第56話 『灰色の世界』

1つ目の左コーナー。

二度と経験することのない進入速度。

目の前の白色が一気に濃さを増す。


四季は記憶を辿る。


何度か経験がある。

けれど、あれはもっとぼんやりしていて、実感が薄い、刹那的なもの。

こうやって、はっきりと認識したり、脳内に記憶するまでには至らなかった。


全身に力を入れたことで体が硬直している。

瞳孔が開き、瞬きさえ忘れ、今自分の視ているものがなんなのか考え始める。


始めから白いはずのグシャグシャになったガードレールが視界に入る。


体感速度はゆっくりのまま。

しかし、次第に近づく生死の境界線のような物体には、はっきりと恐怖を持ち合わせることができた。


でも、怖くない。

自分の横にいる、この初対面の男に絶対的な信頼が持てているからだ。と四季は気づく。

「まだ大丈夫ですか?」

まだ……?

どういう意味なんだろう。と思いながらも四季はゆっくり頷く。

「ここからは四季さんに構うことができなくなります。もし、どうしようもなくなったら、深呼吸を何度もして、無理矢理にでも体を動かしてください。あと……」

そこからは、余裕の口が動いていることだけしか四季には認識できなくなっていった。


途端に苦しくなる。

息ができない。

自分で込めたはずの体中の力を抜くことができない。


長く居すぎたからだ。

『白色の世界』は異常な空間。


タイヤの焦げた匂いがしない。

口に入った脂汗の味がしない。

シートベルトが体に食い込む痛みがない。

唯一聞こえていた余裕の声がもう聞こえない。

そして、白い世界。

もはや、それだけが頼りだと、四季は感じる。


「グリリッ!」

獣の鳴き声のような音が突然聞こえた。

四季は助けを求めるように音のした方向に目線だけを向ける。


そこには、『灰色』の塊があった。

明らかに歯を食いしばっているのがわかる。

口元からはよだれが流れ、滴り落ちている。

異常な発汗と、こめかみに浮かび上がっている血管。


そこにはさっきまで余裕にんげんがいたはずだった。


余裕の指示通りに、深呼吸を繰り返し、自分で入れた力によって自由の効かなくなった体をなんとかして動かそうと試みる。


「グテテッ!」

二度目の鳴き声が四季の耳にとどく。

視線の先にあったはずのグシャグシャな境界線はいつの間にか消えていた。


なにか喋っている?

すぐ横の灰色の塊が、私になにか伝えようとしているの?

「ガ……き……テ!」

何?

なんて言おうとしているの?

「が……キ……て……ク……ダ……さい!」

分からない、聞き取れない!

「か……い……て……く……だ……さい!」


その時だった。

灰色の塊が一本の線となった。


『線』

私ならこの線を紡ぐことができる。

四季は左腕を伸ばし灰色の線を手に取る。


「動く!?」

四季は自分の声を聞く。


「息ができる!」


すぐに宙に浮いたままの灰色の線を有るべき場所に戻そうとする。

まるで、空中に絵を描くようにして。

一切のブレはなく。一寸の狂いもなく。

元からあったもののかたちを灰色の線によって描く。

「難しい……揺れる……狹い」

その弱気な発言とは裏腹に、正確な線を四季は描き続ける。


「もうシートベルト邪魔! 汗が口に入ってきて気持ち悪い! なにこのゴムが溶けたような匂いは!」


ドン!!

突然重力が消滅する。


振動音が消え、シートベルトの呪縛が解けた。

この瞬間に絵を完成させろ、と音がする。


モノクロームな世界。

線を紡ぎ終え、輪郭を完成させる。

その感触は不思議で、気持ちのいいものだった。


「これって」

「もう大丈夫そうですね?」

運転席の余裕が確認するために聞いてくる。


「俺のことどう視えてます?」

「――灰色……?」

四季の答えに、ニコッと余裕が笑いかけた。


「でも、まだ灰色のままよ!」

「ああ、それなら大丈夫です。もう終わりですから」

そう言うと、余裕が窓をコンコンとノックするように軽く小突く。

「外、視てみてください」

言われるままに、四季は自分のほうの窓に目をやる。


木々が線となって流れている。

シートベルトの食い込みがなくなり、背中はシートにゆったりともたれ掛けれている。

疲れた顔がガラスに反射して、それが、自分の顔だと分かるまでしばらくかかった。


「色が……もどってる」

自分の心臓の音が耳にまで届く。


喉が渇いた。

体がダルい。

呼吸がしづらい。

でも、だから生きてる。


「すいませんでした」

ベイロンのスピードメーターの針が数ミリ回ったところで止まっている。

「あと、ありがとうございます。助かりました」


勝手に誤り、勝手に礼を言われたことに、四季は全く追いつけない。


「正直危なかったです。俺ひとりだったら多分、また……」

そこで余裕が言葉に詰まる。

「また、なに?」

四季に聞かれ、自分が今から何を言おうとしていたのだろうと思い留まる。


「麓まで下ったところに自販機があります。そこでゆっくり説明します」

「……分かったわ」


心地の良い風が肌に触れる。

余裕が、運転席、助手席、両方の窓を全開にしたからだ。

疲れ果てた体が、その風を一身に受け、取り込んでいく。


なんだろう、この感覚は。

息ができなくなって、体が動かなくなって、音までも奪われた。

ついさっきまで、そんなに居たというのに、恐怖や、違和感が全くない。

落ち着き払っていて、視界はここに来るまでとは比べ物にならないほど広く見渡せている。

「今ならどんな絵でも描けそう」

四季の言葉は、そのまま、正直な気持ちそのものだった。


街灯が一切ない山道を、来た時同様黙ったままの二人を乗せたベイロンが下る。


真っ暗闇の中に小さな明かりが見える。

ヘッドライトがそれを捉えるまで自販機だと分からなかった。


余裕が自販機を正面にしてベイロンを停めた。

コーヒー、紅茶、炭酸、果汁成分の少ないジュース類。

それらがカラフルに並び、チカチカと購入ボタンが赤、青と点滅している。


「なににします?」

「うーん、じゃあ、紅茶」

「ふっ。なんか、らしいですね」

「そういうあなたは? なににするの?」

「決まってます。男は黙ってブラックです」

ガタン。という音が二回二人だけの世界に響く。


「ふー。どこから言っていこう」

コーヒーの匂いがする。

「どこからでも構わないけど、できれば簡単に説明してもらえるかしら」

紅茶の匂いがそこに混ざった。


「そういうことなら……。白色の世界は記憶を奪います」

「……そうね」

「白色の世界に入るというのは、集中というものの一つ上のようなものだと思ってください」

「ええ」

「記憶を奪うと言いましたけど、それは、無意識に白色の世界に入り、強制的に出されたことで起こります」

余裕はそこで一口コーヒーを飲む。


「でも、あの世界に入ると何度か経験していると思い出す。そして、これはだと思う」

そこまで言って、余裕は頭をばさばさと掻く。


「普通、自分の意思であの世界には入れません。というか、そうでなければ意味がないんです。でも、俺は入ることができるんです。いつでも、好きな時に」

余裕が、残りを一気に飲み干し、ガコっと缶を変形させた。


「!」

四季が一瞬息を呑む。

怒りのような、苦しみのような。余裕がそのどれでもない表情をした。

四季はその顔を視ていられないと顔を背けようとする。

拒絶、否定、抵抗。

そのすべてで頭の中がいっぱいになる。

恐い、危ない、逃げたい。

それらが心をいっぱいにする。

けど、できない。


「余裕さん。あなたは、あの白色の世界の記憶が残ったということなの? 今の私みたいに……」

震えながらも四季がそう言えたのは、相手よりも自分のほうが長い時間を生きてきたという自負するプライドがあったからだった。


「ええ、初めて経験した時からです……。――すいませんでした!」

突然深く頭を下げ、余裕が謝る。

「四季さんが白色の世界の記憶が残るかどうか試しました。本当にすいません!」

頭を下げたままで、もう一度謝る。

「あ! でも、だからといって、四季さんがこれから自由にあの世界に出入りできるようにはならないと思います」

姿勢はそのままで、顔だけを四季に向けて余裕が言う。

「でしょうね。入り方を知りませんから。それに、あんな苦しいところ自分から進んで入ろうとは思いませんわ……!」

そこまで言って四季は自分の口を手で押さえる。


だとしたら。

この人は、今まで何回、あの思い出しただけでも苦しい世界に入ったのだろう……。

四季は、自由自在という言葉に初めて悪い印象を持つ。

ほとんど反則のような力。

けれどそれは、感覚が鈍り、息もできない、体も動かせない、世界。


「ん?」

でも、動かせた。

息ができた。

あの『灰色』の塊が視えた瞬間から。


「そういうこと……。あの、灰色があなたの答えということなのね」

「はい。四季さんのおかげで『灰色の世界』が正解だと証明できました」


余裕は確証が欲しかった。

白色の世界と灰色の世界が違うものだということに。

普通ではないことを、普通だと思えるなんてどうしてできる?

「あれは……俺の世界です。俺が作った世界。拒絶して否定して抵抗して、やっと描けた、知らない世界」

顔を夜空へとまっすぐに向けながら言うその顔には、青緑色の月光だけが降り注いでいた。


「だから、驚いたんです。」

余裕が四季を視つめる。

「彼女が『灰色の世界』を描いていたことに」

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