第60話 一歩。

電話はいつも突然鳴る。


けれど余裕はすでに携帯電話を手にしていた。

折りたたみ式の携帯電話を開き、ディスプレイに表示された着信相手をぼやけた視界で確認しながら応答する。


「もう治ったんですか?」

「――ああ。ついさっきな」

「……あいかわらず早いですね」

「そう思うなら早く取りこい」

そこで電話が切れた。


目を軽く何の気なしにこすると、はっきりした視界に、部屋に不釣合な絵が見て取れる。

「これ、売ったらいくらになるんだ?」


四季との別れ際、余裕は一枚の絵をもらっていた。


『これあなたにあげる。題名は……そうね、蒼月あおつきとでもしようかしら。部屋にでも飾ってちょうだい』

と言われ、狭いベイロンの車内の一体どこから出したのか、余裕の目見当で縦50センチメートル、横80センチメートルくらいの大きさの絵を半ば強制的に渡された。

四季の泊まるホテルの前で運転席から降ろされ、自宅に着くまでの間、そこそこの恥ずかしさを味わいながらも、意外にも、『絵』をもらったということの嬉しさがそれを凌駕した。


「蒼月ねぇ……。この色ってもしかして」

着替えながらも、余裕は四季の描いた絵から目を外せないでいた。


その時、もう一度着信音が鳴り響く。


「まだ着替えてる途中だって。急かすなよ」

言いながら開きっぱなしのままだった画面をとくに確認することなく電話に出る。


「なんですか! いま着替えてる途中なんで!!」

「え!? ええっと、あの、私、荒木、静です……憶えてます?」

「はえ!?」

思わず余裕は素っ頓狂な声をあげる。


「え? あ、えっと、あーっと、荒木、静……さん?」

「はい。この前、啓介くんのアパートで、というか、私そこの二階に住んでるんですけど」

「憶えてます、憶えてます! あのショートヘアの可愛い子だよね? 目の大きな」

「!」

電話越しに、息を呑んだ音が聞こえた。

一瞬の沈黙。

余裕は自分が何を言ったのか、そこで気づく。

「!」

自分の息を呑んだ音がはっきり聞こえた。


「って、どうして俺の番号知ってるの?」

「あ、それはですね」

「ちょ、ちょっと待って! ごめん! 俺今から行かなきゃいけないとこあって」

「えっ? そうなんですか……じゃあ、今度の機会に」


これでも、37年生きてきた。

だから分かる。

この機を逃してはいけないと。

本能で。

経験で。

それに、勘で。

そうしなくちゃいけないと、強く感じ、信じれる。


「そのあと……ええっと」

余裕は必死に逆算する。

「昼、昼ごはん食べながらは? どう?」

脳の機能をすべて計算に費やした結果。それが、デートの誘い文句になっているなんてことには余裕自身が気付けるはずがなかった。


「迎えにいくよ。アパートまで。大丈夫?」


外がやけに静だ。

日曜の朝は、近所の子供がたちがわーキャーと騒ぎながら走り去っていく音や、井戸端会議の笑い声、なにかしらの作業音、そんな雑音がそこらじゅうから聞こえてくるのに。

今日はどうしてか聞こえてこない。

聞こえてくるのは、自分の声と電話越しの声だけだ。


「いいんですか? お願いしても」

遠慮というよりは、心配しているような声だった。

「全然! じゃ迎えにいくから!」

無意識に余裕の声が弾む。

「はい、お願いします」

そう言って静が電話を切った。


「……あれ?」

余裕は着ようとしていた服を着ていなかった。

「どうしてこれ着てるんだ?」

今日はこの前と違って、ただ預けていた車を取りに行くだけ。

脇坂や土屋、みんなが完璧な仕事をしてくれている。手伝いなんてすることはない。

「でも、これのほうがいいな!」


身支度を終え、余裕は玄関を開け一歩踏み出す。

「さっむっ!」

ここ最近一気に気温が下がり始めた。


遠くから近所の子供たちが、この寒さを吹き飛ばすように、わーキャーとはしゃぐ声が聞こえてくる。

「さてさて、どんな感じに仕上げてくれたんだろう……か」


少し歩くと井戸端会議を盛大に開いていた顔見知りに、「あら? 今日仕事?」と声をかけられる。

「おはようございます! いえ、ちょっと野暮用で」

そう答えながら通りすぎると、野暮用なんて久しぶりに聞いたわ、と背中に笑い声が聞こえた。

つられて、余裕の口角も上がる。


「あれ? 車変えたんだ」

かじかんだ両手に鞭打つようにして、以前のセダンタイプからミニバンタイプに買い替えた新しい愛車の洗車を一生懸命にする夫婦が、二人ともニヤニヤしながら両手を泡だらけにしている。

その泡が玉になって余裕の前を横切る。

透明で、虹色のそれが、からっ風にさらわれて天高く舞い上がっていく。


「あれって、デートの申し込みだったよな」


もう寒さは感じない。

そうまでさせているのもがなんのなのか余裕は考える。

考えたが、頭に浮かんだいくつかの理由すべてがそうのように感じて、笑うしかなかった。


               *


「あ、枢。今日会うことになったよ」

『そう。どこで? まさか部屋でじゃないでしょうね?』

「違うよ、外。昼ごはんでもって誘われた」

『ふーん……デートってわけね。まあ部屋で会うんじゃなければ大丈夫ね』

「あ、でも、うちには来るよ、余裕さん」

『はあ!? どういうこと? なんであの男があんたのアパートの場所知ってんのよ?』

「ええっと……まあ色々あって……」

『な!? ……まあいいわ、今度説明してもらうから。それで、目はどう? まだそのまま?』

「うん。灰色」

『そっか……。静がやるって決めたことにあたしが色々いうのも違うだろうけど、波さんと四季さんからだってこともあるからね。正直、あたしはまだ納得してないし』

「ええー、だってそれは、枢が私に教えたくなかったんなら教えなくてもいいっていう権利を波さんから託されたわけでしょ?」

『まあ、ね。そうだけど……』


枢は、波からすべて聞いていた。

実際は四季から聞いたということで、又聞きということになり、波が解釈し彼女なりに要約したものを聞いていた。

波が始めにそう言い、『天才のいうことをそのまま伝えたら混乱するだろう?』と深く頷ける理由を聞いたからこそ鵜呑みすることを枢は決めた。


「『灰色の世界』っていうんでしょ、これ」

『みたいよ。あの男が言うには』




四季が経験したものをそのまま聞いた波が、一体どんなふうに聞かされたのか想像しただけで枢は顔が歪んだ。

『なんでも、それは新木余裕が自分で作った世界らしい。普通は……まあ、こんな話で普通もなにもないが……普通は『白色の世界』に入ってしまうのを、その男が嫌って、抗った結果、灰色になったみたいだ。まあ、その男もまた天才だということだろうけど……多分』

そういった後、波は目を瞑り呆れたように半笑いで首を左右に振った。




『天才ってめんどくさいって改めて認識したわ』

ぼそっと枢が声を漏らす。

「え? なに?」

『なんでもないわよ!』

「なんで怒るの? 私、なにも言ってないじゃん!」

困った声を静が出す。

『……あんた何浮かれてんの。もしかして、嬉しい……とか思ってんじゃないでしょうね?』

「な!? なに言ってんの枢! どうして私が嬉しくなんてならなくちゃいけないの?」

『……それ。それがもうそうだって言ってんの』


部屋に置いている裏返したままのキャンバス。

区別することができないように置いているそれらを、灰色はさらに分からなくさせる。

キャンバスに描かれている絵たちはすべて未完成。

描ききれていない絵には色が無く、無価値とも言える。

けれど、その風景が今静には、何かが起こる前のしずけさのように感じ、期待という感情が生まれるまでになっていた。

未完が、予感になっていた。


嬉しい。

あの人に会うことが。

不安。

この目が治るのか。

期待。

そのどちらも。


「でもどうして四季さんは直接私に言わなかったんだろう」

『それはあんた……』


静の疑問の答えを枢は知っていた。

同じ人種では成立しないからだと。

波と枢が会い、四季と静のことを話した。

それが、四季と波の関係と、静と枢の関係が違っていることを波が見抜き、見事にも、枢が自分と違った人種だと波が判断したことで、今のこの状況を生んだ。

枢自身、波との口喧嘩をしたことでそのことに気づき、初めて意識するようになった。


『仲間と友達』

その違いに。


『ねえ静』

「なに?」

『元に戻さない?』

「なにを?」

『――呼び方。『シズ』『すーちん』に。あたしから言い出したことだから、あんたが嫌だっていうならそのまんまでいいんだけど』

枢が弱さをみせる。

でも、それは、強い意思から発生したものだ。


「やっぱり! だよねー。私ずっと気をつけてたからめんどくさくて! 戻そう、戻そう!」

電話越しに聞こえる静の弾んだ声は、到底間接的だとは思えないくらい大音量で枢の耳に届く。


『……だよね』

枢は静に今の自分の状態を気づかれないように言う。


「ねえ、

『なに、

「ありがとう」

静は枢が今どんな顔をしているのか分かっているように言う。

『――なに言ってんのよ……お礼ならあんたの目が治ってからでしょ』

「えへへ、そうだね!」

『なにそれ、あんたやっぱり浮かれてるでしょ』

枢はそう言い切って電話を切った。


「へへへ、なんか変な感じ。いつもと逆だ、えへへ」

静はしばらく電話を離さなかった。

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