第58話 大人。
「なるほど……そうきたか」
波は目の前に現れた人物に言う。
「あいつじゃ役不足ですから」
枢は目の前でふてぶてしく座る人物に言う。
ドアの向こうからは微かに派手な音楽が聞こえている。
「趣味ですか?」
枢はドアを背中にしたまま親指で指す。
「ああ。悪いか?」
波が、組んだ足をこれ見よがしに組み替える。
「いいえ。趣味は個人の勝手ですから。――でも、あれはないでしょう」
ほんの少し枢が感情あらわにする。
当然、波がそのことを見落とすわけがなく、微笑を強める。
「掛けたらどうだ? 枢先生」
腕組みを解き、部屋に二脚しかない、テーブルを挟んで向かい合わせに置かれたカウンターチェアに手のひらを向ける。
枢と波がいるこの場所、つまりは、地図に指定された場所は、『クラブ』だった。
ハウスやトランス、EDМと呼ばれるダンスミュージックが途切れること無く大音量で流れ続け、薄暗い空間に様々な色の光線が飛び交い、所狭しと男女が入り乱れて狂ったように踊りはしゃぐ。
そんなところのVIP部屋。限られた人間だけが出入りできる場所に枢は来てしまっていた。
「失礼します」
枢は、緊張を悟られないように所作に気をつけながらカウンターチェアに座る。
「ぷっ! そんなに緊張しなくてもいいぞ。もしかして、こういうところに来たのは初めてか?」
波が、この場所に馴染む、はずんだ声を出す。
慣れない椅子に手間取っていたことで、波から顔を外していたことが功を奏した。
波にすべて見透かされていたことを知って、体中が熱くなってしまっていることに気づく。
枢は椅子に座れたあとも、顔をあげることができず黙るしかない。
「飲み物は?」
何事もなかったように波が枢に聞く。
「……ウーロン茶で」
かろうじてその質問に答える。
それを聞いて波が人差し指でコンコンと2回テーブルを鳴らす。
すると、枢が唯一だと思っていたここに入ってきたドアとは別の、もう一つのドアが開きウェイターが入ってきた。
「ウーロン。と、私は同じものを」
その隙に枢はやっと波の顔を盗み見ることができた。
頬が紅潮している。額に微かな発汗、すでに何杯か酒を飲んでいるのだろう。
と、診断したことで気持ちを落ち着かせる。
「枢先生は、鈴鹿四季と直接会ったことは?」
「一度、ギャラリーで」
「どんな印象だった?」
「好きなタイプではないですね」
それを聞いて波が目を丸くする。
「ほほう、興味深いね。あんなでも人当たりは良いほうだと私的には思っているからね。意外だ、四季がなにかしたのか?」
「別に……」
気まずい雰囲気を作ってしまったと枢は後悔する。
そこで、「失礼します」とウェイターが部屋に入ってきた。
テーブルの上に丁寧に二つの中身の入ったグラスを置くと、再度「失礼しました」と言って例のドアから出ていった。
「それじゃ、乾杯といこうか」と、波がグラスを枢に差し出し、傾ける。
言われるがままグラスを合わせる。
カーンという甲高い音は、まるでゴングのように部屋に響いた。
「枢先生は鈴鹿四季の絵をどう視る?」
先制パンチは波が打った。
「……素晴らしい、と思います」
「お前。私がキュレーターだということを分かっていて、そんなことを言っているんだろうな?」
厳しい物言いにもかかわらず、一切表情を変えない波。だからこそ、その言葉に込められた覇気が強調された。
突然の「お前」呼ばわり。
ウーロン茶を一口飲んだことで溶けかかっていた緊張が今日いちでぶり返す。
「まあいい。なら、荒木静の絵は、どう視る?」
立て続けの質問は枢のメンタルをボコボコにする。
唇が震えているのが分かる。
どんな返しも通用する気がしない。
いつもなら即答する。「世界でいちばん」だと。
それがどれだけ無責任で、いい加減な発言だったと。
怖気づいてしまっている。
情けない。
医者という世間的にも認められる職業に就き、自分は自立した大人の女性だといつの間にかいい気になっていた。
なにが「あいつじゃ役不足」だ。
こんなじゃ、まだ静のド天然のほうがやり返せていた。
「ふぅ、がっかりだ。私の買いかぶりだったみたいだな」
今にも泣き出してしまいそうになっている枢に波が追い打ちをかける。
「そんな心構えで私に会おうなんて、見くびられたもんだ。お前、今日ここに一体何をしに来たんだ?」
……あれ?
どうしてだろう?
助けたいという気持ちはあった。
けど、ここに来る理由なんて考えてなかった。
ただあいつよりあたしが行くべきだと、自然にそう思いついた。
ぐちゃぐちゃになりかけていたメンタルがポコポコと元に戻っていく音が聞こえてくる。
思い出した。
無頓着で無神経で無鉄砲。
あたしは昔そうだった。
静と親友になれたのはだからだ。
『頭よりも先に体が動く』
唯一の共通点だ。
どうして今の今まで忘れてたの?
枢は自分の口角が上がっていることに気づく。
そうだ。
本当のあたしはバカで、子供だ。
あいつと同じ。いいや、それ以上だ。
『なら私は大人にならなくてもいい!』
「ぷっ。く、くくくっ」
そうそう。そうだ。
静が『大人にならなくてもいい』なら、あたしは『子供のまま』だ!
それでいい!
「すいませんでした。改めて答えさせてください」
今日初めて、枢が波と目を合わせた。
「静の、荒木静の描く絵は未来永劫残る大天才の絵です!」
満面の笑顔。その目から涙が一粒落ちる。
それを見た波が驚愕の表情を浮かべる。
――まるで宇宙人でも視ているかのように。
「ここのオーナーって日本でも有名な絵画コレクターの方ですよね?」と突然、枢が波に聞く。
「ん!? あ、ああ。知ってたのか?」
「この建物、というか、ここのオーナーは遠明寺建設の顧客です。ここへはプレオープンの時に一度きました。その時に二、三喋ったくらいですが。ここ以外にも、商業施設やホテル経営もしてますよね? そのどれもウチで建てましたから」
あからさまな雰囲気の豹変にぶりに、波は「そうだったのか」と答えることしかできない。
「ああ、そうでした。鈴鹿四季の絵についても答えてませんでしたね」
目線を外させまいと言わんばかりに枢は続ける。
「すいません、興味なしです。例え世界中が評価しても、あたしには一銭の価値もありません。そういう波さんはどうなんですか? キュレーターという立場から、鈴鹿四季と荒木静の絵について」
ウーロン茶を一気に飲み干し、枢が受け身の体勢を作る。
おほん! と波が咳払いをする。
その瞬間、人差し指でコンコンと2回テーブルを鳴らし、「すいませーん! ウーロン茶おかわりお願いします!」と枢が声を張り上げる。
困惑気味ではあるものの、ウェイターがシルバーのトレイにウーロン茶の入ったグラスを載せ運んできた。
「……いいか?」
ほんの少し波が感情をあらわにする。
「どうぞ」
当然、枢がそのことを見落とすわけがなく、微笑を強める。
「まず鈴鹿四季の絵についてだが。問答無用、無敵だ」
目に力を込めたことが枢に伝わる。
「次に、荒木静の絵だが、正直未知数だ。というか、私には評価しかねる。間違いなく四季の地盤を揺るがすことになる存在ではある。個展で彼女の描いた絵はそれだけのものだった。ところで、枢先生はキュレーターという職業がどんなものか知っているか?」
その言葉には一切覇気はなく、ただの質問として聞いていた。
「ええ、知ってます。でも、波さんが何に特化したキュレーターということまでは知り得ません」
「ふーん。なるほど、そうか。なら教えてやる。私にとってキュレーターとは、研究者だということだ」
「論文を書いて、発表する、ということですか?」
「ああ、そしてもちろん対象は鈴鹿四季だ」
「かなり個人的な感じですね……なるほど、だからキュレーターというわけですか」
「そういうことだ。だからさっき言った枢先生の個人的な答えとは桁違いに重さが違う。言っている意味がお前なら理解できるだろう?」
そう言って、グラスに残っていたカクテルを波が一気に飲み干す。
確かに、間違いなく、軽い。
枢が静に、画家・荒木静にしてやれていることは以前住んでいたマンションの一室をギャラリーとして貸しているくらいだ。
仕事が忙しくなれば、静や椎に店番を任せてしまうことも多々あった。
『ああ、今日ここにあたしが来てよかった』
枢は波に会いにきた理由を見つける。
「そうそう、ここでの注文は最初だけ。あとは自腹だから」と波が口走る。
コンコンと2回テーブルを人差し指で鳴らす音が部屋に響く。
けれど、それは同時に同じ二つの音が重なった音だった。
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