第61話 心構え。

余裕は歩くのが好きだった。

現役中のトレーニングでのランニング、水泳、自転車も好きだった。

とにかく前に進むことが好きだった。


そのすべては、唯一、一心に、非日常ともいえるあの時間、空間への心構えとしていけるからだった。


静からの電話。

今朝、余裕が待ち構えていたのは脇坂からの、愛機FDの修理完了の報告のみだった。

もちろん、予測や予感でしかなかったが、それが人生経験上、培われたものだったのは間違いない。

だからこそ、あの電話は、余裕の人生史上経験のないもので、そして、予測や予感の到底通用するものでも当然なかった。


青の中にはひとつの白もなく、さっきまでの強い抵抗も止んだ。

それなのに。

「どうして……」


その独り言には様々なことが含まれていた。

どうして、携帯の番号を知っているのか?

どうして、自分に用があるのか?

どうして、そんなことをしたのか?

どうして、どうして、どうして。


あれは夢ではなかったんだという確証を得るために、疑問を繰り返しながら余裕は、脇坂がいるディーラーへと只々前に足を進めるだけだった。


「おはようございます」

「おう! って早いな、どうした?」

「自分からせっついておいてそれはないでしょう」

「でもお前、いくらなんでも早すぎるぞ。このあとなにか用事でもあるのか?」

その脇坂の質問には特段深い意味は込められていなかった。


「べ、別になんにもないですよ!」

必要以上の声量と、手をブンブンと振る動作。

「ははーん、女だな?」

茶化すように脇坂が言う。

「はあ!? んなわけないでしょう!」

さらに、声量と手の動作を余裕が強める。


まだ開店していない店の敷地内は当たり前に静まり返っている。

さらに整備の作業を行うピットは余計にそう見えた。

所狭しと動きまわるメカニックたち、酷使され荒く扱われるが、丁寧に使われている工具の音。

余裕には、残像さえ見て取れる。

だからこそ、より一層今のこの時間が特別に感じることができた。


「うわ! あれは

「だろ? !」


それは静な青だった。

冷たく熱い。

矛盾を成立させてそこに


何千、何万、何億と視てきた。

けれど、今日の色は今までで一番そう思え、感じられた。


「オーダー通り……なんですよね?」

「当たり前だ。金のない客に頼まれたメニュー以外のことをするかよ」

「……ですよね」


到底そうは思えない。

自分の車だと解っているのに、いざ目の前した時余裕は『恐怖』を覚えた。

怖い。

これの全てを当たり前に扱っていたのか。

限界などはるか彼方にふっとばすように運転していたのか。

そう思った瞬間、体が震えた。


「まあ、やったことはお前が言ったことだけだが、ただ、掛けた時間が違う。桁違いにな」

その言葉に余裕が、FDから動かせることができなくなっていた目線を脇坂にくれる。

「当たり前に、みんなそうしたよ。とくに土屋はな……。あいつの場合はほとんど寝ずにやっていた。ふっ、こんなこと言いたくないが、まるで昔の俺みたいだったよ……」


車と出会って、運転を覚えて、技術を磨いた。

そんな時の中で、余裕なりに、脇坂という人間のことはよく知っていた。

自分のことを『鬼』だと言い、口癖は「鬼かなぁ?」。

いざ作業に入れば、その形相はまさにそれで、新入りのメカになんてとても話しかけれるような雰囲気ではなかった。

けれど、余裕はそこにズカズカと踏み入っていけた。

その所業のあまりもの無防備に、脇坂も呆気にとられた。

当時からチーフだった本山も、立場上脇坂の上司になるものの、「あの人、怖いから」とチームに入ったばかりの余裕に注意を促すほどだった。


「確かに……似てるかも。あいつも車いじってる時、ますもんね」


朽木レーシングチームの中で、そのことに気づいていたのはオーナーの朽木正志だけだった。

しかし、正志も何十年という付き合いがあったからこそ脇坂のそんなところに気づけていた。

だから余裕が瞬時にそう感じ、すぐに脇坂に懐いてた時には、さすがの正志も驚いた。


か……。初めてお前が話しかけてきた時も言ってたな、「楽しそうですね」って。今となっちゃあ新木余裕というやつがどんなやつなのか知っているからなんら違和感がないが、あの時はさすがに驚いた。それに……だから、嬉しかった」


二人は話しながら近づいていた。

余裕と脇坂を繋げた存在に。

脇坂と余裕を繋げた存在に。

すべてを繋げた存在に。


「全部こいつのおかげだな」

「そうですね」

二人が笑顔で視つめる。

浅葱色というこの世界に一台しかいない存在を。


               *


「可愛い……」

もしかしたら初めてかもしれない言葉を静は口にしていた。


洗面所をこうして使うこともほとんど初めてだ。


そこには、歯ブラシに歯磨き粉。うがい用のコップだけ。


水垢だらけの鏡に自分の顔が写っている。

静は無意識にそれを手で拭う。


「絵の具で化粧ってできるっけ?」

本人はいたって本気で言っている。


「髪型は……、どうしよっか……」

どうにもならず、とりあえず両手でいてみる。

キューティクルなど皆無な手触り。静にとって普通で普段なそれが、今日はやけに違和に感じる。

「どうしてこんなのがいいんだろう……」

しばらくガサガサな髪をいじくっていたら今度は顔の表面、俗にいう『お肌』が気になりだす。

「荒れてるなぁ。なんて言ったっけ? すーちんの家に泊まりに行った時になんか瓶に入ったいい匂いのする水、バシャバシャ顔にかけられたあれ」

以前遠明寺家にお泊りした時、遠明寺姉妹に二人がかりで




『シズ、あんたほんとになんにもしてないの』

『ね! 信じられない』

『もったいないよなぁー、ちゃんとしたらあたしらと五分までとはいかないけど、かなりいい線いけると思うんだよね』

『静ちゃん化粧は?』

『なにいってんの姉貴。こいつがそんなことするわけないって』

『ふーん。でも、いつも思ってたけど、静ちゃんっていい匂いするよね』

『そうそう!』

『なんていうのかな、枢が言う感じじゃ香水なんてふってないだろうし、そんな匂いしないし……太陽の匂いって感じ?』

『猫じゃん。姉貴、それじゃ猫じゃん』

『あははっ、そうそう、静ちゃんって猫っぽいよね!』

『そうだ! 猫! 猫っぽいメイクしてみようよ!』

『いいわね、それ!』

そこからは静の有無を言わさず遠明寺姉妹による改造が行われた。

スキンケアから始まり、ベースメイク、二人の持ちうるすべての道具を使ったフルメイク。

されている間、静は無駄なく、迷いなく動く二人を視て、『凄い』と思った。

自分ができないことをあたりまえにやる二人のことを、同じ人間だとは到底思えなかった。

けれどたまに、絵を描く時にする行動とかぶる時がある。

それは静に安堵感を与えると同時に、少し嫌な気持ちにもさせた。




「結局あれから一回も化粧もなんてしなかったなあ」


すでに鏡の前に立って小一時間経ってしまっていた。


しんとした空気はより一層熱を薄める。元々あったそれが一体どこに移動してしまったのかと思えるほどに。

音色も無い。

ただ、一向にスピードを緩める気のない心臓の鼓動だけが、波色になって静に認識させる。


静は悩んでいた。

『どうやって化粧しよう?』と。

それはもう『する』と決めている。

でも、やり方が分からない。

静は困る。

いつもならスムーズに誰かに頼るのに、そうしたくないと思ってしまっていたからだ。

「あのときみたいに強引にやってもらえればいいのに……」


コンコンコン。


その音に静は、自分の思っていた以上に飛び跳ねてしまい、着地時に足を滑らせる。

受け身を取れず、バスマットなど敷いていない樹脂素材の僅かなクッション性しかもっていない床に、ドンっ! と派手に音を立て体を打ちつける。


「いったーーー!」


ドンドンドン!

さっきと違って強く玄関の扉を叩く音。


偶然目の前に落ちた携帯で時間を確かめる。


「まだお昼じゃない……よね」


『大丈夫!? 静ちゃん!』

外から聞こえた声に静はさらに驚く。


「なんでしーちゃんが?」

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