第47話 共振。
「これより、特別企画である、鈴鹿四季によるトークショウを開催させていただきます」
マイク越しの波の声は、視線の先にいる人物に向かって放たれていた。
その視線と声を、静は真正面から受ける。
驚くことなく。
動揺することもなく。
ただ唯一、静本人にも感じ取れないほどの心臓の鼓動だけが、ゆっくりと、何かを焦るようにスピードを上げた。
「それではお呼びいたしましょう! 天才画家、鈴鹿四季氏です。どうぞ!!」
いまかいまかと待ちわびていた観客たちから、地鳴りのような歓声があがる。
いつの間にか静のまわりには、今までこれだけの人がどこにいたのかと思えるほどの人だかりができていた。
「今日は一体どんな服装で出てくるのかしら?」
「あの方なら、どんな格好でも圧倒されるほど美しいに決まってるわ」
近くにいた四季のファンだろう女2人の会話が聞こえる。
静たちの立っている床から、だいたい1メートルの高さに設けられた特設ステージは、この人だかりを見越してか、遠くにいる客からでもステージ上でなにが行われているのかということが確認できるよう考えられたものだった。
ガララララという何かを押す音が聞こえると、ステージ上手側に陣取っていた観客達から一瞬、「わあ!」と声があがった。
しかしその歓声は、瞬時に困惑の声に変化した。
次第に静の視界にも、その原因がなんだったのかということが確認できてくる。
どこに売っているのだろうかという横長の台車の上に、長辺3333、短辺2182ミリメートル。500号と呼ばれるサイズのキャンバスを乗せ、それを一人で押す人物が現れた。
「誰、あれ?」
「四季さんのアシスタントかなにかでしょう?」
辺りでも似たような声が飛び交う。
三つ編みに束ねられてはいるものの、そこ以外はボサボサの髪型。
顔のサイズとかけ離れた大きさの、一昔でいうところの牛乳瓶のようなメガネをかけ、普段から酷使していることが明らかな、色という色が無数に飛び散った薄茶色のスモック姿。
申し訳無さそうな猫背に、もったりとした動き。
しかし、黙って準備を進めるその人物が、全て整ったのだろう、波に向かってアイコンタクトを送ると、腰の辺りからマイクを取り出し、喋り始めた。
「みなさん。このキャンバスの下地がお分かりになられますか?」
それは、静の聞き覚えある声だった。
鈴鹿四季。
その人物は、ここにいる観客の眼前にすでに現れていた。
しばらくの沈黙のあと、状況を飲み込めずにいる客たちが四季の質問を無視し、あちこちで様々な声が飛び交い始めると、会場が一斉に騒然としだした。
構うことなく四季は、会場の声々を遮るようにして喋り続ける。
「これは、白亜と呼ばれるものです」
キャンバスの下地について静は、これから羽生に教わることになっていた。
「油分、水分の吸収性に優れ、絵の具の定着も良く、乾きも早い。私が作りました」
それを聞いて静が四季の手に目線を移す。
そこには点々と、落としきれていない白が両手に見て取れた。
「絵を描く時の注意点としては、一度落とした色は拭き取る事ができません。そして、変形に弱い。つまり、堅い質感で、粘りがなく、一定の力加減を超えるとキャンバス表面が割れる恐れがあります」
「なにをそんな当たり前のことを」
「そんなことよりもあの格好は……」
「一体なにが目的だ?」
静に耳にそれらの声が入ってくると、その中の一言に静はハッとする。
「まるで、白亜のジェッソのことを誰かに説明しているような言い方じゃないか」
「誰かに……説明……」
その時、視線が合う。
まるでなにかを確認できたように僅かに笑みを浮かべる四季。
すると、
「とまあ、ここにいらっしゃって頂いている方々には釈迦に説法でしたわね。フフフ」
と、見た目とアンバランスな笑い声を出した。
未だに状況が飲み込めていない会場の中で、静だけが現状をしっかりと受け止めることができていた。
「察しの良い方ならお気づきになられている方もいらっしゃるのではないかしら? しかし、自分で用意したとはいえ、ちょっと大きすぎました……。そうだわ! ここにお越しいただいているどなたかに私と一緒に絵を描いていただきましょう! そうしましょう!」
四季はそう言うと、この世の全ての色が染み込んだような木製のパレットに、黒色の塗料を出し、持ち手の部分が使い込まれ経年変化している筆をそこに落とした。
そんな四季に向かって、今度は波がアイコンタクトを送る。
四季が気づいてニコッと笑いかける。
それに波は目をつむり首を横に何回か振りながらフーっとため息を出した。
「……えー、皆さん。ここからは予定を変更しまして、鈴鹿四季によるライブパフォーマンスをご覧にいただきたく存じます」
静は、波の声を聞いていなかった。
黒のついた筆先を、自分で処理したという白亜地のキャンバス、その中央、最上部に落とす。
均等な幅、縦に完全な直線が引かれていく。
静の耳に、ざ、が、ざ、がという交互に響く僅かな音だけが届くと、同時に心臓が震えだし、意識とシンクロする。
「よいしょっと」と最上部に手を届かせるための脚立から四季は降りると、くるりと向きを変えた。
「では、どなたにしましょうか……」
会場には、招待状を受けて著名なプロの画家たちがちらほら来ていた。
「ここはあなたしか」
「前衛的な君なら」
という推薦の声と、
「ここは、私が」
「いい機会です。僕が行きます」
という、自発的に四季に挑もうとする声があがる。
そんな中、静だけがステージに背を向け歩き始める。
「あら、どこに行くのかしら?」
四季の呼び声。
「トイレです」
静が答える。
会場にいた観客の視線が一斉に静に向いた。
入り口横のトイレに入ると、静は緑の大きめなワンショルダーリュックを下ろす。
「持ってきて正解」
筆。
パレット。
絵の具。
そして、
リュックの大半のスペースを占拠していた物を取り出す。
「これ、思っていたより動きやすいんだ」
トイレから出ていくと今度は、僅かな歓声と、怪訝な面持ちが集中する。
静は、そんな雰囲気をまったく気にすることなく、ただ真っ直ぐステージに向かっていく。
「あら? その色は……」
四季が眼下の静を見下ろす。
静は黙ってその視線を跳ね返す。
会場が、無音無色になる。
「では、ステージに上がっていただきましょう。荒木静さんです」
平然とした波の声だけが会場に響き渡る。
依然、透明な空間と化した会場の、うるさいほどの視線を受けつつ、壇上に向かう浅葱色だけがそこに染み込んでいった。
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