第54話 子供。
大きい。
広い。
深い、空間。
「確か、『余裕』は英語で『room』……でしたわね」
「ええ。そうです。よく知ってますね」
「こう見えても一応世界各地を回ってますから……」
四季は正体不明な違和感のようなものを感じていた。
『room』と英訳したのは当てずっぽうの勘でしかなかった。
もちろん、ある程度の予備知識があっての発言ではあった。が、目の前の存在の印象がその名称を口にさせていたのは確かだった。
「ドライバーと仰ったのは? どういうことですの?」
「ああ、でもその前に……」
「静さんの身内の方ではないのでしょう、あなた」
「分かったんなら出ませんか? この場所は俺にはちょっとキツイというか、疲れるというか……それに、あの子の部屋に勝手に上がってしまっているんですから」
余裕が胸、それも心臓辺りを強く抑えながら言う。
「? 分かりました。確かにこのままではあなただけが不法侵入者とされる可能性がありますからね」
そう言うと四季は、持っていた絵を丁寧に元の位置に戻し、「行きましょうか」と会った時とまったく同じの鋭い目をくれた。
カンカンカンと、階段を降りる二つの音が黄昏時のひんやりとして空気を揺らす。
「あなた、ではないですね。余裕さん、免許証は持ってらっしゃる?」
階段を降りきる直前で前を歩いていた四季が振り返り余裕に聞いてきた。
「持ってますけど、俺、ここまでは走ってきたんで」
それを聞いて四季がニッと、口角を上げる。
「私の車でよければ運転頼めるかしら? 駅前のホテルまで。ドライバーさん」
四季の表情が無邪気な少女の笑顔に変わる。
「別に構いませんけど……」
『どうせ、どっかの高級車だろう。それも外車の』と、ならではな車差別(?)をする。
二つの不思議な違和感だらけの影が、殺風景な風景に溶け込む。
「え? これ……ですか? 乗ってきたやつって」
「そうよ。なにか文句でもあるのかしら?」
「……」
度肝抜かれる。
というものを余裕は初めて実感する。
高級車ではあった。
しかも、超弩級の……。
外車でもあった。
それも、超希少な……。
「はじめて実物見た」
「え? あなた、この車の価値が分かるの?」
もはや少女ではなく、少年だ。
「分かりますよ! だってこれ、ベイロンでしょう!? ブガッティの!」
ブガッティ・ベイロン。
価格、二億円超え。
日本に正規で輸入されたのは数台。
最大出力、千馬力強。最大トルク、百二十キロ強。
兎に角、どえらい車、いや、もはやマシンだ。
「う、運転してもいいんですか?」
余裕の鼻息がすでに荒くなっている。
「もちろん、いいわよ。だって、自分のことを『ドライバー』なんていう方はよほど運転に自信がおありなんでしょうから」
すでにドアノブに手をかけていた余裕が、その言葉に動きを止める。
「……俺のこと知ってるんです、か?」
ゆっくりと四季のほうへと振り返る。
「いいえ、知らないわ」
真顔でそう答えられて、余裕は耳を真赤にする。
「なに? もしかしてあなた、レーサーかなにかなの?」
「だった……ですけど」
やっと答える。
「ふーん、そう。まあいいわ、ならドライブといきましょう!」
慣れたように助手席に乗り込むと、四季が車内からチョイチョイと手招きをした。
思っていたよりも遥かに静なアイドル音。
抑えることの出来ない興奮がこめかみに汗を流させる。
「行きます」
決意の言葉を余裕がつぶやく。
――いざ走り出してみたら案外普通だった。
バカみたいなエンジンが座席のすぐ後ろにあるというのに、車内の会話に支障が出るようなことはない。
おまけに、ウィンカーの音が国産の軽自動車とほぼ同じだった。
「なんか、普通ですね」
「そう? 遠慮なさってるのでは?」
その言葉に、汗が流れていたこめかみが僅かにヒクつく。
けれど、すぐに高い自尊心がブレーキをかけた。
「こいつのポテンシャルじゃ公道は狭すぎます。サーキットならまだしも」
「それはこの車があなたでは手に余るということかしら?」
『なんでそういうことになるんだ』と思いつつもアクセルペダルを戻す。
「まあそんなところです……。えーっと」
「四季で構わないわ」
「四季さんは自分であのアパートまでこいつに乗ってきたんですか?」
「ええ……」
そこで四季に一つの疑問が浮かぶ。
「先程から、余裕さん『こいつ』とか『やつ』とおっしゃっていますけれど、それは何か考えがあってのことかしら?」
「え?」
「だって変でしょう? 車は機械。なのにまるで生物のようにおっしゃるから。まさか、たまにいる声が聞こえるからとかそんな安っぽい理由ではないでしょうね」
「そんな安っぽい理由で、こいつに乗ろうなんて思いません」
半笑いで皮肉っぽく言い返す。
「じゃあなんで?」
「対等だからですよ」
当たり前どころではなく、常識じゃないのかと、運転に支障が出ない数秒間、四季の目を不思議そうに見ながら言う。
四季はその目を最近一度見ていた。
「理解しているとは思うけど、この車とあなたでは、私から言わせてもらえれば全然対等ではないわよ」
脇見運転までして自分を見つめてきた目。
認めるしかなかった、今自分の車を運転しているこの男はあの子と同じだと。
「なら試してみます? やっとこいつのことが分かってきましたから」
そう言った途端、余裕が駅のある方角とは真逆へとハンドルを切る。
「この時間なら大丈夫だな……」
四季は余裕の顔つきが明らかに変わっているのに気づく。
次の瞬間、体全体が最高級の革で覆われているであろうシートに押し付けられた。
「ちょっと!」
「やっば! なんだこの加速!」
四季は恐る恐るインストルメントパネルに目をやる。
すでに、200km/hを超えていると安っぽい作りのメーターが知らせていた。
「あなたさっき公道じゃ狹いって言ってたわよね!?」
「え?」
さすがに急速に上がり続けるエンジンの回転音では会話が困難になる。
「なんですか?」
耳だけではなく、顔全体を余裕が四季に向け聞き返す。
「なんでもないわ! それより前、前向いて!」
ぐんぐんスピードが上がる。
「お! もうここまで来たのか」
余裕がブレーキをかける。
四季の体にシートベルトが経験のない食い込みかたをする。
「うっわ、めっちゃ止まる!」
ベイロンのノーズが停止線ぴったりで停止した。
「ちょっと! いきなりなんて運転するのよ!」
「なんて運転なんてしてないです。だって、これがこいつの当たり前ですから。つうか四季さん、こいつぜんぜん回してやってないでしょ?」
混乱した四季の脳みそがひとつの答えを出す。
宇宙人だ。
宇宙人が目の前にいる。
初めて見た。
『待って……宇宙人って?』
その答えは四季に気持ち悪さを残す。
「時間って、まだ大丈夫ですか?」
無邪気な少年の笑顔が言う。
「ええ」
「そうですか! なら、こいつがどんなやつなのか四季さんに知ってもらいたいんで、ちょっといいですか?」
信号が青に変わる。
それに四季はギっと歯を食いしばる。
「大丈夫ですよ。山までは我慢しますから」
フッと車体が動き出す。
四季は背中に、高級なソファへもたれ掛かったかのような感触を得る。
未知な存在。理解不能な存在。普通ではない存在。
助手席の窓に自分の顔が写る。
子供のような顔。
当然そこには、五十前のおばさんの顔がある。
けれど、四季はそう思う。
じっと視る。
すると、自分の奥にはもう一人の子供がいた。
「この車ね、ベイロンって名前すら知らずに買ったの」
すでに日は落ち、空を見上げればチカチカと光る星々が線と成って流れる。
「へえ」っと、四季のとんでも発言を相槌をうつように余裕が答える。
『やっぱり』。四季はそう思う。
「静さんもだけど、私もずっと絵ばかりを描いて、描いて描いて描きまくってたの。そんな時、突然というか、ふと、スピード感のあるものを経験したくなってね」
「それでこいつですか……ふっ」
思わず笑いがこぼれる。
「ふふふ、変? でも体験じゃないわよ、経験。おかげで、そこからの私の絵はさらに磨きがかかったわ、狙い通りよ!」
四季はまいったかと言わんばかりに余裕を強く指差す。
あの時、『あなたの描いた絵を見せなさいよ!』と、ムキになっていた四季の口調と同じだということに余裕が気づく。
『絵を見せなさい』というのが、この人にとっての基準。
俺でいうところの「速さをみせてみろ」だ。
別に、絵でも速さでもなんでもいいんだ。
ただ、この人が選んだものがそれで、俺が選んだものがこれだったというだけ。
「かわいい人ですね。四季さんって」
「口説こうとしてもダメよ、私は同い年の人にしか興味がないんだから」
「ぷっ! そんなやついませんよ」
二人の目の前に山が見えてきた。
すでに車外は暗闇と言えるほどの時間。
余裕は思う。
『今日はやけに輪郭がはっきり見えるなぁ』と。
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