第57話 枢

「ちょっと! 誰? なんであんたがあんな格好良い人と知り合いなの!?」

静に耳打ちした枢のその声は、質問してはいるが、もうほとんど怒っていた。


「勤務中申し訳ありません。私、キュレーターをしている筑波波という者です。静さんとは今回の鈴鹿四季の個展で知り合いまして、今日は、四季の伝言を司ってお邪魔させていただきました」

そう何度も見てきたわけではないが、その中でも一番綺麗で、丁寧なお辞儀を波が披露する。


「波さん、四季さんからの伝言て?」

枢と波のやり取りを完全無視して静が聞く。


「お前なぁ、私がこうして仕事を全うしようとしてるのに邪魔するなよ」

そう言いながらも、上着の内ポケットから一枚紙を取り出す。

「っと、その前にだ。今回の個展でのことについて言いたいことがある」

そこまで言って、紙を取り出したことで乱れた格好を正す。

「二人とも周知の事実と認識していると思うが。あの騒ぎで、荒木静の名前は一気に業界に広まった。当日は、何人かのプロの画家、私と同じキュレーター、そんな連中が国内外問わず何十人もあそこに来ててな、お前と四季のやったあれでもちきりだ。全く。キュレーターという立場から言わせてもらえば、今回の四季の個展は失敗だ。あーあ、どう落とし前つけてくれるんだぁ?」

困っている表情をしながらまるで用意してきたように長々と話すそれが、明らかな演技だということはすぐに二人にも分かった。


「落とし前ですか……」

と、波の言い分に枢が乗る。


「そうだ。お前らもいい大人だろう? 自分のケツは自分で拭けるよな」

今度は怒った表情を作ってはいるが、もはや、こらえようとしている笑いに必死で耐えているのが一目瞭然だ。

その二人の掛け合いを見て、静はどっちなのか分からなくなってくる。


「もちろん! こいつが全責任を負いますのでご心配には及びません」

そう言うと枢が、半身状態だった静の両肩をガッと掴み、慣れた手付きでグルっと回転椅子を回し、波としっかり向き合うようにする。

「おお、そうかそうか、なら話は早い。積もった話は枢先生の邪魔になる。今晩私に付き合え。それで勘弁してやる!」

有無を言わさず言い放つと、波は取り出した紙と名刺を診療用のベッド上に置き、さっそうと帰っていった。


「……ちょっと。どうして波さんの肩を枢が持つの」

「しょうがないでしょ! それがあの人の狙いだったんだから」

「狙いって?」

「あんたも最初から気づいてたでしょ? あのあからさまな演技」

「うん」

「引っかかりを作りにきたってこと」

枢は見当はつけていた。


「あの人、鈴鹿四季と親しいの?」

「うん。四季さんが同じ絵画教室に通ってたって言ってた。あっ、あと『なっちゃん』って呼んでる。波さんのこと」

「ふーん。ということは、かなり親しいってことよね……。そんな人が静のことを誘うってことは、間違いなく『絵』関係よね……。波さんも静が今どんな状態なのかは知ってるんだよね?」

「……うん、知ってる」

枢がそこから少し黙り込む。


四季との絵の勝負が、静をこんな状態にした。

だからといって、四季や波に責任は全くない。

業界が、静のことで騒いでいることは、今朝掛かって来た電話に不意に出てしまった内容を皮切りに、ずっと震えっぱなしになっている携帯が物語っている。


「ねえ、枢。これって、治る?」

突然確信を突かれ、反射的に静の顔を見る。

内容のわりに不安そうな表情ではない。けれど、静のことを近くでずっと視てきた枢からすれば、弱気な発言を静がしているという、ほとんど初めてのようなことに対して自分が答えられないということを悔いることしかできない事実が重くのしかかり、苛立つ。


「ごめん、今のあたしじゃ分からない……ということしか分からない」

「なんで謝るの? らしくないよ」

「なんで……どこがらしくないってゆうのよ」

「だって、枢なら治してくれるじゃん。 いつだってそうしてくれてたじゃん。これだって」

静は、利き腕である包帯が巻かれた右手首を左手で持ち上げるようにして枢に視せる。

その静のした行動の無責任さに枢は腹が立つ。

「はあ!? あんたねぇ、医者にだって治せない病気や怪我だってあるんだから! 無理なもんは無理なの!」

診察室での大声という非常識なことよりも、その内容が耳に残る。

「さっき波さんだって言ってたでしょ! あたしたちはもういい大人なの! 静もこれから画家としてやってくんだから、少しはちゃんとしなさいよ!」

部屋中に轟いた枢の言葉が壁に吸い込まれる。

吐き出した枢自身、言いながらも、もうその内容を聞くことをやめていた。

けれど、吸い込んだ壁にはまるで、自分の言った言葉が一言一句、文字として浮き上がっているように視えた。


「なら私は大人になんてならなくていい!」

その目には涙が溜まっていた。

必死にそれを押さえる静が、更に必死に枢の瞳を強く視詰める。


認めるしかなかった。

治るの? と聞かれ、分からないと答えたこと。

だから、謝ったこと。

その悔しさで、無理だと言ってしまったこと。

そのどれもが、諦め、逃げていたこと。


『枢なら治してくれるじゃん。 いつだってそうしてくれてたじゃん』

こうだった。

こいつは昔っからこうだった。

話かけられれば答えるし、困ったことがあれば友人を頼ったりした。


常人であり、奇人なやつ。

自然体で、真っ黒。いや、今は灰色か。

矛盾をはらんだやつ。


こいつに関係した人間はそれぞれ様々な思いを抱いた。

そして、その思い全てに、大いなる親しみを込めた。


でも、それはこいつも……静も一緒だったんだ。


『絵』のことになれば静はいつでも正直で、まっすぐで……

全身全霊で荒木 静だった。


ある。

あたしにはまだやれることが、ある。

治せないだったら助ける。

簡単なことじゃない!

そうよ。簡単よ。


「あたしが会うわ」

「え?」

「波さんとはあたしが会うっつってんの」

枢は立ち上がり、波の置いていった紙と名刺を手に取る。


「でも、波さんは私に用があるんじゃ」


よかった見せなくて。

枢は小さく息を吐く。

波の置いていった紙には地図が書かれていた。


「静じゃ無理よ」

「ええ!? どうして?」

「当たり前でしょ! 大人にならなくてもいいなんて甘っちょろい考えのあんたじゃ、あの大人ど真ん中の波さんと対等にやれるはずがないに決まってるわ」


そこは、枢が一度だけ行ったことのある場所だった。

「本気ね、これ」

あまりしたことのない独り言を枢がした。

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