第49話 天然色。

「これ、君が描いたの」

自分の絵。

それを初めて他人に見られた。


「凄いよ、本当に凄い! これは僕にはできない」

悲観的なのに、そこには興奮が混じっていた。


羽生颯太。

一目惚れだった。


語彙力に乏しく、理解不能な言葉。

なのに、すうっと、まっすぐ、ブレることなく、四季の体中に染み入り、巡った。


「あなたも絵をお描きになるの?」

そんな状態の口から衝いて出た言葉遣いは、四季が一度もやったことのないものだった。


「あははっ、なに、その喋り方。かわいいね!」

颯太から出た快活な言葉は、巡っていたものを心臓で止める羽目になった。


「うん。描くよ! これでも一応画家志望なんで」

「え? でも、この大学ではそれは無謀とも思えるのですが」

「ああ、しょうがないよ。だって、僕が画家になろうとしたの昨日からだもん」

「はあ……」

どうしてこの人は昨日決意した人生をこうも無防備に他人に話してしまうんだろう。

そんなふうに思っていたところに颯太はさらに追い打ちをかける。

「一緒にサークル立ち上げない? 美術サークル!」


そこからのことごとくは煽風あおちかぜのように過ぎていった。


「颯太! この色はどう?」

「うーん、良いんだけどねぇ。もしかして、四季の出したい色ってこんな感じ?」

そう言いながら混色したものを四季に見せる。

「そうそう! さすが、颯太。この色が欲しかったのよ」

「ふふ、なら良かった」

四季は颯太の作った色に迷いなく筆を下ろす。

「いつも思うけど、よくそんなもので描けるね」

「ああ、これ? いいでしょ! 新作・アイス筆!」

それは、鈴鹿四季自作の、アイスの棒の先をささくれ状にした、筆とは言い難い、常人にはとても扱えるような代物ではなかった。

ガジガジと絵を描くということにおいて聞くことは決してない音を立てながら、鼻歌混じりで四季は描いていく。

「おおっ! いい感じ! さすが私!」

「まったく」

聡太は、そんな四季のことを後ろから眺め、眉を顰めながら微笑んだ。


大学三年生になるころには、ふたりは男女の関係になっていた。

お互いの借りているアパートに交互に泊まり、朝まで過ごし大学に行く。

ルーティンとなったそんな生活が、四季は楽しくてたまらなかった。


ふたりで食事。

ふたりで買い物。

ふたりで大学に通い、ふたりで眠る。


この時だけが、四季の中で絵というものの順序が二番目になった唯一の時間だった。




「どうして分かったの…っ!」

四季が自分の言ってしまった言葉を急いで飲み込む。

「分かってません。この色はあの絵に影響されて作っただけです」

無表情に、感情のこもっていない言葉で静は答える。

「なら、どうして描き始めないの!」

語気を強めた物言いで、四季は静のパレットを見つめる。


微かに乾いた赤橙色の絵の具は、静が早々に混色し完成させていたことを物語っていた。


「……描き方がわからないんです」

相変わらずの調子で静が言う。

「……なにを言ってるの」

「色はできてます。描きたいものも決まってます。でも、どうやったらいいのかわからないんです――どうしよう」

四季にはもはや、そんな静のことを自分の瞳に映していることが困難になっていた。




「四季聞いた!」

教室内にひとりで絵を描いていた四季に、興奮気味で部屋に入ってきた颯太が言う。

「なに? どうしたの、普段以上にテンション高いわね」

そんな颯太のことを見てなのか、四季は普段以上に冷静に応えた。

「この前写生に行った山憶えてる?」

「ああ、そのことね」

「なんだぁ、知ってたのかぁ」

「栗がすごいらしいわね。だから言ったじゃない、一週早いって。それなのに」

「違う違う! それじゃない」

「ならなに? 松茸が異常発生してるとか、柿の出来が過去最高とか?」

「どうしてそう食べ物の話しになるんだよ。うちの教室でそんな話しをしてるのは君と波くんぐらいだよ?」

「はあ!? なにあの大食漢と私を一緒にしてるのよ!」

「大食漢って……。聞いたよ、あの子がいる中華料理屋のチャーハンチャレンジ。四季と波くんしかクリアしてないって。ガテン系の男の人たちとかならまだしも、どうしたら絵画教室に通う、それも、フリーターの女の子二人だけがクリアできるんだよ」

「フリーターじゃないわ! 画家よ!」


大学を卒業した二人は、バイトをしながら絵を描き続け、完成するごとに画廊への持ち込みをして食いつないでいた。

四季にとっては全くの意味を持たない絵画教室に安くない授業料を払ってまで通い続けていたのは、ツテを期待してのことだった。


「四季聞いたか! 写生しに行ったあそこらへんに今度美術館が出来るってよ! それも、展示会なんかが無い期間は一般の人でも金さえ払えば使っていいらしいぞ!  やったな! これでお前の絵も一気に知れ渡るぞ!!」

羽生のテンションをそのまま引き継ぐように波が部屋に入ってきた。

「ほんと!? なっちゃん!」

「ああ、間違いない。私が保証する!」

波が親指を立て四季にサインを送る。

「それ僕が言いたかったやつ……」

颯太は肩を落とし、わかりやすく落ち込む。

「なんだ羽生? 元気ないな?」

「ほんとよ、意気込んで部屋に入ってきたと思ったら今度は構ってって、まるで子供じゃない」


何色にもなれたあの時。

世間など微塵も感じることのなかった頃。

素直に悩み、苦労できていた時間。

四季は『絵』を描き続けていれば、ずうっとこの世界を生きていけると思っていた。




「知ってますよね、私が最近羽生さんに絵を教わっていること」

「ええ……もちろん」

静は一向に筆を動かせず、四季は筆を止めている。

会場は誰ひとり欠けることなく二人を静観していた。


「だから分かるんです。あなたと羽生さんの違いが」

「……でしょうね」

「はい。羽生さんは『色』。あなた……鈴鹿さんは『線』。人の感情というのを口にしたことがあまりないし、多分苦手な私にはこんなふうにしか言い表すことができません。ごめんなさい」

静は頭だけを下げる。

静が頭を上げ終えるのを確認すると、四季は筆を再度動かし始めようとする。

「でも、どうしてなんですか? 絵を描くにはどっちも必要で、どっちも大切なのに、どうして……どうして?」


プラスチック製のパレットの上で、乾いてしまっていた赤橙色が揺れた。




「四季ならどうする! 四季ならどう表現する! 四季ならこのは! 僕はずっとそうしながら描いてきた! なのに、どうしてそんなことが言える!」

珍しく颯太が声を荒げる。

「言うわよ! このは私のよ! ここも、これも、こっちだって。あなたにこの『線』は描けない!」


この頃、羽生の描く絵が徐々に売れ始め、世間の評価も同様に上がってきていた。


『線』は『色』に劣る。


すでに二人は婚約していた。

お互いがお互いの『絵』を尊敬し、認める。

『絵』がすべてだった二人は、『絵』ですべてを失った。


なだめようとする颯太に四季は、侮蔑の言葉をあびせ、絵を、そして颯太自身を否定し続けた。

「もういい……うんざりだよ」

そう言い部屋を出ていった颯太の後ろ姿を見送ることなく四季はベッドに突っ伏した。


翌日昼過ぎに、いつ眠ったのか憶えていないボヤけ頭で起きると、声がうまく出せない異変と、瞼の腫れぼったさに気づく。

まるで、体中が薄い透明の膜に覆われているような、重ったるい感覚。

「喉乾いた……」

四季は台所にへと歩きだす。すると、

いつもふたりで食事をしていたテーブルの上に、出来たばかりの美術館のレンタル代一人分のノルマ。

その合同展覧会に出すはずだった颯太の描いた絵、そこに使った色すべてがパレットの上に乗って置かれていた。


「なによこれ……」

パレットを持ち上げると、その色たちはまだ少しだけ乾いていただけだった。

「颯太」

玄関の戸を開け、靴も履かずに道路へと飛び出す。

四季が最後に見た颯太の顔は、苦痛に歪み、ほんの少しの怒りに歯を食いしばった表情だった。


白ひとつない青に浮かぶ、赤橙のそれが、パレットの色々を仲間のように迎え入れる。


「わああああああああん。っわああああああああん、わああああああん」

パレットを水平に保ち、乾ききった色が流れていかないようにする。

その代わり、赤ん坊のような泣き声と大量の涙が、いつまでも流れ、乾くことはなかった。


               *


「おい四季、おまえ、大丈夫なのか?」

「ええ、問題ないわ。絵は間に合わせるから。それよりも、あなたこそ大丈夫なの? そんな調子で。合同展覧会までもうそんなに日はなくってよ」

「はあ? 私はもう出来てるって昨日言ったじゃないか! だからこうしてお前の心配をだな」

「大丈夫よ、大丈夫……」

「全然大丈夫じゃないだろう。ほとんど出来上がってた絵を急に全部やり直すって言ったときからほとんど寝ずに描いてるだろう、お前!」

「大丈夫よ、知ってるでしょ? 私の絵を描くを……」


四季は颯太の残していった色を使っていなかった。

しかし、合同展覧会寸前で描き直した四季の絵は、その色たちの正解となるものを完成させた。

そして、そこに落とした色はすべて颯太の残した色だった。

『線』の天才の描くスピードをもってすれば、寸前のやり直しは大した問題ではなかた。

なのに、この時の四季は憔悴しきっていた。

その原因が、颯太の残した色の再現に残されたすべての時間を費やすしかなかったということを、四季本人以外誰も知り得るはずもなかった。


そして迎えた合同展覧会。

鈴鹿四季は、天才画家・鈴鹿四季と成った。

四季の『線』。

颯太の『色』。

本物のようでそうでない『絵』。

奇しくも、しくも、しくも、その絵が、今日の鈴鹿四季をかたちどった。

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