第46話 椎

「これ、憶えてますか?」

椎が上着のポケットから綺麗にたたまれた一枚のバンダナを出す。


「それ……」

余裕は思い出す。

けれど、それは途中で途切れた。


「失くしたと思ってた」

「私がずっと持ってましたから当然です」

柔らかな表情は、いままでで一番弛緩していて、その勢いで放たれた椎の言葉は、余裕には優しすぎた。


「最近しなくなりましたよね」

不意に椎が余裕のほうに振り向き、自分の額に手を当て、オールバックに前髪をかき上げた。

そんなふうに歯をみせ笑いかけてくる椎は眩しすぎた。


「本当に憶えていないんですね。このバンダナは失くしたんじゃなくて、新木さんが私にくれたんですよ? だから、私はあなたのことが好きになったんです」


その声は微塵も震えていない。

余裕の瞳を見つめ、その中に映る自分に向かって言っているでもない。

ただ、余裕のことだけを見つめていた。


「ふふ、こんな言い方じゃ伝わりませんよね。このバンダナは、私がはじめて担当した現場の時に新木さんが差し出してくれたんです」

「それっていつ?」

「三年前です。よくある新設の道路工事現場です」


三年前……。

余裕は必死に思い出そうとする。


「思い出せなくて当然です。ほんとに何気ない出来事だったから」

椎の瞳がすこしだけ寂しさに移ろいだように伏せる。


「あの日、私は初めて任されたという責任感とやりがいが行き過ぎて、空回りばかりしていることに気づき始めていたんです。現場の職人さんたちにも厳しくしてしまって……。そんな時、終業時間がきて事務所に引き返してくる職人さんたちの世間話を偶然聞いてしまったんです」

「……うん。よくあることだよ」

余裕にはその先の話の内容が予想できた。

「……ですよね。父にもそういったことがあるからってよく聞かされてましたから。陰口なんて言わせておけばいい――そう思ってました」


余裕にも同じ経験があった。

腕利きの父親の跡継ぎというふうにみられて、最初は現場で会うみんなが優しくしてくれた。

実際、同年代や、年上の職人たちに比べて仕事が出来ているということもあって、評価もされていた。

けれど、そこは土木建設という世界。

『出る杭は打たれる』

そんな、ダジャレのようなことが余裕にも降り掛かってくるようになった。

なったのだが、そこは新木余裕という人間性が有利に働いた。

陰口や、嫌味。ときにはあからさまに作業の邪魔をされたこともあった。

しかし、仕事への向き合い方が普通とはまるで違う余裕には、そのことに対しての感情の揺らぎなど微塵もなかった。


「あの時の私は、自分がもっと強い人間だと思ってしまっていたんです。でも違った……そのことをあの瞬間気づかされたんです」


北の空は鋼色の低い雲が覆って、たまに雷鳴らしきものが聞こえ始める。

「降ってきそうだな。中入ろうか」

それは、余裕が言葉にするべきかと悩んだ、何気ない椎を思っての言葉だった。


「いやです!」

強い口調は、拒んだというよりも否定だった。


「でも」

「大丈夫、もう少しで終わりますから」

椎が瞳に力を込めて強く余裕を見つめる。


「自分でも気づいてませんでした。新木さんにこのバンダナを渡されるまで」

椎はバンダナに目をくれる。

ゆっくり、優しく握る。

自分がしてしまったことを悔いるように眉をひそめる。

それがどれだけ大切なものなのか、大事にしているものなのかが余裕に伝わる。


「多分、その瞬間から私はあなたのことが好きになってたんです。次の日からは意識的にあなたを追った。もうそれはある種ストーカーでしたね」

困った表情のまま冗談に笑う椎は、可愛かった。


「強いあなたが好きなんです。自分を信じてるあなたが好きなんです。揺らがないあなたが好きなんです」


一人の女性から「好き」をこれだけの回数告白されたのは初めてだった。


パタパタと、街路樹の葉に雨粒が落ちだす。

湿った空気が二人の髪を勢いよく攫う。

とくに、椎のロングヘアーは、髪の毛一本一本の全てが違う方向へと動いたように乱れた。


「見えない」

その声は、一秒でも長く余裕を見ていたいと思う故の声にならない言葉だった。


急いで両手で髪をかき上げた。


椎は突然の余裕の行動に驚き、身をすくめる。


「顔――見えなくて、つい。ごめん、驚かせて」

「ずるいです。……憶えていないなんて……本当に、ずるい」


同じ気持ち。

あの時の背伸びしていた自分にくれたもの。


『これ、どうぞ。

え?

拭くに必要だろ、それの。

す、すみません。こんなところで。

よくあることだから。

はい。

じゃあ、また明日

はい、お疲れ様でした』


あの日と距離が違う。

心も、実際も。

なのに、椎は思い出してしまっていた。


「忘れさせてください」

「え?」

「今のあなたを見たいんです。だから、忘れさせて」


あの日は目を合わせてることなく二人の会話は終わった。


覗き込むように、椎が余裕の瞳を見つめる。


知ってる。 分かってる。 赤いこのバンダナはこの人には似合わない。 なら、せめて私が持っていたい。 返したくない。


「これ、いい?」

余裕は握られた赤いバンダナを、椎の手から優しく、丁寧に奪う。


手からそれが無くなる。

すうっと、頬に流れる。

椎はそれに気づけない。

自分から離れ、浅葱色の膝に落ちる。

秋色だったのが滲み、その色を忘れさせようと深く変色させる。


「雨ならいいのに」

椎は思う。

けれど、そう思えば思うほど、純度の高いそれが、雨なんかではないことをはっきりさせてしまう。


「もう泣くな」

余裕は椎の頭にバンダナを巻くと、同じ色の唇に口づけた。


マンションの廊下に吹き込む雨は、等しく二人を濡らす。

離せばこの寒さに耐えれなくなる。

だからずっと……。

強く……。





雁渡しの風が次第に二人の間に入り込んでいく。




「……これ、部屋の鍵です」

椎がバンダナの入っていた逆のポケットからS・Sの鍵を取り出し余裕に渡す。

余裕はそれを黙って受け取る。


胸に強く抱きじめられた瞼は赤く腫れ上がり、頬は地肌をあらわにしていた。


「今日はもうお客さんは来ないと思います。こんな雨だし。それに……」

僅かに椎が言葉を止める。

「それに普段からここにはそんなにお客さんは来ませんし」

「……そうなんだ」

「はい。だからゆっくり見ていってあげて下さい。私は仕事があるので失礼します」

そう言うと椎は余裕のわきを早足で通り過ぎた。

「でも!」

「大丈夫! タクシー拾いますから!」

はきとした口調で言いながら椎が階段を降りてく。





「はぁはぁはぁ、んっ」

椎は階段を降りきり、余裕の姿が見えなくなるまで必死に走った。



「あれ? どうして? なんで?」

雨はさらに強くなり、幾千粒の矢となって降り注ぐ。


「なんだ……こっちが本当だったんだ」

椎にとってそれは恵みの雨だった。


「傷つくのは私だけでいい」


顔を上げていられるから。

思いきり声を出せるから。

思いっきり涙を流せるから。







鋼色だった空は次第に高く澄んだターコイズブルーの空を見せはじめる。


「――綺麗な色」

もう瞳からは流れていなかった。


「お礼言ってなかったな……」

純度の高いダイヤモンドの涙は。


椎はびしょ濡れになったバンダナをほどき、ぐいっと口元を拭うと、


「もう、このリップはしない」


そこだけが、本物の色を取り戻した。

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