第53話 予兆。

「ハァ、ハァ、ハァ」

余裕が呼び鈴を押す。

……。

もう一度押す。

……。

「ハァ、ハァ、フー。あれ? 居ないのか?」

ドンドンドン。

今度は玄関のドアを直接叩く。

……。

「啓介のやつ、どこ行ってんだぁ。おーい! 居ないのかー」

諦めがつかず直接呼びかける。


「なにをなさっているのかしら?」

後ろから突然声をかけられ振り返ると、そこには、黒いフロッピーサンハットに黒のサングラス。黒いワンピースに、黒のヒール姿の品の良さそうな女が、余裕を睨むようにして立っていた。


「あら? その色……」

余裕の全身を舐めるように、目線を動かす。


「えっと、あー、あのですね」

理由もなく挙動不審化した余裕に、さらに強烈な視線を当てる。

「どちらさまでしょうか……?」

「はあ!?」

黒ずくめの女が、今度は呆れ顔で、怪訝に目を細めた。


「管理人よ。このアパートの」

『んな訳ない。』余裕は声にすることなくツッコむ。

「あなたは? 私のアパートになにか要件があって?」

「まあ、そうです。一階に住んでるやつに聞きたいことがあって」

余裕がそう言うと、どこからかスマートフォンを取り出し、何かを確認する。


「朽木啓介……さん、にかしら?」

『まじでか!? あんた、まじで管理人なのか』またも声にすることなくツッコむ。

「はい」

「急ぎみたいね」

「はい」

「でも、お留守のようでしたが?」

「はい」


アパートまで全力で走ってきたことによる発汗はすでに引いている。

余裕が今感じているのは、緊張からくる油汗のようなものだ。

そのくらい、目の前にいる、自称管理人を名乗る黒ずくめの女には、常人とは明らかに違う雰囲気があった。


「ひとつ聞いてもよろしいかしら?」

「え? あっ、はい」

「御職業は?」

「へ?」

「その格好は、私からしたらこれだと結びつくものが多すぎて予想の立てようが無くってね……で、ご返答は?」

余裕はまたも強烈な視線を躊躇なく当てられる。


「じ、自営、です」

今いらない防衛本能が作用する。

「自営……どうしてそんな回りくどい言い方を? ――もしかして、あなたも画家ですの!?」

「え?」

「なぁんだ、ならば合点がいきますわ! その格好も、ここに来た理由も」

訳の分からないまま、両手をパンっと鳴らし、勝手に納得している相手をただ呆然と、豆の弾丸を食らった鳩のごとく余裕が見つめる。


「どんな絵を描くのかしら?」

別人のように態度を豹変させ、しかし変わらずのオーラを纏ったままで、警戒心など、とうに忘れたかのように近づいてくる。

その様子はまるで、友達の宝物を「どんな? どんな?」と言いながら、無邪気な好奇心で見てみたいとすり寄ってくる少女そのものだった。


「あなたお名前は?」

くりくりした瞳を輝かせながら聞かれ、余裕が思わず

「新木です」と答える。


それがマズかった。

次の瞬間には手を引かれ、気付いたときには階段を一緒に駆け上がっていた。

「助かりましたわ! の方と一緒ならば静さんも警戒しないでしょうから!」

なすがままで二階の静の部屋の前に二人して立つと。

「静さーん、ご在宅かしらー?」

なんの躊躇もなく、色々な工程をすっ飛ばし大声でドアに向かって声をかける。

「あら? いらっしゃらないみたいねぇ。どうしましょう」

右掌みぎてのひらを顎にかけ、その肘を左掌ひだりてのひらで支える。

「しょうがありません。強行突破といきましょう!」

そう言うと、またしてもどこからか鍵を取り出し、これもまた躊躇なく解錠する。

「まあお身内の方が一緒ならば大丈夫でしょう」

再び余裕に少女の無垢な笑顔をみせる。

その笑顔が、ある人物と余裕の中で重なる。


「あの、俺」

「さ、入りましょう」

再び手を引かれ、とうとう部屋の中に入ってしまう。


半透明の世界が余裕の瞳に映る。

「あれって養生ポリマスカーか」

唯一で確かな情報を無意識に口にすることで、少しでも混乱した心境を落ち着かせる。


「驚きましたわ……あの頃となにも変わってない」

輝かせていた瞳が少し濁る。

邪魔だと言わんばかりに黒のヒールを脱ぎ捨て、駆け足で、トトトとだだっ広い半透明の空間へと吸い込まれていく。


「あの、ちょっと待ってください!」

余裕の言葉は、カサカサという弱々しい音の合唱によってかき消された。

「んだよ、あのおばさんは」

やむを得ず、十分に躊躇しながら靴を脱ぐと、せめてと自分の靴と黒ずくめの女の脱ぎ払ったヒールを整え、なんの許可もなく侵入する。


あまり使い込まれていないキッチン。

一人暮らしだということが一目で判断できる食器類が無造作ではあるけれど、使い勝手のよさそうに並べられている。

「今どきの女子の部屋ってこうなのかなぁ」

そんな部屋の雰囲気に警戒心が緩む。

少し進むとキッチンの反対側に洗面所が見えた。

となれば、その向かいには浴室があるだろうことは、常識的に考えれば理解できる。

無意識、いや、本能と呼ぶが相応しく、進行方向とは真逆に首を伸ばすことはさがだった。

視覚情報よりも先に、嗅覚が働く。

石鹸の匂い。

洗濯用の粉洗剤の匂い。

カルキの匂い。

それらに混ざって、場違いな翆色かわせみいろの匂いを感じる。

余裕は思わず目をつむり、静の顔、体をイメージする。

「――っぽいな」

脳内で完全にイメージが重なり、その余韻に浸る。


「ところで!」

突然の声かけに脊髄反射で、あと数秒で踏み入れていた聖域とは真逆へと意識を転換し、当然体全体もそうする。

「下のお名前をまだ聞いていませんでしたね。荒木何ですの?」


その質問が、余裕を一気に現実へと引き戻す。

「よ、余裕です! 余裕」

声にする分には間違っていない。もうそうするしかなかった。


「なんだか名前負けしてますわね」

呑気にそう言って顔を引っ込める。

「そんなことを言うのなら管理人さんの名前は、なんていうんですか?」

取り繕うように余裕が駆け寄る。

すると、余裕の質問など完全に無視をして部屋に立てかけられている大量のキャンバスを一枚一枚真剣な眼差しで管理人の女が見て回っていた。


「初めて視たの? 静さんの絵を?」

驚いているというよりは、不思議そうにしている余裕の顔を見るなり管理人の女が聞く。

「いいえ」

「ならなぜそんな顔をしてるのかしら?」

「……」

キャンバスに描かれている絵の数々は初めて視るものばかりだった。

沈黙での返答の拒否は、余裕が今自分の中に起こっている違和感にしか神経を向けれなかったからだ。

そんな余裕に対して管理人の女は特に気にすることなく、またすぐに視線を絵へと戻す。


「描きかけの絵ばかりですわね……」


「描きかけ……」

あの時。S・Sで絵馬に描かれていた絵を視た時、どうしてあの神社で言ったことがすぐに出てこなかったのか……。


「この部屋はアトリエとしてし使うという入居条件にしていたのですから当然といえばそうなんですが……。ここまでばかりなんて。でも、なんとなく分かりましたわ」

最初から、言動、目的があまりにもアパート管理とは思えない。それにこの容姿、異様な雰囲気。


「あの、名前……」

「え? ああ、あなたも絵を描いているのでしたら知らないはずないわ!」

静の絵を置き、余裕に対して直角に立ち直し、完全な並行になるように体の向き直す。

両手を腰に当て、肩幅まで足を広げ。


「私の名前は、鈴鹿四季よ!!」

部屋の養生ポリマスカーがカサカサと揺れる。

「って、自分で聞いといて目を合わせないなんて失礼ではなくて!」

「あ、すいません……」

「随分と、興味がお有りになるのですね、静さんの絵に」

恥ずかしかったのか、すでに腰に当てた両手は腕組みをし、肩幅まで広げた足はクロスさせていた。


「あの、質問いいですか?」

「え? ええ、良くってよ」

「絵って、完成させないといけないんですか?」

「は?」

冗談でなんかではないと言っている余裕の目を見て四季は反射的に反論しようとしていた言葉を呑み込む。


「――どうしてそう思われるのですか?」

絶対的に自分よりも全てにおいてであろう初対面の男に、不覚にも質問で返答してしまう。


「鈴鹿四季でも分からないことがあるんですね」

「!」

事もあろうに、一回りは歳が離れているような他人にから評価を受けることになるなんて。

「あなたも絵を描いているのであれば聞くまでもないでしょう! なにが目的なのか知らないけどそんなことを言うのであれば、あなたの描いた絵を見せなさいよ!」

いままでのものが偽物だと思われようと、自分が無邪気な少女なんかではないとバレようと、何が何でも反撃しなくては四季の気が済まなかった。


「え? 俺、絵は描きませんよ。強いて言えば、ドライバー……ですかねぇ」


四季の目の前が白くなる。

呆れ、辱め、後悔などなど……。

意識を失えばどれだけ楽だろうか。

そんな状況下で唯一確かなものだけが残る。


”余裕”


「前言は撤回しますわ……」

四季はそう言ってしまっていた。

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