第51話 ホンモノ :side Y

追いかけはしない。

できない。

してはいけない。


余裕はじっと立ち尽くし、自分の気持ちを誤魔化し、それができないと気づくと否定し、最終的には戒めた。


手の中にあるもの。

「せめて」と、すがるように熱が残っていないか確かめる。

けれどそこにはただ、自分の体温を奪い続ける薄い金属しかなかった。

強くそれを握る。

皮膚に食い込む痛みは僅かな熱を生んだ。


「――椎」

ほとんど声になっていない呼び声は届くはずもなく、当たり前だと驟雨しゅううにかき消される。


吹き込み続ける雨粒は、マンションの廊下を等しく濡らす。


前に一歩踏み出す。


そこだけが少し遅れて、けれど次第に同じように雨に振られていった。






余裕はドアの前に立つと、渡された鍵をシリンダーに差し、回す。

カション。

と、音がし、

解錠した玄関を開ける。


「色だ……」


余裕の視た世界は色の世界だった。

今の自分と真逆の、いろとりどりの色。


まだ靴も脱いでいない。

それなのに、すでに色の世界に足を踏み入れてしまっていた。


「ギャラリーって、みんなこんな感じなのか?」

靴を脱ぎ、来客用に並べられたスリッパに履き替え廊下を進んでいく。


絵、絵、絵。

一度にこんなにたくさんの絵を視たのは中学生以来久しぶりだった。

それも、ここまで強引に視界に入ってくる空間は経験がない。

『見ろ!』

と、一枚残らず言っている。


「凄いんだな、絵って」

そんな異世界ともいえる空間を、余裕は興味という感情だけを頼りに進んでいく。


水彩画……?

油絵……?

風景画……?

人物画……?


誰でも知っているようなワードにも、はてなマークが付くような到底絵を鑑賞するなどとは程遠い知識が脳内で露見していく。


「うーん、分からん」

わざわざ美術館まで足を運び、さらに金まで払って見る人達がいる。

ならばと、余裕は考え方を変えてみる


どうして絵を描くのか?


すると、ある感覚が意識の中で一致する。


なぜ走るのか?


簡単なことだ。自分が誰よりも速いと知っているから。


なら、なぜ描く。


答えは出るはずもなかった。

けれど、何かに近づいた感覚を確かに感じる。


律儀に余裕は一枚ずつ自分なりの感想をもって視ていく。

近づくために。

一歩ずつ奥に足を進めていく。


「ん?」

その絵はじわじわと余裕なりの答えに近づくにつれて見えてきた。


どうして絵を描く。

強引に解釈するにしても、自分の感性との擦り合せには多少の時間がいる。

けれど、その絵は一気にその距離と時間を縮めた。


「これって……絵馬の」

自分の知っている絵が今目の前にある。

偶然というにも違う。

ならば必然でもない。

「運命……って、なに言ってんだ俺は――でも」


余裕はあの日、あの神社で絵馬を見つけた時の記憶を辿る。


暇つぶしにシマととくに目的もなくあそこに行った。

普段ならば、ただ時間が過ぎていくだけだったはず。

でもあの日は違った。

この絵にからだ。


「あのとき、なんて言ったっけ……?」

その言葉を思い出せないまま、記憶だけが勝手に進すすんでいく。


久しぶりに気分が晴れていった。

自分というものの存在を実感していた。

どうしても欲しくなって社務所に言ったら、

『自分の絵を欲しいって人が来たら渡して下さい』と、描いた本人が飾っていった。と聞いて驚き、なんでか納得もした。


「間違いない、この絵はあの絵馬に描いてあったのと一緒だ。作者は……」


もう分かってる。

見るまでもない。


「S・ARAKI――静、荒木」


叩きつけられるように降り注いでいた雨粒の音色はいつの間にか止んでいた。

自分の読んだその音だけが、部屋に広がる。

南向きの窓からは次第に西日が差し始めていた。


どうして絵を描く。

簡単だった。

考えるなんてナンセンス。

必要無い。

それは、彼女だから。


あの髪。

あの耳。

あの口。

あの汚い両手。

そして、あのおっきな目。


「そうだ、思い出した」

好き。

助動詞のない言葉。


「なら俺は、」


パキっ。

湿気を含んだ床が、強い西日に照らされ僅かに変形し音を立てた。


「あれ? あそこのだけ台に乗ってる」


S・Sでは、動線を確保するため絵はすべて壁に掛けられている。

余裕の気づいた窓際には、直射日光による絵の劣化を防ぐため普段は、来客用の休憩スペース兼、受付になっていた。


「あんなところに置いたら日に焼けるんじゃないか?」

心配になり、少しだけ早足で向かう。


そこには二つの、イーゼルに乗った絵が飾られていた。


「これも、彼女が描いたのかなぁ」

二枚の絵は、窓に対して背を向けるようにして、必要以上に近づけて置かれていた。

余裕からはそれが一つにしか見えない形で。


「『くも』。作者は……鈴鹿四季。ってあの鈴鹿四季か!?」

絵に対してはてなマークしか浮かべることのできない余裕でもその名前だけは聞いて知っていた。

「でも、あの人の絵ってすごく高いんじゃないのか?」

いくらくらいするんだろうと、興味本位で値札を探す。


「ん?」

そこで余裕は違和感をおぼえる。


「なんでこの二枚被さるように並べてあるんだ? これじゃ雲が邪魔で後ろの絵が見えないだろ……っと」


予備知識のない余裕だからこそそうすることができたのかもしれない。

余裕は、なんの躊躇もなく、けれど慎重に、イーゼルごと四季の描いた『くも』をどかす。




圧倒される。


そんな表現をよく評論家がする。

余裕も、それがどんなものかというのを肌で経験して知っていた。

車の世界ではよく、似たような表現で、『オーラがある』なんて言い方をすることがある。

だがそれは、あくまで雰囲気。

抽象的で、曖昧な、他の言い方にすれば、「速そう」や、「高そう」などで言い表すことができる。


「これ」


吸い込む。

呼吸器官のすべてから。


染み込む。

感情器官。そんなものがあるのならそこから。


確実に、強制的に。


初めて見るその絵を余裕は


『自分の気持ち』

それに気づかされる。


「いい歳した大人が自分の気持ちに嘘つくなんて笑える。せめて、ごまかすくらいできないのかよ。ガキか俺は」


『浅葱月』

その唯一命題された静の絵を全身に取り込んでいく。

ほとんど無理やりだ。

けれどやめたくない。

やめれない。

やめることをゆるさないと言われているようで。

止まるな。

進め。

全力で。

全速力で。

そう言ってる。

この絵は。


「浅葱色の月、これって俺じゃ」


冷めきった体が熱くなっていくのを感じる。


「いいや、あれだ、だって彼女、おれのこと知ってたみたいだし、それに」

余裕が独りで勝手に焦る。

「ってなに考えてんだ! 妄想も大概にしとけ!!」


この感覚、知ってる。

制御の聞かない心臓。

必要以上に回る脳みそ。

走り出さなければ抑えられないことも。


「……抑える?」


レーススタート前のあの感じ。


「あの頃俺そんなことしてたっけ……?」

思い出せないままただ一心に絵を見つめる。


「ふっ、なんだよこれ」


静の描いた『浅葱月』の絵が乗せられているイーゼルにだけ木製のプレートが取り付けられていた。


『この二枚の絵は。あなたの思うように配置してください』


決して綺麗とはいえない文字で書かれているそのプレートはとてもキレイだった。


「なら」

余裕は二枚の絵を順に動かす。


「――うん! これでよし!」


会いたい。

彼女に。

ホンモノの気持ちを伝えたい。


タッタッタッ――ガチャ。

バタン――カション。


部屋には向かい合わせに置き直された二枚の絵があった。

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