを視つめながら言う。
「あっ、すーちんか!」
「ふふっ、呼び方、戻したのね。良かった」
椎は真っ直ぐ静のことを視つめながら笑う。
「ねえ、静ちゃん」「なに?」
瞬時に静が答える。
なにもない部屋。
椎にはそう見えていた。
今自分が座っている周りには所狭しとキャンバスは立てかけられ、画材やなんやらでせっかくの広い部屋が台無しな状態。
なのに、椎はそう思った。
元々絵が好きで、妹の友達が趣味で絵を描いていると聞いた時にはすぐに飛びついた。
「どんな絵を描くの?」「どのくらい描いてるの?」「男の子?」
椎から枢は質問攻めにあわされた。
ある日、初めて実際静の絵を視せてもらった時、上手や綺麗という言葉を用意していた椎は無言で立ち尽くすことしかできなかった。
『絵』というものの考え方が間違っていたとはっきり認識させられた。
分かっていたつもりだった。
『本物』
静と枢が、絵を視た椎が全然動かなくなったのを心配して声をかけようとした瞬間、やっとの思いでそう言った。
「私ね……余裕さんのこと好きだったの」
「え?」
「今日のデートの相手って、新木余裕さんでしょ?」
私は今どんな顔をしながら言ってるんだろう。
静の大きな瞳に写る自分の顔を確認しようとするが、そんなこと、できるはずがなかった。
「どうして知ってるの? あの人のこと」
そこから零れ落ちそうなほどに見開いた目。
なんて綺麗で淀みのない目をしてるんだろう。
椎は思う。
「仕事でね、知り合ったの。私の一目惚れだったの」
「私、会うのやめる!」
突然立ち上がり、部屋に響く静の大声。
椎は、先程の位置より800ミリメートル移動した瞳を必死に追う。
「聞いて、静ちゃん」
「ダメだよ! 会えない!」
「どうして?」
追いついた大きな瞳は少し歪んで見えた。
「だってしーちゃんが好きな人なんでしょ? そんな人と」
「関係ないよ……」
「関係なくない!」
「ないよ!」
静はいつも優しい声を出す椎のそんな声を初めて聞く。
「ごめんね、大きな声だして。でもね、さっき言ったでしょ、好きだった、って」
静の瞳がさらに歪んで視える。
椎は気づく、その原因が自分の瞳に溜まった涙だったんだと。
余裕を過去にしている自分に耐えられなくなっていると。
でも、この涙を流してしまったら枢にまかせなと言ったことを嘘にさせてしまう。
椎は体中に力を入れる。それは、静に負けじと見開いた瞳にも。
800ミリメートル上から見下ろすそれには明らかな迷いを含んでいた。
似合わないなぁ。
こんな目させたらだめだよね。
「本当に?」
やめてよ。
そんな大きな目でこんなことを言われたら私のほうが迷っちゃうよ。
「本当に」
静の瞳の力が少し緩む。
正直だなぁ、静ちゃんは……羨ましい。
「静ちゃんは? どこで会ったの?」
「すーちんの病院」
「そうなんだ」
椎は、急に部屋が狭くなったと感じる。
裏返されている絵の数々は、全部静が描いたもの。
それはあの時椎に本当を見せてくれた。
ここある全部が本物で。小さな画材一つ一つが静そのもので。
うん、大丈夫。私は間違ってない。
「時間は? 大丈夫なの?」
「え? ああっ! もう時間ない! どうしよう」
「大丈夫! だから私が来たの。お化粧、困ってたんでしょう」
そう言って椎は大きな箱を静に見せる。
「早速始めよっか!」
あの人に追いつこうなんて間違ってた。
今のあの人の目は、一目惚れしたときの目とは違う。
前に進もうとしてる目だった。
「ちょっと! 動いちゃだめ!」
「だって、くすぐったい!」
追いつき、追い越す。そしてまた追いつき、追い越す。
そんなことができるのは……。
「よし! 完璧!! いい感じ。可愛い」
静は椎の言葉にハッとする。
ガラスに写った自分を視て、その言葉がどんなものなのか初めて知った。
「それじゃあね。頑張って!」
静の手を強く握りしめて椎が言う。
「うん。ありがとう、しーちゃん」
化粧をしてくれたこと。そして、『可愛い』を教えてくれたお礼を静が椎に言う。
アパートを後にしてしばらく歩くと、赤信号で椎は立ち止まった。
「良かった」と口にすると、近くの信号待ちしていた人たちがそれに気づく。
思わず恥ずかし紛れに顔を挙げてしまうと、満天の青色がその目に写った。
背中に、一つ前の交差点を曲がっていく挙動不審な音を聞く。
それは椎の知らない音だった。
緊張。
余裕は、レースでもここまでしたことがなかった。
「どうすればいい。なあ」
もうすぐ着く。そのことが最上級の緊張をさらに上等なものへと変えていく。
「デートなんて久しぶりすぎて訳わかんなくなってきたぞ」
最後の交差点であるこの場所を曲がるまでのあいだ余裕は、あまりにものFDの仕上がり具合にすべての神経を使ってしまっていた。
「もう! お前のせいだ!」
制御不能の鼓動をやせ我慢でごまかす。
ついさっきまで余裕の頭には運転というイメージしかなかった。
けれど、今はまったくない。
その代わりに、あの手、あの髪、あの目、あの匂いが鮮明にイメージできてしまっていた。
「なに好きなんだろう、食べ物。話題は……絵、のことでなんとか凌いで……基本はドライブってことで……って中学生か俺は!」
言った後には、一切の息継ぎなどない正確に回るエンジン音だけが車内に残る。
人を想う。
それはどうしようもないもの。
その思いに気づき、考えたところでは意味がない。
動かなければ始まらない。
一切のストレスなく、正直に、まっすぐに向き合って。
必死なのにも気づかず。
当然動けば抵抗が生じる。
それすら楽しめる。全身全霊で。ありのままで。
新木余裕はなにもしない。
攻めも逃げもしない。
とにかくなにもしない。
経験や努力など通用しないあの世界そのもの。
「って、時間大丈夫か!? これ!」
金や時間を
「うおっ!? いいな、この加速!」
そのふたつを一緒にし、同等とし、そのうえで自分が成り立っていると思っている。
「やっぱり……いいよな、この感じ」
苦い笑いが車中に漏れる。
まるで違う。
やっぱり、なんて声にしている自分に心底失望する。
知っていたのに、分かっていたのに、だからあの世界を創れたというのに。
小さな段差にピーキーなサスペンションが即座に反応する。
カコンとダッシュボードの中から乾いた音がする。
「ああ、わかってるよ。だから今から会いに行くんだから」
捨てよう。
間違っていた思想なんて。
余裕はステアリングを握り直した。
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